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黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第二十章 雪路をゆく、ふたりの銀翼
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光を継ぐ子を守るために――揺れる女王の決意②

――でも、そんなことより。


 歴史に記されたリュシファルドではなく、いまを生きているリュシアンを思う。それだけで、胸の奥がいっぱいになった。


「わたし……リュシアンのことが大好きなの」


 こぼれた本音に、彼が口の端を引き上げる。鞘金具が微かに鳴り、笑いが低く温かい。


「ほう、一目で女王陛下を籠絡するとは、なかなかの大物じゃないか。将来は数多の貴婦人を泣かせるかもしれん」


「もう、そういう意味じゃないってば。あなたって、本当に品性ってものがないんだから」


「はは、すまん。調子に乗りすぎた。冗談だ」


「でも……聞いてくれる?」


「いつぞやの帰りの馬車で、好きなだけ話せと言っただろう。今さら遠慮するな」


 言葉に合わせて胸がほんのり温かくなっていく。石の冷えが遠のき、指先の鼓動が静かに強まる。


 男爵家を訪ねた日のことを思い出す。リュシアンの純真無垢な笑顔と、ロゼリーヌさんの苦しげな表情が交互に浮かぶ。


「男爵家を訪ねたとき、書斎でリュシアンに会わせてもらったの。貴族のお屋敷だし、それなりのものを想像してはいたけど、予想を遥かに超えていた。それはもう、本が山のように積まれていたわ。まるで巨大な図書館みたいに、隙間なく棚が並んでいて。机や椅子の上まで書物だらけで、思わず見とれてしまったの」


 言いながら、指先に残る革の温度を思い出す。ページをめくる気配さえ、心の皺をのばすみたいにやさしい。


「俺には、息の詰まる場所としか思えんのだが、その感じ方……さすがは本の虫だな」


 彼の声は低く乾いて、鞘の匂いを連れてくる。


「言ってくれるわね。あなたが鉄と革の匂いにほっとするように、わたしにとっては本の匂いが落ち着くのよ」


「なるほど」


「そのとき、本の山の向こうから顔を上げたのが、リュシアンだった。ロゼリーヌさん譲りの淡い栗色の髪に、ギルク譲りの青灰色の瞳をしててね、わたしの姿を見て、びくっと驚いたみたいで、最初は小動物みたいに体をすくませていた。けれど、わたしが笑顔で挨拶したら、少しずつ警戒を解いてくれたわ」


 視線を合わせるたび、氷砂糖が水に溶けるみたいに、彼の表情がやわらいでいく。古紙の匂いが薄く満ち、灯が頁の縁をやさしく拾う。


「はは、まるで小さな妖精さんを見つけたみたいだな」


 からかい口調の奥に、どこか安心の色が差す。


「そう、そんな感じ……。彼が書斎にいたのは、本が大好きだからよ」


「本といったって、いろいろあるだろう。どんなものを読んでいたんだ?」


「それがね、辺境の信仰や伝承、魔術的な儀式について書かれた、難しい学術書を読んでいたの。領地に残る古いお祭りと同じ言葉を見つけて、気になったんですって。わからない言葉は別の本で調べて、違うことが書いてあれば、どうして違うのかまで確かめようとしていたのよ。子どもが読むには難しい本なのに、自分からそこまで調べていてね。可愛らしいやら頼もしいやらで、話しているうちに青灰色の瞳がどんどん明るくなっていったわ」


「学究肌か。だが、男としては物足りんな」


 わざとらしい溜息に、金具のきしみが混じる。


「それだけじゃないわよ。本の陰に立てかけてあった短めの木剣が傾いて、机の脚へ当たったの。彼ったら、慌てて背中へ隠そうとしていたのよ。それから、『どうしても騎士になりたい』って、とても嬉しそうに話してくれたわ。本を読むのと同じくらい剣に憧れているみたい。知識を求めるだけじゃなくて、外で体を動かして遊びたいという無邪気さも持ち合わせていて……すごく微笑ましかった」


「そいつは頼もしい。まさに文武両道じゃないか」


 ヴィルの口元が、わずかに緩む。鉄と革の匂いのなかで、からかうように細められていた目が、少しだけやわらいだ。


「でしょう? 王家の血筋だとか、彼にとっては関係ない。ただ純粋に興味のあることを追いかけているのよ。彼はね、将来は広い世界を自由に旅して、各地のいろんな風習や文化を学びたいんですって。あの瞳に映る夢は、きっと無限に広がっている。そんなきらきらした笑顔を見ていて、わたし――『この子を守ってあげたい』って強く思ったの。正直、こんなふうに心が揺さぶられるなんて想像もしていなかった」


 胸の奥に灯りがともる。小さくて、消えにくい灯だ。呼吸が一段深くなり、足音が静かに揃う。


「それでね、あらためて思ったの。もし、もしもよ……」


 その先は、帰りの馬車でも口にできなかった。


「わたしが子どもを持ったなら、こんなふうに感じるのかなって。母親の気持ちがわかったなんて、とても言えない。リュシアンへ伸ばしたいと思った手が、本当にあの子のためなのか、それとも、わたし自身のためなのか。それすら、まだわからない。けれど、もし自分の子どもなら、どんなことがあっても守りたい。その子が自分で選べる可能性を、誰にも奪わせたくない。そういう気持ちが、わたしの中にもあるんだって、そのとき知ってしまったの」


 隣で、ヴィルの足音が一度だけ遅れた。けれど、何も挟まず、続きを待っている。窓枠の隙間から入り込んだ冷たい風が、指先を撫でた。明るい記憶の向こうから、ロゼリーヌさんの苦しげな表情が戻ってくる。


「ロゼリーヌさんは、息子が健やかに成長することを何より望んでいる。なのに、今はいろんな思惑に巻き込まれて、苦しんでいる。考えるだけで胸が痛くなる。リュシアンのあの優しい笑顔を曇らせるようなことだけは、絶対に許しちゃいけないって思う。親でもないわたしにできることは、限られているのかもしれない。でも、あの子が自由に笑い、自分で道を選べる時間を守りたい。騎士になりたいなら剣を学び、学問を究めたいなら書物を読み、旅に出たいなら自分の足で出ていく。そうやって自分で選べるようになるまで、本も木剣も手放さずにいられる時間を守りたい。誰かにその時間を奪われるなんて、絶対に嫌」


 一気に言い切って、大きく息を吐く。


 美鶴だった頃は、自分が何になりたいのかを考えるより先に、深淵の血族の宿命に囚われていた。両親から受け継いだ解呪の宿願と、弟を救うことだけがすべてだった。自分のための未来を選んでよいとさえ思っていなかった。解呪のために生き、自分をそのための供物のように扱う。それしか頭になかった。人並みのしあわせなんて、わたしには訪れない。そう思っていた。自分自身のためにちゃんと生きてみようだなんて、考えたこともなかった。


 リュシアンは美鶴ではない。自分の面影を重ねたからといって、同じだと決めつけてはいけない。それでも、誰かの宿願のために自分の望みを諦めるような思いだけは、させたくなかった。


 彼がリュシファルドであっても、そうでなくても救いたい。王になるにせよ、騎士や学者を目指すにせよ、自分で選べるようになるまで、その時間を守りたい。


「ヴィル、わたし……この気持ちを信じてもいいのかな?」


 問いに、ヴィルはすぐには答えなかった。歩調を緩めることなく、わずかに目を細めた。やがて、その口元から硬さが抜けた。


「お前が守りたいと思ったことまで、疑う必要はない。だが、それを理由にあの子の道を決めるんじゃない。守ることと囲い込むことは似ている。そこを見失わなければいい」


 ただ肯定するのではなく、見失いそうになれば元の場所へ戻してくれる。その変わらない声に、こわばっていた心が緩んだ。


「……ええ。肝に銘じるわ」


「それに、帰りの馬車でも言っただろう。リュシアン自身が剣を学びたいと望むなら、俺が教えてやれる。そこは任せておけ」


「でも、あなたの教え方って厳しいでしょう。痣だらけにされた悪夢が蘇るのよね」


「甘えたことを言うな。あれは、お前が本気で強くなりたいと望んだからだろう」


「リュシアンはまだ十歳よ。もし教えるなら、手取り足取り、優しくしてあげて」


「分かった、分かった。あの子自身が望んだときには、きちんと加減する。ま、俺の剣は邪道も邪道だが、正統剣技の基礎くらいなら教えてやれるだろうさ」


 冗談めいた声の奥で、瞳だけは静かに定まっている。あの子が望むなら手を貸す。その約束が嬉しくて、唇が自然に緩んだ。


 廊下を渡る夜気は冷たい。それでも、胸の内の温度は消えずに残っていた。


「だから、あなたにもリュシアンに会ってほしいの。絶対、気に入ると思うから」


「そいつは楽しみだ」


 それまで冗談めかしていたヴィルが、鋭い眼差しで前を見据えた。


「……あの子が、お前の言うとおり『光』そのものだとしたら、なおのこと奪われるわけにはいかない。その輝きを、宰相の勝手な陰謀で消されてたまるか」


「ええ。本当にそう思う」


 ミツルは手を伸ばし、今度はためらわずに彼の指に自分の指を絡めた。彼も同じ強さで握り返し、その温度が胸の芯まで届く。


 ヴィルの鞘金具が低く鳴り、影が壁を滑って足音に追いついていく。


「よし、行こう。次の角を曲がれば、裏口へ通じる階段があるはずだ。そこを使えば、目立たず俺たちのねぐらへ入り込めるって寸法さ」


 彼の小声を聞きながら、胸の奥に決意をあらためて据えた。偽装が破られるまでの猶予は短いかもしれない。それでも、やるべきことは変わらない。動くと決めたのなら、もう立ち止まらない。


 夜はなお深い。けれど、東が白む頃には、新しい一歩を踏み出しているはずだ。ヴィルの背に顔を寄せて荒野を旅した記憶を胸に、今はその隣で歩を進めていく。黒い石壁をかすめる夜風には、降り続く雪の冷たさが混じっている。


――わたしはひとりじゃない。誰かとともに、守るために戦える。そして、その先で、わたしも自分の生き方を選び直していけるのかもしれない。


 角を曲がった。思い浮かぶのは、本と木剣を抱くリュシアンと、その傍らに立つロゼリーヌ様。そして、いま指を握り返しているヴィルだった。


 誰かの未来を決めるためではない。選ぶ権利を奪わせないために、女王としてできることをする。


 ミツルは彼の手を離さないまま、裏口へ続く階段の一段目に足をかけた。


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