光を継ぐ子を守るために――揺れる女王の決意①
思いきって口を開こうと息を吸い込み、けれど言葉は自然と低い囁きになっていく。暖炉の火が小さくはぜ、舌裏が乾き、喉の奥に薄い熱だけが残っている。
「これだけ周到に偽装を施したとして、はたしてうまくいくのかしら……」
吐いた息が室内の静けさをかすかに震わせ、声は自分でもわかるほどわずかに上ずっていく。暖炉の温みが背中を薄く押しているのに、掌には緊張の汗がにじんでいる。壁の魔道ランプが机を照らし、書簡の紙面の白が冷たく目に返ってくる。背後にいるヴィルの気配が、衣の擦れる音とともに呼吸のリズムへ入り込んでくる。
さきほど見た大地図には、王都を中心に、血管のような街道が北と南へ複雑に伸びていた。王宮を出るなら、ほんの小さな隙が命取りになる。宰相派の監視網と、闇に潜む影の手。その手がどこまで伸びているのか、まだ正確には掴めていない。
ヴィルは机の端の書簡束をひょいと持ち上げ、軽く弾いて整えた。紙がかさりと鳴り、ミツルの呼吸がひとつ浅くなる。
「覚悟は決めても、不安は拭えんか。お前らしい」
「ごめんね。どんなに強くあろうと思っても、やっぱり無理みたい。もし、わたしたちの動きを勘付かれたら、どうなってしまうんだろうって、想像しちゃって……」
「分からんでもない。だが、たとえ勘付かれたとしても、大っぴらに踏み込むのは難しいさ。世間が流行り風邪に怯えてる最中に女王が病に伏せ、王配は重篤ときた。奴らだって強引に確かめには来られやしない。下手に偽物だと疑って踏み込んでみろ。民衆の反感を買うのは目に見えている」
理屈は、すでに分かっていた。それでも、ヴィルの口から聞くと、冷えた判断にわずかな体温が戻ってくる。
「そう願いたいところね」
書簡の白へ視線を落としたまま呟くと、ヴィルが小さく息をついた。
「いまは信じるしかない。ここまできた以上、腹をくくれよ、ミツル」
名を呼ぶ響きに昔の色が差し、彼の瞳に宿る意志が背筋を自然に伸ばしていく。
「ええ。すべてを取り戻すために」
深く息を吐く。コルデオや侍女たちの顔が浮かび、胸の内で熱と冷えがせめぎ合う。さきほどの地図をもう一度思い返し、荒れた街道や山あいの村の端々に、かつての旅の記憶が滲んでいく。
十二歳の小さな体で彼の大きな背を必死に追っていた頃の自分。いまは、十九歳に成長したとしか思えない姿で女王となり、若い王配の体で生きる彼と向き合っている。
――この旅路は、以前とは違う。どう考えたって違う……。
これから戦いへ赴くための道程だと分かってる。だというのに、胸の内側がきゅっと縮み、細い熱が疼くのを止められない。
――ばか。不謹慎にもほどがある。
視線を上げると、ヴィルが「あとはどうする?」とでも問うように、静かに首をかしげている。ミツルははっきりと頷き、冷えた手をそっと握り締めた。
「さて、一度寝所に戻って、身支度を整えましょうか」
「了解だ。……あと、何度も言ってしつこいだろうが、無茶だけはするな」
苦笑を含んだ声に気遣いが滲み、思わず口元がほどける。
「あなたはそう言うけれど、そもそも王宮を抜け出すこと自体、とんでもない無茶じゃない。いまさら何を言ってるのかしらね」
「正論だ」
「ふふ」
あっさり認めるものだから、力の抜けた笑いがこぼれ、同時に胸の奥に先ほどとは別の熱が静かに灯っていく。
「わたしね、あなたと一緒なら、どんな無茶だって乗り越えていける。そう思えるの。……『守りたいもの』を守るためなら、立ち止まってはいられないから」
口にしてしまうと、押し込めていた想いまで、怖いほどはっきりした。ミツルは浅くなりかけた息を、ゆっくりと吐き出す。
ヴィルはミツルを見つめ、かすかに眉を寄せたあと、諦めたように首を横に振った。その仕草には、呆れと、それ以上の信頼が滲んでいる。
「お前がそう決めたのなら、俺も腹をくくるまでだ。俺の望みはいつだって同じ。お前のやりたいことを支えることだ。どこまでだって付き合ってやる」
「……ありがとう。あなたのお陰で、わたしは前を向いていられるんだと思う」
彼は少し照れたように眉をひそめ、伸ばしかけた右手を途中で止めた。髪に触れかけて、そっと引っ込められた指先。その遠慮が少しだけもどかしくて、ミツルは微笑を残したまま視線を外す。
記憶の中の、ぼさぼさの金髪に無精ひげを生やした大男が、目の前の端正な青年に重なっていく。外見はまるで違うのに、ふとした眼差しや手つきに、かつての彼が現れる。そのたびに鼓動が強く跳ね、切なさが胸に広がっていく。
自分たちは魂だけでこの時代へ運ばれ、それぞれメービスとヴォルフとして生きているのだと、ミツルは今も受け止めている。同年代に見えるいまも、ミツルの心には、親子にも似た関係の名残と、相棒としての愛着が残っている。そこに芽生えた新しい想いを、まだ素直に受け入れきれない。
二人のあいだに残る壁は、少しずつ越えていくしかなかった。
◇◇◇
重い扉を静かに押し開け、人の気配のない廊下へ出ていく。石壁の湿りが肌を這い、衣の内側へしみ込んでいく。思わずマントの前をかき合わせ、襟元に顎を埋める。壁の燭台には弱い火が揺れ、足音は石の継ぎ目に吸われていく。
暗がりには宰相派や闇の刺客が潜み得る。ヴィルがそばにいることを心強く思いながらも、警戒を怠らない。
「……この国を変えたい。みんなが安心して暮らせるようにしたい」
囁きが石に溶ける。すぐ斜め後ろの彼が、歩調を合わせる音で応える。冷えた空気の層が足首に触れ、呼気だけが小さく温かい。
「そのためにも、まずは夜明け前が勝負だ。日が昇れば城門の警戒は増すし、宰相派にも勘づかれるかもしれない。そこさえうまく抜けられれば、あとは俺たちの舞台だ。奴らがどんな権威を振りかざそうと、そう簡単には追いつけやしない。これこそが俺たちの望んだ、誰にも縛られない戦い方だ」
「王都の外なら、万の軍勢よりもあなたのほうが心強いわ」
「任せておけ。俺が前衛を張り、お前が後衛で放つ。慣れ親しんだコンビネーションだ。恐れるものなど何もない」
「うん、そうだね……」
その言葉に、胸が軽く躍る。ヴィルはそっと歩調を緩め、ミツルの手を取った。革越しの温もりが指先へ移り、触れ合う手の感触が確かな現実として伝わってくる。焦燥がほどけていく一方で、胸の奥には小さな痛みが走った。
廊下の影が寄せては引き、指先の白みが静かに薄れていく。
――わたしたちは、ただの相棒だ。恋人じゃない。彼はただ、不安な娘を守るように手を差し伸べているだけ。
期待してはいけない、と理性が囁き、横顔を盗み見るほどに切なさがつのっていく。遠くで金具がかすかに鳴り、静けさの輪郭だけが際立つ。
ふいに茉凜の面影が心をかすめる。
前世の美鶴にとっての光。惜しみなく注がれた優しさに、生きるために縋っていた。あれはたしかに恋だった。けれど、それだけではなかった。茉凜がいなければ立っていられないほど、追い詰められてもいた。恋だったことも、依存していたことも、どちらも嘘ではない。
ふたりは、転生した先でも必ず互いを見つけ、今度こそ一緒に未来を作ろうと誓った。白の世界にいた茉凜の人格と記憶を構成する情報は、現実の肉体へ戻るオリジナルとは別に、デルワーズの内側へ転写された。分解され、圧縮され、長い眠りに留め置かれたのち、彼女は肉体を持たないまま、白きマウザーグレイルの中でミツルと再会した。
《《いっしょにしあわせになろう? ミツルだけじゃなくて、わたしもしあわせにしてよ》》
茉凜は、肉体を持たず、ミツルと同じ時間を生きられない寂しさを知りながら、そう言った。それでも、置いていかれたくないからとミツルを引き止めることのほうが、もっと嫌だった。ミツルの幸せを見守り、ともに噛みしめることが、茉凜にとっての幸せでもある。だから、それは身を引くための言葉ではない。ふたりで幸せになろうという、茉凜自身の願いだった。
《《前のあなたができなかったことを、いまのミツルとして叶えてほしいんだ。わたし、そのためなら全力で応援するよ》》
その言葉に、ミツルは確かに救われた。好きの形が変わっても、なくなったことにはならない。前世の恋を否定せず、今の願いも裏切りだと思わなくていい。そう理解することと、実際に誰かの手を取ることは、けれど同じではなかった。
ヴィル――いまのヴォルフ――と歩くうちに、ミツルは少しずつ変わってきているのかもしれない。茉凜への想いを過去にせず、ヴィルへ惹かれていく今の自分も否定しない。そのあり方を、まだうまく言葉にはできない。それでも、両方を抱いたまま足を出していく自分がいる。
――生きたい。ううん、ちゃんと生きてみたい。このひとと、ずっと一緒にいたいから。
証のように、離れかけたヴィルの手を、咄嗟に握り返してしまう。はっとして手を放ち、前を向く。立ち止まれない。人としても、女王としても、果たすべき務めがある。
蝋の匂いが薄く鼻に残り、石床の継ぎ目が靴裏を撫でていく。
「ねぇ、ヴィル……」
冷たい石を踏みながら小声で呼ぶ。彼はすぐに振り向き、夜の光を宿した瞳をミツルへ向けると、「どうした?」と返してくる。
「……わたしたちは『借り物』の身体の中にいる。本物のメービスとヴォルフなら、どんな道を選んだのか、ほんとうのところ、なにもわからない。けれど、それでも……いまのわたしたちの想いまで、『偽物』というわけじゃないわよね?」
自嘲にも信念にも触れる言葉に、彼は歩を止めて視線を合わせてくる。燭台の揺れる明かりが横顔を浮かび上がらせていく。廊下の冷えが頬に触れ、まぶたの奥だけが温かい。
「俺も同じことを考えていた。元の二人が何を考え、どんな道を選んだのかは、正直わからない。どこまでが本来の歴史で、どこからが俺たちの物語なのかもな。けど、この想いが嘘じゃないのなら、俺たちが選ぶ道まで偽物になるわけじゃない」
「うん……そうよね。壊すことを怖れて足を止めるより、いまを生きるわたしたちが信じる道を選ぶしかない。わたしたちなりに、正しいと思うほうへ。いつになるかわからないけれど、ふたりが戻ってきたときに、幸せだと思ってもらえるように」
唇をきゅっと結ぶ。
しばらくは、二人の足音だけが廊下に続いた。ヴィルは何も言わず、ミツルの歩調に合わせている。やがて彼は小さく息を吐き、張りつめた空気をほどくように、少しだけ声の調子を変えた。
「……そういえば、メービスの在位期間が短かったこと、前に話したよな。歴史書には退位としか記されていないが、詳しい事情は謎のままだ」
「その後どうなったのか、はっきりしないのよね」
細い風が廊下を渡り、灯がわずかに背後へ揺れる。
「そして、その後を継いだ若い王の名が『リュシファルド』だった。即位する以前のことは、ほとんど記録に残っていない」
「……まさかとは思うけど、リュシアンだというの? たしかに名前は似ているけれど」
指先の温度が少し戻り、吐く息だけが白い。
「似ているだけなら、俺も気には留めなかったさ。だが、リュシアンという名は、古い言葉の『光』に由来するそうでな」
「……ええ。ロゼリーヌさんにとって、リュシアンは光そのもの、希望なのよ。だから、なに?」
「それでちょいと気になってな。ものは試しとコルデオに調べてもらったら、リュシファルドという名も、古代語で『光を導く者』という意味になるそうだ」
――光と、導き……。
古い語の響きが胸の奥で長く残っていく。石の壁が冷たさを返し、耳の奥でその語だけが明るい。
「つまり、二人とも『光』に結びつく名前だということ?」
「ああ。もっとも、我ながらこじつけだとは思うがな」
予想外にあっさり認められ、ミツルは目を瞬いた。
「それだけじゃない。コルデオによれば、リーディス王家には、即位に際して名を改めた王もいるそうだ。幼名がリュシアンで、即位名がリュシファルド。そういう可能性も、なくはないだろう?」
「たしかに、お祖父さまも身分を隠していた頃は『グレイ』と名乗っていた。即位名とは事情が違うけれど、立場に応じて名を使い分けること自体は、珍しくない。でも、それだけで同じ人物とは言えないわ」
「無論だ。二つの名が同じ『光』に結びつくからといって、証拠にはならん。宰相の企てが、後世に残る即位へつながったのかどうかもわからん。今のところは、いくつかの偶然が重なって見える。それだけだ」
「もし本当に同じ人なら、わたしたちがリュシアンを救うことも、歴史を捻じ曲げることにはならないのかもしれない。むしろ、あの子が後世まで生き延びるには、ここで救う必要がある……そういう可能性もある、ということ?」
「真相はわからんが、そう信じたいところだ。そうでもなきゃ、やってられんだろ」
「言いたいことはわかるけど、ずいぶん投げやりなのね」
「悪かったな」
短い謝り声が空気に沈み、歩幅がほんの少しだけ揃う。
「でも……そうよね。あなたの言う通りだわ」
胸の中心が小さく震え、指先の温度がわずかに上がっていく。もしリュシアンがリュシファルドなら、あの子はこの危機を生き延び、やがて王位に就くことになる。けれど、それが本人の望んだ道だったのかどうかまでは、歴史書からはわからない。
――わたしは、この時代を動かしすぎてしまったのかもしれない。
未来の知識で、この時代の仕組みを塗り替えたつもりはない。既存の仕組みを確かめながら、民の暮らしを守るために復興政策を進めてきた。けれど、その成果が政治の均衡を動かし、宰相にリュシアンの擁立を急がせたのかもしれない。
それだけではない。男爵家が置かれている危機的な状況、伯爵による隣国との裏取引、宰相との関係と金の流れ、銀翼の派遣――それらをちらつかせ、宰相の焦りを誘った。こちらの思い描いた筋書きどおりに進んだことは、否定できない。
そうして生じた流れのどこまでが、歴史に記されたリュシファルドの即位へ続くものだったのかはわからない。それでも、たとえこの先に王位が待っているとしても、それを理由に、いまリュシアンに王座を押しつけてよいことにはならない。強いられた王座に幸福はない。ましてや、母子を引き離してまで即位させるなど、決して許せるものではない。




