王宮脱出計画――ふたりで踏み出す道
コルデオが返信の手配に出たあと、執務室にはミツルとヴィルの二人だけが残っていた。窓の外は夕闇に沈み、雪は降り続いていた。冷めかけた茶から細い湯気が立ち、灯のそばでゆっくり形を失っていく。
――北方の積雪量は、きっとこんなものではない。
ミツルはカーテンの向こうへ目を向けた。廃屋敷に囚われているという伯爵。負傷したクリス。男爵家で待つロゼリーヌとリュシアン。思い浮かべるたび、胃の奥へ冷たいものが沈んでいく。
そのとき、執務机の脇で紙の鳴る音がした。ヴィルが大きな地図を広げ、端を文鎮で押さえている。
「ちょっと来てくれないか?」
振り返ると、彼は地図の前で片眉を上げていた。張り詰めた空気を和らげようとしているのだろう。
ヴィルは扉を閉め直し、廊下と窓辺に人の気配がないことを確かめると、声を落とした。
「――ミツル。お前に話しておきたいことがある。以前から少しずつ進めていた、馬を乗り継いで北へ向かう計画についてだ。詳細を今のうちに説明しておきたい」
ミツルは裾を軽く持ち上げ、彼の隣へ歩み寄った。
椅子を引く木の音が短く鳴った。執務机の脇に広げられた地図には、王都から北へ延びる街道と山道、いくつもの宿場が細かく記されている。宿場の脇には馬を示す小さな印と、意味の読み取れない符丁が書き込まれていた。
準備を頼んだときには、まだ実行する日さえ見えていなかった。それが今、一本の道となって目の前に置かれている。
「すごい。こんなに詳細に……乗り継ぎ場所まで決めてくれていたの?」
ヴィルは肩をすくめた。その表情に、少年のような得意げな色が浮かぶ。
「引き受けた以上、いざというときに使えなければ意味がないだろう? お前が王宮を抜け出して北方へ向かおうとするなら、そのときには確実に使える手立てが要ると。俺はそれをずっと考えていた。言ったはずだ。『いつか動くときが来る』と。狙いが決まれば、あとは俺の仕事だ」
「いろいろとごめんなさいね。毎日あちらこちらと駆け回って、大変だったでしょう?」
「お前が気にすることじゃない。それに、こういうことはお手の物だ」
「それってつまり、未来の銀翼で?」
「そうだ。ユベルときたら、隅々まで目を配り、自分で手を回さないと我慢ならない奴だったからな。俺は書類仕事は苦手だが、交渉事は得意だし、駆けずり回る方が似合ってる。そうすりゃ、翼長のあいつの負担も減るってもんだ。副長ってのは、そういう役回りだ」
「カテリーナが『あんたは足』って言っていたのは、そういう意味だったのか。まさに理想的なコンビだったわけね」
「ああ。今の俺たちみたいにな」
「……かもしれないわね」
彼の指が地図の端をなぞり、宿場から宿場へ移っていく。
いつか動くときが来る。その言葉に形が与えられ、今、二人の進路になろうとしていた。
「それもこれも、さっき話した軍の非主流派――平民出身の指揮官や、その配下の部隊と交流を深めてきたおかげさ」
地図に書かれているのは役割を示す印だけで、協力者の名はどこにもない。指示も冬季演習や北方兵站の準備という名目に分けられ、各人が知るのは、自分の担当する馬や馬具についてだけなのだろう。二人が実際にその道を使うと知る者は、ごく限られているはずだった。
「協力してくれる人たちがいるって前にも聞いていたけれど、ほんとうにわたしたちの計画にまで手を貸してくれるの?」
ミツルが宿場の印から顔を上げると、ヴィルは静かに頷いた。
「ああ。必要な馬の配置や装蹄を、それぞれの担当者に頼んだ。向こうから協力を申し出てきた者も多い」
「そこまでしてくれるのは……精霊の巫女と騎士が彼らを救ったからなの?」
ミツルは腰の白きマウザーグレイルに手を添えた。
「そう思っている者もいる。だが、それだけじゃない。最前線を生き抜いても、報われたのはせいぜい戦時勲章だけ。大戦後は後方勤務や兵站任務に回され、軍の片隅に追いやられた者も多い。それでも、ヤツらは腐っちゃいない。自分たちが支えている軍を、このままにしたくないんだ」
「そう……そうやって、縁の下で支えてくれている人たちがいるのよね」
「彼らこそ軍の要だと、俺は常々思っている。華々しい戦果もなく、表立って評価されることもない。だが、皆、このままでいいとは思っちゃいない。当然、女王への忠誠心も申し分ない」
放浪の剣士だった頃から、ヴィルが身分や肩書で人を見ないことを、ミツルは知っていた。その目が、この時代の軍の片隅に追いやられた者たちを見つけたのだ。
「最前線へ送り出され、地獄を味わってきた兵の多くは平民出身だ。貴族派は我が身可愛さに、彼らを無駄に消耗させてきた。無駄死にさせるとわかっていながらな。いつの時代でも同じことだ……」
「なんてくだらない……。戦略だの国益だのと綺麗なお題目を並べて、上に立つ者は兵や民を駒のように動かす。挙げ句、家門の意地や派閥の面目にこだわって、苦しめられるのはいつも末端の兵士や民衆じゃない」
吐き捨てた声が、静かな執務室へ落ちた。
「上に立つ者に言わせれば、それが『大局を見る』ってことらしいがな」
どんな立派な論理を掲げても、最後にその代償を命で払わされるのは誰なのか。その声には、命令ひとつで運命を左右された兵たちを見てきた者の苦みがあった。
今もまた、ロゼリーヌやリュシアン、伯爵、そして銀翼の者たちが、権力者の都合で危険に晒されている。ヴィルには、彼らが、かつての兵たちと重なって見えるのだろう。
「俺たちがいた時代でも、たいがい酷かったが、これほどじゃなかった。だからこそ、少しずつでも変えていきたいと思ったのさ。それが歴史どおりなのか、それとも歴史を変えちまうのかは、わからんが」
「わたしのしようとしていることも、同じかもしれない。ほんとうの歴史を変えてしまうんじゃないかって、いつも不安だった」
言葉が途切れた。冷めかけた茶の表面で、灯の色がかすかに揺れた。
「でも、もう考えるのはやめたの。そんなことを考えていられる状況じゃないでしょう……。わたしはただ、最善だと思うことを全力でやるだけ。メービスなら、きっとそうすると信じてる。わたしは、彼女に代わってすべてを背負うと決めた。だから、逃げるわけにはいかないわ」
「そうか……」
ヴィルの一語が、二人のあいだへ静かに落ちた。
「俺だって、この時代に未来の銀翼を作り出そうなんてぶちまけちまったからな」
「そうそう。まさか本気でやるなんて思いもしなかったから、さすがにびっくりしたわよ」
「団員の募集をかけたとき、俺は徹底して実力主義と身分不問を掲げてやった。大胆すぎる方針だったし、最初は貴族派を中心に大きな反発を呼んだ。だが、平民の兵たちには大いに歓迎された。志願者が多すぎて、書類選考の段階から、そりゃあもう大変だったさ」
「そういえば、わたしがもう寝ようって言っても、あなたは書類にかかりっきりだったわよね」
夜更けまで机に向かっていた背中を思い出し、ミツルは口元を緩めた。
「そうさ。面接にも俺自ら出向いて、普通ならありえないような、突飛な質問ばかりぶつけてやった」
「レオンやクリスから話は聞いたけど、正直、なんて意地の悪いひとなんだろうって思ったわ」
「そう言うな。俺の経験に基づいた、実戦に即した質問だ。現実ってのは、不条理で意地が悪いもんだろ?」
「たしかに。あなたが言うなら、説得力があるわね」
「そのおかげで、現場を知り尽くしてる連中のあいだにも、俺の考えが知れ渡っていった。まあ、そういう連中だから安心しろ」
「なるほどね。そういう人たちに協力を頼んだのね」
「頼んだというより、向こうから協力を申し出てきた面もあるな。『その馬鹿げたタンデム戦術とやらについて聞かせろ』とか『対応できる馬をどう育成するつもりだ』とか『炸裂槍の構想を詳しく聞かせろ』とか、まあ、うるさいくらいに押しかけてくる。まったく、あいつらの好奇心と挑戦心には驚かされる」
呆れた言葉とは裏腹に、ヴィルの声には隠しきれない親しみがあった。
彼らが計画の全貌を知っているわけではないだろう。それでも、冬道を走れる馬を整え、必要な場所へ送り、次の担当者へ引き渡す。その一つ一つが、二人の進む道を支えている。
「おっと、調子に乗りすぎた。説明に戻ろう」
ヴィルは地図を回し、王都から北へ連なる印をミツルの正面へ向けた。
「ここから北へ向かう途中、各宿場に乗り継ぎ用の重種馬を待機させている。元々は軍馬を生産・育成している国軍牧場へ何度も足を運んで、俺が探し出した馬たちだ。北方の寒気に強く、雪道にも慣れている。今回の作戦にあたって、雪道向けの装蹄に改めてもらっている」
「雪道向けの装蹄……そんなものまであるのね」
地図の余白には、蹄鉄の形や釘の位置を示す簡単な図が描かれていた。
「滑りを抑え、蹄の裏に雪が固まりつきにくくなるよう工夫してある。それから、重種馬は軽種馬に速さでは劣るが、体が大きく力がある。同じ重種でも背腰と脚回りを確かめ、二人分の荷重を見込んで選んだ。荷も最低限にする。……ま、一度乗ればわかる。大きいし、頼りになるぞ」
宿場の印を、指で順にたどる。乗り継ぎの話はすでに聞いていた。それでも、用意された馬と支援者の配置を目にすると、初めて実行に移せる計画なのだと実感した。
「この行程なら、宰相より先にボコタへ入れるということだけど――雪の中を進むのよ。わたしには絵空事としか思えない……」
「いいや、これは決して絵空事じゃない。俺自身の経験を踏まえて組み立てた計画だ。未来の銀翼では、冬季の急速展開こそ最優先課題だったからな。宰相の車列の歩みを考えれば、先回りは十分に可能だ」
「本当に間に合うのかしら」
「間に合うさ。宰相は儀礼の護衛を連れて出た。途中でさらに兵を増やすつもりなら、そのぶん足も鈍るだろう。軍勢を伴ったうえ、例の六頭立てとかいう馬鹿げた馬車でこの雪の中を進むんだ。当然、俺たちの方が先んじてボコタへ入れると見ていい」
それは確約されたものではない。積雪の状態や道の荒れ具合、宰相の車列の進み方、途中での増兵に要する時間によっては、見込みが崩れる可能性もある。それでも、ダビドたちと連絡を取り、伯爵を救い出す手立てを整える時間を得られるかもしれない。
「そう願いたいところね。わたしたちに必要なのは、何よりも時間なのだから……」
「ヤツらは護衛と車列を伴う以上、行軍に適した主街道を進むはずだ。一方、俺たちは、あらかじめ見定めた馬道を選び、乗り継ぎの宿場を繋いでいく」
「となると、強行軍は避けられないということね。馬への負担が心配だけど、そこはどうなの?」
「一度に長距離を走らせれば馬にも負担がかかるが、乗り継げば一頭ごとの負担を抑えられる。それに、各宿場には馬の状態や装蹄、馬具を確かめる兵を配置している。蹄鉄が緩んだり外れたりしても、すぐに対処できる。俺たちの仮眠も、最初から行程に入れてある」
ヴィルが示したのは、一定時間ごとに馬を替え、行程の節目で短い仮眠を取る段取りだった。
区間ごとに道の状態も距離も異なる。宿場では乗ってきた馬を預け、用意された次の馬へ乗り換える。馬具の点検と食事を済ませ、頃合いを見て仮眠を取る。積雪や道の状態によって予定が前後する余地まで見込み、宰相より先にボコタへ入るための綿密な行程が組まれている。
無休で走り続ける計画ではない。それでも、夜間も移動を続ける強行軍であることに変わりはなかった。
遠い荒野の記憶が蘇る。スレイドの息づかい。鞍の揺れ。すぐそばにあったヴィルの体温。
――あの頃と同じように、今度は長い雪道を二人で進むのね。
ミツルは小さく笑い、白きマウザーグレイルの柄に触れた。
宰相が女王の名代として男爵家へ赴く許可を得たあの会議のあと、ミツルはヴィルに北へ向かう準備を託した。
地図の上に並んだ印は、あの約束が形になったものだった。
「わかったわ。この計画で宰相に先んじてボコタへ入り、まずダビドたちと合流する。伯爵とクリスの状況、それに周囲の敵の動きを確かめたうえで、可能なら伯爵を保護し、この陰謀の全貌を暴き出す。そうでもしなければ、この暴挙を止める手立てはないわ」
「ああ、状況を覆すにはそれしかない。だが、宰相もお前の狙いを見越しているかもしれん。最悪、こちらを誘い出す罠の可能性だってあるぞ」
「それは百も承知よ。それでも、わたしはあえて無知で無力な女王を演じ、宰相に大義名分まで与えてみせた。彼の油断を誘うためにね」
灯芯が小さく爆ぜ、地図に落ちた二人の影がかすかに揺れた。
「たしかに彼は政治家としては有能で、実利主義で抜け目がない。けれど、権威主義的な貴族でもある。侮りと慢心は、きっと彼の判断を鈍らせる。それに、宰相が王宮から動いた今、影の手も王宮とボコタ、銀翼本隊、男爵家へ目を配らざるを得ない。連絡や警戒に綻びが出れば、こちらも動きやすくなるはずよ」
「そうだな。だからこそ、主導権を奪い返す好機でもある」
ヴィルは地図を畳んだ。
「ただし、無茶だけはするなよ。お前は突き進む癖があるからな。戦闘になったら、タンデム戦法での連携を基本とし、安全策を怠らないことだ」
「タンデム戦法か……騎士と魔導兵が同乗して、馬上から魔導兵装で魔術を撃ち込むっていう、あれね。考えてみれば、わたしたちがスレイドに乗って荒野を駆け巡っていた頃の連携が元なのかしら。ほら、ハムロ渓谷で逃げ回ったときみたいに」
「おう、実はそうだ。あの経験が元さ」
「……なるほどね。雪道での戦闘経験はないけど、あなたがリードしてくれるなら、なんとかなりそうね」
馬上でヴィルが進路を切り開き、ミツルが背後を守る。二人にとっては、名を与えられるより前から繰り返してきた連携だった。
「一般の騎士と魔導兵が真似できるかといえば、まだ課題は山積みだが、いずれは銀翼騎士団の正式戦術として採用したいと考えている。重種馬を集めたのも、そのための実験を兼ねているわけさ」
「ちゃんと将来を見据えるのね。すごいわ。わたし、そういうのはさっぱりだから」
「ま、餅は餅屋だ」
「頼りにしてる」
ミツルは、畳まれた地図にそっと手を置いた。地図に残る印の一つ一つが、誰かの働きと覚悟に支えられている。
もう、二人だけで進む道ではなかった。
◇◇◇
しばらくして、扉が控えめに叩かれた。
「――失礼いたします、陛下」
戻ってきたコルデオが、静かに敷居を越えた。その表情は、部屋を出ていったときよりも引き締まって見えた。
「先ほどの返信は、すでに風耳鳥へ託しました。監視継続の裁可と、夜明け前にこちらを発つ旨だけを記し、経路や到着時刻には触れておりません。先の書状に二刻後に送るとあった続報も、出立前に届けば、ただちにお届けいたします。間に合わなかった場合は、ほかの報告とともに厳重に保管いたします」
「ありがとう。それでお願いします」
ミツルが頷くと、コルデオは続けた。
「偽装と影武者の手配も、予定どおり進んでございます。侍医司名義で、『女王陛下ならびに王配殿下は流行り風邪を患い、殊に王配殿下は重篤。感染防止のため、当面は面会を禁ずる』との診断書を用意しております」
あらかじめ打ち合わせていた計画が、すでに実行へ移されている。ミツルは背筋を伸ばし、報告の続きを待った。
ヴィルは顎に手を添えた。
「それで、手筈についてはどうなっている?」
「はい。若い侍医を数人、すでに交代で離宮へ通わせております。診察具や薬箱を携えさせ、室内から咳き込む声が廊下まで聞こえるようにいたしました。部屋では薬草を多めに焚き、侍女たちにも『陛下は食事も喉を通らず、ひどく衰弱している』と、それとなく噂を流し始めております。感染の恐れがあると聞けば、誰しも近づくのをためらうでしょう」
「よいでしょう。宰相派とて、病床の女王との面会を無理に求めようとはしないはずです。……影武者については、問題ありませんか?」
「すでに離宮では、陛下と背格好の似た侍女を寝台に休ませ、帳を下ろしております。かつらと衣服の下へ入れた詰め物で姿を整え、感染防止を名目に、口元も薄布で覆わせました。病が重いように見せるため、苦しげな息遣いの稽古もさせております。侍従が『ご衰弱が甚だしく、いまはお話しになれるご容体ではございません』と説明すれば、よほど強引な者でなければ面会を諦めるでしょう」
「俺のほうは?」
「王配殿下は重篤のため別室へ移されたこととし、絶対安静を理由に、誰も入室させぬ手筈でございます」
ヴィルは腕を組み、確かめるように頷いた。
「なるほどな。まさに絶好の口実というわけだ」
「はい。実際に流行り風邪が広がっているのは事実でございます。『咳をする者には近寄るな』という警戒心も、王都では強まっております。そこへ陛下と殿下のお二方まで床に伏せたとの噂が加われば、病が王宮まで及んだという深刻さも、噂の真実味も増しましょう。その状況で無理に面会を求めれば、陛下の御身を危険に晒したとして、かえって民衆の反感を招きかねません」
ミツルは机の縁に手を置いた。
「ヴァルナー卿の態度を見てもわかるように、宰相派の目には、わたくしはすでに屈服した無力な小娘としか映っていないのでしょう。精霊の巫女と騎士という組み合わせは、たしかに軍事的には厄介かもしれない。けれど、二人とも病に倒れたとなれば、『もはや恐れるに足らず』と思うのではありませんか?」
「油断をさらに深めさせる、ということでございますね」
「ええ。わたくしを『小娘』と侮るなら、その思い込みを逆手に取るまでです」
ミツルは机の縁から手を離し、掌に残った冷たさを静かに握り込んだ。
「噂には、こう付け加えておいてください。『女王は心労が祟り、ひどく弱っている。宰相不在のあいだ、政務を支えるヴァルナー卿に期待を寄せている』……と。もっとも、宰相抜きで国家転覆を図るほどの度胸など、彼にはないでしょうけれど」
「承知いたしました」
「ただし、あくまで宮中の噂としてです。布告にしたり、公の記録へ残したりはしないでください」
「もちろんでございます。ヴァルナー卿へ正式に権限を委ねたと受け取られるような形にはいたしません」
「それでよいでしょう」
「病室の周囲には、信頼の置ける警備兵を配置しております。仮に宰相派の手の者が様子を探りに来たとしても、感染の恐れを理由に立ち入りを制限できます。加えて、此度の流行り風邪は極めて危険なものだと、侍医司も申しております。そう簡単に踏み込んでくる者はおりますまい」
「それでよいでしょう、コルデオ」
コルデオはかしこまって一礼した。計画そのものの説明ではない。すでに始まっている偽装の実施状況と、残された手筈の最終確認だった。多くの者がそれぞれの役目を担い、二人の不在を隠すために動いている。
「出立は夜明け前を予定している。問題ないか?」
「はい、殿下。すでに厩で馬具を整えております。殿下のお手配どおり、出立経路にあたる門の見張りにも信頼の置ける者を配しており、万事整っております」
「よくやってくれた。あと、馬に積む荷は最低限でいい。あくまで目立たないようにしてくれ」
「かしこまりました。加えて、離宮警護を名目に、選抜した近衛騎士の配置も始めております。人数は限られますが、夜明け前までには所定の持ち場へ就かせます。素性も一人ずつ確かめてございます」
「そこまで準備を進めてくれたのですね……ありがとうございます。本来なら、このような嘘はつきたくありませんが、今は非常時です。やむを得ません」
コルデオは穏やかな微笑とともに、深々と頭を下げた。
「いえ、これも務めのうちにございます。私ども侍従や侍女は、陛下の嘘に説得力を持たせるため、最善を尽くします。どうか、陛下の真を貫いてくださいませ」
その言葉が、胸に残る負い目をわずかに軽くした。
一つの嘘を、多くの者が支えてくれている。だが、その嘘によって守ろうとしているものまで偽りではない。
「留守のあいだも、宮中の動向の確認と調査は続けてください。届いた報告や得られた記録も、散逸することのないようにお願いします」
「承知いたしました。調査を続け、届いた報告と記録は、私どもが責任をもってお預かりいたします」
ミツルがヴィルへ目を向けると、彼は目尻をわずかに緩めていた。その灰色の瞳には、コルデオたちへの信頼と感謝が滲んでいる。
「それでは、わたくしたちも出立の準備にかかります。厩で落ち合いましょう。何かあれば、すぐに知らせてください」
「かしこまりました。ご武運を――」
コルデオが深く一礼して退室すると、扉が静かに閉じた。
ヴィルが畳んだ地図を机の引き出しへ収めるのを見届け、ミツルは机を離れた。
窓の外では、なお雪が降り続いていた。その先に待つ道がどれほど険しくとも、もう立ち止まる理由はなかった。
夜明け前、二人はこの王宮を出る。
待っている人々のもとへ向かうために。




