王宮の夜明け前――逆転への密やかな決意
窓硝子に淡い白が貼りつき、蝋の甘さに煤の匂いが混じる。
「えっ、侍女長自ら、わたくしのもとまで運んでくれるのですか……?」
思わず漏れた声は、わずかな焦りを映して低く震えていた。執務室の分厚い扉は閉ざされているとはいえ、どの壁にも耳が生えている――そう思わせる沈黙だ。聞かれでもすれば、ミツルの行動に疑いをかけられてしまう。
「はい。警戒を要するため、宰相派に悟られぬようカーラがさりげなく動いております。今回の書簡は、王家専用の鶏舎に戻ってきた風耳鳥から回収したもの。執務室の窓経由でお渡しする手はずとなっておりますので、すぐお手に取れるかと」
応じる声の主は、侍従長のコルデオ。柔和な口調だが、その瞳には揺るぎない意志が宿っている。
王家専用の鶏舎は、儀礼と実務が同居する聖域だ。鍵は三重、番は二刻交替。容易には触れられない絶対領域ゆえ、緊急の通信には打ってつけだ。とはいえ、その鶏舎からの書簡を受け取るだけでも、このように細心の注意が必要になる。
宰相が北方へ出立した今、王宮に残ったあの派閥の重臣たちがミツルの一挙手一投足を監視している。もし伯爵の捜索やリュシアン、さらにロゼリーヌの救出を企んでいると知られれば、どんな妨害を受けるか予測もつかない。下手をすれば「女王が王座に執着し、暴虐の限りを尽くそうとしている」などと断罪されかねないのだ。
机の角が掌に冷えを返し、息が胸骨の内側でひとつ鳴る。
「……今は迂闊な動きを見せるわけにいかん。ここで待とう」
低く頷いたのは、王配を務めるヴィル。公務上のやり取りさえ、こうして神経を張り詰めねばならない現状は、ミツルには耐え難い。けれど、嘆くだけでは先へ進めない。ミツルは意を決して唇を引き結び、コルデオに静かに告げた。
「ありがとう、コルデオ。ここで待ちます。でも……侍女にこんな危険な役目を委ねるなんて、本当に申し訳なくて……」
「陛下、どうかご心配なさらず。カーラは私が最も信頼を置く侍女でございます。書簡の扱いにも慣れております。間違いなく届けてまいりますとも」
そう言うと、コルデオは控えめに頭を下げる。
彼が廊下へ消えたあと、ミツルは分厚いカーテンの隙間から冬の空を見やる。雪は降り続き、空はいよいよ暗さを増していた。ガラス越しに感じる冷気が、肌をひりつかせた。
呼気が深くなり、胸の鼓動が落ち着いていく。あの宰相という巨大な権力に縛りつけられた王宮という檻から、どうにか抜け出さねばならない。毎晩襲う不安、それでも女王として毅然と振る舞わなければならない。
そんなミツルの肩に、そっとヴィルが手を置いてくれる。彼がそばにいるだけで、不思議と勇気が湧き上がってくるのを感じた。
――茉凜。いまここにあなたが居てくれたなら。
ミツルは腰に下げた聖剣マウザーグレイルにふれ、視線を伏せる。そこに大切な加茂野茉凜はいないのだ、と知りつつも、今のミツルは彼女に話しかけてしまいたい気持ちでいっぱいだった。
「どうか無事で……」
ミツルは胸のざわめきを押し殺すように、深く息を吐く。もうすぐ運ばれてくるはずの密書。その中身こそが、先の未来を切り拓く鍵になるかもしれない。
◇◇◇
それから数分も経たぬうちに、窓の外に小柄な影が近づいてきた。執務室の窓は少し高い位置にあるが、建物の外壁をぐるりと回れば手が届く造りになっている。間者が至るところに潜む現状では、ここまで用心深い手順を踏むのもやむを得ない。
姿を見せたのは侍女長カーラ。ミツルが錠前に手をかけると、冷たい金属が指先に触れた。
「ご苦労さまです、カーラ。大丈夫でしたか?」
窓を開けると、袖口へ氷のような風が入り込んだ。カーラの頬は、外の寒さに赤く染まっている。
「陛下、こちらを……。宰相派の目があるやもしれません。すぐ窓をお閉めになってくださいませ」
「ありがとう、カーラ。本当にすみません。あなたをこんな危険な事に巻き込んでしまって……」
「とんでもございません。お役に立てて嬉しゅうございます。陛下こそ、お気をつけくださいませ……」
そう言って、カーラは小さな金属筒をそっとミツルの手のひらへ乗せる。筒には、コルデオが告げたとおり、ダビド班を示す赤い線が二本入っていた。
ミツルはその筒を両手で抱えこむように受け取り、カーラが立ち去るのを見計らって窓を閉める。閉める間際、隙間風が羊皮紙の端を一度だけ浮かせ、蝋の炎を低く伏せた。
窓枠の釘が、風に短く応えた。魔道ランプの輪が琥珀に揺れ、彼の眉間に浅い影を置く。
「……ようやく来たか」
ミツルが低く響く声に顔を向けると、ヴィルが魔道ランプを手に待ち受けている。一見落ち着いた表情だが、その瞳には大きな緊張がうかがえた。宰相の留守を狙う今こそ、二人に残された貴重な好機。これは今後の二人の行動を決める重要な鍵となる。その思いはミツルも同じだ。
ミツルは、指先に冷たさを残す通信筒を彼へ差し出した。
「開けましょう」
ミツルがそう告げると、ヴィルは黙って頷いた。魔道ランプを机に置き、受け取った通信筒の蓋に指先をかける。小さなピン留めを引き抜くと、防水加工された小さな紙片が折り畳まれているのが見えた。彼は慎重にそれを取り出し、魔道ランプの柔らかな灯りを頼りに目を通し始めた。背に感じる張り詰めた空気が、ミツルの胸を落ち着かなくさせる。
やがて、ヴィルは眉を寄せながら、書面に記された言葉を読み上げはじめた。
◇◇◇
【赤二/北路】D-1 発信:早朝
発:班D 宛:陛下
検認符:雪片三・赤二線・封蝋白
一、状況
・「影ノ手」介入確認(陛下予測通り)。
・ボコタ外縁で接触、交戦短。傭兵一名を生捕。
二、伯爵
・生存見込み:高。
・傭兵供述:私兵を率いる者が「まだ利用価値がある」と述べた由。
三、所在(符丁)
・「朽館」に軟禁の恐れ大。
・座標暗号:〈葡萄‐硝子‐鐘/東二・北一〉※地図B層に照合可。
・罠可能性:中―高。よって深入り回避・監視継続中。
・敵性戦力:宰相私兵=推定二百 ※影の手=総数不明
四、味方損耗
・C:右腕の矢傷。処置済み、療養中。
・L:軽微/随伴可。
・民間被害:報告なし。
五、要裁可(いずれか下線)
A)監視継続・増援待ち
B)奇襲小隊投入(夜明け前)
C)一旦離脱・誘導作戦へ移行
六、所要
・医療具一式(固定副木/清拭酒)
・短弓手×二、見張り交替要員×二
・撹乱用火粉少量(市中使用不可)
七、次報
・二刻後、同経路にて続報を発信予定。
了 —D
〈返信欄〉__________________
裁可:A/B/C 到着刻: 印:
追記:
◇◇◇
読み終えると、ヴィルは小さく息をつき、紙片を差し出した。ミツルはそれを受け取り、胸の奥がぎゅっと痛むのを感じた。
要点は三つ。影の手の介入は確実、伯爵は生存見込み高し、郊外の廃屋敷の監視を継続。宰相が自ら直属と認めた影の手が、二人の任務へ手を伸ばしてきた。恐れていた相手が、実際に動いたのだ。
なによりもミツルの胸を抉るのは、書面に書かれた一文だった。
――・C:右腕の矢傷。
胃の底に薄い氷片が沈み、握った紙がしわりと鳴った。紙の角を押さえる親指が白くなり、指先がひと息で冷えた。
「クリスが……負傷した。なんてこと……」
自然と声が震えた。恐れていた事態が、ついに現実になってしまった。
レオンとクリスを行商の夫婦に偽装させ、伯爵の情報収集へ送り出した。その任務が敵の目を引きつけることを、ミツルは恐れていた。危険な任務と分かっていながら、ミツルはその責務を彼らに託すしかなかった。そして、結局はこの結果。自分の甘い考えがクリスを傷つけてしまったのだ。
肩が小刻みに震える。女王という立場で人を動かすことは、時にその命や安全を危うくする。分かっていたはずの重さが、負傷を告げる一文とともに胸へ突き刺さった。背筋に残る冷えが、肩に置かれた掌でゆっくり散っていく。皮革がかすかに鳴った。
「……わたしのせいだわ。クリスも、レオンも……こんなにも辛い目に遭わせてしまった。なんてことをしてしまったの……」
ミツルが視線を上げると、彼は一瞬だけ目を外し、鼻から息を落として戻す。喉仏が低く動いた。
「馬鹿者。いまさら自分を責めるな。いいか、あいつらはもう一人前の騎士だ。あの策は、経験と実力を買ったからこそ通した。事実、あいつらは生き延びてみせた。証明してみせたんだ。だから、あとで褒めてやれ。そして、命じた自分を誇れ。それが上に立つ者の責任だ」
言い切りに合わせて、掌の圧がほんの少し増す。体温が布ごしに移る。
「わかってる……」
ミツルが頷いた拍子に前髪が頬へ落ち、彼の親指が迷いなく払った。指先の硬さが、妙にやさしい。
「……それにしても、あのクリスが手傷を負うとはな。やはり影の手は手強いと見える」
苦々しい笑みを浮かべながら、彼は再び紙片へ目を落とす。机上の冷気が、袖口からひたと入り込んだ。
鍔金がミツルの指に冷たく触れ、思考が一点に集まる。
「……Aは監視を継続、Bは小規模奇襲、Cは一旦撤退。裁可を選べ。どうする、メービス?」
ミツルの指先が地図の縁をつまみ、爪先に力が入った。
「……まず、Cはありえない。Bも、相手との戦力差を考えると現実的とは言えない」
「ダビド班は総勢十八名。レオンを加えても十九名だ。罠の可能性を含めれば、迂闊に突入はさせられん。こちらも大っぴらに戦力は出せん」
「そうね。わたしたちに切れる手札は、もう残されていない」
吐息が白く混じり、沈黙がゆっくりと卓に落ちた。
今すぐ大っぴらに動かせる戦力はない。ミツルの指が自然に剣帯へ触れていた。冷たさの奥に、革紐の柔らかい感触だけが確かに残る。ダビドたちだけでは突入できないのなら、自分たちが向かうしかない。
「わたし……いますぐにでも、ボコタへ向かいたい。飛べるものなら、飛んでいきたい。でも……」
ミツルは書簡を握りしめたまま、苦しい思いを噛みしめる。クリスが生きていてくれたのは不幸中の幸いだが、彼女をこれ以上戦わせるのは危険すぎる。レオンにしても同じ。どうしても、ミツルの中で罪悪感が膨らんでいく。
◇◇◇
ミツルはコルデオを呼び戻した。喉奥で乾いた息を飲み込み、掌に冷たい紙片の感触を残したまま、戻った侍従長へ目を向ける。
「……コルデオ」
ミツルが書簡を差し出すと、コルデオは目を通して深々と一礼した。紙片を返し、静かに頷く。
「ご安心下さい、陛下。すでにわたくしどもで準備を整えております。陛下がご出立される際、宰相派の目を欺けるよう、極秘裏に手筈をととのえておきました」
「……えっ? それは、どういうことですか?」
ミツルは思わず瞬きをした。自ら北へ向かうことは打ち合わせていたが、もう出立できるところまで手配が進んでいるとは思っていなかった。コルデオの落ち着いた声が、まるで今こそ決断をと迫るように低く響く。
「近頃、王都では感染力の強い風邪が猛威を振るっております。そこで『陛下と殿下は流行り風邪を患い、離宮にて面会謝絶中。殊に殿下は重篤』と触れ回ることにいたします。既に侍医司や侍女たちにも話を通しております。王配殿下にも城門の衛兵を一時的に配置転換していただく算段をしておりますので、陛下は明朝、夜明け前に馬で密やかにご出立いただけます」
「そ、そこまで……!?」
ミツルは唖然と問うが、コルデオはどこか憂いを宿しながらも、誇りある微笑を浮かべて一礼する。
「宰相の不在こそ絶好の機会。ダビド班からの報せが届けば、きっと陛下は北方へ向かわれるだろうと確信しておりました。ですので、僭越ながら先の王から仕える者として、手を打たせていただきました」
その冷静で周到な段取りに、ミツルは感謝と申し訳なさを同時に抱く。直接動くと話した自分の言葉を受け、コルデオたちはここまで用意を進めてくれていたのだ。
「ああ。ありがとう、コルデオ。これならすぐにでも動けますね……。でも、わたくしが王宮を空ける間に何か起きたら……」
半ば不安を吐露すると、彼はどこか誇り高く頬を緩める。
「その点はご安心を。宰相派も陛下が流行り風邪を患っているのであれば、安易に騒ぎ立てられません。見舞いすら恐れ多く、近づきにくいでしょう。それに、陛下のお姿を遠目にでも似せられる影武者の侍女を手配しております。半月ほどは時間を稼げるかと」
確かに感染症を盾にすれば、彼らとて大事にはしたくはないはず。ミツルは少しだけ肩の力が抜け、安堵の息を吐いた。とはいえ、宰相が戻るまでの短い間に、すべてを成し遂げねばならない。
「いいでしょう……では、夜明け前にわたくしは北方へ向かいます」
そう伝えると、ヴィルは苦笑して軽く首を振る。
「懐かしいな。まるで昔に戻ったみたいだ。もちろん、俺のほうも準備は進めてある。馬の手配に宿場での乗り継ぎ方法……色々とな。まあ、その辺りは後で詳しく話す。それと、今の『わたくしは』とは何だ?」
「あ……」
「お前が行くってんなら、俺も当然ついていくことになるわけだが?」
ミツルは彼の言葉に小さく笑みを返す。
「そんなの当たり前でしょう。あなたがいなくては困ります。わたくしたちは女王と王配である前に、精霊の巫女と騎士なのです。それに、あなたが前衛に立ってくれるからこそ、わたくしは思う存分精霊魔術を振るえるのです。ご存じでしょうに」
「それは俺にとってもさ。俺の動きに合わせられる魔術師なんざ、この世のどこを探したってお前以外にいない。まあ、切り込む時は任せてくれ」
ふたりでふと、紙片に目を落とす。そこにはクリス負傷の現実がはっきりと示されていて、胸が痛む。ミツルはかすかに唇を噛んだ。
「……まずは、はやくクリスに会いたいです。女王の権限でもなんでも使って休ませなくてはなりません。無理を重ねたら命取りになりますから。レオンも、彼女を支えてくれるといいのですけれど……。レズンブール伯爵の救出については、わたくしたち自らで乗り込むしかないと思います。ダビドたちには、わたくしたちが着くまで見張りを続行するように伝えてください」
地図の端がかさりと鳴り、緊張が一点だけ締まった。
「承知いたしました。すぐに風耳鳥で返信を送らせましょう。ダビド班の皆も、陛下のご決断を心待ちにしているはずです」
コルデオが深く一礼するのを見て、ミツルは書簡を丁寧に畳み、彼へ預ける。
ミツルを阻むのは、冷えきった雪道だけではない。宰相の策略も同時に立ち塞がるだろう。それでもためらう余地はない。
「留守の間はコルデオ、あなたに一任します。大変ですけれど……離宮における隔離療養という名目で、わたくしたちが戻るまでのお芝居を頼みます」
「はい。お二方が無事ご帰還するその時まで、全力でやり遂げます。どうか……男爵家の皆様をお救いください」
「ええ。必ず救い出してみせます」
そう言い切ると、コルデオの表情に微かな笑みが浮かんだ。彼は返信の手配のため、執務室を辞した。
その笑顔は、張り詰めたミツルの心をどこか穏やかにしてくれた。ヴィルもまたミツルの隣で微笑む。
「いい感じだ。震えはもう収まったようだな」
「ずっと不安だったけれど……でも、進むべき道筋が決まったからには、もう開き直るしかないわ。もっとも、わたしたちには、それしかないと言えるのだけれど」
「まあな。だが、宰相と影の手を引きずり出すことは出来た。あいつらはもはや男爵領という最後の大舞台に向かうしかない。それもこの雪深い中をのんびりとな。少なくとも、そこなら王宮とは違う戦い方ができる。これこそ、俺たちが待ち望んだ舞台だ」
「ほんとうね。わたしたちって、どうしたって王宮での駆け引きには向いていないもの。本音では、こんな陰謀渦巻く世界なんて、今すぐにでもぶち壊してやりたい気分よ」
「言ったな。まったくお前ときたら、どこまで我慢できるかと、こちとらひやひやしてたんだぞ」
「でも、もう我慢は終わりよ。わたしも腹をくくったわ。あなたと一緒なら、わたしは迷わず突き進むのみ」
「なら何よりだ。状況は厳しいが……つい、お前と旅をしていたあの頃を思い出して、不思議と胸が高鳴る」
「わたしもよ……。それにとても心強いの。あなたとなら、どんな苦境だって乗り越えられる気がするから……」
ミツルの脳裏に、かつての荒野を駆け抜けた記憶がよみがえる。かつてヴィルの広い背中に守られ、愛馬スレイドとともに旅をした、自由だったあの日々。王宮の重圧に押し潰されそうになるとき、その記憶がミツルを支えてくれた。
そう意識すると、心の奥にあった焦りが少しずつ和らいでいく。彼が隣で同じ未来を見つめてくれている。それだけで心強い。
廃屋敷に囚われているという伯爵が、果たして本当にそこにいるのか。もし罠だとしても、ミツルはもう立ち止まるわけにはいかない。クリスやレオン、ダビド班、ステファン班、そして銀翼騎士団本隊も、この雪の中で、それぞれの役目を果たそうとしているはずだ。
窓の隙間からは相変わらず冷気が入り込んでいたが、ミツルの胸郭の内側に温い脈が集まり、吐く息だけが静かに長くなる。白きマウザーグレイルにそっと触れ、目を閉じる。女王として、そしてひとりの人間として、守るべき人々のために立ち上がるのだ。
◇◇◇
灯がわずかに揺れ、煤が細い筋になって消えた。
――……わたしは、今も迷っている。
窓の外では、雪が降り続いている。ミツルは、頬に落ちた前髪を払ってくれた指先を思い出した。あんなふうにためらいなく触れられると、もっとそばにいたくなる。彼にとっては何気ない仕草なのかもしれないのに、その先まで欲しくなってしまう。
未来にいた頃、ミツルの体は十二歳で、意識は二十一歳の美鶴のものだった。父ユベルを失ったミツルを導いてくれたのは、父の盟友――四十四歳の放浪の剣士、ヴィル・ブルフォード。
『お前は……ユベルが遺した大切な一人娘だ。俺は親代わりなんてできる柄じゃないが、そんな気持ちで見守りたい。そう思っている……』
あの言葉は、今も忘れられない。守ろうとしてくれる気持ちが嬉しくて、それだけでは苦しかったことも。
父を失った寂しさだけなら、父に似ていると言われて、あんなふうに胸が痛むはずがなかった。スレイドの鞍で眠りかけたとき、背中にあった温度は、誰のものでもよかったわけではない。ヴィルだったから、身を預けていたかった。そのことを、もう知らなかったことにはできない。
けれど、二十一歳の意識があっても、彼の前にいる自分は十二歳の娘だった。ヴィルは父の盟友で、その娘を守ろうとしてくれている。そこへ自分の想いを差し出せば、父への誓いを抱えた彼を困らせることになるのではないか。今のようにそばにいられなくなるのではないか。だから、気持ちは消さずに、進ませない。相棒として隣にいられる今を壊したくなくて、胸の内に蓋をすると決めたのだった。
そして今は、十九歳のメービスの姿で彼の隣にいる。ヴィルもまた、若い王配の姿をしている。本当に大人になったように見えると、彼は言ってくれた。姿だけでなく、これまでミツル自身が選び、背負ってきたものまで認めてくれた。そのことが、嬉しかった。
仮初めとはいえ、女王と王配として並ぶ今の自分を、彼はどんな気持ちで見ているのだろう。ひょっとしたら、ひとりの女として――。
――いいえ。そんなはずはない。
彼にとっては、今も十二歳のミツルに違いない。肩に手を置いてくれるのも、弱音を聞いてくれるのも、昔からそうやって守ってくれた人だからだ。自分だけが勝手に、その優しさへ別の意味を求めているのかもしれない。
守られるだけでは足りないと、もっと触れたいのだと、彼に知られてしまったら、どうなるのだろう。
――蓋を開けたからって、どうなるっていうの。何もかも壊れてしまうかもしれないじゃない。
きっと困惑させる。そんなつもりではなかったのにと、持て余される。今まで気軽に触れてくれた手さえ、ためらわせてしまうかもしれない。
――迷惑に思われたら、どうすればいいの?
まだ何ひとつ伝えてもいないのに、困ったような彼の顔ばかりが浮かんだ。ミツルは視線を落とす。腰にある白い柄が目に入り、茉凜の言葉を思い出した。
今すぐ答えを出さなくていい。けれど、なかったことにはしなくていい。難しいからといって、最初から手放す理由を探さなくてもいいのだと、彼女は言ってくれた。
分かっている。消してしまいたいわけではない。彼とまた旅ができると思っただけで、こんなにも嬉しい。その気持ちまで嘘にしたくはなかった。ただ、彼に差し出すところまでは、まだ考えられない。
今は伯爵を救い、ロゼリーヌやリュシアンを守らなければならない。クリスたちも待っている。考えるべきことは、ほかにいくらでもある。
すべてが落ち着いてからでいい。そう思えば、今は聞かずに済む。そのときになれば本当に聞けるのかは、考えないことにした。
女王と王配として。精霊の巫女と、その騎士として。同じ方角を向き、背中を預けて戦える。それだけでも、彼の隣にいることができるのだから。
――いまは、これでいい。だってそうじゃない。これ以上を望むなんて、ただの我儘だ。彼と寄り添えるだけで、もう十分すぎるくらいだって分かってる。
ミツルはマウザーグレイルの柄に指を添えた。掌の下で、冷たさがゆっくりと薄れていく。胸の奥へそっと蓋を戻しても、明け方にはまた彼と旅に出られるという喜びまでは、静まってくれなかった。




