雷光の王配と黄昏の女王
窓の外には冬の曇天が広がり、冷たい空気がわずかな隙間からそっと忍び込んでくる。指先の温度がじりじり奪われるなか、ミツルの焦りは募るばかりだった。
――伯爵は今、どこでどうしているのだろう。ダビドたちはレオンとクリスに合流できたのかしら。みんな無事だといいのだけれど……。
思いに引かれ、気づけば聖剣白きマウザーグレイルの鞘をぎゅっと握っていた。鞘に刻まれた王家の紋章の、繊細な金細工がかすかに光っている。冷えた鞘の硬さが掌へ食い込み、浅い呼吸だけが部屋の静けさに時を刻んだ。
微かな足音が、霧のような思考を現実へ引き戻す。執務室の扉がそっと開き、侍従長コルデオが躊躇の色をわずかに浮かべて現れ、深く頭を垂れた。
「恐れ入ります、陛下。王都の動向を探らせておりました衛兵が、ただいま帰還にございます」
低い声の底に慎重さと焦りが混じる。ミツルは書簡の山から視線を外し、報告に耳を傾けた。
「王都の表立った変化は少のうございますが、民の間には陛下の御真意をお案じする声が広がっております。期待と不安がないまぜの様子にて……。一方で、宰相の私兵が道中に警戒網を敷き始めた由、複数より同様の証言が上がっております」
暖炉の火が小さく弾け、壁に落ちる影がわずかに揺れた。
「やはりというか、そういうことだったのですね……。伯爵の行方を探る者を取り締まるか、あるいはわたくしたちの動きを予測して、牽制しようとしているのかもしれません」
積み上がった書簡をめくるだけで、宰相派の視線や国に満ちた疑念、そして黒髪の巫女への蔑視が、層になって肩にのしかかる。羊皮紙のざらつきが指腹に引っかかり、墨の匂いがわずかに鼻へ昇る。
「主だった街道を彼らが押さえているのでしたら、北へ行くのは容易ではないでしょう」
そのとき、廊下の向こうから急ぎ足の気配が近づいた。ミツルはコルデオと目を合わせ、鞘を握ったまま身構えた。
足音が扉の前で止まり、控えめなノックが一度。ミツルは机上の手を静かに下ろして息を整える。コルデオが耳を傾けたまま小さく頷いた。
「ただいま、メービス。いるか?」
聞き覚えのある低い声に、ミツルの緊張がわずかに緩んだ。王配殿下ヴォルフ。その魂はヴィル・ブルフォード。深呼吸をひとつ置き、合図で扉を開かせる。
廊下の冷気とともに、銀の髪の騎士が姿を現した。襟元は少し乱れ、いつもの飄々とした様子の中にも疲れが見えた。
「失礼するぞ」
扉が閉まる音が静けさに沈み、ミツルを見た途端、彼の表情がやわらぐ。
「おかえりなさい。軍のほうは、どうでしたか?」
ヴォルフは厚手の手袋を外し、肩をぐるりと回した。油の香りを含んだ革が小さく鳴った。
「それなんだが、宰相付きの部隊編成を探ろうとしたら、上層部にのらりくらりとかわされた」
「やっぱり……」
「ああ、貴族派閥の根回しが思った以上に厄介だ。軍司令の上席は一枚岩ってわけでもないが、まあ、そうとう鼻持ちならん連中だ」
彼の口元に苦笑が浮かぶ。
「そうでしょうね……」
重たい空気が、言葉の隙間へゆっくり戻る。
「軍上層部は、ほぼ貴族出身者で固められていると言っていいでしょう。宰相とずぶずぶなのは、誰もが知っていることです」
「まあな。だが安心しろ。俺たちに肩入れしてくれる連中だっているぞ」
「ほんとうですか?」
ミツルは身をわずかに前へ寄せた。彼の瞳は淡く鋭い光を帯びた。
「現在の軍は、貴族派と平民派がくっきり二分されている。だからこそ平民派の協力が要になる。上から冷遇されていても、末端には骨のある士官が少なくない」
張りつめた胸が、ひと呼吸だけゆるむ。
「つまり、平民派の兵たちが味方になってくれるということですか?」
「そういうことだ。前々から根回しはしてある。特に下級士官や下士官は現場に強い。いざというとき頼れるし、実力主義に頷く手合いが多いからな」
数ヶ月前の軍の式典での光景が脳裏を掠める。彼が王配殿下として遠慮を抱えながらも、軍中枢へ少しずつ足場を築き始めた頃。貴族派の冷たい視線の中、平民出の指揮官たちが見せた率直なまなざし。
「銀翼騎士団を結成するにあたり、身分差を撤廃して選抜したのも、そのためだったのですね。生まれの垣根に囚われず、純粋に能力と人物を見て集めた……あの部隊は、あなたの理想を体現しているように思います」
その言葉に、彼は唇をかすかに曲げる。
「そんなに格好のつくものでもない。今の俺たちに必要だと判断したからだ。だから通した。宰相は銀翼を張り子の虎くらいに見てるが、外れも外れだ。あいつらは本当に強い。実力だけじゃない。腹の底から女王陛下に対する感謝と忠義がある。骨と芯の通った連中だ」
「陛下、殿下。お茶のご用意を整えて参ります」
コルデオが静かに辞し、扉が柔らかく閉まる。部屋に残ったのは、二人の呼吸だけ。窓の向こうで、黄昏が白い雲の縁を薄紅に染めはじめている。
「雷光と呼ばれたあなたが眼をかけた人材ですものね。わたくしも信じているわ」
昔の名に、彼は照れたように鼻を指でこすり、小さく「そいつは昔のあだ名だろ」とこぼす。ミツルも小さく笑った。
ヴィルが隣へ歩み、ミツルの肩越しに外を見た。そばから低い声が届く。
「ミツル……疲れていないか?」
その一言に、ミツルは背中から力が抜けそうになった。女王でいるほど弱音は遠ざかるのに、彼には心の内まで見透かされているようだった。
「疲れてないと言ったら嘘でしょう。いろいろ考えすぎて頭が痛いくらい。それは……あなたも同じじゃないの?」
「まあな。宰相派にも顔を出し、王配としてもあちこち応対だ。『女王の体調はどうだ』と探りを入れてくる連中を、適当にいなすのは骨が折れる」
彼の肩の骨が小さく鳴り、苦笑がこぼれる。ミツルの喉の奥でも、場違いな可笑しさがほどけた。
「ふふ、ご苦労さま。あなたがそうやって支えてくれるおかげで、わたしはまだ折れずにいられるのよ」
自分でも驚くほど素直な声が出た。彼は息をひとつ置き、ためらいなくミツルの手首を包んだ。
「お前が折れるなんて、想像できんのだがな。黒髪のグロンダイルは、どんな逆境でも歩みを止めない。そうじゃなかったか?」
「あら、あなた勘違いしてない? わたしは、そんなに頑丈にはできてないわよ。怖がりだし、ほんと情けないって思ってる。ただ……」
「ただ? 言ってみろ」
ミツルは現世の父、ユベル・グロンダイルの理不尽に抗う信念と、前世の叔父、虎洞寺健の力では敵わぬ相手に抗う背中を思い浮かべていた。
「道理の通らないことが大きな顔をしてまかり通るのが、我慢ならないだけよ。だったら、徹底的に抗いたい。どんなに惨めな思いをしてでも相手を欺き、行くべきと判断したら躊躇わず、たとえ無鉄砲だろうが前へ進みたい。ただ、それだけ。それだけなのよ……」
「なんだかんだ言いながら、そうやって突っ走るところ、俺は気に入っているぞ。それこそが、お前らしいやり方だ」
笑みのぬくもりが、指先の冷えを追い払う。
「ありがとう。……でも、今度ばかりは気が抜けない。もしわたしがしくじれば、この国が大きな混乱に陥るでしょう。ロゼリーヌさんやリュシアンはもちろん、銀翼の皆だって宰相の手で追い詰められてしまう。力任せでどうにかなる状況じゃないのよ」
言葉を重ねるほど、ミツルの不安は募った。宰相の影が城の隅々まで延びているようで、まだ気を緩めることはできない。
「わかってるさ。だからこそ、なんだって手を尽くす。それが、俺たちが交わした約束だ」
低い響きが、遠い旅路の記憶を呼ぶ。かつて彼の愛馬スレイドの鞍で、背に身を預けて越えた風。危険と隣り合わせでも、確かにあった自由。
「……わたし、この戦いに勝てるのかな……?」
ミツルは、手首を包む彼の手に目を落とした。
「伯爵を探し出し、ロゼリーヌ様やリュシアンを守って……この国に平穏をもたらせるのかな?」
「勝てるさ。いいや、意地でも勝たせてみせる。お前はひとりじゃない。銀翼がいる。俺もいる。宰相と手を組む貴族派がどれほど大きかろうが、なめてかかれば痛い目だ。まずは伯爵の所在だな。そこが鍵になる」
その確かな調子に、ミツルの不安がわずかに和らいだ。
「そうね……わたしたちが動くにも、ダビドたちからの情報が何より必要。いつになるか、果たして間に合うのか……ずっとそればかり考えてしまうの」
「信じろ。ダビドの班はとびきり優秀な連中だ。必ず掴んでくるさ」
「……そうね」
まつ毛を伏せたところで、廊下から早足の音が近づいてきた。二人だけのやわらかな空気が音もなくほどけ、彼の手がするりと離れる。ミツルは姿勢を正し、感情に蓋をした。ほどなく、コルデオが戻ってきた。
「陛下、殿下――失礼いたします。ただいま風耳鳥が到着いたしました。侍女長カーラがただいま受け取りに向かっております。筒は赤線二本、ダビド班の識別に相違ございません」
「ダビド……!」
胸の内で鼓動が一段跳ねる。さきほど名を呼んだばかりの仲間からの報せ――細いが確かな光。
ヴィルは短く息を吐き、コルデオへ視線を向けた。
「すぐにでも確かめたい。頼めるか?」
「畏まりました。拝受次第、直ちに陛下の御前へお通しいたします」
「ええ、お願いします」
ミツルは一歩踏み出し、彼の隣へ並んだ。恐れてばかりでは国を動かせない。支えてくれる者がいて、必要としてくれる者たちがいる。
窓の向こうには夕闇が迫り、紫の気配が空の端から滲みはじめている。ミツルはヴィルの隣で、便が届けられるのを待った。ここは壮麗であり、同時に多くの思惑が交錯する政治の要。ミツルはヴィルを見上げ、その手を取ってそっと力を込めた。




