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黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第二十章 雪路をゆく、ふたりの銀翼
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影と光の狭間で事態は動きだす――銀翼の騎士たち

 朝の薄い光が、ボコタ郊外の空き家を包んでいた。二階の部屋には暖炉の火が残り、古い板壁に薪の匂いが染みついている。


 クリスはベッドで身を起こそうとして、包帯の下にこもる熱に息を詰めた。右腕をわずかに動かしただけで、痛みが針の先のように皮膚の内側へ突き立つ。


「……っ」


 喉の奥で小さく空気が弾ける。冷たい外気を一度だけ深く吸い込み、肺の内側を冷やして痛みから意識をそらしていく。


 階下から、男たちの低い声が折り重なって聞こえてきた。ダビドの声、レオンの声、ほかの班員たちの声。言葉の細部までは聞き取れないが、軽い話ではなさそうだった。


 ――尋問が、始まっているのね……。


 昨夜の奇襲で捕らえた傭兵。あの男も“影の手”とつながっているのかもしれない。思い出すと、包帯の内側がじんわり熱を増した。ここにいていいのだろうか。そんな焦りが湧き、落ち着かない。


「レオン……無茶してないわよね?」


 声に出した瞬間、唇の冷たさに気づく。理屈ではわかっている。いま下へ降りても足手まといだ。医療担当のマリアには叱られるし、ダビドも「今は安静にしていろ」と命じていた。


 ――だけど……。


 軍人としての誇りが、黙って背を押した。女王陛下の密命で動く“銀翼”の一員――いつまでも寝ているわけにはいかない。けれど、理屈を越えて胸の奥を強く引くのは、やはり彼のことだった。昨夜、彼をかばって負った傷。その悔しさが、小骨のように胸にささる。


 ――あのときわたしがちゃんとしていれば、こんなことにはならなかった……。


 包帯の上からそっと押さえる。わずかな力でも痛みが弾け、額に薄い汗がにじむ。ここで無理をして悪化させるのが何より愚かだ――それでも、焦りは喉の奥で形を変えずに残った。


 薪の匂いがかすかに漂う。クリスは毛布を胸まで引き上げ、ゆっくり呼吸を整えた。視界の揺れがようやくおさまる。


 階下では、男たちの声がまだ続いていた。まぶたが重くなっても、痛みが強まると意識がはっきりする。その繰り返しだった。


「レオン……どうか、無茶だけはしないで……」


 祈るように一度だけ呟いて、クリスは目を閉じる。瞼の裏に、旅の光景と、雪の夜に彼をかばった自分の姿が交互に浮かび、胸のあたりで悔しさと、ひとにぎりの幸福がこすれ合った。あのときの「大丈夫か」という声を思い出すだけで、胸の熱がほんのわずか、やさしい方へ傾く。


◇◇◇


 空き家の一階では、ダビドたちが捕虜を囲んでいた。窓から薄い朝の光が差し、身じろぎする男の縄が硬く擦れた。


 中央に縛られたのは、昨夜の奇襲で捕らえた傭兵風の男。焦げ茶にくすんだ髪をぼさぼさに伸ばし、口元には薄い笑み。視線だけが落ち着きなく周囲を撫で、狡猾さの影がちらつく。


「さてと……」


 ダビドが短く息を吐いた。声は低く、梁に吸われて広がらない。周囲にはレオン、そして班員たちが数名。夜通しの見張りで疲労は濃いが、どの肩も沈んではいない。


「お前たちが何の目的で動いているのか……詳しく話してもらおうか」


 ダビドは男に視線を据えたまま、答えを待った。


 隣に立つレオンが一歩前へ出た。昨夜、クリスの右腕を貫いた矢を思い出し、指の関節に力がこもる。


「痛い目に遭いたくなければ、素直に全部吐くことだ。……わかってるよな?」


 声は抑えているのに、熱が奥でさざめいた。


 男は鼻で笑い、肩をすくめる。縄がこすれて短い音を立てた。


「へえ、あんたずいぶん元気そうだな。あの奥方さん、まだ生きてるんだろう? あーあ。一発であんたの頭を射抜いてりゃ、とっとと逃げられたのによ。とんだヘマをこいた」


 レオンの表情に瞬時に険が差す。


「貴様……」


 踏み出しかけた靴の下で、床板が短く鳴った。


「やめろ、レオン」


 ダビドの制止は短く、鋭い。レオンは拳を握ったまま息を整え、踏みとどまった。今は、男の知っていることを聞き出すのが先だ。


「そういきりなさんな。俺は別に影の手って連中に忠義立てしてるわけじゃねぇしな」


 男が開き直るように口を開く。乾いた唇の端に、揶揄だけが薄く残る。


「ほう。なら話せ。お前の身の安全は、俺たちが保障する。だが、隠し立てするようであれば、わかっているな?」


 傍らの班員が、男を縛る縄の結び目を確かめた。


「けっ、俺はただ、金で雇われただけだ。隠すほどのこともねぇ。影の手なんざ、俺みたいな下っ端の命なんて端金より軽く見てる。要するに――使い捨ての駒ってわけさ」


 淡々とした口ぶりの奥で、諦観が石のように重い。周囲の警戒は逆に強まった。


 影の手は、王都でも噂にのぼる名だ。暗殺と扇動で名を上げ、十年前の東部反乱にも影を落としたと囁かれている。


「……聞かせろ。知っていること、なにもかもすべてだ」


 ダビドの声が、梁の下でまっすぐ落ちる。


 男は唇を歪め、周囲を見回した。


「連中が言ってたのはこうだ――『宰相閣下とレズンブール伯爵を探ってる行商人夫婦を捕まえろ』。なんでも、そいつらが女王の密命で動いてるって話でな。詳しくは知らねぇが、あんたらがここにいるってことは……まあ、当たりなんだろ?」


 男の乾いた笑いに、レオンは顔をしかめた。


「それで? その行商人夫婦を捕まえて、いったい何をするつもりだったんだ?」


 男は肩を揺らし、唇の端を上げた。


「へっ、だから詳しい事までは教えられちゃいねぇって。ま、女王が伯爵誘拐を指示したって筋書きで、お前らをハメる算段だったんじゃねえか? 聞いた話じゃ、あのメービスとかいう女王様は、リュシアンとかいうガキが王太子に担がれるのが、よっぽど癪に障るらしいな。救世主だの精霊の巫女だのと持ち上げられても、裏返しゃ権力欲にかられた『暴虐女王』――そんな噂が、そこら中で囁かれてるそうだぜ」


 空気が一段冷える。レオンの奥歯がきしむ音が、自分でわかるほど近くにあった。ダビドは険しい目のまま、問いを重ねる。


「レズンブール伯爵は……今、どうなっている? 生きているのか?」


「ああ、そういや、生きてるって話だ。私兵を率いてる偉いさんが言ってたぜ。『まだ利用価値がある』ってな。高級な食材や嗜好品を取り寄せて、ずいぶん優雅に暮らしてるって噂だぜ」


「……囚われの身で、そんな待遇を受けているのか?」


 誰かの驚きが短く漏れ、縄の軋みがその上を通る。


「そうそう、まったく妙な話だろ。監禁ってよりは……そうだな、軟禁ってやつか。ま、そんなこたぁ俺の知ったこっちゃねぇが。一度だけ、その買い付けに付き合わされたことがあってな。ボコタの外れの古い屋敷に荷を運んだんだ。宰相の私兵がそこら中に詰めてやがって、物々しいったらありゃしねぇ。俺は門の先で荷を渡しただけだが……中は、見ねぇほうが良さそうな空気だったぜ」


 周囲がわずかにざわつく。ダビドはその波を掌一つで沈めた。


「……もし伯爵が本当にそこに拘束されているなら、警備は相当厳しいはずだ」


 レオンは喉の乾きを飲み込む。


「本当に伯爵が無事なら、救出の機会も望めるだろう。だが、罠の線も十分あり得る。俺たちを誘い出して一網打尽にする。そういう仕掛けかもしれない」


 男は鼻で笑い、縄の結び目をわずかに揺らす。


「影の手の連中ってのは、何を考えてるのかまるで読めねえ、気味の悪い連中だ。罠を何重にも仕込むのが常套手段ってやつだろうよ。今回、あんたらを襲ったときも、同じ筋書きさ」


 情報屋とのやり取りから襲撃に至るまでのことが、レオンの脳裏に蘇った。


「まさか……あの街で近づいてきた情報屋。あいつも含めて、まるごと仕込みだったっていうのか……?」


「そうさ。あんたらを誘い込む第一段階が、そいつとの接触だ。もしそこで仕留め損ねりゃ、第二段階を用意して潰す。今回の仕掛けは、その通りに進んだってわけだ。ま、俺が受けた仕事は、旦那の方を片付けろってだけだがな。連中、端から奥さんの方を捕らえるのが目的だったんだろう。へっへっへっ……」


「てめぇ……つまり、俺たちは最初から罠の中で踊らされてたってことか」


 ダビドは男の表情をじっと見やり、やがて顎で合図を送って取り調べを一旦切り上げた。班員たちは男の拘束を強め、物置の隅へ移す。ダビドとレオンたちは状況を整理するため、外へ出た。冷気がひと息で肺へ降りる。


◇◇◇


 朝の光を受けた雪面が、淡く青を返していた。家の裏手で、ダビドたちは顔を寄せ合う。革手袋の指先には、まだ冷たさが残っている。


「どう思う?」


 ダビドの声は小さく、雪に吸われて短く切れる。


 冷静沈着な斥候、シモンが顎を引いて答える。額の汗は冷えて、筋のように固まっていた。


「伯爵が生きているというのはありがたいことですが……宰相側が罠を仕掛けているのかもしれません。わざと情報を流して俺たちを一網打尽にするつもりじゃないかと……」


 続いて、シモンの相棒であるブルーノが、周囲の気配を探るように目を巡らせる。


「実際、周辺を偵察してた仲間が言ってましたぜ。廃屋敷に宰相の私兵がぞろぞろ警護に立ってたって。ただ、中までは確認できなかったんで、伯爵が本当にいるかは分からねぇ。……無闇に突っ込んでハズレを引くようじゃ、たまったもんじゃない」


 レオンは腕を組んだ。指先は白くなったままだった。


「仮に伯爵がそこにいたとしても……待ち伏せを喰らうだけかもしれない。そんなことになったら、最悪じゃないか」


 ダビドは手袋をはめ直し、遠くの屋並の影を一瞥する。瞳に、迷いと並んで決意の光が宿った。


「だが、逆に言えばこの瞬間タイミングを逃せば機会は二度と来ないかもしれない。先手を取って混乱を作れば、伯爵を救出する機会チャンスは十分にある。問題は、女王陛下の正式な許可を待たずに動くべきか否か、だな」


 雪明かりに照らされながら、レオンは小さく頷いた。


「なら、やりましょう」


「焦るな、レオン。まずは最優先で陛下に報せを送る。このまま伯爵を放置すれば、影の手が好き勝手に立ち回るだろう。宰相側もそれに乗じて、陛下を追い落とす策を加速させるはずだ。それを黙って見過ごすことなど、できはしない」


「当然です……」


「いずれにしても、偵察を強化して状況を見極めるべきだ。軽はずみな行動は禁物だが、手をこまねいても仕方ない。だが、いざとなれば……わかっているな?」


「はい……。ですが、この件は、クリスには伏せておいてください。今はあまり刺激したくありません。なにより、彼女が無茶をしないか、それが気がかりで……」


 レオンの声は細く震え、ぎゅっと結んだ拳に不安がのり移っている。ダビドの目がわずかに見開かれ、すぐ納得の色に和らぐ。


「お前が彼女を想う気持ちはわかる。……あれだけの怪我をして、なお自分を責めるような、真っすぐすぎる子だからな。下手をすれば、痛みを押してでも前線に出ようとするだろう」


 風が一度だけ雪面を撫で、裾の裏にひやりとした冷たさが忍び込む。


「だからこそ……万が一の事態になったときは、お前がクリスを連れて北へ退いてくれ」


「それって、俺が戦力外だと……?」


「違う。お前は十分強いし、頼りにもしている。ただ、最悪の展開を考えるとな……。もし俺たちが失敗したら、先行する本隊へ連絡してもらいたい」


「言いたい事はわかります。けど……」


「それと、彼女を守れるのはお前しかいない。あいつは人当たりは柔らかいが、本音を打ち明けられる相手は限られている。その一人がお前だ。……違うか?」


 レオンは視線を落とし、頬の内側に広がる熱をやり過ごした。


「……そうかもしれません。確かに、俺はあいつの仲間以上の存在でありたい。誰よりも、大切に思ってます……」


 言い終えた語尾が雪に吸い込まれ、短い沈黙が足もとに降り積もる。ダビドは無言のまま、レオンの背を軽く叩いた。


「……なら、頼んだぞ。いまは焦らず状況を探り、機会を待つんだ。伯爵救出の実行がどう転ぶかはまだ読めないが、事態が急転しても慌てずに済むよう、備えだけは整えておけ」


「了解しました」


 返事をしても、レオンの握った手には力が残り、息遣いも短く震えていた。冷たい空気が鼻を抜ける。


◇◇◇


 二階の部屋で、クリスは浅い眠りを繰り返していた。階段板の軋む音が近づくと、ゆっくりまぶたを上げた。


「ごめん、起こしちゃったか……?」


 レオンの声は、いつもより柔らかかった。


 上体を起こそうとした瞬間、痛みがきゅっと走る。レオンが駆け寄り、肩を支える。指先の冷えが、痛みの輪郭をひとつ削る。


「無理しなくていい。……まだ痛むんだろ?」


「痛いけど……でも、あなたが来たのなら、きちんと顔を見て話したいから」


 笑みを作ろうとする頬がまだこわばる。レオンはベッドの脇に腰を下ろし、肩の下へそっと手を添えた。


「……それで、下で何かあったの? さっきから声が聞こえてたけど」


 その問いに、レオンは一瞬だけ息を詰めた。すぐには答えず、言葉を選ぶように口を開く。


「大したことじゃない。ただ、捕まえた男が少し口を滑らせた。……例の影の手が宰相と繋がっているのは間違いない。伯爵も、どうやらどこかに軟禁されているようだ」


「……じゃあ、伯爵は生きているの?」


「たぶんな。詳しいことまでは、俺もまだ聞かされてない」


 腰の鞘に触れていたレオンの指が離れ、肩からわずかに力が抜けた。彼は軽く息を吐き、それ以上は語らずに話題を変えた。


「クリス。……お前が傷を負ったのは、俺を庇ったせいだ。俺は、あのとき何もできなかった。だから責任がある。今度こそ、俺がお前を守る。だからもう無茶はしてほしくないんだ」


 クリスは小さく首を振る。胸の内で熱と冷たさが擦れ合った。


「あなたが悪いわけじゃない。あれはわたしが油断して、周りに気を配れてなかったせいよ。それに……」


 続く言葉は喉で絡まり、沈黙が肩口で揺れる。一緒に戦いたい。けれど、彼の瞳を見れば、その欲はおとなしく座り直す。


「お前は俺にとって……なにより特別なんだ。さっき、ふたりで言い合ったばかりじゃないか。違うか?」


 耳の奥が熱くなり、答えの語尾が自分でも見つけづらい。


「……わたしだって、あなたを……」


 言いかけた瞬間、痛みがきゅっと跳ね、短いうめきが零れた。レオンが慌てて肩を支える。


「おい、大丈夫か?」


「ごめんなさい、急に痛みが……。でも、気にしないで。わたし、すぐに良くなるから……」


 無理に笑えば、彼は苦い顔で「無理するなよ」と返す。その声の温度に、胸の波が少しだけ静まった。


 外では木枠を渡る風が薄く鳴り、戸縁の隙間を粉雪が一枚すべり落ちた。


「……そうか。俺はこれから見回りに出る。おまえは、しっかり休んでくれ。それと、陛下には風耳鳥ふうじちょうを飛ばす手はずになってる」


「ほんとう?」


「ああ。陛下が報せを受け取れば、きっと流れは変わる。詳しいことは、しかるべき時に兄貴から、いやダビドさんから話があるはずだ」


「わかったわ……」


「……クリス。お前が元気を取り戻してくれないと、俺落ち着かないんだ」


「レオン……」


 不満と無力感は喉を通る前に丸くなる。それでも、やさしさは痛いほど伝わってくる。クリスは「うん」と小さく答えた。


 レオンはほっと息を吐き、毛布の縁を整える。指先がかすめた途端、胸の奥で音のない火花が散った。


「心配するなって。クリスを心配させるようなことはしない。約束する」


 指先の冷えがゆっくり戻り、胸の張りつめが少しほどけた。


「ええ、信じてるわ。あなたを……」


 部屋には、短い安らぎが残った。


◇◇◇


 外の空気が動き始め、町の輪郭に人影が滲むころ。ダビドたちは廃屋敷への偵察部隊を編成し、王都への伝書の仕度を進めていた。


 捕虜の傭兵は「どうせ殺すなら、さっさとしろよ」と、投げやりな態度を崩さなかった。


 屋敷の警護については、男の供述と班員の報告が重なっている。それでも、伯爵を見た者はいない。レオンはそのことを確かめ直した。陛下の立場を危うくする企てを阻むためにも、手掛かりを見極めなくてはならない。


風耳鳥ふうじちょうには、最優先事項を記した密書を括り付ける。王都まで届くのに……そうだな、早くても二日はかかるだろう。そのあいだ、こちらは不用意に動かず、偵察に徹して情報を蓄積する。大きな動きが見えたら、すぐに共有しろ」


「了解!」


 返事の声が雪面に反射して、乾いた音とともに跳ね返る。レオンも短く頷いた。


「準備はいいか」


 ダビドはレオンの肩を軽く叩き、目尻にわずかな笑みを浮かべる。


「みんな、くれぐれも無茶はするなよ」


 そのあと、声をやや低めて言葉を継ぐ。


「レオン、今はまだ全貌が見えない。くれぐれも慎重にな。……それと、重ね重ね、クリスのことを頼んだぞ」


「もちろんです。彼女を守るのが……俺にとっての、最優先事項です」


 革手袋の継ぎ目が小さく鳴り、合意の気配だけが雪に沈む。


 ダビドは頷き、配置を割り振っていった。誰が偵察へ向かい、誰が家に残って捕虜を管理し、誰がクリスの看護に就くのか。指示を受けた者から、持ち場へ向かう準備を始める。


「俺たちは女王陛下に仕える騎士だ。その誇りを忘れるな。だが、命を軽んじろという意味ではない。最良の選択で最善を尽くすこと。それが銀翼の流儀だ」


 短い訓示が胸骨の内側に落ち、じわりと熱をつくる。「よし」と誰かが低く言い、足音が雪を刻み始めた。


 朝の光はまだ薄く、遠くから街人の話し声や鶏の鳴き声が届く。東の空は鉛色に曇り、家の入口には灯が残っていた。


 風耳鳥ふうじちょうの脚には小さな通信筒が取り付けられ、最優先事項を記した細長い通信紙が、その中に収められていた。


「行け、陛下の元へ」


 ダビドの合図を受け、風耳鳥ふうじちょうが掌から跳ね上がる。細い脚が掌を離れ、羽音が凍てた空気に響いた。鳥はたちまち小さな点となり、真冬の空へ消えていった。


 ダビドは、王都と反対の方角――ボコタの町の先、例の廃屋敷があるはずの位置へと視線を移す。いずれ向かわねばならないと、レオンは思った。伯爵が生きているなら救い出し、宰相と影の手の策を断ち切るために。


◇◇◇


 二階では、クリスがそっと瞼を上げた。階下から伝わる物音に、外の羽音が重なる。仲間たちが動き始めたらしい。彼女は布団の中で左手をきゅっと握り、痛む右腕を動かさないようにした。


 ――今は耐えるしかない。レオンが……きっとうまくやってくれる。わたしも、そのときが来たら――。


 先ほどの「特別だ」という言葉を思い出す。傷はまだ、ときに涙がにじむほど痛んだ。それでも、彼をかばったことと、彼が自分を大切に思ってくれることが胸の中で重なっていた。痛みの中にも幸福を感じる自分がいる。


 王都へ報せが届くまでに、何が起こるのかはわからない。自分も役割を果たせるように、今は休まなくてはならない。


 朝の光が窓辺へ広がった。クリスは毛布の中で静かに息を吐く。女王陛下の意志を受け、仲間とともに伯爵を救い出したい。その思いを胸に、微かな笑みを浮かべて目を閉じた。


 遠くで雪を踏む足音がする。鳥がさえずり、古い板が小さく軋んだ。クリスは目を閉じたまま、その音を聞いていた。

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