影と光の狭間で事態は動きだす――銀翼の騎士たち
朝の薄い光が、ボコタ郊外の空き家を包んでいた。二階の部屋には暖炉の火が残り、古い板壁に薪の匂いが染みついている。
クリスはベッドで身を起こそうとして、包帯の下にこもる熱に息を詰めた。右腕をわずかに動かしただけで、痛みが針の先のように皮膚の内側へ突き立つ。
「……っ」
喉の奥で小さく空気が弾ける。冷たい外気を一度だけ深く吸い込み、肺の内側を冷やして痛みから意識をそらしていく。
階下から、男たちの低い声が折り重なって聞こえてきた。ダビドの声、レオンの声、ほかの班員たちの声。言葉の細部までは聞き取れないが、軽い話ではなさそうだった。
――尋問が、始まっているのね……。
昨夜の奇襲で捕らえた傭兵。あの男も“影の手”とつながっているのかもしれない。思い出すと、包帯の内側がじんわり熱を増した。ここにいていいのだろうか。そんな焦りが湧き、落ち着かない。
「レオン……無茶してないわよね?」
声に出した瞬間、唇の冷たさに気づく。理屈ではわかっている。いま下へ降りても足手まといだ。医療担当のマリアには叱られるし、ダビドも「今は安静にしていろ」と命じていた。
――だけど……。
軍人としての誇りが、黙って背を押した。女王陛下の密命で動く“銀翼”の一員――いつまでも寝ているわけにはいかない。けれど、理屈を越えて胸の奥を強く引くのは、やはり彼のことだった。昨夜、彼をかばって負った傷。その悔しさが、小骨のように胸にささる。
――あのときわたしがちゃんとしていれば、こんなことにはならなかった……。
包帯の上からそっと押さえる。わずかな力でも痛みが弾け、額に薄い汗がにじむ。ここで無理をして悪化させるのが何より愚かだ――それでも、焦りは喉の奥で形を変えずに残った。
薪の匂いがかすかに漂う。クリスは毛布を胸まで引き上げ、ゆっくり呼吸を整えた。視界の揺れがようやくおさまる。
階下では、男たちの声がまだ続いていた。まぶたが重くなっても、痛みが強まると意識がはっきりする。その繰り返しだった。
「レオン……どうか、無茶だけはしないで……」
祈るように一度だけ呟いて、クリスは目を閉じる。瞼の裏に、旅の光景と、雪の夜に彼をかばった自分の姿が交互に浮かび、胸のあたりで悔しさと、ひとにぎりの幸福がこすれ合った。あのときの「大丈夫か」という声を思い出すだけで、胸の熱がほんのわずか、やさしい方へ傾く。
◇◇◇
空き家の一階では、ダビドたちが捕虜を囲んでいた。窓から薄い朝の光が差し、身じろぎする男の縄が硬く擦れた。
中央に縛られたのは、昨夜の奇襲で捕らえた傭兵風の男。焦げ茶にくすんだ髪をぼさぼさに伸ばし、口元には薄い笑み。視線だけが落ち着きなく周囲を撫で、狡猾さの影がちらつく。
「さてと……」
ダビドが短く息を吐いた。声は低く、梁に吸われて広がらない。周囲にはレオン、そして班員たちが数名。夜通しの見張りで疲労は濃いが、どの肩も沈んではいない。
「お前たちが何の目的で動いているのか……詳しく話してもらおうか」
ダビドは男に視線を据えたまま、答えを待った。
隣に立つレオンが一歩前へ出た。昨夜、クリスの右腕を貫いた矢を思い出し、指の関節に力がこもる。
「痛い目に遭いたくなければ、素直に全部吐くことだ。……わかってるよな?」
声は抑えているのに、熱が奥でさざめいた。
男は鼻で笑い、肩をすくめる。縄がこすれて短い音を立てた。
「へえ、あんたずいぶん元気そうだな。あの奥方さん、まだ生きてるんだろう? あーあ。一発であんたの頭を射抜いてりゃ、とっとと逃げられたのによ。とんだヘマをこいた」
レオンの表情に瞬時に険が差す。
「貴様……」
踏み出しかけた靴の下で、床板が短く鳴った。
「やめろ、レオン」
ダビドの制止は短く、鋭い。レオンは拳を握ったまま息を整え、踏みとどまった。今は、男の知っていることを聞き出すのが先だ。
「そういきりなさんな。俺は別に影の手って連中に忠義立てしてるわけじゃねぇしな」
男が開き直るように口を開く。乾いた唇の端に、揶揄だけが薄く残る。
「ほう。なら話せ。お前の身の安全は、俺たちが保障する。だが、隠し立てするようであれば、わかっているな?」
傍らの班員が、男を縛る縄の結び目を確かめた。
「けっ、俺はただ、金で雇われただけだ。隠すほどのこともねぇ。影の手なんざ、俺みたいな下っ端の命なんて端金より軽く見てる。要するに――使い捨ての駒ってわけさ」
淡々とした口ぶりの奥で、諦観が石のように重い。周囲の警戒は逆に強まった。
影の手は、王都でも噂にのぼる名だ。暗殺と扇動で名を上げ、十年前の東部反乱にも影を落としたと囁かれている。
「……聞かせろ。知っていること、なにもかもすべてだ」
ダビドの声が、梁の下でまっすぐ落ちる。
男は唇を歪め、周囲を見回した。
「連中が言ってたのはこうだ――『宰相閣下とレズンブール伯爵を探ってる行商人夫婦を捕まえろ』。なんでも、そいつらが女王の密命で動いてるって話でな。詳しくは知らねぇが、あんたらがここにいるってことは……まあ、当たりなんだろ?」
男の乾いた笑いに、レオンは顔をしかめた。
「それで? その行商人夫婦を捕まえて、いったい何をするつもりだったんだ?」
男は肩を揺らし、唇の端を上げた。
「へっ、だから詳しい事までは教えられちゃいねぇって。ま、女王が伯爵誘拐を指示したって筋書きで、お前らをハメる算段だったんじゃねえか? 聞いた話じゃ、あのメービスとかいう女王様は、リュシアンとかいうガキが王太子に担がれるのが、よっぽど癪に障るらしいな。救世主だの精霊の巫女だのと持ち上げられても、裏返しゃ権力欲にかられた『暴虐女王』――そんな噂が、そこら中で囁かれてるそうだぜ」
空気が一段冷える。レオンの奥歯がきしむ音が、自分でわかるほど近くにあった。ダビドは険しい目のまま、問いを重ねる。
「レズンブール伯爵は……今、どうなっている? 生きているのか?」
「ああ、そういや、生きてるって話だ。私兵を率いてる偉いさんが言ってたぜ。『まだ利用価値がある』ってな。高級な食材や嗜好品を取り寄せて、ずいぶん優雅に暮らしてるって噂だぜ」
「……囚われの身で、そんな待遇を受けているのか?」
誰かの驚きが短く漏れ、縄の軋みがその上を通る。
「そうそう、まったく妙な話だろ。監禁ってよりは……そうだな、軟禁ってやつか。ま、そんなこたぁ俺の知ったこっちゃねぇが。一度だけ、その買い付けに付き合わされたことがあってな。ボコタの外れの古い屋敷に荷を運んだんだ。宰相の私兵がそこら中に詰めてやがって、物々しいったらありゃしねぇ。俺は門の先で荷を渡しただけだが……中は、見ねぇほうが良さそうな空気だったぜ」
周囲がわずかにざわつく。ダビドはその波を掌一つで沈めた。
「……もし伯爵が本当にそこに拘束されているなら、警備は相当厳しいはずだ」
レオンは喉の乾きを飲み込む。
「本当に伯爵が無事なら、救出の機会も望めるだろう。だが、罠の線も十分あり得る。俺たちを誘い出して一網打尽にする。そういう仕掛けかもしれない」
男は鼻で笑い、縄の結び目をわずかに揺らす。
「影の手の連中ってのは、何を考えてるのかまるで読めねえ、気味の悪い連中だ。罠を何重にも仕込むのが常套手段ってやつだろうよ。今回、あんたらを襲ったときも、同じ筋書きさ」
情報屋とのやり取りから襲撃に至るまでのことが、レオンの脳裏に蘇った。
「まさか……あの街で近づいてきた情報屋。あいつも含めて、まるごと仕込みだったっていうのか……?」
「そうさ。あんたらを誘い込む第一段階が、そいつとの接触だ。もしそこで仕留め損ねりゃ、第二段階を用意して潰す。今回の仕掛けは、その通りに進んだってわけだ。ま、俺が受けた仕事は、旦那の方を片付けろってだけだがな。連中、端から奥さんの方を捕らえるのが目的だったんだろう。へっへっへっ……」
「てめぇ……つまり、俺たちは最初から罠の中で踊らされてたってことか」
ダビドは男の表情をじっと見やり、やがて顎で合図を送って取り調べを一旦切り上げた。班員たちは男の拘束を強め、物置の隅へ移す。ダビドとレオンたちは状況を整理するため、外へ出た。冷気がひと息で肺へ降りる。
◇◇◇
朝の光を受けた雪面が、淡く青を返していた。家の裏手で、ダビドたちは顔を寄せ合う。革手袋の指先には、まだ冷たさが残っている。
「どう思う?」
ダビドの声は小さく、雪に吸われて短く切れる。
冷静沈着な斥候、シモンが顎を引いて答える。額の汗は冷えて、筋のように固まっていた。
「伯爵が生きているというのはありがたいことですが……宰相側が罠を仕掛けているのかもしれません。わざと情報を流して俺たちを一網打尽にするつもりじゃないかと……」
続いて、シモンの相棒であるブルーノが、周囲の気配を探るように目を巡らせる。
「実際、周辺を偵察してた仲間が言ってましたぜ。廃屋敷に宰相の私兵がぞろぞろ警護に立ってたって。ただ、中までは確認できなかったんで、伯爵が本当にいるかは分からねぇ。……無闇に突っ込んでハズレを引くようじゃ、たまったもんじゃない」
レオンは腕を組んだ。指先は白くなったままだった。
「仮に伯爵がそこにいたとしても……待ち伏せを喰らうだけかもしれない。そんなことになったら、最悪じゃないか」
ダビドは手袋をはめ直し、遠くの屋並の影を一瞥する。瞳に、迷いと並んで決意の光が宿った。
「だが、逆に言えばこの瞬間を逃せば機会は二度と来ないかもしれない。先手を取って混乱を作れば、伯爵を救出する機会は十分にある。問題は、女王陛下の正式な許可を待たずに動くべきか否か、だな」
雪明かりに照らされながら、レオンは小さく頷いた。
「なら、やりましょう」
「焦るな、レオン。まずは最優先で陛下に報せを送る。このまま伯爵を放置すれば、影の手が好き勝手に立ち回るだろう。宰相側もそれに乗じて、陛下を追い落とす策を加速させるはずだ。それを黙って見過ごすことなど、できはしない」
「当然です……」
「いずれにしても、偵察を強化して状況を見極めるべきだ。軽はずみな行動は禁物だが、手をこまねいても仕方ない。だが、いざとなれば……わかっているな?」
「はい……。ですが、この件は、クリスには伏せておいてください。今はあまり刺激したくありません。なにより、彼女が無茶をしないか、それが気がかりで……」
レオンの声は細く震え、ぎゅっと結んだ拳に不安がのり移っている。ダビドの目がわずかに見開かれ、すぐ納得の色に和らぐ。
「お前が彼女を想う気持ちはわかる。……あれだけの怪我をして、なお自分を責めるような、真っすぐすぎる子だからな。下手をすれば、痛みを押してでも前線に出ようとするだろう」
風が一度だけ雪面を撫で、裾の裏にひやりとした冷たさが忍び込む。
「だからこそ……万が一の事態になったときは、お前がクリスを連れて北へ退いてくれ」
「それって、俺が戦力外だと……?」
「違う。お前は十分強いし、頼りにもしている。ただ、最悪の展開を考えるとな……。もし俺たちが失敗したら、先行する本隊へ連絡してもらいたい」
「言いたい事はわかります。けど……」
「それと、彼女を守れるのはお前しかいない。あいつは人当たりは柔らかいが、本音を打ち明けられる相手は限られている。その一人がお前だ。……違うか?」
レオンは視線を落とし、頬の内側に広がる熱をやり過ごした。
「……そうかもしれません。確かに、俺はあいつの仲間以上の存在でありたい。誰よりも、大切に思ってます……」
言い終えた語尾が雪に吸い込まれ、短い沈黙が足もとに降り積もる。ダビドは無言のまま、レオンの背を軽く叩いた。
「……なら、頼んだぞ。いまは焦らず状況を探り、機会を待つんだ。伯爵救出の実行がどう転ぶかはまだ読めないが、事態が急転しても慌てずに済むよう、備えだけは整えておけ」
「了解しました」
返事をしても、レオンの握った手には力が残り、息遣いも短く震えていた。冷たい空気が鼻を抜ける。
◇◇◇
二階の部屋で、クリスは浅い眠りを繰り返していた。階段板の軋む音が近づくと、ゆっくりまぶたを上げた。
「ごめん、起こしちゃったか……?」
レオンの声は、いつもより柔らかかった。
上体を起こそうとした瞬間、痛みがきゅっと走る。レオンが駆け寄り、肩を支える。指先の冷えが、痛みの輪郭をひとつ削る。
「無理しなくていい。……まだ痛むんだろ?」
「痛いけど……でも、あなたが来たのなら、きちんと顔を見て話したいから」
笑みを作ろうとする頬がまだこわばる。レオンはベッドの脇に腰を下ろし、肩の下へそっと手を添えた。
「……それで、下で何かあったの? さっきから声が聞こえてたけど」
その問いに、レオンは一瞬だけ息を詰めた。すぐには答えず、言葉を選ぶように口を開く。
「大したことじゃない。ただ、捕まえた男が少し口を滑らせた。……例の影の手が宰相と繋がっているのは間違いない。伯爵も、どうやらどこかに軟禁されているようだ」
「……じゃあ、伯爵は生きているの?」
「たぶんな。詳しいことまでは、俺もまだ聞かされてない」
腰の鞘に触れていたレオンの指が離れ、肩からわずかに力が抜けた。彼は軽く息を吐き、それ以上は語らずに話題を変えた。
「クリス。……お前が傷を負ったのは、俺を庇ったせいだ。俺は、あのとき何もできなかった。だから責任がある。今度こそ、俺がお前を守る。だからもう無茶はしてほしくないんだ」
クリスは小さく首を振る。胸の内で熱と冷たさが擦れ合った。
「あなたが悪いわけじゃない。あれはわたしが油断して、周りに気を配れてなかったせいよ。それに……」
続く言葉は喉で絡まり、沈黙が肩口で揺れる。一緒に戦いたい。けれど、彼の瞳を見れば、その欲はおとなしく座り直す。
「お前は俺にとって……なにより特別なんだ。さっき、ふたりで言い合ったばかりじゃないか。違うか?」
耳の奥が熱くなり、答えの語尾が自分でも見つけづらい。
「……わたしだって、あなたを……」
言いかけた瞬間、痛みがきゅっと跳ね、短いうめきが零れた。レオンが慌てて肩を支える。
「おい、大丈夫か?」
「ごめんなさい、急に痛みが……。でも、気にしないで。わたし、すぐに良くなるから……」
無理に笑えば、彼は苦い顔で「無理するなよ」と返す。その声の温度に、胸の波が少しだけ静まった。
外では木枠を渡る風が薄く鳴り、戸縁の隙間を粉雪が一枚すべり落ちた。
「……そうか。俺はこれから見回りに出る。おまえは、しっかり休んでくれ。それと、陛下には風耳鳥を飛ばす手はずになってる」
「ほんとう?」
「ああ。陛下が報せを受け取れば、きっと流れは変わる。詳しいことは、しかるべき時に兄貴から、いやダビドさんから話があるはずだ」
「わかったわ……」
「……クリス。お前が元気を取り戻してくれないと、俺落ち着かないんだ」
「レオン……」
不満と無力感は喉を通る前に丸くなる。それでも、やさしさは痛いほど伝わってくる。クリスは「うん」と小さく答えた。
レオンはほっと息を吐き、毛布の縁を整える。指先がかすめた途端、胸の奥で音のない火花が散った。
「心配するなって。クリスを心配させるようなことはしない。約束する」
指先の冷えがゆっくり戻り、胸の張りつめが少しほどけた。
「ええ、信じてるわ。あなたを……」
部屋には、短い安らぎが残った。
◇◇◇
外の空気が動き始め、町の輪郭に人影が滲むころ。ダビドたちは廃屋敷への偵察部隊を編成し、王都への伝書の仕度を進めていた。
捕虜の傭兵は「どうせ殺すなら、さっさとしろよ」と、投げやりな態度を崩さなかった。
屋敷の警護については、男の供述と班員の報告が重なっている。それでも、伯爵を見た者はいない。レオンはそのことを確かめ直した。陛下の立場を危うくする企てを阻むためにも、手掛かりを見極めなくてはならない。
「風耳鳥には、最優先事項を記した密書を括り付ける。王都まで届くのに……そうだな、早くても二日はかかるだろう。そのあいだ、こちらは不用意に動かず、偵察に徹して情報を蓄積する。大きな動きが見えたら、すぐに共有しろ」
「了解!」
返事の声が雪面に反射して、乾いた音とともに跳ね返る。レオンも短く頷いた。
「準備はいいか」
ダビドはレオンの肩を軽く叩き、目尻にわずかな笑みを浮かべる。
「みんな、くれぐれも無茶はするなよ」
そのあと、声をやや低めて言葉を継ぐ。
「レオン、今はまだ全貌が見えない。くれぐれも慎重にな。……それと、重ね重ね、クリスのことを頼んだぞ」
「もちろんです。彼女を守るのが……俺にとっての、最優先事項です」
革手袋の継ぎ目が小さく鳴り、合意の気配だけが雪に沈む。
ダビドは頷き、配置を割り振っていった。誰が偵察へ向かい、誰が家に残って捕虜を管理し、誰がクリスの看護に就くのか。指示を受けた者から、持ち場へ向かう準備を始める。
「俺たちは女王陛下に仕える騎士だ。その誇りを忘れるな。だが、命を軽んじろという意味ではない。最良の選択で最善を尽くすこと。それが銀翼の流儀だ」
短い訓示が胸骨の内側に落ち、じわりと熱をつくる。「よし」と誰かが低く言い、足音が雪を刻み始めた。
朝の光はまだ薄く、遠くから街人の話し声や鶏の鳴き声が届く。東の空は鉛色に曇り、家の入口には灯が残っていた。
風耳鳥の脚には小さな通信筒が取り付けられ、最優先事項を記した細長い通信紙が、その中に収められていた。
「行け、陛下の元へ」
ダビドの合図を受け、風耳鳥が掌から跳ね上がる。細い脚が掌を離れ、羽音が凍てた空気に響いた。鳥はたちまち小さな点となり、真冬の空へ消えていった。
ダビドは、王都と反対の方角――ボコタの町の先、例の廃屋敷があるはずの位置へと視線を移す。いずれ向かわねばならないと、レオンは思った。伯爵が生きているなら救い出し、宰相と影の手の策を断ち切るために。
◇◇◇
二階では、クリスがそっと瞼を上げた。階下から伝わる物音に、外の羽音が重なる。仲間たちが動き始めたらしい。彼女は布団の中で左手をきゅっと握り、痛む右腕を動かさないようにした。
――今は耐えるしかない。レオンが……きっとうまくやってくれる。わたしも、そのときが来たら――。
先ほどの「特別だ」という言葉を思い出す。傷はまだ、ときに涙がにじむほど痛んだ。それでも、彼をかばったことと、彼が自分を大切に思ってくれることが胸の中で重なっていた。痛みの中にも幸福を感じる自分がいる。
王都へ報せが届くまでに、何が起こるのかはわからない。自分も役割を果たせるように、今は休まなくてはならない。
朝の光が窓辺へ広がった。クリスは毛布の中で静かに息を吐く。女王陛下の意志を受け、仲間とともに伯爵を救い出したい。その思いを胸に、微かな笑みを浮かべて目を閉じた。
遠くで雪を踏む足音がする。鳥がさえずり、古い板が小さく軋んだ。クリスは目を閉じたまま、その音を聞いていた。




