雪化粧の隠れ家で交わす夢
ダビドたちが拠点として借りた空き家は、ボコタ郊外の果樹園を見渡す丘の外れに建っていた。長い年月を経た板壁は飴色に変わり、茅葺きの屋根には雪が積もっている。二階の一室には簡素なベッドと木箱が置かれ、暖炉の火が室内を照らしていた。
クリスはベッドの上でそっと身を起こした。夜が明けた今も、右腕には厚い包帯が巻かれたままだ。布のざらりとした感触が手首に残り、動かせば鈍い痛みが走る。それでも、昨夜のような激しい疼きは幾分かやわらいでいた。
部屋の隅には、クリスのローブや小物、レオンの外套がひとまとめに置かれている。仮初めの夫婦として旅をするための荷物が、今はなんとも居場所なさげに重なっていた。
木枠の窓から見下ろす果樹園は、深い雪に覆われている。冬枯れの林檎や杏の木々が裸の枝を伸ばし、その根元にも雪が積もっていた。階下に並ぶ木箱には林檎や干した果実が詰められ、そのかすかな香りが部屋にも届いていた。
「ふう……」
クリスは腕をかばいながら、ゆっくり息を吐いた。もう一度吸い込むと、ひんやりした空気が胸を満たす。傷が少し落ち着いたことに安堵する一方で、満足に眠れなかった身体は重い。目を閉じれば、そのまま眠ってしまいそうだった。
「痛みはどうだ? だいぶマシになったか?」
テーブル代わりの木箱に背を預けていたレオンが、柔らかな声で尋ねた。夜通し付き添ってくれた彼の顔に、窓からの薄青い光が差している。クリスは気遣う視線を受け、弱々しく笑った。
「ええ。矢傷って嫌なものだけど、マリアさんの処置が丁寧だったから、随分楽になったわ。……ちゃんと休めば何日かで傷も塞がりそう。命にかかわるほどじゃないし、ほっとしてる」
包帯を巻いた腕をそっと押さえる。まだ熱を持ち、少し動かしただけでも痛むが、レオンがそばにいてくれると、その痛みにばかり気を取られずに済んだ。安心するにつれ、胸の奥が温かくなっていく。
「そうか……なら、よかった」
レオンは大きく息をつき、肩の力を抜いて笑みを返した。冬の朝陽が横顔を淡く照らす。いつも頼もしく見えるその顔が、今はどこか儚げだった。
窓の外で、林檎の枝がこすれ合う乾いた音がする。果樹園の向こうからは、かすかな鳥のさえずりも聞こえた。街が動き出すには、まだ早い。
「それに、早く治さないと、先へ進むにも足手まといになっちゃうしね……」
クリスは自嘲ぎみに呟き、シーツの縁を指先でつまんだ。白い寝間着姿では、右腕の包帯がやけに目立つ。
レオンは小さく頷いた。
「焦ることないさ。俺たちはやるべきことはやったんだ。少しばかり休んだって罰は当たらないだろ」
包帯に目を留め、静かな声で付け加える。
「何より、クリスがこうして生きていてくれているだけで、俺は……」
包帯を見つめたまま、レオンは言葉を詰まらせた。
「とにかく、本当によかった……」
「……ありがとう。気にかけてくれて」
クリスの頬がわずかに赤らんだ。薄い寝間着の袖口には冷気を感じるのに、彼の声を聞くと気持ちがほどけていく。
二人はしばし無言で顔を見合わせた。先ほどまで話していたのに、次の言葉が出てこない。それでも気まずさはなく、クリスは薪や果実のかすかな匂いを感じながら、レオンを見つめていた。
街外れとはいえ、ここも宰相の私兵たちが活動する一帯だ。それでも、今だけは誰にも邪魔をされたくなかった。窓辺の光が少しずつ明るくなる中、二人の間には甘く切ない沈黙が続いた。
「なあ、クリス」
「なに?」
クリスは膝の上で手を重ねた。レオンは困ったように目を伏せ、唇を噛み締めている。握り込んだ手の関節が、かすかに白くなっていた。
――なにか……言いづらいことでもあるのかな?
クリスは息を詰めた。いつもと違う彼の様子に、腕の痛みとは別の緊張が生まれる。問いを重ねることもできず、次の言葉を待った。
レオンは深いため息をついた。
「……実はさ、この作戦が終わったあとのことを考えると……俺正直、怖いんだ」
「え……?」
レオンの口から「怖い」と聞くのは珍しい。クリスは胸騒ぎを覚えながら、その顔を見つめた。
「どういう意味……?」
レオンは赤髪を軽く掻き上げ、壁へ目を向けた。握った拳には力が入ったままだ。その横顔を見るうちに、クリスまで胸が苦しくなる。
「……俺たちはさ、陛下の命令で新婚の行商人夫婦を演じながらここまで旅してきた。けど、任務が終わったら、その芝居も夫婦っていう設定も……きれいさっぱり無くなって、元の俺たちに戻っちまうわけだろ?」
レオンの目がかすかに潤んでいた。言葉の最後ににじんだ寂しさに、クリスも小さく息を詰まらせる。ただの仲間に戻る。これまで当たり前だったはずのことが、今はひどくつらかった。
「……レオンは、そのほうが、楽? 安心する?」
問い返す声が震えた。もし「そうだよ」と言われたら。冷たい雪の中に、一人で取り残されるような気がした。
だが、レオンは小さく首を横に振り、苦しげに眉を寄せた。
「安心できるわけないだろ。むしろ……辛いだけかもしれない」
クリスは黙って彼を見た。そんな言葉を口にするほど、レオンも思い悩んでいたのだ。
「俺にとって、クリスは一番の戦友なんだ。命を預けられる相棒で、男とか女とか、そんなの超えた仲間だと思ってた。でも……夫婦のフリをしてるうちに、どうしても意識しちゃうようになって。任務が終わったら、また昔みたいに戻れるのかなって考えたら、全然戻れる気がしないんだ。むしろ、戻りたくないのかもしれないって……」
最後は、かすれるような囁きだった。それでも「戻りたくない」という言葉は、はっきりとクリスに届いた。胸の奥が温まり、同時に切なく疼いた。
この冬の旅路で重ねた記憶が蘇る。雪道を馬車で進み、肩を寄せ合って寒さをしのいだこと。新婚の夫婦らしく見せようと、手を繋いだり腕を組んだこと。宿では同じベッドに入り、背を向けていても、すぐそばにレオンの息遣いがあった。背中越しに感じる体温が気になって、なかなか寝付けなかった夜もある。
あのときの高鳴りを、今なら少しわかる気がした。冷たい風の中でこそ際立つ焚き火の暖かさのように、レオンの存在が愛おしかった。
「……わたしも、同じだよ。レオンは強いし、誰よりも頼りになる仲間だって、ずっと思ってた。だけど、夫婦っていう形でこんなに近くにいると、どうしたって意識しちゃって。この気持ち、どうしたらいいんだろうって、ずっと悩んでた……」
言葉にすると、まぶたが熱くなった。レオンはほっとしたように笑った。
「そうか、よかった。同じだったんだ……。俺ひとりで悩んでるわけじゃないなら……少し安心した。でもすごくドキドキするというか、それがなんていうか……」
レオンの指先がかすかに震えていた。
「クリス……」
レオンは、包帯を巻いていないクリスの左手をそっと取った。彼の指先は少し冷えていたが、触れ合ったところから次第にぬくもりが伝わってくる。クリスは彼の手を見つめた。
「俺、今だからちゃんと言っておきたい」
「うん……」
「俺、この任務が終わっても……お前と離れたくない。もっとずっと、一緒にいたい」
「それってつまり、わたしたちが、その……もっと関係を深めていくって意味で……?」
クリスは頬を熱くしながら尋ねた。
「そ、そういうことになるな。でも、いや、正直結婚とか……すぐには無理だと思う。俺も一人前とは言えないし、お前だって目指すものがあるだろ? でも、これだけは間違いなく言える。俺は……クリスのことが……好きなんだ」
「好き」という言葉を聞いた途端、クリスは何も言えなくなった。
「あ……」
短い息だけがこぼれた。レオンはその手を握ったまま、言葉を続ける。
「ごめん、こういうの初めてのことだし、うまく言えないけど……。足を引っ張ってるかもしれないってのに……それでも、好きでさ。お前とずっと一緒にいたいって気持ちが、どうしたって抑えられないんだ」
握る手に力がこもった。クリスは胸がいっぱいになり、どう答えれば伝わるのか迷った。
「そんなこと、謝らなくていいよ。わたしだって、こんなの初めてだし……戸惑ってる。だけど……」
そこで言葉が途切れた。恥ずかしさもあって、素直な返事の代わりに、少し甘えるような問いが出た。
「もしわたしが、『いいえ』って言ったら、あなたはどうするの?」
「そんなの、嫌に決まってる。いまさら、クリスじゃない誰かを好きになれる気がしない。……もう、遅いんだよ。お、お前のことしか考えられないから。そんなことになったら、きっと気が狂っちまう」
真っ直ぐな視線を受け、クリスは小さく笑った。
「……ふふ。冗談よ。断るわけ、ないじゃないの」
頬は熱いままだった。今度はためらわずに、言葉を続けた。
「前はふつうに仲間だと思ってたのに、こんなふうに想い合うことになるなんてね……なんだか変な感じ」
「変でも、悪くはないだろ?」
「悪くなんかないよ……むしろ、すごくうれしい」
クリスは彼の指に自分の指を絡めた。少し冷えていたレオンの手が、重ねているうちに温まっていく。自分の鼓動はまだ速かったが、もう不安からではなかった。
「あ、ありがとう……」
レオンのぎこちない礼に、クリスはまた頬を緩めた。
「……さ、もう少し休んでおけ。腕が治らなきゃ、何もできないだろう?」
彼の手が肩へそっと置かれた。
「そうね。ダビドさんたちには申し訳ないけど、少しだけ甘えさせてもらおうかな……」
二人の間にある想いは、もう夫婦を演じるためのものではなかった。包帯を巻いた腕に朝の光が差している。痛みも、これからの任務への不安も残っていた。それでも、クリスはその先のことを考えるのが嬉しかった。
互いに騎士としてはまだ未熟だ。これからも多くの困難が待っているだろう。それでも、いつか本当に夫婦になり、隣で支え合えたなら――クリスは、そんな未来を思い描いた。
果樹園のほうから農夫の足音が聞こえ始め、遠くでは鶏も鳴いている。もう少しすれば街が動き出し、宰相の私兵たちも巡回を始めるだろう。二人きりで向き合っていられるのは、今だけかもしれない。
重ねた指先の震えが、少し収まった。レオンがそっと近づき、ためらいがちにクリスの額へ唇を置いた。その静かな口づけに、胸に灯っていた想いがいっそう温かくなった。




