凍える道と矢の傷――伯爵を追う者たち①
二人はさらに聞き込みを続けてみたものの、肝心のダビド班との接触はならず、伯爵にまつわるはっきりとした情報は何も得られないままだった。靴底が雪を乾いた音でこすり、吐く息だけが白く確かな跡になる。
街で拾えるのは断片の噂ばかり。それでも使命に背を向けず、クリスとレオンは人々に声をかけ続けた。
夕光はとっくに失われ、日没後の冷気がボコタの路地を抜け始める。薄暗い裏通りは闇の訪れが早く、空気に危うい匂いが混じった。角を曲がる風が指先を痺れさせ、革手袋の縫い目が硬くきしむ。
「ダビドの兄貴、いったいどうしたんだろう? 予定ならとっくにこの街に到着しているはずなのに。何かあったのかな?」
レオンの声が細くなる。外套の襟に触れる喉が動き、眉間には浅い皺が刻まれていた。
「心配ね……」
クリスは少し俯き、薄紫の宵色に満ちる街角へ目を向けた。光は弱く、音ばかりが耳に触れ、胸の鼓動を早めた。
「けど、あの人はタフだし、こういう裏仕事の経験が豊富だから大丈夫さ。それに兄貴は絶対に約束を破ったりしない。きっと来てくれるって信じてる」
言い切る声には、まだ不安が残っていた。
「そういえば、ダビドさんのこと、いつも兄貴って呼んでるけど、どうしてなの?」
歩調は崩さず、視線だけが相手を探る。
「兄貴って、髪がけっこう赤いだろ。俺はそれよりもっと派手だ。目立つやつは、だいたい叱られ役になる」
耳朶に血が集まり、寒気と別の熱が同居する。
「ああ、そういうこと」
紅蓮のような赤のダビド、鮮やかな赤みのレオン。クリスは二人の髪色を思い浮かべ、少し気持ちが緩むのを感じた。
「それがきっかけでさ、妙に気に入られてるんだ。何かにつけて弄られるのは困ったもんだけどな。はは」
照れを押し隠す笑いに、項へ熱がそっと集まる。
「そういえば、よく首根っこ掴まれて頭ぐしゃぐしゃにされてたね。仲いいな、とは思ったけど」
「俺には三つ違いの兄貴がいたんだけど、小さい頃病気で死んじまったからさ……ぜんぜん似てないんだけど、つい重なっちまうんだ」
視線は靴先へ落ち、踏んだ雪が細く鳴る。
「そっか……信じてるんだね」
声にあたたかさを足す。息は白く、胸の奥はまだ硬い。
「ああ、もちろんさ。だからきっと無事に合流できる。……そのはずなんだけどなあ、どこでどうすれ違ってるのか」
息を吐き切れず、レオンの肩が浅く上下する。
「……暗くなってきたね。あまり夜に出歩くなって、宿のご主人にも言われたけど……」
風向きが変わり、外套の裾が冷気を拾う。氷の夜気が肌を刺し、遠い道は闇へ溶けて輪郭を失う。踏み返された雪は凍りつき、靴先の痛みがじんわりと強まった。冷えと疲労がじわじわ体力を削り、焦りだけが歩幅を引く。
「……もう少し探ってみるか? このまま手ぶらで合流じゃ、また兄貴に叱られる。頭ぐしゃぐしゃにされるのは、もうごめんだ。子どもじゃあるまいし」
レオンは冗談めかして言った。不安を抱えながらも、二人で先へ進もうとしている。
寄り添う横顔に、クリスの胸がわずかに疼く。あの店での緊張――苦い香草の気配、強張った笑みの男たち、袖越しに触れた体温。恐怖の余韻のはずなのに、胸のどこかがしずかに温む。任務なのに、不安のまっただ中なのに、彼の近さが心を潤す。答えの出ない情動が喉にひっかかり、息だけが少し速くなる。
「クリス、さっきから黙ってるけど、どうした?」
耳の内側で低い声が響き、水面に浮かぶみたいに意識が戻る。
「……ううん。大丈夫。ただ、何だか妙な感じがして……」
喉の奥で小さく息が跳ね、言葉の先は細くなる。それが寒さのせいか、さっきの恐怖か、彼への意識か。定まらない違和感が胸の底で根を張り、身体の芯を冷やしていた。
曲がった先は街灯の途切れた暗がり。蔵のような建物が並び、木箱と樽が路肩を塞ぐ。まばらな雪が闇へ吸い込まれ、足元の境界が曖昧になる。人影は薄く、気配だけがひそやかに漂う。一見、人のいない場所ほど、裏の連中が潜む。クリスはフードの下で耳を澄ませ、呼吸の拍を揃えた。冷えた木の匂いと金具の鉄が鼻に触れる。
「ん……今の、音……?」
肩がわずかに張り、風の層が一段変わる。自分たちの足音に、微かな異物。木箱の軋みか、風の遊びか。その奥に、はっきりとした殺気が立った。
「レオン! ……上……!」
視線が屋根の稜線を拾い、胸骨の内側で鼓動が早まる。二人同時に顔を跳ね上げる。薄暗い屋根の端にかすかな人影――視認より早く、薄い発条音が夜気を裂いた。
矢がひゅ、と空気の薄い層を切る。狙いはまっすぐレオン。軌道は定まり、回避の余白はない。
思考より先に身体が動く。クリスは本能のまま、レオンの肩を力いっぱい突き飛ばした。
「危ないっ――!」
視界の端でレオンが雪に足を取られ、横へ崩れる。同時に、クリスの右腕へ鈍い衝撃。ぶつけた痛みではないとすぐに分かる。矢がローブを貫き、肉を刺し貫いた。
「……っ、あ……!?」
息が喉で折れ、視界の縁が白く灼ける。
焼けつく痛みが一拍遅れて脳を刺し、意識がぐらりと傾いた。倒れたら終わる――そう叱るように、片膝で踏みとどまる。
「クリス!?」
地に倒れていたレオンが身を起こし、突き立つ矢を見て青ざめる。地を這うように駆け寄り、強く肩を支えた。
「何やってんだ! 何でおまえが……」
声の奥に震え、怒りと恐れが混ざる。
「……ごめ、ん……」
舌が痺れて語尾がほどける。痛みと焦りで考えは千切れ、レオンの顔だけがやけに鮮明だった。取り乱す声は珍しく、その事実が胸の奥をちくりと刺す――愛おしさと申し訳なさの端が、同じ場所で疼いた。
屋根の上の影はまだ動く。二本目が来る――別方向の仲間もいるかもしれない。ここに留まるのは愚策だ。
「動けるか? 矢は……今ここで抜くのはまずい。出血が止まらなくなる……」
喉が乾き、言葉の端が掠れる。
傷口からあふれる血は命取りになり得る。留まれば狙い撃ち。歯を食いしばって立ち上がろうとするが、痛みが視界を滲ませる。顔が歪むのを飲み込み、レオンの肩を借りて立つ。
「……逃げよう。上から狙われたら不利……」
唇は冷え、言葉は短く切れた。
「くそっ、わかった!」
靴底が雪を噛み、肩に力が入る。レオンが腰を抱え、屋根から狙いにくい位置へ移ろうと踏み出す――同時に、再び矢の音。二発目が闇を裂いた。
「危な――ッ!」
レオンのコートが大きく広がる。レオンはクリスを巻き込むように斜めへ転がり込んだ。矢はさっきまで二人のいた地面へ突き立ち、雪と氷片が派手に散る。
「狙ってやがる……今の連射音、連弩か!?」
歯の根がわずかに噛み合い、舌に鉄の味が滲む。
クリスは痛みに耐えつつ、次の矢を警戒した。一度避けても、また狙ってくる。屋根から見えない場所へ逃れなければ。
「クリス! まだ動けるか?」
息は荒く、声は熱を帯びていた。
頷く。血はローブを深い赤へ変え、こめかみを冷や汗が伝う。意識は揺れても、まだ倒れるわけにはいかない。この場では反撃の余地がない。遮蔽物へ、角へ――撤退が唯一の正解。壁づたいに角を目指し、痛みを噛み砕いて足を動かす。
背後で瓦の落ちる音。屋根上の影は位置を換え、上から執拗に追い打ちをかける気配。追いすがる殺意は冷たい糸のようで、背の皮膚をざわつかせた。
「クリス……血が……」
視線が袖の裂け目と濃い赤に沈み、声が低く落ちる。
「平気、まだ大丈夫……っ。立てるから、急いで……!」
言葉と同時に膝がわずかに揺れ、背の汗が冷たくなった。
互いを支え合い、暗い路地を走る。耳は矢の音を探り、心臓は拍を急かす。足元は滑りやすく、踏むごとに痛みが全身へ伝播する。声にならない悲鳴を飲み込み、歩を合わせる。肩が一度触れて、すぐに離れた。
どうしてまだ走れるのか分からない。ただ隣に彼がいる現実だけが、足を前へ送る理由になった。
ふと振り返る。屋根の影は一瞬、二人を見失っているようだ。路地の入り組みが味方し、僅かな希望が胸に灯る。
――大通りまであと少し。
行く手に、灰色のローブをまとった三人の男がいた。薄氷が、きい、と細く鳴った。
「……誰だ!?」
壁で跳ね返る声が、寒さを硬くする。
「これより死に往く者に語る名などない――『散れ』……」
合図のような低い声。左右の男がダガーを抜き、散るように間合いを詰める。死角を作る配置は巧みで、冷たい汗が背中を伝った。ここで退けば背を刺される。進めば刃が待つ。レオンが短剣を抜いた。柄を握る手は、もう震えていなかった。
「どうやら……逃がしてくれそうもない」
乾いた笑みが唇に張りつき、喉がこわばる。
黒い影は舞踏のような無駄のない動きで迫り、雪と氷の上でも足もとは安定している。体温のない殺意だけが濃く、息の白さが闇に散った。
「クリス、後ろに……」
レオンはぎりぎりで庇う位置を取り、血の滴る音を聞く。正面の男が手を上げるや、二人が同時に躍りかかった。左の刃が内側を突いて右腕を狙い、もう一人が背へ回る。レオンは体を捻ってどうにか逸らし、反射だけで刃を戻す。
クリスも痛みを抱えながら短剣を逆手に構え、身体をひねって威嚇の線を作った。踏ん張るには不利。それでも退かない。
このままでは袋の鼠。どちらかが囮になれば……。レオンの頭にそんな案が浮いては消えた。数の不利に加え、クリスは傷を負っている。
戦況は絶望的だった。
「こいつら強い。クリス、悪いが……覚悟してくれ」
レオンの声が低く沈む。歯を食いしばって短剣を握る横顔を見て、クリスは息を詰めた。彼は死を覚悟しているのかもしれない。それでも、最期まで抵抗するつもりなのだと感じた。
「ほう。よい目だ……若者よ、その意気やよし。だが、これも任務だ。悪く思うな」
足裏で雪が潰れ、微かな水音だけが間を埋めた。冷えた声が、夜の縁を撫でる。三方向から一斉に踏み込みの気配。凶刃が夜気を切り裂こうとした――その瞬間。
赤い風が走った。マントの布が翻り、冷えた空気が撓む。




