伯爵が消えた街の紅い影②
やがて中心部を離れ、街外れへ向かうと人通りは目に見えて少なくなる。風が建物の角で渦を巻き、凍った石が靴底の下で細く鳴った。倉庫街を抜け、小さな広場を横切る。背後の視線に気づいたクリスはさりげなく振り返るが、やはり誰もいない。うなじの産毛がそっと立つ。案内役が尋ねる。
「疲れましたか?」
案内役の足取りは妙に軽い。レオンが答える。
「いや……大丈夫です」
吐いた息が白くほどける。クリスも言葉を添えた。
「どうぞお気遣いなく」
手袋の内側で掌は湿り、指先の熱が行き場を探す。
「もう少しですからね」
笑みは皮膚に貼りついたまま、瞳孔だけがわずかに動いた。
クリスは小声で囁く。
「ねえ、この人、本当に善意だけで案内してると思う? どうも信用しきれないの」
白い吐息がかすれ、言葉の端だけが凍る。
「ああ、油断せずに対処するしかないさ。……万が一のときは……だろ?」
歩幅を半歩だけ変え、肘の角度で合図を返す。
「……うん」
胸の内で小さな熱が灯り、手袋の内側がじんわり汗ばむ。
やがて男が指差す先に小さな店。表の札には『営業中』と手書きだが、客の気配は薄い。札の紐が風に揺れ、金具がかすかに触れ合う。
「こんにちは。今日はお客さんを連れてきましたよ~」
扉が押し開かれ、ほんのり温い空気が流れ出る。薪と乾いた草の匂いが胸にさっと入った。
「ここですよ、お二人さん。どうぞ座って、ゆっくりしていってください。……店主は奥にいるみたいですね」
クリスは店に入り、店内を見渡す。カウンターはあるが店主は出てこない。梁の乾草がわずかに揺れ、音はない。戸口越しの通りも、人影はまばらだ。
――怪しいけど、ここで尻込みしては情報は得られない……。
クリスとレオンは目配せを交わし、いつでも反撃に移れるよう警戒しながら、テーブルへ近づいた。そのとき、背後でギシリと扉が閉まった。
カウンターの奥から声がする。
「いらっしゃいませ。おや、そちらのお客さんは?」
現れたのはメガネの初老の男。整えた口ひげに落ち着いた目つき。ただ、その目は二人を品定めするようだった。メガネのレンズが一瞬、白く光った。
「店主さん、お客さんを連れてきたんですよ。例の伯爵様の件で……ね?」
肩をすくめる仕草に、唇だけが笑う。
「ほう、伯爵様ね……」
その名の重みで、空気が薄く張った。店主が言う。
「まあ、とりあえず座りなさい。ハーブティーでも飲んで、冷えた体を温めるといい」
トレイの三つのカップから白い蒸気が細く上がる。甘さに草いぶしの棘が混じり、鼻の奥で静かに刺さった。レオンは思わず顔をしかめる。案内役が言葉を添える。
「温かいお茶で、ほっとしてからお話ししましょう」
クリスは袖口をぎゅっと握ったまま固まる。
――やたら人当たりがいいけど、むしろそれが怖い……。
店主が差し出すカップに指が触れ、温かさが伝わる。警戒しているのに、判断が手の動きに追いつかない。
――これ、あからさまに怪しいんだけど、どうする……?
湯気が睫毛に触れ、視界の縁が曇る。カップを口元へ運びかけたところで、レオンの手がその動きを静かに止めた。クリスが声を漏らす。
「っ……!」
「猫舌だろ? もう少し冷ましてからにしろ」
レオンは夫婦のやり取りに見せかけ、手の甲で合図を送る。
案内役が勧める。
「……ここのお茶は珍しい香りがしましてね、お勧めなんです。さぁ、温かいうちにどうぞ」
茶を勧める案内役の仕草に、クリスは圧力を感じた。一方、店主はメガネを押し上げ、レオンの表情を探った。
レオンはカップを鼻先へ寄せ、呼吸を浅くして香りだけを拾う。湯気の層が薄く割れ、草いぶしの棘が鼻腔に触れた。
「……確かに珍しい香りだ。店主さん、薬草にお詳しいのですか?」
言葉の縁に、ごく薄い刃を忍ばせる。店主が答える。
「いやあ、ちょっとした独学でね」
笑いは喉で止まり、瞳の底は動かない。
情報屋の声は柔らかいが、温度だけが底で冷える。
「何か問題でも?」
「俺の地元じゃ、サノリサって呼ばれる薬草があるんです。適切に使えば疲労回復に役立つんですが、濃度が高いと眠りが深くなりすぎるっていうか……二度と起きられなくなる危険もあるって……」
指はカップに触れたまま、飲む仕草だけを演じた。案内役が言う。
「へえ、そいつは物騒だ。私はそんな名前、聞いたことないですがねえ」
動じない静けさが、かえって騒がしい。
クリスは唇を結び、カップをそっと卓へ戻す。膝の上で指を固く絡めた。
――もしあのまま飲んでいたら……?
自分の腕を抱える。レオンは椅子の位置をわずかにずらし、床を擦る音を意図的に小さくした。
案内役は湯気を吹く仕草だけを繰り返す。
「ああ、そういえば伯爵様の件でしたね」
「ここなら外に聞こえないし、安心して話せるでしょう? ……ただね、お茶を飲みながら、落ち着いて聞いたほうがいい話もあるんですよ」
レオンは穏やかさを崩さず、声を少し低める。
「ありがたいが、さっき言ったとおり急ぎだ」
言葉の隙間に、退出の線を引いた。案内役が言う。
「ふふ、まあ、そんなに急かさないでください。夫婦での長旅、さぞお疲れでしょう? ……もしお口に合わなければ、残していただいて構いませんよ。ただ、せっかく店主がこだわって淹れてくれたんですから。できれば、ね?」
柔和な笑みの輪郭が、じわり硬さを帯びる。クリスが尋ねる。
「……あなたは、本当にただの情報屋なんですか? 『影の手』や宰相の私兵と繋がっている……なんてこと、ないですよね?」
語尾が細く尖り、空気がひとつ沈む。
「影の手だって? へえ、そんなのが実在するなんて話は初耳ですね。ま、噂で聞いたことはありますが……ねえ、店主さん?」
店主は棚の木目を指で撫で、「さあ、どうでしょうねえ」ととぼける。木の乾いた音が、針のように短く残った。
――まるで、何かを確認しているかのよう。
背筋に冷たい汗。クリスは“行商の新婚妻”の微笑を薄く保ち、レオンは左足をわずかに後ろへ。呼吸が合図になる。案内役が言う。
「嫌なら出て行っていただいても構いませんよ? ……ただ、伯爵の件を聞き回っている時点で、あなたたちはかなり危うい立場にあるとは思いますがね」
出口の影に、見えない針が置かれたようだった。レオンが応じる。
「……わかりました。まず、どんな噂をお持ちなんですか。報酬はご相談します」
声を少し低め、揺さぶりを受け流す。
「では、お話ししましょうか。伯爵様が滞在していた宿が、何者かに襲撃されたというのは、ご存知ですよね?」
レオンが答える。
「はい。それは耳にしましたよ」
陶器が卓で小さく鳴り、湯気がゆるく揺れる。
「どうも、その襲撃犯ってのが、女王陛下と繋がっているらしいんですよ。伯爵が女王の重大な秘密を握っていて、邪魔だから消された――とか。王都の権力争いに巻き込まれた――とか。噂はいろいろありましてね」
――でっちあげにもほどがある。陛下がそんなことをするわけがない。
クリスが尋ねる。
「秘密、ですか。たとえば、どんな?」
店主がわざとらしく近づく。靴音だけが不自然に軽い。
「まあまあ、お客さん。長旅でお疲れでしょう? うちのハーブティーを飲めば、気分が落ち着きますよ」
クリスが店主に答える。
「……そ、そうですね。ただ、ちょっと香りが強いので、もう少し冷ましてからにします」
店主は「そうかい」と言いつつ離れない。視線だけが、カップの縁へ貼りついた。
クリスはそっとレオンの袖を握る。布越しの体温が指へ移り、震えの輪郭が薄れる。
――こんな状況なのに、どうしてこんなにレオンを意識してるんだろう。
任務とは別の小さな灯りが胸に点る。いけない、集中――二拍で呼吸を整えた。
「クリス、落ち着いて」
レオンの低い声に、クリスは少し安心した。
案内役はカップに息を吹きかける。湯気の向こうで口元だけが笑った。
「さて、そろそろ本題に入りましょうか」
「伯爵は、この街で襲撃を受けた後、何者かの手引きで逃げ延びた。それが私の見立てです。ただ、今どこにいるかは不明でしてね。宰相の私兵が血眼で探しているという話もあれば、事件そのものが影の手なる連中の仕業だという話もある。どこまで本当かは、わかりませんがね」
クリスが問い返す。
「その影の手については、どんな話を聞いているんですか?」
浅い笑みとともにカップが卓へ置かれ、陶器がまた小さく鳴る。
「さあ、汚れ仕事を一手に引き受ける女王陛下の諜報組織――なんて噂もありますよ。どこまで本当かは知りませんがね。ともあれ、公にすべき話じゃないでしょう」
クリスの表情が一瞬だけ曇る。案内役が話を続ける。
「その女王陛下というのも、出自が怪しいだの何だのと、妙な噂が絶えない。伯爵が襲われたのも、さっきの秘密――つまり女王の立場を揺るがす弱みを握っていたから、という筋書きです。それに、王都からは次の王太子候補が見つかったとも聞く。その人物の擁立を推していたのが伯爵様。女王陛下は面白く思っていない。そういう話も、ね」
歯の見えない笑いに、音はなかった。レオンが尋ねる。
「あなたはそのあたりを、どの程度ご存じなんですか?」
「そこまで詳しいわけじゃありませんが、頼まれればさらに調べることはできますよ。こう見えて、私兵連中に顔が利きましてね」
「ほう、そうですか」
「もちろん、それなりの対価はいただきますが……さて、どうなさいます? まだ話を続けるなら、ここでゆっくりしていくといい」
視線はテーブルのハーブティーへ落ちる。液面には、天井の梁が揺れて映っていた。
「……話の内容次第では報酬は弾みますが、俺たち、早く北方の実家に向かわないといけないので」
「北方ですか? それはよしたほうがいい。どうやらモンヴェール男爵領がきな臭いようでしてね。近々なにかあるんじゃないかって、もっぱらの噂ですよ」
沈黙の温度がじわり上がる。店主は相変わらず口を閉ざしたまま二人を観察していた。
クリスは卓の下で指を絡め、もう一度目で合図を送る。指先の震えが収まり、ここを出ようと決めた。
――不確かな噂ばかり。ここにいても時間の無駄。なにより、空気が気味悪い。
「クリス……」
名を呼ぶ声に頷きが重なる。足裏の重さが一点に集まり、体の芯だけが静かになった。
レオンが静かに口を開く。
「……申し訳ない。あなた方を信用するには至りません。ここで失礼します」
椅子の脚が小さく鳴り、退路の線が鮮明になる。店主が言う。
「あら、それは残念だ。せっかくお淹れしたのに……」
肩を落とす仕草に、目だけが笑わない。案内役が言葉を継ぐ。
「そうですか。では、お気をつけて。外の寒さは骨まで沁みるでしょうからね。ああ、それと、くれぐれも伯爵様の失踪については詮索しないことです。無事に実家にたどり着きたいのであればね……」
脅しとも警告ともつかぬ響きが、空気をわずかに重くした。レオンが応じる。
「ご忠告、ありがとうございます。失礼します」
膝裏の力を確かめ、足音を抑えて扉へ向かう。取っ手は外気で冷え、掌の熱を奪った。扉が開き、冷たい風が店内の湯気をかき乱す。鈴がひとつ、乾いた音で転がり、二人は視線を背に受けたまま雪の路地へ出た。
◇◇◇
「はあ……」
曲がり角で吐いた息が白くほどけ、胸の強張りが少し緩む。膝の力が抜けたクリスを、レオンがそっと支えた。その掌は温かかった。
「飲まなくて正解だ。あれ、やっぱり危なかったよな」
低い声に、怒りと安堵が混じる。
「……うん。もしうっかり飲んでたらと思うと、ゾッとする」
クリスは胸に手を当てる。鼓動が少しずつ落ち着いていく。
「ありがとう、レオン……さっき、飲む寸前に止めてくれたでしょ?」
声の高さが自然に落ち、耳の内側が温まる。
「これもお互い様だ。俺だってクリスがいてくれなきゃ、冷静に対処なんてできなかったさ」
クリスの頬に血が戻り、耳たぶにまで温度が上がる。クリスは深く吸い込み、雪の冷気で背筋を伸ばした。
「情報屋の言ってたことだけど、影の手が陛下の指揮下で動いているとかあり得ないでしょ。むしろ伯爵をさらったのは宰相じゃないの? それに陛下がリュシアン殿を嫌っているみたいな言い方してた。酷すぎるじゃない。いったい誰がそんな噂を流しているの?」
言い切りの余熱が、息の端で白く消える。
「まったくだ」
短い返事が、足並みの拍に重なる。
「それとも、襲撃事件自体が宰相と結託した伯爵の自作自演で、陛下を首謀者にでっちあげるための工作だったんじゃない? こんな噂が広まったら、陛下のお立場が危うくなる」
雪明かりが頬を冷やし、言葉の芯だけが熱を帯びる。
「ああ、陛下が首謀者だなんて話は、完全にでっちあげだろうな。ほんとにどこまで狡猾なんだ……。早くダビドの兄貴と合流して、伯爵の行方を突き止めないと、手遅れになりかねない」
二人は曲がり角ごとに周囲を確かめ、目配せを交わした。街のどこかに、宰相の私兵もさきほどの一味も潜むかもしれない。それでも退けはしない。伯爵を救い、この街の真実へ近づくために二人の歩幅は自然に揃う。
曲がり角の向こうで、角笛が短く、二度。凍りついた雪を踏むと、足元でさくりと音がした。音は風に攫われ、決意だけが足元に残る。




