伯爵が消えた街の紅い影①
北方の空に雲は厚く、冷たい風がどこまでも吹きすさぶ。白銀の街道を進めば、地平の山々が夕日に染まり、雪面も赤く輝く瞬間があるという。その光景を見た者はごくわずか。いったん見れば、赤い輝きが心の奥に染みついて離れない――そんな話が、王都から遠い街道をかすかに渡っていく。
その噂を耳にしながら旅を続けてきたレオンとクリスは、ようやくボコタへ辿り着いた。クリスの指先には、まだ痺れが残っていた。レオンが手綱を取り、二人を乗せた馬車は城門を越えて街へ入った。想像していた深雪の静けさに反し、城壁の内は思いのほか賑やかで、二人は思わず顔を見合わせる。
門前の掛け声と車輪の軋みが重なり、冷えた空気へ人の熱が戻った。
「ねえ、レオン。見て、ここって活気があるね。雪続きで閑散としてるかと思ったのに。……あの屋台、湯気がきれい」
湯気には、果皮を思わせる甘い香りが混じっていた。
「だな。人も馬車も多い。まるで王都の外れみたいだ。商隊もいるようだし……これだけ人が多いと問題は宿だな。空いてるといいが」
御者台で、二人の肩がかすかに触れる。クリスがローブの裾の雪を払うと、冷たさが遅れて手首へ沁みた。
ここは王都と北方の中間にある、街道の交差点だ。馬車の車軸に塗る油と、挽きたての香辛料の匂いが漂う。城門付近では衛兵が荷を改めつつ笑い声を交わし、槍の石突が石畳を規則正しく叩く。名義上の領主がいるこの街は、北行の商隊が必ず通る中継都市。近年は各地の物資が流れ込み、小さな王都といった様相だ。
クリスは息が浅くなるのを感じた。ここは、伯爵の足取りが途絶えた街。合流予定のダビド班はどこにいる――焦りを覚える。
遠くで蝶番が低くうなり、音は雪に吸われる。城壁内は一面の雪景色だが、主要な通りは除雪が行き届き、石畳が見えている。残った雪は踏み固められ、薄く光っていた。クリスが言う。
「あそこの露店、何を売ってるんだろう。甘い飲み物かスープかな……気になる。身体の芯が温まりそう」
「後で寄るか? ま、その前に宿と馬車の置き場所だな。大荷物で歩き回るのは厳しい。動く前に退路と隠し場所を決めよう」
レオンの言葉に、クリスは少し不安を覚えた。
レオンがクリスの肘にそっと手を添える。クリスはフードを深く被り直し、ポーチを握りしめた。中には偽の身分証と最低限の生活用品が入っている。女王メービスの心づくしは荷台の奥へ巧妙に隠してある。荷台が気になり、何度も振り返った。
城門から少し奥、「王印の厩舎」の看板。何台もの馬車が停められ、屈強な男たちが手綱を預かっている。
二人はここで馬車を預けることにした。
「うちで預かってやるからには安心しな。馬もだいぶくたびれてるようだ。飼い葉代はちょいと上乗せになるが、どうする?」
レオンが答える。
「わかりました。しっかり休ませてやってください。よろしくお願いします。あ……荷台には触らないでくださいね。壊れものが入っていますので」
短い交渉の末、二人は多少割高な料金に応じた。レオンは小銭袋を懐から出した。袋の中で硬貨が鳴った。クリスはさりげなく身体の向きを変え、管理人から錠が見えないようにした。厳重な留め具――そう簡単には覗けない。レオンが馬に声をかける。
「ここまでよく走ってくれたからな。しっかり休んで元気になってくれよ」
厩舎を出てほど近く、「緑柳亭」の看板。古木の板に細かな装飾、鎖金具が控えめに軋む。
「あの看板、宿屋だな。暖炉がありそうだし、空いてるか聞いてみよう。ここなら人混みに紛れやすいし、行動の基点には最適じゃないか?」
「ええ、そうしましょう。指先が凍えそうで……もう我慢できない。湯気のある場所が恋しいわ」
吐いた息が白くほどけ、喉の奥が軽く緩む。
扉の内側は薪の香。程よい広さの玄関で、瘦せた主人が笑顔を向けた。
「おや、見たところ新婚さんかな? 仲が良さそうでうらやましいねえ。一部屋だけなら空いてる。ちょっと狭いけど、暖炉もあるよ。よければ泊まっていきな」
主人の言葉に、クリスの頬が自然に緩む。
「ありがとうございます。ぜひお願いします。わたしたち南から来たので寒さに弱くて……暖炉のある部屋なら天国です」
笑みが湯気みたいに軽くのぼり、耳の内側へ温かさが戻る。二人はすぐ宿泊を決めた。
二階の奥の部屋。小さな暖炉とベッド、テーブル、椅子が二脚――寝起きには十分だ。レオンが言う。
「ふう……やっと落ち着ける」
レオンは、コートを椅子の背へ掛ける。指の強張りが、ゆっくり解けた。レオンが続ける。
「まだ昼のはずだけど、もう陽が傾いてる。雪国って本当に日が短いんだな……」
窓の外は灰の雲が重なり、遠い山並みが白くかすむ。のんびり暖をとってはいられない。伯爵の失踪、ダビド班との合流――優先すべきことは山積みだ。
暖炉で薪が小さく爆ぜた。
「でも、ここは伯爵が姿を消した街でしょう? 落ち着かないわ……」
声の端がわずかに震え、喉の奥に小さな結び目が生まれる。
「ああ。危険は覚悟のうえだけど、本当に何が起きてもおかしくない空気だな。ま、焦るなよ。まずダビドの兄貴たちと合流して、伯爵の情報を集めよう」
「……うん、そうだね」
うなずきに合わせて前髪が額へやわらかく触れた。二人は身支度を整え、外套の重みを肩に戻す。
階段を下りかけたところで、主人に呼び止められる。
「さっき来た客から耳にしたんだが、『レズンブール伯爵を探している人がいないか』って聞き回ってる連中がいるらしい」
踊り場の空気は冷え、声が木に吸い込まれて低く響く。クリスが答える。
「……それ、わたしたちのことでしょうか。何か問題でも?」
掌の革手袋が小さく鳴り、指先の血が一瞬引いた。
主人は渋い顔で声を潜める。
「悪いことは言わない。あんまり大っぴらにその名前を出さないほうがいい。最近は宰相の私兵だとか、どこぞの傭兵団だとか、得体のしれない連中が急に増えてきてる。うかつに伯爵の名前なんて口にして、巻き込まれたら大変だ」
息がひとつ止まり、背の皮膚が薄く冷える。クリスが礼を言う。
「そ、そうなんですか。ご忠告、ありがとうございます。気をつけます……」
クリスは深く頭を下げた。
「特に夜は出歩かないほうがいい。せっかくの夫婦旅が台無しになるのは気の毒だ。……じゃ、何かあったら声をかけてくれ」
足音が階下へ遠ざかり、廊下の灯がわずかに揺れた。
目を合わせ、すぐ外す。二人の呼吸が一拍だけ重なる。
「行こう、クリス」
名を呼ぶ声に、張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。
「……うん」
かじかむ指を握りしめ、関節に小さく熱を集める。白く霞む街へ踏み出した。
◇◇◇
街で伯爵の噂を探っても、誰もが口を濁す。「知らない」と言って視線を伏せる。名を口にするたび、周囲の温度がひと息分だけ下がった。
通りの先に、宰相の紋章を染めた赤いマントをまとった私兵たちが見えた。赤布の縁が雪の白に浮き、露店の色を奪う。どうやら、彼らは露店の店主に言いがかりをつけているらしい。レオンが拳を握りしめ、肩が前へ出た。
「……レオン、だめ。落ち着いて」
クリスはレオンの袖を引いた。その指先に、自分の脈を感じる。
私兵の視線がこちらをかすめ、空気が硬くなる。へたに関われば、すぐ目をつけられる。
やがて近くの女店主が寄ってきて、声を潜めた。
「……あんたたち、伯爵のことでうろちょろしてるらしいね? 悪いことは言わない、やめときな。伯爵が泊まってた宿が襲われたって噂だし、それ以来宰相の手下が来ては我が物顔で振る舞ってるんだよ」
「そうなんですか……でも、どうして宰相が関わるんですか?」
レオンの問いに、女店主は苦々しく肩をすくめる。
「さあ、知らないね。少なくとも行方を探してるって雰囲気じゃない」
「というと?」
「そうだね。むしろ、探し回ってる者を捕まえようって腹かね。だから、その話題を口にしただけで引っ立てられるって話だよ。みんな困ってる。役人も袖の下を掴まされて、ちっとも動いちゃくれないんだ」
言葉は冷えているのに、目だけが素早く周囲を掃いた。レオンが言う。
「そんな横暴……女王陛下がお聞きになったら、黙っていないはずです!」
レオンの声がわずかに高くなる。すぐに声を抑えた。
「女王陛下ねぇ……最近はあまり良い噂を聞かない。悪いけど、期待はできないよ」
女店主は力なく笑い、香辛料の粉の匂いだけを残して人ごみに消える。
宰相の私兵がいるこの通りで、声を荒げるのは危険だ。二人は軒の影に身を寄せた。クリスが声を潜める。
「やっぱり伯爵は何者かに襲われたのね。だとすると、宰相の私兵はその隠蔽に動いているのかもしれない……。でも、まずは確かな証拠が要るわ」
レオンも声を潜めて答えた。
「いずれにしても、一刻も早くダビド班と合流して情報を突き止める必要があるな。接触は短く、痕跡は薄くだ」
歩調を揃え、二人は人目を避けて露店通りを離れた。
行き交う商人や旅人に伯爵について探りを入れつつ歩くが、成果は乏しい。足に疲れがたまり、歩幅がわずかに狭くなる。そのとき、茶色のジャケットの男が穏やかな笑みを浮かべて近づく。靴音は柔らかいが、視線だけが硬い。
「失礼。行商の新婚さんと聞きました。伯爵様の行方を探しているとか?」
一見、人当たりのいい町人。けれど瞳の奥に鋭い光が潜む。クリスは警戒を抱きつつ、むやみに怪しまれぬよう視線を相手の肩へ落とした。レオンと目配せを交わし、男に微笑みを返す。
「ええ、北のほうにわたしの実家がありまして、結婚の報告も兼ねて向かっています。それで……レズンブール伯爵様に、一言ご挨拶をと思ったんですが」
語尾をやわらげると、相手の肩の力がわずかに抜ける。
「へえ、伯爵様とはどんなご関係で?」
露店の布越しに獣脂の匂いが濃くなる。問いは柔らかいが、その目は二人を見定めるようだった。
「実は以前、ちょっとしたご縁があって……お世話になったことがあるんです。いろいろ騒がしいようですし、深く踏み込むつもりはありません。ただ、もし伯爵様について何かご存じなら、失礼のない範囲で教えていただけたら、と」
クリスは籠から祝言の細いリボンを覗かせる。結び目を指先で撫で、息を整えた。
「ご縁、ねえ。北の実家ってのは、どのあたりかな?」
男の声が近くに聞こえる。周囲のざわめきが遠のき、粉雪が睫毛の端で溶けた。
「ここから北へ山を二つ越えた小さな村です。冬はとりわけ厳しくて……皆、ひもじい思いをしているかもしれません。ここで食料を仕入れて、できるだけ早く届けたいんです。その前に伯爵様へ挨拶だけでもと考えたのですが、嫌な噂を耳にして……」
背後でレオンが籠の重みをさりげなく受けた。
男は動じず、小さく笑って観察を続ける。目の動きは速い。
「はは、なるほどね。そりゃあ気になるだろうし、大っぴらには話しづらいこともあるだろう。大きな声では言えないが……実は私、こう見えて情報を扱う仕事をしているんですよ」
「情報」という言葉に、薄い刃が潜む。
「情報、ですか……?」
クリスが首を傾げると、男は声を落とし素早く周囲を見回した。袖口の布が擦れて、乾いた音がする。
「ええ、今のこの街はいろいろ物騒でしょう? そんな噂を口にすれば、たちどころに目をつけられる。よければ、場所を変えてお話をしませんか? 実は伯爵様に関して、面白い話を仕入れているんですよ」
人当たりのよい口調にも、クリスの警戒は解けない。レオンは眉をわずかに寄せ、クリスへ「進め」の合図を送る。
――罠に誘い込まれている可能性は高い。でも、もし本当に伯爵の手掛かりを握っているなら……。何の成果もないまま合流なんてのも、情けないし。
クリスは声を抑えて答えた。
「ありがとうございます。ぜひ、聞かせてください」
「ここから少し歩いた先に、知人が営んでいる店があるんですよ。昼間は客もあまり来ないし、人目につきにくい。そこなら話もしやすいでしょう。さあ、ついてきてください」
にこやかな笑みのまま歩き出す。足取りは軽い。クリスとレオンは少し距離を取り、その後ろについた。
「夫婦で行商か……いいねえ。寒くたってへっちゃらでしょう? 愛の力ってやつですねえ」
「ええ、まあ……。夫婦は助け合うのが基本ですから。寒さくらい、手を繋いでいれば少しはましになります」
言ってみると、指先が勝手に重なりたがる。クリスはぎこちなく笑みを返し、レオンは低い相槌だけを落とした。
胸の底では警戒が渦を巻く。ふと後ろを見れば、路地の角に誰かの気配――目を凝らす間もなく、姿はない。風だけが角を曲がり、クリスはローブの裾を少し持ち上げた。
ローブの胸元をそっと押さえる。胸の高鳴りが、布越しに伝わってきた。
「クリス、顔が赤いぞ……寒いか?」
レオンの小声が耳に落ち、皮膚の内側で熱が増える。
「うん、冷えるね……温かいものが飲めたらいいんだけど。……それと、少し緊張してる」
語尾が細り、吐息は短い。別の意味が混じった気がして、頬はさらに熱を持つ。フードを深く被り直し、視界の縁が狭まった。足音と心音が、同じ拍を刻む。




