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黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第二十章 雪路をゆく、ふたりの銀翼
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あらためて夫婦役――秘密の旅とふたりの距離

 淡い朝焼けの下、クリスとレオンは馬車を駆りながら、人里離れた雪道をゆっくり進んでいた。座板の冷えが太ももに移り、車輪の軋みが骨へ薄く伝わる。


 雪深い冬。明けても寒気は退かず、澄んだ空気が肌を刺す。吸い込むたび喉がきゅっと縮み、胸の内側まで冷える。一面の白銀は、不思議と音を吸っていた。夜明けの空気は澄み、粉雪が光の網に散り、視界の端で静かにほどけた。まつ毛の縁だけが密かに重くなる。風が抜けると、凍った木々がきしむ。その音が耳の奥で遅れて反響し、人気のない道に鼓動だけが薄く返る。


――本当に、誰もいないんだわ……。


 声にすれば壊れそうで、唇は閉じたまま温い吐息だけが漏れた。


 クリスはマントの襟をぎゅっと握り、隣へ視線を滑らせる。手綱を取るレオンの横顔は真剣で、寒風に磨かれて頬が薄く紅い。吐息は白く短く、馬の鼻息が小さく返った。


 二人を乗せた馬車は、誰も踏み入れていない雪面を進んでいく。車輪が雪を固めるたび、ギュッ、ギュッと微かな音が立ち、呼吸の律と胸の上下がひそやかに揃った。


 彼らの密命はただ一つ。新婚夫婦を装い、失踪したレズンブール伯爵の足取りを追うこと。宰相の不穏な動きと同時期の失踪ゆえ、公には動けない銀翼騎士団が極秘で担う任務だった。封蝋を割ったとき指先に残ったひやりが、まだ掌のどこかで微かに主張している。


 若くして戦場経験は豊富。けれど顔はまだ広く知られていない。白羽の矢はクリスとレオンに立った。若い夫婦を演じる――その設定だけが、クリスの心へ甘くて苦い戸惑いを運ぶ。口元の笑みの角度を測るたび、舌の裏が少し渇いた。


◇◇◇


 ある朝。夜が明けきらぬうちに支度を整え、御者台に並んで腰掛ける――はずだった。雪の湿りが革に沁みていた。


「レオン、きょうは……荷台に乗るわね」


 襟の縁が頬に触れ、声は半拍遅れて出た。


「え? どうした。調子が悪いのか? どこか痛むのか?」


 手綱の革がきゅっと鳴り、馬の耳がこちらへ傾く。


「こっちのほうが座りやすいし、荷物の整理もしておきたいの。……変かしら?」


 視線は荷台の影へ逃げ、指先だけが先に熱を帯びる。



「変じゃないけど……俺、嫌われたのかなって思って。もし、気に入らないことがあるなら、言ってほしい。直すからさ」


 冗談めいた言い方にうまく応じられず、喉で小さく笑いがつかえた。ちょうどその拍子に、裾が段差に引っかかる。


「あ……!?」


 足を踏み外し、足裏の冷えが脛へ駆け上がる。体が傾いだ瞬間、レオンの手が肩を捉えた。布越しにも伝わる掌の力に、胸がどくんと鳴る。まだ少年の面影と、男の逞しさ。その両方が、至近で息を持った。


 ――何、これ。胸がきゅーって、苦しい。


 喉仏の下で脈が小さく跳ね、指の腹が布越しの硬さを確かめるみたいに震えた。顔を上げれば、彼の唇もわずかに震えている。


「ご、ごめん……! 大丈夫か? 手、ここを掴んで」


 胸板越しに彼の鼓動が伝わり、息が宙でつまずく。


「だ、大丈夫……ありがとう。少し踏み外しただけ。それと……べつにあなたを嫌ってるとか、離れたいわけじゃ、ないの」


 言葉が自分に追いついた途端、頬の内側が熱を持つ。鼻先だけは冬のまま冷たい。


「そ、そうか。……なら、よかった。それにしても、段差見えにくいな」


 レオンは耳の縁まで赤くして、一度靴先へ視線を落とした。


「そうね。でも、ありがとう……助かったわ」


 雪の冷えで笑みの端が少し震えた。横目に映る彼の耳は、まだ赤かった。


――違う違う。何を考えてるの……わたし。


 逸らした視線の先でも、彼の脆さと男っぽさが交互に覗く。言葉の選択が鈍った。



◇◇◇


 旅先の宿で、不意に声をかけられることがある。湯飲みの温かさが指先に伝わる。


「お似合いのご夫婦ね」


「わ、わたしたちですか? ……あ、ありがとうございます」


 湯気が頬に触れて逃げる。口元には、まだ笑みが残る。

 レオンは目を丸くして、


「え、ああ……はい」


 と短く答え、居心地悪そうに視線を逸らす。女将は目尻を下げて笑う。


「照れなくてもいいのよ、若い夫婦はそういうものだからねえ」


 夫婦と呼ばれることには慣れてきた。それでも、こうして二人を褒められると、胸の奥がくすぐったく温かくなる。

 ふと――悪くないかも、とクリスは思う。


◇◇◇


 けれど任務は待ってくれない。伯爵の行方、宰相の影。地図を広げた指先は冷えていた。


「……結局、まだ何もつかめてない。わたしたち、ただ馬車を転がしてるだけなんじゃ……」


 握りしめた手の内側で、爪が掌に小さな痕を残す。


「焦るなよ。俺たちは無駄にうろうろしてるわけじゃない。小さな噂も積み重なれば、形になるかもしれない。そういう仕事だ」


「……でも、どうしたって歯がゆいのよ。手が出せないって、こんなに苦いのね」


 戦場なら切り開けたのに――“夫婦”の仮面の下では剣も抜けない。


「……俺だって悔しいさ。けど、これは陛下が考え抜いて立てた作戦だ。意味は必ずある。俺たちは、必要な時に必要な手を出せるように、集めるだけ集めるしかない」


 肩にそっと置かれたレオンの手は、温かかった。


「レオンがいなかったら、わたし、とっくに投げ出してたかもしれない……」


「俺だって、クリスがいるからなんとかなってる。昔からそうだったろ? 夜営で背中合わせに座ったとき、いつも先に眠っちまうのは俺だった」


 火のはぜる音、獣の息遣い。背中越しの呼吸を思い出し、口角が少し上がる。戦友の頼もしさ――なのに今は、それだけではない気がした。


 ――これって恋……なの? それとも……別のなにか?


 答えは出ない。けれど並んで話すだけで、呼吸は少し整った。


◇◇◇


 薄明の裏通りは、表の大通りから音を吸い取っていた。鍋の焦げた匂いと脂の酸っぱい匂いがこもり、煮込みの湯気が低く漂う。石畳の目地は夜露でぬめり、傾いだランタンが、ぬかるみに鈍い楕円を落としていた。左手には雨水路がL字に折れ、赤錆びたといが屋根の影で黒く見える。


「……嫌な感じ。まるで獣の巣に迷い込んだみたい」


 足元で砂が細かく鳴る。風は北寄り。


「ああ。けど、ここで尻込みしてたら何も得られない。慎重に行くぞ」


 レオンの声が少し低く落ち、衣の下で袋の口金が触れ合う音がひとつ聞こえた。右側の壁沿いには、空樽と木箱が三つ、通行の幅を狭めていた――この先にある、抜けのよい左の細い筋の位置を、クリスは無意識に記憶へ押し込む。


 そこで、乾いた口笛が二度。屋根と路地の奥から、互いに合図を返すような短い音の反響が、薄い膜になって耳の内側に貼りついた。気づけば、人影は表通りへ抜け、こちら側だけに音が溜まっている。


 腰に短剣を吊った荒くれたちが近づく。皮のこすれる音と、古い酒の匂い。値踏みする視線が上から下へ撫で、背中を冷たい汗が伝う。右手の路地口には二人、背後の角に一人。屋根の樋の影にも、しゃがんだ影がひとつ。


「見ない顔だな……夫婦か? この界隈じゃあ、あんたらみたいなのは珍しい」


 光の輪がレオンの肩先で薄く揺れ、クリスは視線だけで左側の抜けを確かめる。金属と酸の混じる匂いが、暗がりから漂ってきた。


 レオンが受け答えでいなし、クリスは俯いて存在感を薄くする。壁に貼られた古い告知紙が、風でふっとめくれ、内側の乾いた粉が舞う。


「……ここに入ってきたってことは、あんたら覚悟できてるんだよな? 何かしら出してもらわなきゃ、ここは通せねえな」

「なーに、さっさと金か女を差し出せば、見逃してやらねえこともねえんだが?」


 最前列の靴先が一歩、樽の影へ潜る。次の瞬間、頭上――雨樋の影から小石がはね、続いて掌大の小瓶が斜めに落ちて、石畳の角で鋭く弾けた。


 小瓶が砕け、赤い煙が舌に針を立てた。酢を焦がしたような刺す匂いが一気に満ち、視界の輪郭がにじむ。屋根の投げ手が合図を送り、男たちが前後左右から詰めてくる。煙で視界を奪ってから取り囲む――これが彼らのやり口なのだ。


「……クリス!」


 叫びの熱が耳殻に残る。石壁のざらつきが背に確かで、風が北から頬を撫でた。


「くっ……煙で目が……。レオン、下がって! 壁、風上へ」


 壁面の冷たさが皮膚に移る。咳き込むうちに、視界の赤が薄まる。風上へ肩を寄せると、煙の刺激は一段やわらぐ。刺すにおいで息が細くなる。男たちが足音を忍ばせ、取り囲むように動く。前二、右一、背後一。多くはないが絡め取りには足りる数だ。樽と木箱が並び、身動きの取れる場所は限られている。


「わたしが囮になる。半歩前、合図で右へ」


 クリスは足裏で目地の段差を探り、抜け道へ向かう角度を確かめ直す。


「一人じゃ危ない! お前が倒れたら、俺は――!」


 レオンの声の震えに、指先の血が戻る。


「平気、あなたがいるもの。三歩で散って、二で戻る」


 重心を落とす。


 赤煙の膜が揺れ、靴底に粉塵が吸いつく。樋の水滴がひとつ、肩口に冷たく落ちた。


「そこっ!」


 刃の風が頬をかすめ、冷えた粉塵が歯の裏にざらりと触れた。右手で相手の手首を極め、刃を落とさせ、樽の縁を踏み台にして蹴りで相手を遠ざける。左の影が踏み込む気配を耳で捉え、肩で入って壁へいなし、相手との狭い隙間に肘を差し込む。


「くっ……女のくせに。こいつ、ただ者じゃねえ!」


 油の匂いが漂うなか、呻きが響いた。赤い膜の向こうで、屋根の影の投げ手が一瞬だけ躊躇する。


「行商の奥さんだからって、弱いとは限らないのよ」


 息を吐き切ると、喉の刺激がすっとやわらぐ。指にかいた汗が冷える。


「さすがはクリスだ。視界を遮られても、いつも通り!」


 レオンの位置は風上、壁際。足音で、彼がこちらの動きに合わせているのがわかる。


「あなたもね! わたしに合わせられるのはレオンだけだよ。二歩目で肩、三歩目で手首を抜いて」


 粉塵がわずかに晴れ、左から踏み込んできた男が壁際に見えた。その脇を抜ければ、先ほど確かめた左の細い抜け道へ向かえる。


 屋根には、まだ小瓶を投げた男がいる。クリスは壁に指先を擦りながら、レオンの合図を待った。


「……今だ、クリス! 三、二、一」


「ええ! 一気に突破するわよ! 左、細い抜け道!」


 呼吸と足並みを揃えて折れ、L字の角で体を薄く返す。背後で怒声がほどけ、赤煙にむせる男たちの足音が遠のく。路地の口で小舟の鈴のような音が鳴り、通りの澄んだ空気が肺に入った。


 突き当たりを曲がり、物陰をすり抜け、外の通りへ。パン屋の窯から香りが漂ってくる。目の縁は、まだひりついていた。


「何ごとだ!?」


 通行人が一様に振り返り、二人は頭を下げて人の流れへ身を滑らせた。背後の路地からは、まだ煙の匂いが薄く追ってくる。


 馬の顔を見た途端、力が抜ける。車輪の脇に膝を折る。赤い煙の臭いが汗に混じり、走ったあとの熱で頬が火照る。レオンが手綱を確かめ、そっと肩に触れた。


「……大丈夫か。怪我は無いか? こっち向いて」


「ううん、ちょっと転んだくらい。かすり傷もないわ。ほら、手だって……あ、少し震えてるか」


 見せた指先はかすかに震え、自分で気づいて苦笑が漏れた。膝に溜まった熱が、ゆっくり引いていく。


「よかった……。お前が怪我でもしたら、俺……まともじゃいられないから」


 馬の鼻息が短く混じった。


「……ごめん。少し無理したかも。でも、あなたがそばにいたから、大丈夫だって思えた」


 言葉と一緒に、肩の強張りがすっと緩む。


「……うまく言えないが、今のお前にはもう無理はさせたくない。次は俺が先に動くから。とにかく、裏道に入るのは避けよう」


「うん……あんな場所、もう二度と行きたくないわね。情報は得られなかったけど、命があっただけでも良しとしなきゃ」


 額の汗が風で乾き、煙の匂いが遠のく。喉がようやく水を求める。


「そうだな。あんな連中に時間を取られてたら、危険が増すだけだと思う。休める所まで出よう」


 馬が耳を揺らし、ひづめが一度だけ石を軽く叩いた。通りの陽が輪郭を戻し、二人の呼吸は、ゆっくりと落ち着いていく。


◇◇◇


 街を抜け、街道に出る頃には、朝陽が雪景色を淡い金に染めていた。馬のたてがみが光を拾い、鼻息が白く弾けた。レオンは口数も少なく、手綱をとりながら横目でクリスを見る。


「……クリス、寒くないか? 毛布をもう一枚足せば?」


「うん……ありがとう」


 ふと彼の袖口に裂け目を見つける。刃が掠めたのだろう。レオンは、クリスを庇うことに夢中だったのかもしれない。みぞおちが浅く締まり、息が半拍遅れる。


「あなたこそ、袖が少し破れてる。あとで縫わなきゃ。止まるとき、座って。すぐ終わらせるから」


 助けられた安堵に、少しだけ後ろめたさが混じる。


「……ごめんなさい。わたしのせいで、あなたに負担をかけちゃって」


「気にすんなって。こういう時は、お互い様だろ。守り守られ、補い合う。任務でも、任務じゃなくても、俺はきっと同じことをする」


 言葉の温度が、演技と現実の境目をやわらげる。


 馬車は軽い揺れとともに進む。さっきの喧騒が嘘のように、ひんやり澄んだ朝の空気が二人を包んだ。

 

 目的地は、北方街道の中間要衝都市「ボコタ」。


「……そういえば、これからボコタに行くんでしょう?」


「北へ向かう物資や私兵が、いったんボコタに集まってるらしいからな。あそこには伯爵の関係者が残ってる可能性もある。油断はできないな」


 横顔に決意の影が差し、クリスも頷く。まだ証拠は足りず、所在も闇の中だ。けれど、並んでいれば少しずつ真実へ近づける――そんな予感が、掌の温度みたいに確かだった。


「……本当に探し出せるのかしら。もし、すでに遅かったら……」


「そんな不吉なこと考えるなよ。陛下だって、俺たちなら可能性があると信じてくれてる。そうじゃなきゃ、こんな任務は与えられないさ」


 穏やかな声がざわめきを低く撫でる。車体の揺れに合わせて体が寄り、こっそり心音が早まる。


 情報は乏しく、宰相の影はあちこちにちらつき、伯爵の失踪は深い謎に包まれたまま。だが、少なくともクリスは、レオンと一緒にいる限り、諦めずに前へ進める気がしていた。


 ー――それより……この気持ち、どうすればいいんだろう。


 頬を撫でた風が顎先でほどけ、熱の名残だけが皮膚に薄く貼り付いた。視界いっぱいに、朝日を帯びた白銀の世界。祝福のように、雪原がほのかな金色へ変わっていく。芝居だとわかっていても、危機をくぐり抜けた後の安堵は本物の甘さを帯びる。


 闇市場の危うさをくぐり抜け、二人は再び旅を続ける。宰相の私兵と物資の動向を確かめ、伯爵の足取りを掴むために。


「……それじゃ、行こうか。ボコタまで、まだしばらく距離がある」


 朝日の縁が雪面を撫で、影だけが二人の距離を測った。


「うん。焦らず、でも迷わず。ねえ、着いたらまず温かい茶を飲もうよ」


 湯気を思い描いた瞬間、喉が小さく鳴った。


「了解。……熱いのがいい」


 寒風吹きすさぶ雪道を、揺れる馬車は静かに進む。高くなる朝日に、雪上の轍が長い影を落としていく。暗い二本の筋は細く伸び、約束の線みたいに先へ先へと続いていった。

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