薄氷に揺れる王冠――宰相の影と少女の誓い
朝から続いた会議を終え、ミツルが執務室へ戻る頃には、外は暗くなっていた。胸には、宰相に先手を取られた悔しさが残っている。
こつこつと響く靴音が石畳に吸い込まれる夜の王宮は、いつも以上に気味悪いほど静かだ。大理石の壁にかすかな燭火の明かりが反射し、廊下を薄く照らしている。まるで闇の世界と紙一重のような、そんな感覚さえ覚える。
――宰相からすれば、こちらの手の内などすべてお見通しだったということか。わたしの一挙手一投足を、まるで楽しむように観察していた……。
その思いが頭をかすめる。先ほどの会議では、自分が幾重にも考えていた「切り札」を切ったにもかかわらず、最終的には宰相にうまく回収された形になってしまった。対案を出そうにも、「女王ならばこうするのが筋では?」と暗に迫ってくる宰相の言動が、ミツルをジリジリと追い詰めてきたのだ。何度も舌打ちをこらえながら、足早に執務室へ戻る道を急ぐ。重たい絨毯の上を進むたび、苛立ちが何度も胸の底でうずまき、辛うじて表情には出さないようにしていた。
脇を守る王配ヴィルが、いまにも言葉をかけようとして口を開きかけるものの、ミツルの表情を見て思いとどまっているらしい。その口をつぐんだ姿に、ミツルはむしろ彼の優しさを感じると同時に、自分の苛立ちの大きさを痛感した。
ここで何か話せば、大理石の壁の向こうに潜む宰相の『影の手』に筒抜けになってしまうかもしれない。息を詰めるようにして、二人はただ黙って廊下を進んだ。ふたりだけの密やかな空気が流れるが、その実まわりにはいくつもの視線が潜んでいるかもしれない。
◇◇◇
執務室の重い扉をくぐった瞬間、ミツルはようやく深い息を吐き出す。扉が閉まる音が耳に届くと、固まっていた身体が少しだけ解放されるような感覚があった。
「はぁーっ……」
思わず唇から漏れた嘆息とともに、会議中にこらえていた感情が一気にこぼれ落ちる。怒りだけではない。宰相に思うように誘導された悔しさ、そしてロゼリーヌとリュシアンを救いたいという切実な願いのはざまで、思うように動けないもどかしさが胸を塞ぐ。ヴィルもまた、「やれやれ」とばかりに頭を掻いていた。その仕草を見て、ミツルは彼にも思うところがあったのだと受け取る。
執務室の中は夜の帳が下りたような静けさに満ちていた。しかし、煽られた焦燥にミツルの鼓動はまだ早く、心がざわついてやまない。そこに待ち構えていた侍従長コルデオが、深々と一礼して、二人の様子を気遣うように声をかける。
「陛下、殿下。ご疲労のご様子、まことにお察し申し上げます。すぐに温かいお茶をお持ちいたします」
コルデオの柔らかな声に、ミツルは微かな安堵を覚え、短く答える。
「ええ、助かります。いつものでお願いできますか」
コルデオはミツルの顔色を案じるようにうかがい、柔らかな口調で続ける。
「お顔色を拝しますに、会議は難渋されたご様子。どうかご自愛を」
ミツルは苦々しげに小さく息を吐いた。公の場では表情を変えないよう努めてきたが、ここなら少しだけ弱みを見せてもいいかもしれないと、張りつめていた肩の力がかすかに緩む。
「わたくしなりに、できうる限りの手は尽くしたつもりよ。……でも、宰相の方が一枚上手だった。悔しいけれど、見事としか言いようがないわ。どんなに言葉を重ねても、最後はあの筋道へ収束させられてしまったのだから。はたして、わたくしの選択が最善だったのか……まだ喉に引っかかっているの」
そう言いながら、ミツルは首を回して肩の力を抜く。会議での押し引きは決して一方的に負けたわけではないが、宰相が狙うところへ最終的に乗せられたような敗北感が拭えないのだ。
コルデオは眉を下げて静かに首を振り、隣の別室へ向かう。気を使ってくれようとしているのだろうかと、ミツルはその背を見送った。もっとも、すぐにヴィルが一歩近づいてくるので、ミツルが完全にひとりになることはないのだけれど。
ヴィルは、ミツルの隣に立つと身をわずかに屈め、落ち着いた声で宥めるように言葉をかけてきた。その声に宿る低音が、どうしようもない苛立ちを少しだけ和らげてくれる気がする。
「悔やんでも仕方がないさ。お前は最善と思える手札を切った。だったら、もう前だけ見ていればいい」
ヴィルの言葉はどこか投げやりにも聞こえるが、ミツルは彼の人柄を知っているからこそ、それが最大限の優しさと励ましだと分かっている。
胸の奥に疼くわだかまりを吐き出すように、ミツルは短く答えを返す。
「……わかってる。王宮から動けない今のわたくしには、他に手がなかった。時間を稼ぐ必要もあったし」
「宰相派が目を光らせてる以上、動けば狙い撃ちされるのがオチだ。動かぬことも立派な戦だが……お前はその停滞すら、動くための布石に変えた。悪くないどころか、上出来だろう」
ミツルはその言葉に一つ頷いたが、宰相に対する焦燥が再びこみ上げてくる。
「男爵家の置かれる危機的状況、伯爵の隣国との裏取引、宰相との関係と金の流れ、銀翼の派遣、それらをちらつかせて、宰相の焦りを誘う。たしかに、こちらの思い描いた筋書き通りに進んだ、ということは……否定しないわ。でも、決断することが、こんなにも怖しいものだなんて思いもしなかった……」
一気にまくし立てるようにそう言ったミツルに、ヴィルはわずかに目を伏せてから納得するように頷く。
「今頃あいつは『女王を屈服させた』って、得意げに思ってるだろうさ。でもな、伯爵の拉致に奴の私兵と影の手が絡んでいたとなれば、それはもう、謀反も同然だ。背信行為で引きずり落とす……一気に、な」
そう、その可能性に賭けるしかないのだ。ミツルは椅子の背もたれに寄りかかりたい衝動を抑え、窓のほうへ目をやる。そこには冬の空が広がり、灰色の雲がどっしりと垂れ込めていた。
「問題は、宰相が男爵家へ辿り着くまでにどれだけ時間を稼げるか。その間に伯爵の安否を確認して、ロゼリーヌ様たちを無事に逃がす手立てを見つけたい。でも、もし間に合わなかったら……。結局、引くに引けなくなってしまったのは、わたくしも同じよ」
ミツルが唇を噛んでいると、ヴィルが視線を落としながら、でも決して暗くならない落ち着いた声音で言った。
「たしかに、こちらとしても危ない賭けではある。だが女王の名代って看板を手にした今、あいつは自分の手で幕を引こうと躍起になるに違いない」
それこそが宰相のやり方だった。ミツルは目を細め、口端にわずかな怒りを宿す。
「……でしょうね。宰相は、正しき道を通すのでしょう。あくまで表向きは、だけど。でも、その裏でロゼリーヌ様に『もはや救いなどない。逃げ道はない』と突きつけるつもりなのよ」
言葉を切り、ミツルは唇を噛んで息を詰めた。
「人を人とも思わない冷酷非情。数字や単位でしか測らない実利主義。……これが、政治家としての、あるべき姿なのかしら? わたしには、よくわからない。ただ……そんな理不尽をわたくしは見過ごせない。いいえ、許せない。それだけよ」
想像するだけでも、ロゼリーヌやリュシアンが脅かされる光景が目に浮かんでしまう。宰相はひとたび立ち回りを始めれば、慈悲などないと考えたほうがよいだろう。
ヴィルはミツルの心情を察したように、少し肩をすくめながら言葉を継ぐ。
「……それでいいさ。お前はお前のやり方で、最後まで抗えばいい。許せないというその思いを大事にしろ。俺は……そういう正しさを持つおまえの味方だ。たとえ迷っても、この俺が隣で肩を貸す」
「ありがとう、ヴォルフ。心強いわ」
「時間と言えば、今現在、北方街道は雪深い。宰相ご自慢の豪華な馬車じゃ、どんなに急いだって二週間、下手すりゃ三週間。王都でぬくぬくしてた身には、この寒さは相当堪えるだろう」
「その遅れが、こっちの猶予になる。彼に先んじて銀翼騎士団の北方展開が完了すれば、あとはステファンたちと合流して、いつでも突入できる態勢が作れる。今できることはそれくらい。ほんとに歯がゆいわ……」
そう言ったミツルの声は、明らかな苛立ちと諦念の混じったものだった。しかし、ヴィルの腕に手を置いてみれば、その頼もしさにほんの少し気持ちが和らぐ。彼もまた憂いを帯びた表情をミツルに向けているが、その奥には『必ず挽回できる』という思いがあるように感じられた。
「今は仲間を信じるしかない」
「もちろん信じているわ。でも、一網打尽なんて理想的な展開は、そうそうありえないでしょうね。……わたしはただ、間に合ってほしいと願うしかない……」
ミツルの声がかすれて震えた。宰相に先を越され、母子を手に入れられたら、王宮の情勢は宰相が好き放題に動かしはじめるかもしれない。まるで未来が真っ暗に閉ざされるような悪夢が脳裏をかすめ、そこへ追い打ちをかけるように伯爵の安否が胸を塞ぐ。伯爵がどうなっているかも分からないまま宰相が男爵家を制圧すれば、伯爵が握っていた情報や権力も丸ごと取り込まれてしまうかもしれない。そんな最悪の未来図が浮かび、指先が微かに震えてくる。
宰相なら、女王の名代として赴くことを、全権を委ねられた証だと偽るかもしれない。ミツルが思い描く男爵家の光景の中で、あの冷酷な声が響く。
『あなた方には私に従う以外の選択肢は残されておりません。おわかりですね? 王国宰相であるこの私がここを訪れたということは、全権を委任されたという証です。あなたの信じる女王陛下ご自身が、そう判断を下されたのですよ。すなわち、我が身可愛さのあまり、あなた方を見捨てられたということです』
一縷の望みを託した相手に裏切られたと思わされたなら、ふたりは絶望の底に沈むだろう。想像しただけで身体の震えを止められないミツルの手を、そのとき、ヴィルが大きく包み込んでくれた。
「お前は持てるすべてを注いでよくやっている。それとな、お前は決して一人じゃないんだ。銀翼の皆がお前と志を同じくして、この寒空の下で戦ってくれている。怖れることはない」
ミツルはわずかに首を振って、何かを言いかけるが、言葉がうまく続かない。
「ヴォルフ……」
短く彼の名を呼び、顔を上げると、ヴィルの瞳がミツルを見つめていた。そこには自分に対する揺るぎない信頼が滲んでいるように映る。
「お前ならきっとやれるさ。俺はそれだけは信じている」
「……うん」
「ああ……それとだな、こういう時は少し休め」
「……とてもそんな気分になれないわ」
「心が乱れていては、どんな作戦だってうまくはいかないぞ? 一瞬でもいい、息を抜ける時には抜け。それが上に立つ者にとって大切なことでもある」
言いながらヴィルは深い息をつき、そっとミツルの肩に手を添える。その仕草に、自分の苛立ちや不安をすべて受け止めようとする意志を感じ、ミツルは少しだけ肩の力を緩めることができた。
「……わかったわ」
ちょうどそのとき、ティーセットを載せたトレーを抱えてコルデオが小さく声をかけた。
「陛下、僭越ながらヴォルフ殿下のお言葉、まことに道理にございます。実は、宰相に与しない諸家の縁をたどり、水面下の照会を進めております」
「コルデオ……あなたが、そこまで?」
「左様に。ダビド殿の通報に基づき、宰相の専横を示す証の洗い出しを――北門倉庫の受払簿と封緘書、塩座の専売帳合と運上金受領目録、そして財務局歳出簿・軍務庁出納帳・王印令状簿の三点照合、此度はこの順で当たっておりますが、私の見立てでは、ほぼ黒かと……」
自分が取りまとめた、大戦後の食糧難を捌くための一元的物資管理――それが、宰相の恣意に都合よく転用されているというのか。
「もし、もしそれが事実なら……」
胸の内で冷えが静かに広がった。
「はい。どんなに国益に資するとも、行政令の枠を逸脱した越権であり、王権を空洞化させる背信に他なりません。男爵家が抑えられる前に端緒が出れば、封じ込めは可能にございましょう」
コルデオの声は落ち着いている。伯爵の私兵が押さえている男爵家を、さらに宰相の手へ渡すわけにはいかない。ミツルには、その瞳が『きっと大丈夫です』と力強く語りかけているように見えた。
ヴィルもまた、あらためてミツルを勇気づけるように目を合わせてくる。
「あとは、伯爵失踪に宰相側が関わった決定的証拠を掴めれば、一気に形勢を覆せる。勝負はまだ終わっていない」
「そ、そうね……戦いはまだこれからよ」
ミツルは、ヴィルの腕をぎゅっと握りしめる。その力をヴィルは感じ取ったのだろう、少しだけ笑みを浮かべて、握りしめている手に自分の手を重ねてくれる。重なった大きな手のひらは温かかった。
ヴィルはまっすぐな視線でミツルを見つめたまま、さらに言葉を続ける。
「今は動けずとも、時がくれば……わかっているな?」
ミツルはコルデオから手渡された湯気立つカップを受け取り、ほんのりと温かな紅茶の香りに意識を向けた。焦りはまだ消えない。彼の言う時を、いったいどれだけ早く引き寄せることができるだろうか。
「ええ、いざというときは先陣を切る覚悟よ。女王として、精霊の巫女として、わたくしのすべてを懸ける」
自分の言葉が強く響くのを聞き、ミツル自身も心が奮い立つのを感じた。ヴィルは少しだけ口角を上げ、鷹のような鋭い瞳でミツルを見据える。
「その覚悟やよし、と言いたいところだが。あのさ、お前相当溜まっているだろ?」
「当然でしょう? あなたもそうじゃないの?」
ミツルがそう言うと、ヴィルは腕を組んで「ははは」と小さく笑った。
「そりゃそうさ。俺はこんなところで腐ってるより、戦うほうが向いている性分だからな。まあ、安心しろ。俺が持つ聖剣は、なんだってぶった斬る、いわば無双の剣。怖いもの無しだ」
「……そうね。魔獣相手でもなければ、あなたの剣とわたくしの精霊魔術で……なんとかなると思う。それに、なにも命まで奪う必要はないでしょう」
そう言いながらも、単純な武力や魔術での制圧で解決する問題ではないことも理解している。きっと巧妙な駆け引きがあるだろうし、予想外の第三勢力の介入も視野に入れておく必要がある。
けれど、ミツルの中には、どうしても守りたいものがある。それを傷つけられるなら、全力で立ち向かうのみだ。
「ならば、いつでも男爵領に向かえる準備を整えておこう。馬で移動するなら、やり方次第では先回りすることだって可能かもしれん」
ヴィルの言葉に、ミツルは顔を上げる。
「……できるの?」
「できるさ。気づかれぬよう、銀翼の後方支援連中や個人的なツテに動いてもらう。詳細は段取りが整い次第、報せよう」
「そう……万が一に備えて、お願い。でも、くれぐれも無理だけはさせないで」
「おう。任せておけ」
二人は見つめ合う。息が詰まるほどの沈黙のなかで、互いの決意を確かめ合うように視線を交わしていると、そこにコルデオが苦笑を浮かべた様子で言葉を投げかけてきた。
「陛下、殿下。恐れながら、お茶が冷めてしまいます。ひとまず、ご休息を」
意外なほど柔らかい声音に、ミツルとヴィルはふと我に返る。紅茶のカップに指をかけ、静かに一口含むと、その温かさが喉を通り、冷え切っていた身体を少しずつ温めていった。
――宰相と伯爵の暗闘、男爵家母子の危機。どこまでわたしが切り札を握れるのか……。
正直、不安は尽きない。宰相が北へ発つ前にレオンやダビドらが成果を上げてくれる可能性は十分にあるが、間に合わなければ自分に打つ手は少なくなる。それでも、ヴィルやコルデオ、そして銀翼や特別班の仲間たちがいてくれる。何とかなると、ミツルは信じたかった。
ヴィルはぐいっと紅茶を飲み干すと、ミツルに向き直って小さく微笑んだ。その瞳に浮かぶやさしさが、宰相との厳しい闘いにおける救いのように思える。
ミツルは彼の表情を盗み見る。会議中も、いつでも自分の隣に立ち、あの威圧的な貴族や宰相ですら一目置くほどの存在感を放っていた。このヴィルという人物は、気取らない態度のなかに強い意志と力を秘めている。政治の駆け引きこそ苦手かもしれないが、ミツルにはそれが頼もしいのだ。
――まるで、いつだってわたしのそばに立っている、揺るぎない大木みたい……。
◇◇◇
前にいた時代のことを、ミツルは思い返した。二人は師弟で、旅の仲間で、魔獣狩りの相棒だった。
遠い記憶の夕暮れ、赤い地平線の向こうには、いつも彼の大きな背中があった。ふたりで冒険に挑み、夜には火を囲んで酒を酌み交わす。そうして互いに語り合うたびに、彼の温かな存在を確かめていた。
思えば天涯孤独だった自分は、最初彼に失われた父性を求めていたのかもしれない。けれど、甘えてはいけない、と彼と対等に並び立ちたいと必死だった気がする。
子ども扱いされたくなかった。それでも、小さな身体に二十一歳の心を宿していた頃は、彼の頼もしさの前にどうしても甘えを捨てきれなくて。そんな自分を嫌いになりそうなくらい、がむしゃらだった。「早く一人前になって、ちゃんと認めてもらわないと」――ただそればかりを考えていたのだ。
けど、たとえ二十一歳の大人としての自覚で背伸びしても、その頃の自分の身体は十二歳で、彼には手のかかる目が離せない子供と見えていたのだろう。
強くなりたい、追いつきたいと願うほどに、その幼い肉体は無情にも自分を裏切った。何かに挑めば傷つきやすく、彼はいつも助けの手を差し伸べてくれた。「また助けられてしまった」――悔しさもあったけれど、その手のぬくもりが嬉しくなかったわけじゃない。
そんな二人は、魂だけそれぞれこの時代のメービスとヴォルフに乗り移ってしまったのだと、ミツルは今も受け止めている。十二歳と四十四歳という厳然とした年齢差は、少なくとも肉体的にはほぼ無くなってしまったのだ。その上、女王と王配という状況。
まるで夢のような、あるいは運命の悪戯のような巡り合わせだと、内心で何度も思った。彼と自分の今は、過去には想像もしなかった距離感を作り出している。昔のままの師弟関係とは言えず、かと言って明確に大人同士の平等でもない。どこか曖昧で、しかし不思議な親密さがそこにある。
以前は、何年かして彼に振り向いてもらえる日が来たら、その時考えればいいと思っていたのだから。そんな先の未来を、当時は悠長に思い描いていた。強くなって歳を重ねて、彼の隣に立つ姿を想像していた。けれど、現実はこうして自分の前に“いま”を突きつけてくる。
だから……いろいろ思うところはあるわけで、彼がいまの自分のことをどう見ているのか知りたいと思ってしまう。けれど、何度尋ねても、彼の本心を聞けた気がしない。彼の瞳の奥を覗いてみたい、そう思ってしまうたび、心がじんわりと熱を帯びる。ミツル自身、この処理不能の気持ちをどうすればいいのかわからなかった。これから先、自分と彼はどうなっていくのだろう。
ときに会議の合間や、戦略を練っていてふと一息ついたとき、どうしても想いが溢れそうになる。師弟や仲間だった頃の姿が鮮明に蘇り、その延長線上にある恋という感情に少しだけ胸が疼くのだ。こうして彼の隣で、女王として見られる自分に、ほんのかすかな誇りと戸惑いを感じる瞬間がある。
――そんなこと、考えている状況じゃないのに。
頭でそう分かっていても、つい彼の視線の温度を探ってしまう。自分が女王として抱える責任は重いし、宰相の陰謀を打ち砕くための政略が山積みなのに、彼が優しく笑ってくれるだけで心が逸る自分がいるのが情けない。
それでも、この曖昧さがミツルの胸をくすぐる。師匠なのか、相棒なのか、あるいはいつか恋人同士になりえるのか――答えはまだ見えなくても、そうした微かな期待や揺らぎが、厳しい現実をひととき忘れさせてくれる。
◇◇◇
紅茶の湯気がふわりと立ちのぼり、部屋の冷たさをほんの少し和らげる。コルデオはそっとミツルのカップに茶を継ぎ足しながら、控えめな笑みを浮かべている。まるで『まだ負けてはおりません』と言ってくれているようで、ミツルは心がすうっと軽くなる思いがした。女王として、いや一人の人間として、持てるすべての力を使ってでも男爵家の母子を救う。ミツルはヴィルの腕を軽く握りしめ、彼の瞳の奥に宿る静かな炎を見つめた。
「お前は一人じゃないんだ。みんなで宰相を出し抜き、伯爵失踪の真相を掴んでやろう。そうすれば、奴も好き勝手にはできなくなる」
その言葉を聞いて、ミツルはコルデオのほうへ振り返る。彼もまた、その視線を受け止めてくれるように笑みを返してくれた。その笑みに、今の王宮にわずかに残る温かさを感じる。男爵家へ向かうまでに、宰相がどのような工作を裏で進めるのか。伯爵がいったい今どこで何をしているのか。わからないことばかりだが、それでも信じたかった。銀翼の仲間たちが、いつか陰謀の裏の闇を白日の下にさらし、母子を守り抜く道筋を作り上げてくれることを。
ミツルはカップを置き、軽く目を閉じる。目を開けると、ヴィルが横目でこちらを見ながら、何も言わずとも肯定するように頷いてくれた。その沈黙が何より心強い。
「……ありがとう。ふたりとも」
小さく呟くミツルの声は、執務室の静寂に溶け込んでいく。コルデオは「とんでもございません」とすぐ返事をし、ティーカップを片付けつつ、そっと遠慮がちに出て行った。明かりが揺らめく部屋には、ミツルとヴィルだけが残る。廊下での沈黙とは違い、今は安心できる沈黙だった。ヴィルの気配を感じながら、ミツルはこの国の未来や母子の行く末を思う。
――宰相。あなたの好きにはさせないわ。わたしは、黒髪のグロンダイル。巫女でもなければ女王でもない。そんなわたしの戦い方を見せてあげる。
ミツルは拳をぎゅっと握りしめた。ヴィルがふっと笑みを浮かべ、その肩にそっと手を置いてくれる。夜の王宮は静かに深まり、外の雪は降り積もっていく。




