↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第二十章 雪路をゆく、ふたりの銀翼
555/577

白銀の王宮で夢みるわたし――旅に重ねたもう一つの未来

 夜更けの執務室で、ミツルは今夜も書類の山に囲まれていた。机を照らす灯りは薄暗い。顔を上げても、曇った硝子窓の向こうは白く、外の様子はよく見えなかった。


 足元から這い上がる冷たさが脛まで届く中、指先が痺れるたびにペンを握り直すが、まだ仕事をやめられない。乾いた紙の上を穂先が擦る音を聞きながら、ミツルは次の行へ目を移した。


 けれど、一人で机に向かっていると、女王として振る舞うあいだは口にできない思いが浮かんでくる。喉がきゅっと詰まり、深く息を吸おうとしても、胸の途中でつかえてしまう。


 ミツルは公文書をめくり、署名した文字に砂を振ってから、余分な砂を払った。同じ作業を繰り返すうちに、両親のそばにいたときの温かさや、食卓の匂いをふと思い出す。懐かしいのに、その暮らしが遠くなったことまで思い知らされ、みぞおちのあたりが重くなった。廊下からは人の声も足音も聞こえない。硬い背板に触れているうちに、誰かの体温に寄りかかりたくなった。ほんの少し、息をつけるあいだだけでも、背中を支えてもらえたらと思う。


 「あなたは女王なのだから」――そう言われれば、それで終わる。けれど、果てのない事務の波がこの先も続くと思うと、心はふっと萎む。いつから、何をしていても責務のことばかり考えるようになってしまったのだろう。


 魂と呼べるだけの全情報――意識と記憶をこの時代に飛ばされてもなお、彼女はまだ「ミツル・グロンダイルである」という認識でいた。憑依した先のメービス自身の記憶を持たないまま、女王として振る舞っている。ミツル本来の人生は、どこでこんなに変わってしまったのだろう。未だに元の時代に戻れるという確証もないまま。


◇◇◇


 三年にも及んだとされる魔族大戦が終わり、荒れた国土と疲れ切った人々の暮らしを立て直す。その中心に自分が立つことになるとは、ミツルは想像だにしていなかった。


 黒髪ゆえに忌まれた王女メービスには、戦いのあと、愛するヴォルフと自由に旅を続ける道もあったはずだ。その彼女が「緑髪の精霊の巫女」として人々を救い、国家再建のために暫定の「女王」となった。その役割を今はミツルが引き受けている。黒髪を隠し、メービスとして人前に立つたび、自分では選んでいない役まで負わされている気がした。誰かの意図に導かれてここへ来たのではないかと考えても、答えは出なかった。


 かつてのメービスは、旅をして自由に暮らすことを夢見ていたのかもしれない。ミツルにも、風に吹かれながら知らない土地へ向かう喜びは覚えがあった。地図を広げ、まだ見たことのない場所を探す時間が好きだった。それは、前世の柚羽美鶴にとっても、夢のようだった。


 けれど今は、国を立て直すための隙の無い案を考え、貴族院と折衝を重ねなければならない。宰相に横槍を入れられても、そこで引き下がることはできない。ミツルはその都度文面を確かめ、女王としてだけではなく、一人の人間として、引き受けたことから逃げずにいようとした。


 メービスの父である先王から知らされたのは、兄である王子ギルクと男爵家令嬢ロゼリーヌの間に生まれ、王家から離れた地で育った子息リュシアンの存在だった。ギルクの書状にも、ロゼリーヌとリュシアンを案じる言葉が残っていた。母子が置かれた立場を思うと、今も胃のあたりが冷たくなる。


 ミツルは母子を王位継承の切り札として扱うつもりはなかった。男爵家を訪ねたのは、ロゼリーヌが母として何を思い、どのように子を守ってきたのか、その気持ちに少しでも触れたかったし、リュシアン自身と言葉を交わしたかったからだ。いつか自分も母になる日が来るのだとしたら、と。そこまで考えると、自分にも関わるものに思えた。あの訪問ではロゼリーヌと向き合い、書斎でリュシアンの好きな本の話を聞いた。何より、リュシアンに前世の幼かった頃の自分や弟を重ねてしまうのだ。あの純粋さは、何よりも尊いと思える。


 なのに、いまレズンブール伯爵家の紋章を掲げた兵が男爵家を押さえ、宰相の側はリュシアンの血統の正しさを掲げて、擁立のために動いている。母子の声が届かないまま筋書きが進むことを、ミツルは見過ごせなかった。


 ロゼリーヌが託した手紙は奪われ、ミツルは男爵家の執事の証言を通して、ようやく母子に迫る危険を知った。こちらからは返事の催促はしないと決めていた。政務に追われていた。そんなものは言い訳にもならない。もっと早く気づいていればと考えるたびに喉が熱くなり焦りが募った。


 ミツルは銀翼を動かして男爵家の状況を探らせた。現地から届いた報せでは、屋敷はすでに伯爵家の紋章を掲げた兵に押さえられていた。その間にも宰相側はリュシアンの擁立を唱え、ミツルには、自分を退位へ追い込むために話が進められているように見えた。


――もはや、戦うしかない。


 宰相の思惑から幼いリュシアンを守り、ロゼリーヌの尊厳を奪わせない。そのためなら、緑髪の女王として立ち続けることも引き受ける。苦しんでいる人を見過ごしたくないという気持ちだけは、前世も今も変わらなかった。


 女王として使える力を、守りたいもののために使うこと。私情といっていい。それでも、これだけは譲れない。そう考えると、冷えきった背中にわずかに熱が戻った。


 現状は厳しい。机には公務の書類が山のように積まれ、王宮の外へ動こうとすれば宰相の目がある。先王から「好きに生きよ」と言われたことを思い出すほど、今は選べないことが気にかかった。


 ただの冒険者なら、行きたい場所へ行けただろうに。思い浮かべても、今のミツルには王宮で果たす役目がある。各地で働く仲間たちを信じ、報せを待つしかないことが、もどかしかった。


 だから、ここにいる自分にできることをする。女王の権限を用いて企みを断ち、ロゼリーヌとリュシアンを守るために働こうと決めた。ギルクが遺した母子への愛を、これ以上、誰かの都合で踏みにじらせたくない。女王としてだけではなく、一人の女性としてもう一度母子に会い、その手に触れられる日を願う。


 メービスとして果たすべき責務と、柚羽美鶴として抱く思いは、いつも同じ方向を向くわけではなかった。それでも、守りたい相手がいると分かっている以上、ここで投げ出す気にはなれなかった。


 ミツルは羽ペンを走らせ、手元の書類を読み進めた。自ら動けるその時を迎えるためにも、今はできる仕事を終えなければならない。先が見えなくても、そのために一枚ずつ片づけていくしかないのだ。


◇◇◇


 肩の鈍い痛みに耐えかねて、ミツルはペンを止めた。そっと肩を回すと椅子の背がきしみ、肩布の縫い目が乾いた肌に擦れる。同じ姿勢を続けた身体は固くなっていた。


――だめだ。こんなところで音を上げてたら、この寒空の下でわたしを支えてくれている皆に申し訳が立たないじゃない。


 ミツルは息をのみ、ペンを握り直した。インクを含んだ穂先を紙へ下ろすと、繊維に沿って小さく染みが広がった。


「あーあ、また無理をしてるな。――ちょいと失礼するぞ」


 廊下から続いていた足音が、椅子の後ろで止まった。誰が来たのかは、振り返らずとも分かった。肩へ温かい手が触れると、冷えていた肌に細かく鳥肌が立った。


――ヴィル……。


 旅の相棒だった頃と同じように、いつもそばにいてくれる人。若き王配ヴォルフとなった今も、ミツルがいちばん頼れる相手であることは変わらなかった。彼の手が肩を包み、凝ったところをゆっくりと押した。親指が骨の際へ動くにつれて、ミツルは詰めていた息を少しずつ吐いた。


「また? 本当に好きね、そういうの」


「ふん、そろそろ肩が凝ってるんじゃないかと思ってな。こういうことなら、俺の手だって少しは役に立つだろ?」


 指の力が少しずつ変わり、押されていたところに温かさが広がっていく。ミツルが肩の力を抜くと、首すじのこわばりも緩んできた。


「うん、役に立ってる。とっても………」


 ミツルは瞼を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。灯芯の匂いが鼻先に届くなか、浅くなっていた呼吸が、ようやく胸の奥まで通るようになった。


「ふう……楽になったわ。ありがとう、ヴィル。でも、あなただって、昼間は飛び回っていて疲れているでしょうに……なんだか悪いわね」


 ミツルは机の上で紙束の角を揃えた。冷たい紙の端に指を添えていると、こうして彼を立たせたままにしていることが気にかかった。


「気にするな。こういうのは昔から慣れてるんだ。……〝あいつ〟もお前みたいだったからな」


「それって、父さまのことかしら……?」


 ミツルが肩越しに見上げると、灯りを映した彼の瞳が、笑うように細くなった。


 ユベル・グロンダイル。未来の銀翼騎士団の右翼を率いていた頃の父を、ミツルはほとんど知らない。


「あいつは、あれやこれやと人の分まで仕事を抱え込んで、しょっちゅうため息ついては、肩を凝らしてた。で、見るに見かねた俺が、毎晩こんなふうに揉んでやってたわけさ。俺は書類仕事は苦手で、なんの手助けにもなれなくて、それくらいしかしてやれなかったんだ」


 ミツルがインク壺の蓋を閉じると、小さな音がした。積み重なった書類の向こうに、ため息をつきながら仕事をする父の姿を思い浮かべた。


「そんなの、初めて聞いたわ」


 ミツルの知る父は凛々しく、責任感が強くて、決して弱音を見せない人だった。けれど、母の前では不思議と無防備になることがあった。そのときの顔を思い出すと、ミツルは頬が少し温かくなるのを感じた。


「父さまが、あなたに肩を揉ませていただなんてね……」


「意外か?」


「ええ。でも、なんだか分かる気がするわ。あなたになら、頼んでもいいかなって思えるもの」


 口にしてから、ミツルは少し黙った。肩を押す手は変わらずゆっくりと動いている。机の上には仕事が残っていたが、今はこのままでいたかった。


「……もう少し、お願いしてもいい?」


「おう。それくらい、いくらでも」


 忙しい仕事の合間に、父もこんな時間を過ごしていたのだろうか。ミツルは膝の上へ手を下ろし、しばらく彼の手に任せた。


「ほい、だいぶほぐれたんじゃないか?」


 ミツルがゆっくりと首を回す。肩を動かしても先ほどのようには突っ張らず、背を伸ばすのも少し楽になっていた。


「ありがとう、ヴィル。少し楽になったわ。これで……もう少し頑張れそう」


「もう少しで終わるっていうなら手伝うが。……ん? そうだ、コルデオが言ってたんだが、レオンとクリスに何か妙なものを持たせたらしいな? いったい何だ? 気になるんだが」


 ミツルは紙束を取り上げるふりをして、彼から目をそらした。ランプの影が手首へ落ち、喉が鳴るのを自分でも聞いた。


「それについては……別に大したものじゃないけど。わたしからの指示書や任務に必要な資料。あと、ダビド班との接触日時と場所、符丁とかね。読んだら燃やすように書き添えたし。まぁ、ありきたり。普通よ普通」


「あのコルデオが言葉を濁してたんだからな。何か他にもあるだろ?」


 ミツルは紙束の脇へ目を落とし、机の木目を見つめた。


「あとは……裁縫道具や救急セット一式。雪の中を進むのは大変だから厚手のマフラーや手袋、身体を冷やすとまずいから温かい下着をたくさん……もちろん、高価に見えないように気を遣ったわ」


「ふうん」


「それと……」


 そこから先は声が小さくなった。ミツルは紙の角を指で確かめながら、ようやく口を開いた。


「言いにくいんだけど、その……避妊具を……入れておいたの」


 ランプの炎が短く揺れた。ミツルはその灯りを見つめた。紙に置いた指が落ち着きなく動き、その音がはっきりと聞こえた。


「はあ? あのな、あいつらがいくら仲が良いからって、夫婦のフリをするだけの、あくまで任務なんだぞ。そういう展開にはならんだろ……」


 ミツルは机の木目へ目を戻した。


「だから、万が一の話よ。もし何かあって、できちゃったら困るじゃない。彼らは一人前の騎士になる、って夢を追いかけてる最中なのに、子供を育てる責任を背負うことになったら……後悔するかもしれない。騎士を続けるにしても、たとえば乳母を雇うにはお金が入り用でしょ? それに、わたしが騎士団に託児所を作るなんて言い出したら、財務のラズロー公に煩く言われそうだし……いろいろ考えると、何か対策をしてあげたくなって……」


 言い終えると、ミツルは肩を下ろした。


「きっと誰もふたりを責めたりはしないでしょう。おめでとう、って祝福されるでしょう。でも、クリスにしても、彼女の願いをいちばん理解しているレオンにとっても、どうなのかなって……。わたしがクリスだったら、自分を責めてしまうかもしれないって」


 ミツルは書類の欄外を見た。〈保育:仮設〉と書き留めそうになったところで、ペンを持つ指が止まっていた。


「そこまで気を回さなくても、あいつらは激戦地を生き抜いたつわものだし、そこはちゃんとわきまえていると思うぞ。……まあ、持たせる分には構わんさ。あいつらもそれを見りゃ、嫌でも自覚するだろうしな。しかし、お前ってやつは、本当にとんでもない心配性だ」


 責める調子のない声に、ミツルはようやく息を整えた。


「それだけじゃない。わたしには、罪悪感しかないの……」


「なんでだ?」


「……結局、二人を囮のようにして送り出したのと同じなんだから。だってそうでしょ? どんなに偽装したって、敵の目を引き付けることになるのは目に見えてる。彼らが危ない目に遭って傷ついたり、最悪……死んでしまったりしたらと思うと。それに影の手が襲って来たらどうするの?」


 自分の声が沈むのを聞きながら、ミツルは水差しへ目を向けた。喉が乾いていたが、言い終えた不安のほうが気にかかり、そのまま彼の返事を待った。


「あのな、あんまり責任を背負いすぎるなって。そもそも作戦を立案したのは、この俺だ」


「けど、王宮に呼びつけたのはわたしよ。そのせいで、彼らのプライドを傷つけてしまったし、その上今度は人が足らないからって、都合よく危険な任務に送り出してしまった。自分勝手もいいところじゃない」


「考えすぎだ。それが一人前の騎士の務めというものだろ。それに、あいつらはそんなにヤワじゃないぞ?」


 ミツルは紙を握っていた指を緩めた。白くなっていた指先に色が戻り、手元を見ると、紙の角に折れ目がついていた。


「どうしてそう言い切れるの?」


「レオンが退き時を見誤らないことは、お前も知ってるだろう。クリスだって、気配を察知することに長けている。俺は、あの二人なら互いに助け合い、生き延びることができると信じている」


「それは、分かってるわよ。二人に頼んだのだって、そう思ったからよ。でも……敵の実体も規模も展開も、分からないことばかりじゃない」


「そうだな。何が飛び出して来るかまでは、俺にも分からん」


「だったら……」


「それでも、任せると決めた。あいつらは、死に場所を探してるわけじゃない。何が何でも生き延びるという執念の持ち主だ。俺が気に入ったのは、そこだ」


 ヴィルは口元に苦笑を浮かべていた。ミツルには、その笑みに二人を認める誇らしさが混じっているように見え、胸のこわばりが少し緩んだ。


「それって、あなたの口癖だったわね……」


「ああ、そうだ。あいつらには、俺みたいにしぶとく生きてもらわないとな」


「……いっそのこと、わたしが行けたらよかったのに」


 息が喉でひっかかり、ミツルは言葉を切った。ヴィルから目をそらしたが、机に向き直っても、ペンを動かすことはできなかった。


「行きたかったのか?」


「できることならね。自分の目で見て、確かめて、何かあったらその場で動く。そのほうがずっと気が楽よ。ここにいたら、報せが届くまで何があったかも分からないのよ。もどかしいったらありゃしない……」


 言い終えて目を落とすと、ペン先が紙に触れ、インクの点が小さく滲んでいた。


「……今は我慢だ。あいつらを信じて、その時を待つしかあるまい」


 ミツルが顔を上げると、彼の目尻に薄い笑い皺が寄っていた。先ほどよりも柔らかな声で言われたことが、耳に残った。


「大丈夫とは言い切れないけれど……あなたが認めたんだから、信じていいのよね……?」


「もちろんだとも」


「あなたに任せるときは、こんなには心配しないのにね」


「俺のことは心配してくれんのか」


「そういう意味じゃないわよ。……わたしが全力で剣を合わせようとしたときだって、あなたならちゃんと受け止めてくれるって、どこかで分かってたから」


 練兵場で打ち合ったときのことを、ミツルは思い出した。父から学んだ『型の無い』剣に、精霊魔術の〈場裏・白〉の加速を重ね、踏み込む間際に変幻自在に軌道を変える自分なりの剣技。それがどこまで届くか試すのが楽しかった。ヴィルはその一太刀ごとに確かに応じてくれた。


「だからって、あんな無茶苦茶な角度から懐に飛び込もうとするか? ユベルを継ぐ剣筋に、精霊魔術が加わるんだ。気は抜けん」


「真正面からじゃ届かないんだもの。でも……楽しかったでしょう?」


「まあな」


 ミツルが笑うと、ヴィルもつられたように口元を緩めた。


「……あの二人も、辛い戦場を生き抜く中で少しずつお互いを理解して、このひとなら信頼できるって思えるようになったのかもしれない」


「だろうな。それに、この任務で何かしら芽生えるものがあれば、それもまたいいんじゃないか?」


 ヴィルの低い声が、静かな部屋でよく聞こえた。ミツルは机の上で手を重ね、小さく頷いた。


「そうかもね……レオンとクリスの旅に、何か素敵なものが芽生えるなら、見届けたい気もするわ。お節介かもしれないけれど、わたしも心のどこかであの子たちを応援してるの」


「あの子たち、か……。まるで母親みたいな口ぶりじゃないか」


 ヴィルが頭へぽんと手を置いた。手の温かさを感じると、ミツルは自然に目を細めた。


「で、その母親はいつ休むんだ?」


「……あと少しよ」


「さっきも聞いた気がするぞ、それ」


「そうだったかしら」


 ミツルは未決の書類に目を向けた。続きを始めなければと思いながらも、頭に置かれた手が離れると、つい彼のほうを見上げてしまった。


「どうした?」


「ううん。ただ……」


 もう少し、ここにいてほしかった。頼めば残ってくれるだろうと思うのに、その一言が出てこない。ミツルは机へ向き直り、閉じていたインク壺の蓋を開けた。


「肩を揉んでくれて助かったわ。あなたももう休んで。わたしも、これが済んだら寝るから」


「……俺は隣の控室にいる。何かあれば呼べよ」


 ヴィルが扉へ向かったので、ミツルも見送ろうと顔を上げた。彼は戸口で足を止め、もう一度こちらを見た。


「いいか、ミツル。無茶だけはするな。俺も全力で支える」


「……ええ、頼りにしてるわ」


 声の終わりが少しかすれたが、ミツルはそのまま彼を見ていた。机に触れた掌には、静かな温かさが戻っていた。


◇◇◇


 扉が静かに閉まり、足音が遠ざかると、ミツルは羽ペンを取り直した。未決の書類に目を通し、署名をしては砂を振り、文字が乾くのを待つ。余分な砂を払って封をし、蝋に印を押したものから発送待ちの束へ重ねていく。やがて机の上で灯りは小さくなっていた。


 柔らかな蝋に印を押すと、刻まれた模様がくっきりと残った。自分も、求められた形のまま裁可を与えるお飾りでいろということなのだろうか。黒髪が露見するようなことになれば、退位を求められ、後継を急ぐ動きは止められなくなる。それを思うと、印を押す手に力が入った。


 ミツルは唇を結んだ。


 旅をしていた頃も、夜通し支度をすることはあった。あの頃から一緒に過ごしてきた相手が、今は王配と呼ばれている。それでもミツルには、夫婦という言葉に見合うほど近づけた気がしなかった。


 前世の柚羽美鶴として生きた二十年と、ミツルとして彼に出会った十二歳の頃を、今は十九歳のメービスの身体で思い返している。あの頃、四十四歳だった彼も、今は二十代の姿をしている。だから、いまなら――


――だめ。いまはそんなこと、望んじゃいけない。未来のあの瞬間に戻れるまで、メービスとして役目を果たすこと。それだけを考えるのよ。


 紙の上をペンが擦る音が続くうちに、ミツルはまた文面を追えるようになった。窓の外には深い闇が残り、机の灯りはさらに小さくなっていた。


 宰相側の動きを記した報告書の間には、レオンとクリスの行路を記した紙もあった。二人が進む予定の道を目で追うたび、胸が小さく痛んだ。


 ――レオン、クリス。どうか無事でいて。わたしの余計な支度は、笑って捨ててくれて構わないから。


 ミツルは小さく自嘲の笑いを漏らし、次の書類へ手を伸ばした。文字が霞み、時計を見ると、もう夜明けが近い。これ以上続けるのは難しいと感じながら、残る三通に王印を押し、北門、離宮、参内局への行き先印もそれぞれ押した。書類を重ねると、紙の角が爪に固く当たった。


「ヴィルは……ああ、そういえば隣の控室で寝てるんだったか。よかった、また心配をかけて肩を揉ませることになったら大変だ」


 ミツルは書類を机の端へ揃え、深く息をついた。朝の会議まで、少しでも眠っておかなければならない。執務室の奥の扉を開け、自分用の小さな休息室へ入った。


 ミツルは静かに扉を閉めた。ベッドへ歩み寄ると、足元が少しふらついた。身体は重いのに、考え事だけは止まらない。衣を解いてベッドへ身を沈めると、冷たい布が膝の裏に触れた。深く息を吐き、まだ頭に残る仕事のことを追わないようにして、瞳を閉じた。


『いいか、ミツル。無茶だけはするな。俺も全力で支える』


 思い出した声はやさしく、そのぶん胸が切なくなった。あの人と、いつか本当に恋へ辿り着けるのだろうか。ミツルはそこまで考え、胸の奥に微かな疼きを感じた。


「……ごめんなさい、ヴィル」


 呟いた声が消えると、ミツルは少しずつまどろみ始めた。身体の重さは残っていたが、思い出した声の温かさを感じながら、そのまま眠りに落ちていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。