雪の行商夫婦 ~騎士が紡ぐもうひとつの誓い~②
「北方は物騒……か。やっぱり、同じ話だね。これ、伯爵の失踪とも関連あるかもしれない」
レオンは歩みを緩め、周囲の影を確かめた。革の匂いに、遠くから流れてくる煙の匂いが混じっていた。
「そう思う。早く先行してるダビド班と合流して、探りを入れたい。でも、今日は無理しちゃだめだ。暗い雪道は危険だし、陛下にも無理はするな、って言われてるんだから」
クリスは外套の前を合わせ、顎を引いた。耳には冷たい風が触れ、言葉とともに吐いた息がさらわれていく。
「焦って失敗したら、せっかく任務を与えてくれた陛下に、申し訳が立たないもんね」
クリスの言葉にレオンも頷いた。二人は目を合わせて、これ以上の無理はしないと確かめ合い、急ぎ足で宿へ戻った。
宿の主人が「おかえり。あったかい夕飯を用意したよ」と迎えてくれ、囲炉裏端にはすでにシチューの鍋がぐつぐつ煮えている。パンの焼ける香りが鼻をくすぐり、レオンもクリスも思わず気持ちがほぐれる。外套に積もった粉雪が、炉の熱で音もなく溶け落ちた。
「寒かっただろう? あとで交代で風呂に入っておいで。小さいけど、身体が温まるさ」
「助かります……!」
二人はほっと息をつき、椅子に腰を下ろして湯気の立つシチューをいただく。匙が器に触れる柔らかな音を聞きながら、レオンは食事を続けた。寒かっただろうと声をかけ、温かいものを用意してくれる人がいるだけで、これほど体が楽になるのかと思うと不思議だった。匙を持つ指の強張りが取れ、胸の鼓動も静かに落ち着いていく。
◇◇◇
食事を終え、交代で風呂を済ませると、夜はもう深かった。二人は細い階段をきしませ、廊下の冷えに肩をすくめながら、宿の二階の小部屋へ戻る。
扉を閉めたクリスは、一つきりの古い寝台を見て、その端へ手を置いた。薄く敷かれた藁がきしみ、その上には毛布と布団が畳んである。寝る支度はすっかり整っていた。湿った木の匂いがほのかにして、窓の桟は霜で白くなっていた。
クリスは目を落としたまま、何から言えばよいのか迷った。レオンも寝台を見て黙っており、どちらもすぐには口を開けなかった。
騎士団の野営では、レオンと同じ天幕に寝たことがある。けれど、夫婦としてこの寝台に並ぶことを考えると、クリスの頬は、そのときとは違う熱を帯びた。
「ええと……俺は床で寝るからな。クリスはベッドを使ってくれ」
「え……!? それはだめじゃない?」
「あのな、いくら夫婦って設定でも、さすがに一緒にベッド寝るのはまずいだろ。俺のことなら気にしなくていい。野営には慣れてるし……」
クリスはまっすぐレオンを見る。濡れた髪先から落ちた雫が、首筋を小さく冷やした。
「そういうことを言ってるんじゃないの。わたしがベッドであなたが床じゃ不公平だし、もし風邪引いたらどうするの? 作戦が台無しになっちゃうでしょ」
「お前の言う事はもっともだけど、俺だって男だ……それに、嫌じゃないのか?」
「べ、べつに嫌じゃないよ。戦地では、毛布を分け合って寝てたことだってあったじゃない。だいたい、万が一を心配して床で寝て、風邪なんて引いたら本末転倒だし、仲間の体調を気遣うのが第一でしょ?」
「そ、そうか……そういうことなら、一緒に、寝るよ」
「うん、そうしよう。わたしはレオンを信じてるからね。変なことにならないって思うし――何より、あなたが無理するほうが心配だよ」
言葉を重ねるほどクリスの頬が熱くなる。それでも背筋を伸ばしたままでいると、レオンは気恥ずかしそうに目を逸らし、「わかった」と肩で息をついた。
タンス脇に荷をおろし、クリスは王宮から託された書類や品をポーチの底へ戻していた。あの万が一の品が目に入ると、二人ともほんのわずか動きを早めた。クリスは品をしまい、そっと袋の口を閉じる。
そのままどちらも口をきかずにいたので、クリスは気まずさを払うように小さく咳払いをした。
「……さて。じゃあ、寝るか」
「うん。……寒いし、早めに休んだほうがいいよね。これも任務のうち」
クリスが卓上にランプを置くと、中の蝋燭の火が揺れ、二人の影が壁で重なった。窓の隙間には雪の匂いが漂い、風が木壁に当たって細い音を立てていた。
「それにしても……ほんとに同じベッドでいいのかって。俺……一応気をつけるつもりだけど」
レオンは苦笑しながら布団を整えた。静かな部屋に布の擦れる音がして、クリスはその手もとを見ながらくすりと笑い、首を横に振った。
「もう、夫婦って設定なんだから、堂々としてればいいの。逆に意識しすぎるほうが不自然だと思うよ?」
「ま、まあ……それもそうか。けど、慣れてないんだよな、こういうの」
レオンに目を逸らされ、クリスは頬の熱が引かないまま、布団の端を指先でぽん、と叩いた。
「ほら、寒いから早く布団に潜ろう。……冷えると大変だし。大丈夫、何も変なことにはならないって」
「……悪いな」
「何が悪いの? わたしたち仲間でしょ? 助け合うのが当たり前じゃない」
きっぱりと言い切った声にも、微かな戸惑いは残っていた。レオンを安心させる言葉がこんなに自然に出てきたことに、クリス自身が驚いている。それでも――今は支え合うほうが正しい、と息を整えた。
二人はローブと上着を脱ぎ、厚手の下着のまま布団に身を滑らせる。寝台が狭い分、肩と腕の距離はたちまち縮まった。クリスは背を向けて端へ寄り、レオンも反対側に体を伸ばす。
「やっぱりベッドは温かいな。それに……いや、ありがとう、クリス」
「いいの。わたしもこうしたほうが安心できるし。それに、あなたが近くにいると……ううん、なんでもない……」
クリスは布団を鼻先まで引き上げて丸くなった。背中越しに聞こえるレオンの呼吸を意識すると、胸の鼓動が速くなる。
――仲間。
心の中で自分に言い聞かせるように繰り返し、深く息を吐いた。
レオンも胸の奥に小さな熱を抱えながら、ゆっくりと息を吐き、呼吸を静かに整えていた。
「……それにしても、陛下の過保護には困ったよな……。さすがにあれはないよな……」
低い独白に、クリスは笑いを含ませて「聞こえてるよ」と返す。
「でも、お気持ちはありがたいじゃない。メービス様って、ほんとにお優しい方なのよ。ふつうに考えたら、下っ端のわたしたちにここまで気を回すなんてこと、ありえないじゃない?」
「まあ、確かに。でもなぁ、いろいろ心配してくれたのはありがたいけど、やっぱり恥ずかしいだけだよ。うう、考えるだけで冷や汗が出る」
寝台の端で、レオンは横になったまま肩をすくめた。ポーチの底の〝あれ〟を思い出すだけで、頬が強張ってくる。
クリスは背を向けたまま少し身を寄せ、ランプの炎を見つめて微笑んだ。
「ふふ……でも、わたしたちを守ろうっていう陛下のお気持ちに、素直に感謝しておこうよ。ちょっと笑えるけどさ」
「笑えるどころか、恥ずかしくてたまらないよ……」
ため息をついたレオンが窓へ目を向けた。外は暗かったが、雪の白さがかすかに見えていた。
「それにしてもさ、陛下は俺たちより年下なのに、世界を救うため必死に戦ったんだろ? そのせいで記憶まで曖昧になっちまったって聞いた」
「辛いよね。わたし、そんなことになったら、とても耐えられない」
「それなのに、国を守るために女王になって、敵だらけの王宮で宰相たちとやり合って、男爵家の母子を救おうとしてるんだ。考えたらなんだかおかしいよな……」
話すうちにレオンの眉間が寄り、先ほどまでの照れとは違う熱が胸に残った。巫女と騎士として、あの二人は休む間もなく戦ってきた。陛下は難民たちに自分の食べ物まで分け与え、救えなかった命のために涙を流し続けた人だ。戦いが終わったのなら、もう休んでもいいはずだった。
クリスは深く頷いた。自分たちより若いあの人が、ようやく戦いを終えたと思えば、すぐに女王となり、また危ういところに立っている。味方は銀翼しかいない。そのうえ、今も男爵家の母子を救おうとしている。どうして、まだ背負わなければならないのだろう。ヴォルフ殿下と二人、穏やかに暮らせる時間くらい、あってもいいはずなのに。考えるほど胸が締めつけられた。
「本当だよ……。陛下こそ、いちばん幸せになる権利があるのに、周りがそれを許してくれないんだもん。今だって人々のために頑張り続けてる。どんなに辛いだろうって思う。でも、あの方は優しすぎるくらいの人だから、自分の幸せなんて後回しになっちゃうんだろうね……」
「そうだな。だからこそ、俺たちは恩返ししなきゃならないんだ。陛下がヴォルフ殿下とほんとうに幸せになれるように、少しでも力にならないと」
レオンが布団の上で小さく拳を握ると、クリスも、その思いに応えるように頷いた。
「うん、そうだね。あの二人にわたしたちが救われたように、今度はわたしたちががんばらなきゃ……」
胸の内に、小さな光がともる。――恥ずかしさは小さなものだ。けれど、小さなものほど頬を熱くする、とふたりは苦笑いを分け合う。
ランプの蝋燭は短くなり、夜が更けていった。話が途切れると、木壁に当たる風と雪の音が聞こえる。レオンはそれに耳を澄ませ、わずかに笑った。
「……クリス、もう休もう」
「そうだね。体力を温存しておかないと」
布団の端を整え合い、照れを胸の奥に隠して身を沈める。外では、粉雪が音もなく降り続いている。
思考は「明日こそ女王のために前へ」という一点へ集まっていく。気持ちが奮い立つと寒さも忘れられたが、隣にいる相手を意識すると、まだ少しくすぐったかった。言葉を休めると、二人の呼吸が静かな部屋に聞こえた。
「明日またこの街で噂を集めて、次にどうするか決める。男爵領行きは慎重にいこう……」
「うん。同感」
クリスが小さく身じろぎをしてレオンの方へ振り返ると、彼も顔を向けた。目が合いかけると、レオンはぎこちなく布団を引き上げる。
「じゃあ、おやすみ……俺の奥さん」
「ふふっ……おやすみ、わたしの旦那さま。ああ……やっぱり、変な気分」
くすぐったい笑みを交わすと、クリスは卓上の火へ顔を寄せて吹き消した。小さな煙が上がり、部屋が暗くなる。
また背中を向けて横になると、窓を揺らす雪風の音が、少し遠くに聞こえた。すぐ後ろにある気配へ耳を澄ませ、相手の息遣いに呼吸を合わせているうちに、二人の鼓動もゆっくりになっていった。
騎士として信頼し合ってきた二人が、今は夫婦を装い、一つの寝床のぬくもりを分け合っている。その奇妙なやすらぎに馴染むにつれ、近さを気にしていた体からも力が抜けていった。
レオンは眠りかけながら、クリスの背の温かさをかすかに感じていた。「もし本当に夫婦だったら」と一瞬だけ思ったが、その像は眠気の中ですぐ曖昧になった。
その隣でクリスは、背中越しに伝わる気配を受け止めながら、「見せかけ」のはずなのに、こんなに居心地がよいことに驚いていた。
深い眠りに落ちる直前、ふたりの心に同じ言葉だけが残る――明日も、前へ。
雪は静かに積もり続けていた。外の吹雪の音が遠ざかるにつれ、布団の中では、隣にいる相手の体温がいっそう確かに感じられる。小さな宿の小さな部屋で、初めての夫婦の寝床を分かち合いながら、二人は深く眠っていった。




