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黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第二十章 雪路をゆく、ふたりの銀翼
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雪の行商夫婦 ~騎士が紡ぐもうひとつの誓い~①

 灰色の雲が重く垂れ込めた冬空の下を、一台の馬車がゆっくりと進んでいた。雪道を吹き抜ける風は冷たく、御者台に座るレオンの肌を刺した。馬の歩みに合わせて車輪がぎしぎしと鳴り、泥と半ば凍った雪が混じるぬかるみを越えるたび、車体が小刻みに震える。鼻先には革の匂いがかすかに残り、毛皮に触れた指先も、まだ湿って冷たかった。


 荷台には地味な雑貨や染物の端切れ、干し肉、調味料などが積まれている。行商人らしく見えるよう揃えた品々は、こうして荷台に収めると、どこにでもある商売道具に見えた。その底には布でくるんだ騎士装備があり、さらに下には、女王メービスから託された書状と、万が一に備えた不思議な品が隠してある。


 若い騎士レオンとクリスは、これらの荷を積んだ馬車で、新婚の行商人夫婦を装って任務に就いていた。


「風が刺すように冷たい。手袋をしていても、指先が痛いぐらい……」


 白い息を吐いたクリスがフードの端を押さえると、睫に雪片がとまっていた。レオンは彼女のマフラーに手を伸ばし、ずれた端をそっと直す。結び目のそばで指先が触れかけ、二人とも息をのんだまま、わずかに動きを止めた。


 街道は雪に覆われ、轍の溝に氷と泥がこびりついて、馬車の進みを鈍らせる。そろそろ馬の足元を確認しなければと、レオンは前方へ目を細め、手綱を軽く引き直した。


「うん。ずいぶん長い距離を進んできたよな……」


 吐く息が白く広がり、言葉の終わりは冷たい風に紛れて弱くなった。レオンはちらと隣を見やり、クリスの頬に降りた雪を指先で払ってやる。彼女は肩を小さく震わせ、目を伏せた。


 幾つもの小集落を抜けるうち、二人は少しずつ「行商人夫婦」としての手つきを覚えていった。商品の並べ方も値段の付け方も、雑談の始め方さえ、騎士の訓練で覚えたこととは勝手が違った。初めは戸惑ってばかりだったが、わからないなりに誠実に応じていると、相手も笑顔を返してくれるのだった。


「……こうして実際に売り歩いてみると、どこも雪が深くてさ。人通りも少ないし、あんまりお客さんがいない……」


 きしむ車輪の音を聞きながら御者台に座り続けていると、腰まで冷えてくる。低い空から舞い落ちた小雪が、肩に触れては溶けていった。


「そうだね。冬場は外に出ない人も多いし、行商には辛い時期かもしれない。それでも頑張るしかないんだけど……。大丈夫? 手、凍えそうになってない?」


 柔らかな声で尋ねられ、レオンは手綱を片手に寄せると、もう一方の手を握ったり開いたりしてみせた。クリスはその手を自分の両手でそっと包む。冷たい革越しにも、脈の鼓動が確かに伝わってきた。


「まあ、何とか。手袋があるだけましかな。でも、気を抜くと指先が凍えそうだ」


 目が合うと、二人は照れたようにすぐ視線を逸らした。いつものように気遣い合っているつもりでも、夫婦を演じていると思うと、息の仕方までぎこちなくなる。


「もう少し先に行けば、そこそこ大きい街があるって聞いた。そこなら宿も商店もあるだろうから、噂話が聞けるかもしれない」


 噛んだ唇に冷気がしみて、レオンは一瞬だけ肩をすくめる。その横顔を見つめるクリスの指先が、マントの裾をそっとつまんだ。


「うん。あまりゆっくりしてはいられないね。よし、がんばろう」


 促されて馬が小さく鼻を鳴らし、歩みを少し早めた。車体の下で雪を踏む音が続くうち、正午前には小さな街が見えてきた。レオンの吐いた白い息が、その眺めをかすめて流れていく。


◇◇◇


 雪がちらちらと舞う小さな門をくぐる。門番の姿はなく、風化した石柱だけが入り口を示す。冬の間は人影も薄いのだろう、窓は固く閉ざされ、通りの足音は途切れがちだ。


 門を過ぎたところでレオンは馬を止め、御者台を下りて、車輪にへばりついた泥氷を軽く蹴り落とした。唇がわずかに震えるのを顎を引いて堪え、御者台へ戻ると、クリスがマフラーを直してくれる。彼女は結び目から手を離し、軽く笑った。


「……とにかく、今日はこの町に泊まるとして、日が暮れるまでにいろいろ探ってみよう。あまり先まで行って、夜道を進むのは危険だし、ほどほどにな」


 雪を払った手に温度が戻る気がして、クリスはこくりと頷く。


「うん、そうだね。まずは宿屋を探そう。街の中心に行けば、人が集まってそうだし、そこで聞けばわかるでしょ」


 クリスが頬を軽く叩いて気合を入れると、冷えた顔に赤みが差した。レオンはその頬をちらと見て、思わず目を逸らした。


 木造の軒と石造りの壁が交互に続く。薄雪が隙間なく広がる通りを、毛皮帽の人々が足早に横切っていく。


 二人は、荷物を抱えた金髪の少年を見つけ、宿の場所を尋ねることにした。


 レオンは白い息を吐いたあと、少年へ向けて声をかけた。


「すみませーん」


「何か用? 見かけない人だけど」


 少年の笑顔は陽だまりのようだった。袖口に付いた泥と雪へ目をやりながら、レオンは慣れない笑みを作って問いを重ねた。


「あの、この街に泊まれる宿って、どこにあるか知らないかな?」


「宿なら、広場を左に曲がったところに看板があるよ。『かじかみ亭』っていうんだけど。そこなら歓迎してくれると思うよ」


「ありがとう。助かったな、奥さん」


 自分で口にした奥さんに胸の奥がこそばゆく跳ね、レオンは横目でクリスを見やった。視線がかすめただけで耳まで熱くなり、彼女と唇の端だけでこっそり笑い合った。


「これ、お礼だよ。よかったら使って」


 クリスが差し出した小さな革細工を、少年が受け取る。彼女の弾む声が、雪の舞う通りに響いた。


「わたしたち、行商をしているの。宣伝とは言わないけど、よかったら友達にも見せてくれると嬉しいな」


「わかった! ありがとう、お姉さん! お兄さんも、商売頑張ってね!」


 少年の駆け去る足音が遠のくにつれ、二人の肩から力が抜けていった。こうして人と話し、喜んでもらえると、雪道で溜まった疲れもいくらか軽くなる。


「こういうのって、なんだか嬉しいよね」


「おう、今のはいい感じだった。俺も負けてられない。あとは夫婦らしく――いや、まぁ、自然に馴染んでいければいいか」


「そう、自然にね。変に肩に力入れないこと。剣と一緒だよ」


 笑いを含んだ息を吐くと、レオンは胸のあたりがほんのり温かくなるのを感じた。馬車は、雪の匂いに人の気配が混じる広場へ入っていく。車輪の音が石畳に響いた。


◇◇◇


 広場はこぢんまりとして、中央に古い井戸、端に看板を掲げた店が数軒。白い吐息が点々と立ちのぼり、石畳の隙間に薄い泥水が光る。広場の端で馬車を止めたレオンは先に下り、クリスへ手を差し出した。彼女を支えた掌に、手袋越しのぬくもりがじんと残る。


「ここが、さっきの子が言ってた宿なのかな? 『かじかみ亭』だったか……看板が雪で半分隠れちゃってるから、よく読めないや」


 クリスの指す先には、木の板に屋号を手書きした看板が掛かっていた。煙突から上がる薄い煙を見ると、囲炉裏で手を温めるところまで思い浮かぶ。レオンは彼女の横顔を見て微笑んだ。


「一応やってるみたいだね。……とりあえず行ってみようか。馬車はこの道沿いの隅に停めていいのかな……」


「うん、宿の主人に聞いてみよう。荷物も多いし、長居できるかわからないけど、とにかく一晩くらい休みたい」


 馬を引いて道の隅へ馬車を寄せ、最低限の荷を抱えて扉を押す。炭の匂いとともに屋内の暖気が顔に触れ、レオンの頬のこわばりが緩んだ。囲炉裏端の長椅子に腰を下ろすと、布の裾が触れて離れる。膝がそっと重なり、すぐに退いて、また寄った。


 囲炉裏端で客が数名、炭火を囲んで談笑している。中年の主人が顔を上げ、目を細めた。


「あんたら、泊まりかい? 見たところ……ご夫婦みたいだね」


 返事をするまでの間に、囲炉裏の炭がぱち、と弾けた。


 レオンが肩をすくめる隣で、クリスがたどたどしく答えた。


「そ、そうなんです。わたしたち、行商の旅をしてまして。夫婦ふたりです」


 クリスの控えめな笑みに、主人は「寒い中、珍しいねえ」と懐かしげに頷いた。二人は互いに目を合わせ、息を整える。


「部屋は……丁度一部屋空いてるよ。馬車は店先の空き地に停めてくれれば大丈夫。夜になる前に荷物を納屋に移すといいよ。門を閉めたら開けるのが面倒だしね」


 客が席を詰めてくれ、持ち込んだ荷にも置き場所ができた。レオンは囲炉裏へ手を向け、指先に熱が沁みてくるのを感じた。喉の奥に残っていた冷たさも、少しずつ和らいでいく。


「よし、俺は馬を繋いでくる。クリス、先に宿の人に詳細を聞いておいてくれ。料金とか食事のこととかもな」


「わかった。わたしも後でそっちに合流するね……〝あなた〟」


 聞き慣れたクリスの声なのに、最後の呼び方だけが耳にくすぐったく残った。周囲から「新婚さんか」と言いたげな視線が向けられ、レオンは頬の内側まで熱くなった。


 馬を繋いで戻ると、宿泊の手続きも整っていた。二人は二階の小部屋へ案内され、主人は「夫婦ならちょうどいい」と笑って鍵を渡した。


◇◇◇


 二人は階下へ戻り、囲炉裏端で体を温めた。レオンが火に手をかざすと、指の腹から少しずつ感覚が戻ってくる。


「助かる……」


 レオンの息がほどけ、クリスも微笑で応じる。


 隣の旅人風の男に話しかけられ、レオンはそちらを向いた。人懐っこい目つきに、さほど警戒することもなさそうだと思い、応じる。


「俺たち行商始めてまだ間もなくて、さっきまで小さな村を回っていたんですが、冬はどこも閑散としていて……売り上げは正直、寂しいです」


 レオンが苦笑すると、男は「だろうなあ」と肩をすくめた。クリスも少し声を明るくして、言葉を添える。


「まあ、わたしたちは夫婦なので、二人で乗り越えようと思ってます」


「初々しくていいねえ」


 湯気の向こうで褒められて、笑みが互いに零れる。


「うちのシチューは、ちょっとした名物だよ。夕方になったら出すからね」


 主人の声に、ふたりは顔を見合わせた。


「やった。おいしいご飯、楽しみだね――ね、あなた?」


「ああ、楽しみだ。朝から走り回ったし、しっかり食べて、今夜はゆっくり休もう」


 笑い合っても、レオンにはまだ、任務のことが気にかかっていた。温かい食事も一晩の休みもありがたいが、その前に、この街で聞ける話を聞いておきたい。


◇◇◇


 部屋に戻って荷を置き、ひと息つく頃には、雪は小降りになっていた。二人は「周囲を回って噂を聞こう」と相談し、通りへ出る。足跡のまばらな通りでは、店じまいの支度をする人がせわしなく動いていた。黄昏が近づき、灯りの少ない路地から先に暗くなっていく。


「暗くなる前に戻ったほうがいい、ってさっき宿の人が言ってたけど……そうなる前に、少しでも手がかりになる情報を集めたいね」


「そうだな。慌てずに、さりげなく世間話から入って、それとなく探ろう。男爵領や伯爵関係の話題とか……」


 最初に寄った小さな雑貨屋では、冬の厳しさを嘆く話が多く、手がかりはほとんど得られなかった。二軒目の薄明かりの喫茶店に入ると、ハーブの香りがする。温かい空気を吸い込んだレオンは、冷えた喉がようやく楽になるのを感じた。


 初老の女性は、少し掠れた声で二人を座へ誘う。


「いらっしゃい。暖炉があるから暖まっていきな。お茶くらいしか出せないけど……」


 差し出された素朴なカップを受け取ると、縁に触れた指に心地よい熱が伝わってきた。


「この街の人たちって、夜になると家にこもるんですか? あまり人が歩いてないようですが……」


 問いに、女性は頷いた。


「今年の冬は特別寒いからねぇ。魔族大戦のせいか知らないけどさ、さすがに異常だよ。それに、あんまり夜中まで出歩くと変な連中に絡まれることもあるしね」


 何が起きたのかはまだわからないが、夜の通りを警戒していることは伝わってきた。カウンターの奥では、わずかな風に揺れた風鈴がかすかに鳴っている。


「そうですか。……俺たち、新婚で行商旅の途中なんです。北のほうを目指してるけど、そこも危ないって噂があるみたいですね」


 カップを置く音が小さく響いた。クリスは両手で器を包み、冷えていた指の節に温かさが戻ってくるのを確かめていた。


「北方かい? 傭兵崩れの連中が暴れてるって聞いたことはあるね。街道沿いで通行人が襲われるとか、荷物を片っ端から改められるとか……まあ、本当かどうか分からないけど。役人に文句言っても、対応してくれないらしいよ」


 女性は肩をすくめ、「あんたたち夫婦なら、気をつけるに越したことはない。まだ若いでしょ?」と言いながら、火床へ薪を一本足した。樹脂の甘い匂いがふっと強まる。


 クリスは「そうですね、そうします」と小さく笑い、レオンと一緒にお茶を飲んだ。甘いハーブの香りを含んだ茶が喉を潤し、飲み下すと胸の奥まで温かくなる。


 日が沈み始めると、窓の外が暗くなり、店内の明かりが心細く見えた。二人は礼を言って店を出たが、外はさらに気温が下がり、建物の屋根から垂れる水滴が凍りかけている。絶えず降る粉雪が肩を白くし、路地はいよいよ暗くなっていた。吐く息は風に散り、二人の足音が規則正しく続いていく。

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