冬支度の偽装夫婦――王宮裏手から始まる極秘の旅①
夜明け前に寮を出たレオンとクリスは、王宮の裏手にある小さな廊下を、侍従長コルデオに先導されて足早に進んでいた。訓練広間から遠く離れたその一角は、人影もまばらで、人目につきにくい。薄く吹き込んだ雪が足裏でしゃりと鳴り、クリスの背筋にひやりとした緊張が走る。石壁の冷えを帯びた空気が袖口へ忍び込み、短く吐いた息が白くほどけた。指に張りつく手袋の革も冷たかった。
「どうぞこちらへ。……今回は、極秘の出立ですので、公式な厩舎ではなく、こちらの離れにご用意してあります」
低く厳かなコルデオの声を聞きながら細長い回廊を抜けると、小さな扉の向こうに石畳の中庭が開けた。古びた木製の馬車のそばには地味な旅装束が用意され、係員が数人、言葉少なに手を動かしている。炭の匂いと革の油の匂いがわずかに混じるなか、支度はせわしなく進んでいた。
「うわぁ……見た感じ、いかにも普通っていうか、これなら目立たずに済みそうだ。なぁ、クリス。思ってたより徹底してるよな?」
レオンの小声に、クリスは周囲へ慎重な視線を巡らせる。扉の近くにも見張りの姿はない。
「うん、びっくりした。……ここまで本格的だなんて、想像もしてなかった。極秘任務ってこういうことなんだね」
「それにしても……」
「なんだ?」
「なんか緊張しない?」
「そりゃ緊張するよ。任務とはいっても変装するのも、夫婦なんて設定で旅するのも……。ああ、落ち着かないっていうか、そわそわする」
「こんなふうに整然と準備が進んでいるのに、なんだかわたしたちだけが浮ついているっていうか……」
クリスの声の端がかすかに震えると、コルデオが静かに振り向いた。灯の光が銀糸のように細く瞳に映る。
「行商人の夫婦として旅立つ以上、目立っては意味がありません。女王陛下からは、『お二人の安全を最大限に考慮し、準備は万事抜かりなく』と命じられております」
クリスは礼を言おうとして唇を開いたものの、声が出ず、そのままコルデオへ頷いた。隣のレオンからも返事はなく、彼もまた黙って頷いていた。
「お二人には、裏門を通じて出発していただきます。……積載する商材は、季節を考慮し、市場の需要を調査した上で厳選しております。衣装もこちらに用意しておりますので、ご確認を」
示された卓上には、毛皮帽や地味なコート、擦れのあるローブが並び、小箱には染物の端切れ、革小物、乾燥ハーブが収められていた。クリスは手袋越しに布のざらりとした手触りを確かめ、地味な衣装から小箱へ目を移す。ハーブの匂いがほのかに漂っていた。
「こいつは……ほんと地味だ。目立たないっていうか、これなら誰が見ても『ただの行商人』って思うだろうな」
「うん、服もコートも、騎士団の制服とは真逆って感じ。……けど――」
「ん?」
「ほら、わたしたちって、ずっと戦場暮らしだったじゃない。だから、こういうの着るのも久しぶりすぎて、自分が何者なのか分からなくなりそう」
「ほんとだな」
二人は苦笑し、その笑いは冷えた空気のなかで静かに収まった。
「……正直不安だよ。でも、せっかく陛下が託してくださった任務なんだし、しっかりやらないと。……レオン、頼むね」
「おう」
クリスの指先がじんと熱くなった。
旅装に着替えた二人は、係員から馬車と商材の扱いについて説明を受けた。レオンが手綱の扱いを確かめるそばで、クリスは荷台の品を見ながら、商売の進め方を聞いた。ひと通り説明が済むと、コルデオが革のポーチを差し出す。クリスが受け取ると掌に重みがかかり、手袋越しに縫い目の硬さが伝わった。係員たちは視線を合わせず、車輪の釘を検め、馬の背帯を締め直す。
「こちらにはボコタでダビド班と合流するまでの行動指示書が入っております。連絡用の符丁も入っております。……あと、陛下から〝万が一のときに役立つかもしれない〟とのことで、少し厚みがあるかもしれませんが……大切にお持ちください」
クリスはポーチを胸もとに抱えた。レオンが横から覗き込むのに気づいて手もとへ目を落とすと、薄暗い灯の下で、革の底が丸くふくらんでいた。
「えっと……これは、いったい何が……?」
問いかけると、コルデオは言いにくそうに目を伏せる。
「詳しいことは存じません。ただ、女王陛下が『若いお二人が夫婦として旅立つ以上、間違いがあっては大変』と仰っております。……お気遣いというか、親切心かと」
「は、はあ……なるほど。わ、わかりました。あの、ありがとうございます、コルデオ様。大切に保管します」
肩へ落ちる雪が、白粉みたいに薄く積もる。コルデオは一礼し、距離をとった。クリスはポーチを抱え直す。
二人は馬車の陰へ移り、クリスは片方の手袋を外してポーチを開いた。紙の繊維が指腹にざらりと触れ、冬の冷気が胸もとにもしみた。符丁の紙束を持ち上げると、その下に何かが丸く巻かれていた。添えられた紙には、端正な文字が並んでいる。
『旅立つお二人へ。夫婦という設定は、あくまで任務上必要なものに過ぎません。それをよく考えて、間違いだけは犯さないように。それと、念のためこれを持っていきなさい――メービス』
薄い膜でできた筒状のものが目に入り、レオンは息を詰める。
「まさか……こ、これって……」
クリスはローブの襟を引き上げて顔に当て、火照りを隠した。
「ま、間違い防止って……? なにそれ、どういうこと……? 陛下は……ええと、何か勘違いしてるというか、ほんとに色々心配しすぎじゃないの?」
「お、おい、こんなの、万が一でも使う機会ないだろ? 俺たちは真面目に任務に従事するだけ、するだけなのに……」
声量を抑えねばならない場所で、クリスの頬の内側だけが熱い。二人は慌てて品々をポーチの底へ押し戻す。ここで見咎められたら、誤解しか生まれない。
「……と、とにかく、こいつはしまっておこう。使うあてなんて……あるわけ、ないよな?」
クリスが手袋をはめ直して革紐を結ぶと、指にはいつもより僅かに力が入り、袋の口で紙の端がかすかに鳴った。レオンの囁きにこくこくと首を縦に振ったが、視線は合わず、耳まで熱い。
「うん、ないない。あるわけないったら。もう見なかったことにしよう。でも……ちょっと、しばらく落ち着かなそう……」
「まいったな。恥ずかしいっていうか。ああ、もう。陛下はいったいどういうつもりでこんなものを……」
「お、あの……そろそろご出発なさいますか? 準備は整ったみたいです」
係員の声で現実へ引き戻される。
「え、えっと……じゃあ、行こうか。早く城門のほうへ行かないと、混雑するからな」
「うん……レオン、手綱をよろしくね。わたしもできること、手伝うから」
二人が馬車に乗り込むと、ローブの裾が風に鳴り、車輪が小さくきしんだ。クリスが背後を振り返ると、コルデオが見守っていた。彼の表情にも、どこか複雑な影がよぎる。
「では……行って参ります、コルデオ様。ほんとにいろいろ、ありがとうございます」
「お気をつけて。くれぐれも御身を大切になさってください」
雪のちらつく通路の奥で、車輪がぎしりと鳴った。馬車は王宮の裏門を抜け、二人を乗せて王都の通りへ出た。




