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黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第二十章 雪路をゆく、ふたりの銀翼
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絶望の縁から――若き騎士たちの誓約②

 荒れ果てた大地が真紅に染まり、コーリノ砦の城壁はとうに崩れ落ちていた。地の底を揺らすような咆哮と、魔獣の蹄が岩盤を叩く音が層になって押し寄せ、兵士の悲鳴が風にちぎれては戻って来る。


 残存部隊はわずか数十名。クリスはレオンとともにその輪のなかにいたが、体力はとうに限界で、膝に入れた力が砂のように零れていく。肩ごしに見える仲間たちが、ひとり、またひとりと膝をつき、石に頬を預けて崩れ落ちる。


「……もうだめだ。四方八方魔獣だらけじゃないか!」


 誰かの声が乾いて落ちた。空には巨大な鳥型の魔獣が旋回し、羽ばたくたびに突風が瓦礫を巻き上げ、砕けた石片が頬へ鋭く触れる。金切り声は耳膜を針で刺すように貫き、見上げたクリスの身体を一瞬で竦ませた。


 地上では、多種多様な獣型の魔獣が唸りを上げ、輪を狭める。巨躯が骨を踏み潰す鈍音、倒れた兵の鎧を噛み砕く嫌な音。視界の縁で、血の色が濃くなる。


「嘘だろ……さっきまであんなに堅固だった砦が、あっという間にこの有り様かよ」

「完全に囲まれた。もう退路なんてどこにもない。どうすればいいんだ……」


 レオンは欠けたロングソードを握り、隣のクリスを守るように半身を切った。当てても爪を弾くのがやっとで、斬り込んでも深手が入らない。柄を握る彼の指は汗に濡れ、爪を弾くたびに白く力が入った。


「ちくしょう……俺たち、こんなところで終わっちまうのかよ……!」


 レオンの歯を噛む音が、すぐそばで聞こえた。彼の身体は傷だらけで、血と泥に覆われている。クリス自身も、血と泥に塗れていた。瓦礫を背に、肩で荒く息をしながら、それでも刃先だけは落とさない。


 ふと彼女がレオンを見上げ、「ごめん、わたしもう動けない……」と小さく呟いた。声は消え入り、吐く息が白く揺れる。


「だめだ、クリス。あきらめるな……俺がどうにかしてみせる!」


 レオンの足が砂を擦り、欠けた剣の先がわずかに下がった。立っているだけで精一杯に見えるのに、彼は足を踏み直し、クリスの前から退こうとはしない。どうにかすると言ったその唇を、彼女は見つめた。


 そのときだ。風の筋が一瞬止まった。鼓動だけが耳の奥で不意に大きくなる。


 刹那、霜花そうかの反射みたいな細い光が視界を刺す。うつ伏せていた兵が顔を上げるのを横目に、クリスも瞼を持ち上げ、光の射す方を見た。


 崩れた城壁の向こう――長い若緑の髪を革鎧に流す少女と、銀髪の騎士風の青年。瓦礫の上に凛然と立ち、互いに純白のロングソードを握っている。


「なんだ……あの二人は……?」

「いったい何をする気だ。まさか魔獣に立ち向かうつもりか……?」

「この大群を相手に、たった二人で何ができる。無茶だ」


 ざわめきが低く広がり、誰かの荒い呼吸が間に割り込む。粉塵の匂いがして、舌がざらつく。


 金と銀のきらめきが波紋のように走り、少女の身体へ吸い寄せられていく。翡翠の瞳に厳粛さが宿り、風が若緑の髪をわずかに持ち上げた。少女が深く息を吸い、胸を起こす。


「精霊子……規定量を突破。システム(Système)(de)レペ(l’Épée)サクレ(sacrée)プレトレス(Prêtresse)シェヴァリエ(Chevalier)起動」


 透き通る声が、轟音の膜をすっと裂いてクリスの胸腔に落ちる。息を詰めて聴き入るうち、耳の奥の鼓動さえ、遠くへ退いていた。


 少女の剣と、隣の青年の剣が呼応する白い反射を放ちはじめた。聞こえた言葉の意味は分からない。ただ、光が濃くなり、頬に触れる風の向きがわずかに変わる。


「――あれはいったい……!?」


 青年の周囲に、白・青・赤・黄の球体が次々と生まれ、ゆるやかに巡りだす。球体の配置が一瞬で整っていき、瓦礫にもその光が揺れる。


 息を呑む音が列に伝播する。レオンはクリスと視線を結び、彼女は小さく首を振った。


 刃がうっすらと赤みを帯び、薄い膜のようなものが沿う。熱を帯びているように見えるのに、青年は平然とした顔で柄を握りしめている。


「熱くないのかな?」


 クリスは冷たい空気を頬に受けながら、その赤い刃から目を離せずにいた。


「あれって、魔術なの? なんだか分からないけど、すごい……」


 クリスの息が細く止まった。レオンは欠けた剣の柄を握り直す。


 青年が赤く脈打つ刃を軽く振り下ろす。遅れて風が爆ぜ、次の瞬間彼は群れのど真ん中にいた。白い球体が背と足元で風の柱を編み、青年の身体は押し出された矢のように走る。耳の奥で音が遅れて到着する。


 クリスのそばにいた兵士が、青年の駆け抜けた方を指さした。そのまま隣の者へ顔を寄せ、声をかける。


「今のは風魔術か? さっきの剣が真っ赤になったのは、火魔術だよな?」


 隣の魔導兵が目を細め、青年の足元から赤い刃へ視線を移した。


「いかにも。今のは風属性の風衝ふうしょう加速。それも相当な高精度、かつ高出力と見た。剣の赤熱化は、おそらく火属性の付与術ふよじゅつであろう」


「けどよ。どう見たって、あいつは騎士だぜ。魔術師じゃない」


「しかも、複数属性の同時行使とは驚く他ない。それも詠唱なしときた……。こんなものは、見たことも聞いたこともない」


 周囲の兵士たちからも、口々に声が上がった。身を乗り出す者の隣で、別の兵が目を見開き、青年の動く先を追っている。


「なんて速さだ。地面を滑っている? いやあれは飛んでいるというべきか」

「すげぇ。魔獣が反応するより前に、紙切れみたいに、いとも容易く斬り裂かれていく」

「なんて斬れ味だ。あんな剣がこの世にあるっていうのか……」

「使い手のあの男も、タダもんじゃないぞ……」


 赤い弧が外殻を溶かすように断ち、横合いの爪は何もない空中で弾かれる。青年の足元で石の傾きが変わり、靴底がそこを捉えた。滑り落ちることなく次の踏み込みへ移るあいだにも、青い球体が魔獣の至近に接近し、細い水の矢を放ち射抜く。


「おいおい。水魔術まで使うのかよ」


 刃を追っていた目を足元へ戻したときには、もう別の魔獣が倒れている。


はやい!」


 クリスが一つひとつを見届けるよりも早く、攻撃を退け、群れを斬り開く動きが途切れず続いた。


 鳥型の魔獣が高く舞い、砕いた岩を砲弾のように投げ落とす。青年は白い球体からの風にさらに乗り、一気に空へ舞い上がる。焼けつく刃が翼の根を断つ。悲鳴はなく、風の軋みだけが降りてきた。


 地上では獣型が突撃し、尻尾が人を薙ぎ、顎が鋼を噛む。降り立った青年が、その群れへ斬り込む。次の攻撃が兵へ届く前に赤の弧が走り、巨体は二つになって落ちる。兵の罵声も祈りも、いつのまにか小声になっていた。


 その隙を狙うように、別の魔獣が少女の死角へ滑り込む。爪が振り下ろされ――


「危ない!」


 声を上げるや、レオンは少女へ向かって駆け出す。その背を目で追いながら、クリスは彼と少女のあいだに残る距離に息を詰めた。間に合わない――そう思った瞬間、振り下ろされた爪が少女の手前でぴたりと止まった。見えない壁にぶつかったみたいな鈍い震え。つづいて魔獣の身体が、横から叩きつけられるように瓦礫へ飛び、動かない。


「な、何が起こったんだ……?」


 レオンは立ち尽くすだけだった。ただ、先ほどの鈍い震えがまだクリスの肌に残り、見間違いではないと思わせる。


 少女の周囲には蜃気楼のような淡い揺らぎだけが残る。


「物理保護を展開中。……そちらは大丈夫ですか、わたしの騎士様?」


 少女が静かに声を投げ、青年へ視線を寄せる。クリスはその言葉の意味を掴めない。けれど、呼吸の合い方が尋常じゃないのは伝わる。


「問題ない。そっちは無事か?」


「〝接続〟でわかっているくせに、いまさらじゃないでしょうか?」


「まあ、俺も一応騎士の端くれなんでね。巫女様を気遣うのは当然の務めさ」


「どうかお気になさらず。それよりも、限界時間のカウント表示に注意してくださいね。あなたは、すぐ夢中になって見落としてしまわれますから」


「わかっているさ。では、さっさと終わらせてしまおう」


 クリスの耳の奥で鼓動が急に大きくなる。青年がさらに加速する。光の筋が地表を縫い、黒紫の群れが縫い目ごとにほどけていく。地響きはほどなく薄れ、鳥型は翼を失い、残るのは巨躯が倒れる重い音だけ。やがて、戦場は静かになった。


「助かった……? でも、信じられない……。まさかこんな、こんな夢みたいなことってあるの?」


 クリスの膝が崩れ、土の冷たさが掌に沁みる。少し先で足を止めたレオンは、肩で息をしながら空を見ていた。欠けた自分の刃へ目を落とすと、唇を噛み、それから白い剣を握る青年へ顔を向ける。


「緑の髪の巫女と銀髪の騎士……噂には聞いてたが、本当に存在したのか……」


 レオンの声が震え、周囲の視線がいっせいに二人へ吸い付く。


「皆さん、もう大丈夫ですよ。怪我人を急いで後方へ」


 若緑の髪が風を掬う。声は淡々としているのに、胸の奥が少し温かくなる。青年は少女の隣へ戻ると、警戒を解かず、ゆっくり息を吐く。


「……巫女様、これ以上の敵影は見当たりません」


「ご苦労様でした、騎士様。では、次へ参りましょう」


 青年は短く頷き、少女と視線を合わせた。彼女の周囲に残っていた淡い揺らぎが消え、歩み寄る青年の足元で砂がわずかに鳴る。彼が身を寄せると、少女はわずかに目を伏せ、それから彼を見上げて微笑んだ。言葉は交わされないまま、二人の周囲に淡い揺らぎが戻った。


 クリスが声をかけようと一歩踏み出したとき、二人の足が地面を離れ、ふわりと宙へ浮かび上がった。クリスが見上げる間に、二人の姿は一気に遠ざかり、空の彼方へ消えていった。残るのは血と灰の匂い、担架の軋み、遠くで鳴る鐘。


「……行っちゃったのか、あの二人。声をかける間もなかった……」


 クリスは肩をすくめる。喉の奥が、かすかに熱い。


「でも、助かったのは事実だよね。もし、あの二人が来てくれなかったら、わたしたち、とっくに……」


 睫毛の影が一瞬湿る。


「はぁーっ……」


 レオンは大きく息を吐いた。その息を聞いているうちに、クリスの胸腔の冷えも、少しだけ退く。


「なんとか助かったな。まさかあんなすごい力を持った人たちがいるだなんてな。夢でも見てる気分だ」


「まったくね。一言でいいから、お礼が言いたかったな。それに、巫女様ってすごくきれいな人だったし、もっと近くで見たかった」


「俺としては、どうやったらあんなふうに戦えるのか、騎士様に尋ねてみたい。斬っても斬っても斬れ味の落ちない、あの白い剣の秘密とかさ」


「レオン?」


「あなた、情緒ってもんがないの? せっかく生き延びることができたんだし、もう少しこう、喜びを噛みしめるとか」


「そんなものはない。生き延びたんなら、次の戦いを考える。俺は強くなりたいんだ」


「相変わらずね。ま、お互い無事でよかったよ」


「そうだな」


 クリスはレオンと顔を見合わせる。いつかまた彼らに会えるだろうか――期待と、言葉にならない喪失が胸の奥で同居する。二人の姿が消えたあとも、クリスの瞼にはまばゆい残光があった。


 その後も、レオンや生き残った兵たちが焚き火のそばであのときを語るたび、彼女の瞼には同じ残光が戻ってくる。神話の再来のように、荒れ狂う魔獣を一瞬で鎮めた救世主への憧憬として。


◇◇◇


 出立を翌朝に控えた夜、レオンは長椅子から立ち上がり、クリスとともに小さな広間を出た。王都近郊の騎士団寮は、夜の気配を深く吸い込み、廊下の木肌はしんと冷えていた。壁のランプは小さな光の輪だけを床へ落とし、靴底の乾いた音が遠くへ溶けていく。窓硝子の向こうに、星の白が薄く脈打った。


「朝になったら、いよいよ出発だな」


「ええ……」


 並んで歩く肩へ、灯の明滅が交互に寄せては離れる。吸い込んだ夜気の冷たさがレオンの喉の奥を細く締めた。クリスの返事を聞いたあとも、次の言葉がすぐには出ず、吐いた白い息が薄れるのを見ていた。


「……それにしても、俺たちが新婚夫婦の真似をするなんて、想像もしてなかったよ。俺たちに務まるのかどうか、不安でしかたない」


「それもあるけど……わたしたちの役割って、結構重いよね。伯爵の行方を追うってことは当然危険は避けられないし、命だって狙われることも覚悟しなきゃならない」


 クリスは指先で窓枠の木をそっとなぞった。冷えた木肌に触れた指がわずかに縮み、吐息が硝子を曇らせる。白い曇りは、すぐにほどけた。


「でも、ここで逃げるわけにはいかないさ。女王陛下が俺たちを信じてくれてるんだから、全力で応えたいって思う。……それに、ある意味チャンスだと思うんだ」


「……そうだね。わたしたちって、銀翼騎士団では最年少で、なんだかんだでやっぱり半人前みたいに見られてる気がする。だから、機会を与えてくださった陛下には感謝しなきゃ」


 靴裏が床の継ぎ目を踏む。


「おうさ」


 短い返事に、拳の影がかすかに濃くなる。歩調が半歩だけ、軽くなった。


「頑張ろう、レオン。きっとわたしたちならできるよ」


「任せとけ。何があっても、クリスのことは俺が守ってみせる」


「わたしを、守る……?」


 聞き返したクリスの唇が、その形のまま止まっていた。灰がかった瞳がレオンを見上げ、すぐには次の言葉が来ない。


「いや、クリスの強さは俺が一番よく知ってるよ。お陰で何度も命拾いしてるし、感謝してる。だからこそだ。俺だって、守りたいって思うんだ。気持ち的には、それくらい言わせてくれたっていいだろう。それに、一応新婚夫婦なんだから、夫としてはだな――」


「ば、ばか。それはただの偽装。設定でしょ。勝手に一人で盛り上がらないでよ」


「いや、演じるなら、まずは思い込みが大切だろ?」


「思い込むって……そんな器用になんて、できるわけないじゃない」


 言い返したクリスの頬に赤みがさし、髪の毛先がランプの輪郭を柔らかく撫でた。襟元の肌までうすく染まっていた。


「ま、まぁ……そろそろ休もうよ。明日は日が昇る前に厩舎に行かなきゃならないし」


 レオンの喉の渇きが小さくほどけ、肩の力が半分だけ抜けた。


「ああ、そうだな」


 それでも、レオンの視線はまだ横顔の線に留まっている。言葉にならない小さなものが、上唇の裏で生まれては消えた。


「……おやすみ、レオン。明日からがんばろうね」


「おやすみ、クリス。……絶対、成功させような、この任務」


 別れ際、レオンの指先を取っ手の金具が冷やす。扉の閉まる音が廊下にやわらかく残り、灯が背中を名残惜しそうに撫でる。


 静かな闇が、寮の隅々まで満ちる。遠くで床板がひとつ乾いて鳴り、外の木立が風に微かに擦れた。レオンは扉の内側で額を軽く押さえた。少し早い鼓動が、耳の奥で響いている。


「守り、守られるか……。そういや、これまでずっとそうだったんだよな。俺、悪いこと言っちまったかもしれない。でも、あいつとなら、どんな困難だって乗り越えられる気がする。そう思えるのって、あいつだけなんだよな」


◇◇◇


 クリスは寝台に身を沈め、毛布の端を胸につかんだ。布の粗さが爪に触れ、体温がそこへ移っていく。


――「守るか」。


 そのときの声色とまなざしが、まぶたの内側で静かに反復する。呼吸の間がすこし伸びた。


 明朝、二人は雑貨と馬車を整え、夫婦として旅立つ。門を出れば風は鋭く、街道の影は長い。


 けれど、過酷な戦場をともに越えてきたレオンと、これから先もずっと寄り添っていられたなら――そこまで思って、クリスは毛布を胸元へ引き寄せた。まだ彼には言えそうになかった。窓辺に漂う星のきらめきが、ほんの刹那、胸の先端を照らしたような気がした。

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