↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第二十章 雪路をゆく、ふたりの銀翼
547/574

絶望の縁から――若き騎士たちの誓約①

 まだ二人が新兵だった頃のことだ。王都近郊の外れにある駐屯地は、朝の冷えをまだ手放さない。鉄の匂いが空気に薄く滲み、研ぎの甘い剣が触れ合うたび、きぃ、と細い音が砂の上を渡っていく。薄曇りの光は白く、吐く息はすぐ冷えてほどけた。


 クリスの目に留まったのは、燃えるような赤髪の少年――レオン。肩をいからせて腕を振り、振りきった剣に身体が引かれている。素振りの度に、過剰な力が刃へ乗り、足裏の砂利が小さくはぜる。


「国も民も……俺が守ってみせる。絶対、魔獣や魔族なんかに好きにはさせない……!」


 言い切る声は若く、クリスのいる場所まで熱を帯びて届く。けれど、刃は勢いに負け、踏み込みの軸が一瞬ふらついた。柄を握る指は汗に濡れ、振り戻すたびに力が入った。


 レオンが大上段へ振りかぶった瞬間、クリスは冷たい風のなかをその背へ歩み寄り、凛と声をかけた。


「ちょっと、あなた。その剣の持ち方、腕に力が入りすぎてるんじゃないの?」


 振り返ったレオンの瞼に、薄い影が走る。砂を踏む足音が止まり、クリスはその手元へ目を向けた。


「え……力が入りすぎって? どういう意味だよ」


 レオンの声は戸惑いと小さな苛立ちの間を揺れた。


「だいたい、剣の振り方が強引すぎるのよ。いくら力任せに振っても、反動で体の芯が崩れたら意味ないでしょう? 剣術の基本っていうのは、身体の重心をどこに置くかが鍵になるのよ。まず自分の足元を見てみて。無駄に力が逃げてしまってるのは、一目瞭然よ」


 クリスは静かな声で言い、自分の柄へ慎重に指を添えた。


 レオンは息を飲む。眉は寄せたままだが、足元へ目を落とし、砂に残った踵の跡を見つめる。クリスが待っていると、彼はもう一度こちらへ顔を向けた。


「ふーん……。お前、詳しいんだな。じゃあ、どうすればいいんだよ?」


 周囲の新兵が訝しむ視線をやり過ごしながら、クリスは一度だけ短く息を吐いた。


「ああ、基礎の理解もなってないのか……あなたみたいな力だけが取り柄みたいな人って、危なっかしくて見てられないわ。下手したら味方ごと斬りつけそうだし」


「なんだよ、偉そうに。そこまで言うなら、教えてみせろってんだ」


「はいはい。まずは身体の中心はここ。足をもう少し開いて、肩の力を抜いて……」


 彼女は自分の下腹を指差してから、腰の高さで剣を水平に構えた。柄を握る指を少し緩めると、切っ先が下がりかける。刀身の側へ寄った重みを手の中で確かめ、肘を張らずに支え直すと、前後に置いた足の左右の幅を整えた。


 草いきれの薄い匂いを風が運んでくる。踵ばかりが砂へ沈まないよう足裏で地面を捉え、息を吐きながら肩を下ろした。そこから剣を頭上へ上げ、ゆっくりと振り下ろす。刃を下ろしきっても上体は前へ流れず、足を踏み直すことなく、続けて剣を構え直した。


 レオンの喉仏が上下し、詰めていた息が長く吐き出された。彼の目が剣の軌道を追うのを確かめてから、クリスは構え直すよう手で促す。レオンは彼女の足元を見て、自分の足を置き直した。振り下ろした刃に肩が引かれかけると、クリスは後ろの踵より少し外側の砂を指した。彼がその足を横へずらし、左右の開きを作るのを待ってから、もう一度うなずく。


 次の素振りでは、刃が止まったあとも上体が前へ流れない。剣を戻すときにも、先ほどのように肩が上がることはなかった。クリスが口を開くより先に、彼は続けてもう一度振った。今度も身体は崩れず、レオンは足元と剣を見比べ、息を整えてから顔を上げた。


「おおう……ほんとだ。さっきより振りやすいぞ」


「でしょ?」


「お前の言う通りだったな。ありがとう、助かった!」


 礼の言葉は少し不器用に転がったが、顔には隠しきれない笑みが浮かんでいた。


「どういたしまして」


 クリスは短くうなずいた。


「あなたって、意外と素直なのね。見直したわ」


「俺は強くなるためなら、なんだって試したいだけだ。ま、まあ……お前――」


「お前じゃなくて、わたしの名前はクリスよ。点呼で聞いたでしょう?」


「わりぃ……俺、物覚え悪くてさ」


「うん。そんな感じだね」


「そこで、すぐうなずくなよ。そりゃあ、座学は苦手だけどさ。ちっ……」


 クリスは思わず笑ってしまった。レオンは眉を寄せたが、剣を下げたまま言葉を待っている。


「でも、飲み込みというより、動きを覚えるのが早いんだね。ちょっと教えるだけで、すぐに直せてたもの」


 レオンは目を丸くし、いったん自分の剣へ目を落とした。もう一度彼女を見たときには、寄せていた眉もほどけていた。


「……そうか? じゃあ、また教えてくれよな、クリス」


「いいよ」


◇◇◇


 戦況はあっという間に崩れた。辺境の砦。内側からみしりという音が響き、乾いた石の壁が悲鳴を上げるように軋む。立ち込める煙が舌の裏に苦く貼りつき、耳の奥で金属音が割れる。


「だめだ……これじゃあ対処しきれない……!」


 レオンの声は、喉に砂を含んだまま飛び出した。頬に煤の筋がついたクリスは、息を詰めて前を見据える。腕にも脛にも薄い切り傷。熱い血の匂いに、鉄の味が混じる。


「……クリス、逃げるぞ。このままじゃ全滅だ!」


「でも、上官の命令には逆らえない。ここを死守しろって言われたでしょう?」


 そのあいだにも、壁の向こうで何かが吠え、石片が室内へ雨のように降り込む。煙の白が視界を曇らせ、咳の刹那に足場の傾きがわずかに変わった。


「馬鹿か! その上官がどこにいるってんだ。もういないだろ?」


「いない……声もしない」


「そうだ。揃いも揃ってとっくにおっ死んじまってる。この砦はもう持たない!」


「けど……逃げていいの? 命令違反で処罰されるんじゃ?」


「そんなの、生きて帰れればの話じゃないか。こんなところで無駄死にしてどうするんだよ。クリス、お前はなにがなんでも騎士になりたいんだろ?」


 レオンの声が震えた。クリスは唇を噛み、血の味を確かめるみたいに一瞬だけ目を伏せた。


「う、うん……わかった」


 クリスは短く頷いた。二人は崩れる壁際を斜めに駆けたが、通路の手前で倒れた仲間が目に入り、足を止めた。レオンが身を屈めて仲間の脇へ腕を差し入れると、クリスも反対側へ回って身体を支えた。二人で上体を抱え起こし、暗い通路へ引き込む。


「よし、俺がおんぶする」


 レオンは仲間の前へ回って背を向け、片膝をついた。クリスに上体を支えてもらいながら、その身体を背に引き上げて立ち上がる。クリスは仲間の身体がずり落ちないのを確かめてから、すぐ脇へ回った。


 通路の先へ踏み出しかけたレオンの袖を、クリスが引いた。振り向くと、彼女は背後の壁から目を離さなかった。


「待って、レオン。なんだか、嫌な予感がする……」


 低い声で告げた。レオンもそちらを見たが、煤に汚れた石が並んでいるばかりで、耳に届くのは砦を揺らす軋みと金属音ばかり。


「ここで立ち止まっているほうが危ない」


 レオンは背の仲間を抱え直し、先へ進もうとした。


「なにか、来る!」


 その時、クリスの指が袖に食い込んだ。彼女はレオンの腕を押し、通路の脇へ退かせると、背後の壁との間へ身を入れた。同時に鈍い音を溜め込んでいた壁が破裂し、岩片が飛沫のように散る。一際大きな四足型の魔獣が、黒紫の影となって口をあけた。


 魔獣の前脚が、レオンの立っていた場所を薙いだ。クリスは彼を押す手を離し、身を捻ったが、鈎爪が背を掠めた。彼女の肩が跳ね、レオンには、その顔が苦しげに歪むのが見えた。


「クリス!」


 レオンは背の仲間の脚を片腕で抱え直し、空いた手でクリスの腕を掴んだ。強引に、けれど傷を避けて胸元へ引き寄せ、壁から離れるほうへ一気に踏み出す。彼女の身体がぶつかってから、詰まっていた呼吸が震えとなってレオンの胸板に伝わった。


 クリスが脇へ並ぶと、レオンは彼女の腕を離した。仲間の背を支えてもらいながら背負い直し、転がるように走った。


 回廊の角を幾度も折れるあいだも、クリスの手は仲間の背から離れなかった。石の匂いが濃く、湿り気が呼吸の摩擦をやわらげる。外へ――。風が、煤と焦げの匂いを薄める方向から吹き込んでくる。


 崩れ落ちる外壁の隙間から抜けた時、世界が開けた。レオンは砦から離れるまで歩を止めず、クリスに仲間の肩を支えてもらって、背の重みをゆっくり地面へ下ろした。遠くで炎の音。近くでひざの砂がざらりと鳴る。仲間の口元では、浅くても呼吸が続いていた。


「……ありがとう、レオン。あなたがいなかったら、いまごろわたし……」


「こんなの、お互い様だろ。クリスの、あの勘みたいなやつがなきゃ、何度死んでたかわからないんだからさ」


 言葉のあいだに、ふたりの呼吸が交互に落ちていく。激しく打っていた心臓が、やっと落ち着きを取り戻す。熱で乾いていた唇に、風の冷たさが少しずつ沁みはじめた。悔しさは、胸の内側に重石のように沈む。倒れた仲間の名を頭で数えるたび、胸が痛んだ。けれど――。


 クリスが、レオンに寄りかかる。その体温が、肌越しに小さく確かだ。彼女の髪に、煙の匂いと汗の塩の匂い。眼の端に熱が溜まりかけ、けれど落ちない。


 その瞬間だけは、冬の雲の切れ間から差す光みたいに、かすかな温もりが胸へ射した。


 二人は、生き延びた。


 その後も、各地で魔獣との戦いは続いた。レオンとクリスは同じ部隊で派遣先を転々としながら、何度も生死の境をさまよった。雪山の夜営地で見張りを交代したり、濃い魔素の満ちる沼地で仲間を背負って泥を渡ったり――過酷な日々のうちに、ふたりの呼吸は自然に重なり、同僚たちからは「いいコンビだ」と評されるようになっていた。


◇◇◇


 北西部寒冷地帯でのある夜。補給線が途絶え、兵の糧食は日に日に減っていく。夕刻、分配されたのは小さな乾燥パンと、親指ほどの干し肉だけだった。焚き火の赤は頼りなく、風に煽られるたび火花が雪明かりの中へ消える。


「……腹、減った。これじゃあ明日動けない」


 ぽつりとこぼれた声に、地図を広げていたクリスが顔を上げた。彼女も空腹を抱えているはずなのに、その眼差しにはわずかな余裕が宿っている。唇に苦笑を浮かべ、地図を畳んでから、指先で小さな包みを探った。


 手のひらに転がしたのは、くすんだ色の飴玉が二つ。雪の照り返しに、ほんのりと琥珀の光が宿る。


「ねえ、レオン。これしか持ってないんだけど……どう?」


 かすかな甘い匂いが、冷え切った空気をやわらかく撫でた。レオンは一瞬、鼻をひくつかせてから口を尖らせる。


「そんなの腹の足しになるかよ」


 そう言い終えたところで、砂糖の香りに唾を飲み込んだ。レオンはそのまま視線を逸らす。


「……まあ……くれるならもらっておく。でも、いいのか?」


「これ、こういうときのために、持ってるんだ」


「人にやるためか?」


「戦地で泣いていたりひもじい思いをしている子どもとか、よく見るでしょ? 偽善かもしれないってわかってるけど、ほんのわずかでも、笑顔を取り戻してくれたらって……」


 言いながら、クリスは手のひらに残った飴玉へ目を落とす。その横顔に、火の赤が淡く触れた。


「お前って優しいんだな」


 レオンは照れ隠しのように笑い、飴玉を口に含んだ。舌の上でゆっくり溶けていく甘味が、喉の奥の乾きを癒す。肩の力がふっと抜け、冷たかった指先に血が戻った。


「はは、なんか俺子どもみたいで、ちょっと恥ずかしい。けど、ほっとするよ」


「そういうのが大事なんだよ。こんなところではね」


 クリスがくすっと笑い、自分もひと粒口に含む。焚き火の光が頬の線をやさしく照らした。


 夜が深まり、冷気はさらに鋭くなった。土嚢の隙間から白い息がこぼれ、テントの布は風でかすかに鳴る。テントの中で、クリスは毛布を胸まで引き寄せていたが、震えが止まらなかった。交代の見張りを終えたレオンが戻り、身体を抱えるようにして入口をくぐる。レオンの指先は冷えきったように白く、クリスがその手元から視線を上げると、彼もこちらを見ていた。


「……おい、クリス。寒そうだな。毛布は足りてるのか?」


「やっぱり薄くて、あんまり役に立たないみたい」


「だったら、俺のを半分使えよ」


「でも、それじゃあなたが凍えちゃうよ……そういうの、よくないと思う」


 声が小さく震える。


 レオンは息を吐き、苦笑を混ぜた声で続けた。


「へっ、気にするなって。俺は体温が妙に高くてな、多少寒くたってへっちゃらさ」


「本当? やせ我慢じゃないでしょうね」


「そんなわけあるか。だいたいお前に倒れられたら、俺が困るんだよ」


 言いながら、レオンはクリスのすぐ後ろに腰を下ろし、自分の毛布を広げる。ためらう暇も与えずに彼女の肩を引き寄せ、薄い毛布の上から二人を包み込む。肩に添えられた手はまだ冷たかった。それでも、粗い布越しに触れた身体から、温もりが少しずつ背中へ伝わってくる。冷気に凍えていた呼吸が、ひとつ、やわらかく解ける。毛布を握るクリスの指先も、ゆっくりと色を取り戻す。


 クリスは顔を赤らめ、「ちょっと……」と呟いたが、次の瞬間には唇を噛み、黙り込んだ。

 レオンの腕の中は、驚くほど静かで暖かい。


「……ごめんね」


「いいって。助け合うのが仲間じゃないか」


 低く笑う声が、耳の奥でゆっくり溶けていく。ごつごつとした胸板に背中を預けると、不思議なくらい心が落ち着いた。


 遠くでは、風の合間に聞こえるかすかな金属音。けれど、その音もいまは子守唄のように感じられる。


 ひゅう、と冷たい風がテントの隙間をすり抜けた。毛布の縁から白い息がこぼれ、頬のそばで淡くほどけて消える。


「……ありがとう、レオン。ほんとに……」


「何言ってるんだ。こういう時はお互い様だろ」


「……そうだけどね」


「なんだか、調子狂うな。いつものクリスらしくないぞ……」


「レオンこそ、らしくない……」


 会話が途切れ、残るのは互いの呼吸だけ。


 やがて、空がほのかに白み始める頃、レオンの息はすぐ後ろで静かに整い、クリスも毛布の中でようやく安らかな眠りに落ちた。凍える戦場の一夜――仲間として幾度も助け合ってきた彼の温もりを、こんなにも離れがたく感じたのは、この夜が初めてだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。