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黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第二十章 雪路をゆく、ふたりの銀翼
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ふたりの銀翼――仮初め夫婦が挑む王宮の謀略

 王宮の奥まった廊下を進むうちに、クリスの足はいつの間にか速まっていた。磨かれた大理石に靴音が乾いて響き、壁のレリーフには燭の炎が細い影を伸ばしている。細長い窓から差す薄紅の中で、レオンの影と自分の影が重なった。クリスは隣へ顔を向けた。


「……レオン、なんだか胸が苦しいよ。わたしたち、本当に陛下に直接お話しできるんだよね」


 クリスは指先で袖の縁をそっと摘み、先導するコルデオの背を見た。控室で考えてきた言葉を思い返しても、何から伝えればよいのか、うまくまとまらなかった。


「まさか俺たち二人だけで、女王陛下の御前に呼ばれるなんて、夢にも思わなかった……」


 レオンも拳を握り直し、胸元を整えて息を吐いた。その横顔を見て、自分だけが落ち着かないのではないと、クリスはわずかに肩の力を抜いた。


 侍従長コルデオは、長衣の裾を引きずらぬよう静かに歩き、重厚な黒檀の扉の前で足を止めた。クリスも立ち止まると、腰の金具が小さく鳴る。扉に刻まれた王家の紋章を見上げ、握っていた袖口をようやく放した。


「……では、私はここまでです。この先は、あなた方の真摯な気持ちを、そのまま陛下に伝えてください」


 コルデオの低い声を聞き、クリスは頷いた。静かなノックに内から返事があり、彼が開いた扉がわずかに軋む。レオンと目を合わせ、並んで室内へ入った。


 執務室には紙の匂いと薪の燃える匂いがかすかに漂っていた。暖炉の熱が届かない入口で、クリスは指を揃えて立つ。控えめな灯の下、机には書類が小山のように積まれていた。その向こうで女王メービスが顔を上げ、ふたりへ目を向けた。


「……レオン、クリス。よく来てくれました」


 名前を呼ばれ、クリスは深々と頭を垂れた。顔を上げると、薄緑の瞳はまっすぐこちらへ向けられている。目元には疲れが見えるのに、声は穏やかだった。朝から女王への不満まで口にしていたことが思い出され、頬が熱くなる。また袖口を握りそうになるのをこらえて、レオンの隣で呼吸を整えた。


「陛下、お時間をいただき、ありがとうございます。まさか俺たちの話を、こうして聞いていただけるなんて……」


 レオンの声は、廊下で話していたときより硬かった。クリスも小さく頷き、続こうと唇を開く。女王の視線を受けながら言葉を出そうとすると、乾いた喉が鳴った。


「わ、わたしたち……こんな未熟者ですが、どうしてもお伝えしたいことがあって……」


 メービスは控えめに手を上げ、ふたりを制した。クリスは言いかけた言葉を止める。その微笑みがどこか寂しげに見え、何か失礼があっただろうかと背を正したところで、女王はふたりに向かって、そっと頭を下げた。


「まずは、あなたたちを形だけの会議に出させたこと。囮のように使ってしまったこと。この点について謝りたかったのです。ごめんなさい」


 クリスは息を呑み、隣を見た。レオンもこちらを向いていたが、すぐに女王へ視線を戻す。自分たちが不満を訴える前に、女王から頭を下げられた。どう応じればよいのか分からず、クリスは指を握り込んだ。


「そ、そんな。陛下……!」


 思わず後ずさると、靴底が床を擦った。クリスは足を止め、頭を上げてほしいと伝えようとしたが、その先の声が出ない。レオンも微かに首を横に振るばかりで、女王を見つめていた。


 メービスは顔を上げると、机上の書類へ視線を落とした。その指が紙の角へ触れ、重なった端を揃える。誰も口を開かない中で、その小さな音がクリスの耳に届いた。


「……あなたたちは、未熟だから本隊から外された、そう考えていたのではありませんか?」


 言い当てられ、クリスは唇を結んだ。女王はふたりを順に見てから、小さく息をつく。暖炉で薪が弾けたが、クリスは目を逸らせず、次の言葉を待った。


「それは違います。目的は宰相を欺くことです。『女王は治安局を頼りにしている』と見せる必要があったのです。軍や騎士団を表立って動かせば、こちらの狙いを警戒されてしまう。約束した情報交換を続けながら、その裏で調べを進める時間を稼ぎたかったのです」


 クリスは今朝の会議を思い返した。話す機会もなく、報告を聞いて帰るばかりだった自分たちの姿も、宰相を欺くために利用されていたのだ。隣ではレオンが黙って話を聞いている。理屈は分かる。それでも、何のためにここへ来たのか分からず過ごした時間を思うと、すぐには胸のつかえが取れなかった。


「……陛下のおっしゃることは理解できます。ですが、正直なところ、わたしたちは本隊から外された悔しさもあって、ずっと居場所を見失ったようでした。そんな自分が恥ずかしくて……」


 恥ずかしいと口にしたところで、声がつかえた。レオンの手が肩に触れ、クリスは俯きかけた顔を上げる。その手の重みを感じながら、自分が知りたかったことを、もう一度言葉にしようとした。


「わたしたちを王都に残されたのには、会議に出る以外にも、何か……理由があったのでしょうか?」


 問いに、メービスは短く頷く。机の引き出しから書状を取り出すと、紙の擦れる音がした。


「あなたたちが思い悩んでいることはわかっていました。けれど、万が一のとき、すぐに動いてもらえる人を王都に残しておきたかったのです。あなたたちなら、その役目を任せられると思ったからです」


 女王は書状を開き、目を通した。クリスはその手元を見つめる。すぐに動ける者として残されたのなら、今、呼ばれたのはそのためだろうか。


「実は、あなたたちに託したい仕事があるのです。レズンブール伯爵の失踪をめぐって、王都の会議からは見えてこない動きを探ること。それを確かめるための、本当の意味での捜査を、あなたたちに任せたいのです」


「本当の捜査……ですか?」


 クリスは思わず聞き返した。女王が書状を机に置くと、そこへ視線が引かれる。肩にあったレオンの手が離れ、彼も話の続きを聞こうと姿勢を正した。


「そう。わたくしは、治安局の対応の裏に宰相側の意向が働いていると考えています。上辺だけの報告を頼りにしていては、伯爵失踪の真相には到底届かない。ですから、今秘密裏にダビド班を動かしています。けれど、彼らにすべてを調べてもらうわけにはいかないでしょう。銀翼はもともと少数精鋭で、ステファン班、本隊、ダビド班に、それぞれ役目を任せています。そこからさらに人員を割くのは難しいのが現実です」


 クリスは、ダビドたちが治安局とは別に伯爵の捜索を進めていることを、ここで初めて知った。会議で聞く報告がすべてではなかったのだ。女王の説明から気を逸らす余裕はなかった。


「だから、手の空いている俺たちに白羽の矢が立った……というわけですね。具体的にはどんなことをすればいいんですか?」


 レオンは問い終えてから唇を引き結んだ。彼が手袋をはめた手を握り込むのを横目に、クリスも女王へ向き直る。望んでいた役目が、ようやく自分たちのところへ来ようとしていた。


「あなたたちには、行方不明のレズンブール伯爵の消息を追いつつ、宰相の息のかかった者たちの動向を探ってもらいたい。北方街道の宿場をたどり、北から来た人や荷の動きを確かめてほしいのです」


 クリスは唾を呑んだ。王宮を出て、自分たちの目と耳で確かめる仕事になる。何かを任せてほしいと願っていたのに、北方街道へ出て調べると聞くと、襲撃の知らせを受けた日の声が思い出され、背筋が冷えた。


「そんな……大事な任務、わたしたちに本当に務まるのでしょうか……?」


 問い終えたクリスは、女王の返事を待った。自分たちが怖じ気づいたと思われただろうか。だが、向けられた目は逸れず、返ってきた声も穏やかだった。


「危険を伴う任務なのは間違いありません。それでも、あなたたちなら任せられると考えています」


「俺たち、実戦経験はそれなりにあると自負していますが、捜査なんて柄じゃないような気がします。どうして俺たちなんですか……?」


 張り詰めた沈黙ののち、女王はほんの少し視線を和らげる。


「危険を見極めて、生きて戻ろうとする力があるからです。選抜試験での様子はヴォルフから、その後の訓練での働きぶりについてはバロックから聞いています」


「俺たちの働きぶり、ですか?」


 レオンが眉を寄せ、クリスも自分たちのどこを見られていたのかと身構えた。女王はふたりの顔を確かめながら、言葉を続ける。


「レオンは勇敢に戦い、それでいて退き時を見誤らない。負傷した仲間も連れ帰ろうとする」


「きょ、恐縮であります」


「クリスは周囲によく気を配り、危険に気づくのが早い。ふたりとも、隣の動きを見て合わせられる」


「評価していただき、こ、光栄です……」


「過酷な戦場を生き延びてきたその力を、今回の調べにも生かしてほしいのです」


 クリスは結んでいた唇を緩めた。戦場で隣の動きを確かめていたときには、それが誰かに評価されるとは思いもしなかった。あのときと同じように、自分の目で見て、気づいたことを伝えればいいのだろうか。傍らのレオンを見てから、静かに頷いた。


「それに、あなたたちは明るくて人当たりがいいでしょう。相手を威圧するようなところがない。旅装に着替えれば、動きやすいのではないかと思ったのです。そうですね、いうなればダビドに似た雰囲気でしょうか」


「ダビドの兄貴か……なるほど」


「そういえばレオンは、ずいぶんダビドさんに可愛がられているようですね。髪の色が似ているせいもあるのかもしれませんけど、まるで弟さんみたいだなって思いました」


「そうですか? いつもからかわれてばっかりなんですけど……」


 からかわれているときのレオンの顔が思い浮かび、クリスは小さく笑いかけ、女王の御前だったことを思い出して口を閉じた。メービスも微笑んでいる。それを見て、強張っていた肩が少し下がった。


「あなたたちにうってつけの任務だと思うのだけれど、お願いできませんか?」


「はい、もちろんです。俺たちにできることなら、何でもやってみせます」


「誠心誠意、がんばります」


 返事をすると、クリスはようやく深く息を吸えた。控えめに焚かれた香の甘さが鼻先に届く。役に立てないと俯いていた時間を思い、今度こそ力を尽くしたいと願っていると、女王の目がふたりを交互に捉えた。


「では、任務のため、あなたたちには新婚の行商人夫婦に扮してもらいます」


 夫婦。その言葉に、クリスは返事を忘れた。隣を見ると、レオンもこちらを見ている。クリスは何か言おうとして口を開いたが、先に彼のほうが目をそらした。


「旅の商人なら、街道沿いの宿場町や農村を訪れることも不自然ではないでしょう? 騎士然とした武骨さはなるべく隠したほうがいいから」


 旅をするなら、レオンと組むことに異存はない。けれど、夫婦として一緒にいるとなると、どうしていいか分からなかった。クリスが返事に詰まっていると、メービスはわずかに目を細めた。


「そんなに難しく考えなくても大丈夫ですよ。新婚なら、まだ夫婦としてぎこちないところがあっても、不自然ではないでしょう?」


 レオンが耳まで赤くなった。クリスも頬が熱い。つい先ほどまで並んで立つことなど気にも留めなかったのに、彼の腕との間隔を確かめてしまう。


「へ、陛下、ちょっと待ってください。俺とクリスは……べつに、その……」


 声はわずかに裏返る。クリスは肩をすくめ、長い睫毛をそっと伏せた。


「わたしたち、恋人というわけでもないのに……」


 口にしてから、クリスは袖の縁を握った。そういう関係ではないと伝えたかっただけなのに、隣を見られない。メービスは急かさず、ふたりの言葉を聞いていた。


「ええ。ふたりの間柄についてわたくしが知っているのは、同じ部隊で長く行動をともにしてきたことだけです。戦友として、互いをよく理解しているのでしょう?」


 穏やかに問い返され、クリスはうなずいた。剣を振るう癖も、無茶をしそうなときの顔も知っている。それならば答えられるのに、レオンはまだ耳を赤くしたままだった。


「長い付き合いなのは確かです。ただ、そ、その……夫婦となると、話は別というか……」


「そうです。わたしたち、戦友というより、ただの腐れ縁っていうか。レオンは危なっかしいから、目が離せないっていうか……」


 言い足すほど、何を説明しているのか分からなくなってきた。クリスが口を閉じると、メービスは静かに微笑んだ。


「そうやって、互いに相手を気にかけられるところを、任務でも生かしてほしいのです」


 クリスは顔を上げた。目が離せないと言ったのは、レオンが危なっかしいからだ。けれど、それが任務に役立つと言われるとは思わなかった。


「素性を知らない者同士なら、親しく見せるところから始めなければならないでしょう。あなたたちには、積み重ねてきた時間がある。あとは行商人としての振る舞いを覚えて、夫婦という役に慣れてもらえれば問題ないはずです。お願いできますか?」


 知らない相手と組むのとは違い、レオンとなら互いのことがよく分かる。レオンが困れば助けるし、自分が困ったときには頼れる。その間柄を、夫婦として見せればいいのだろうか。クリスは隣を見た。彼もこちらへ顔を向け、短くうなずいた。


 レオンは背筋を伸ばし、女王の正面へ歩み寄った。靴音が止まる。先ほどまで言葉に詰まっていた彼の声が、今度ははっきりと響いた。


「分かりました。陛下のためにも国のためにも、ぜひやらせてください。どんな形でもかまいません。伯爵の行方を追い、宰相の裏を暴いてみせます。……本当は、本隊と一緒に戦いたかったけれど、これが今、俺たちにしかできないことなら……」


 メービスの瞳に、安堵の色が淡く浮かぶ。


「ありがとう、レオン。お願いするわ」


 クリスは指先で胸元を軽く押さえた。自分にも、女王に伝えたいことがあった。会議のあとから抱えていた言葉を確かめ、まっすぐ顔を上げる。


「……ちょっと怖いですけど、こんな大役を任せてもらえるなんて光栄です。それにわたしたち、どうしても陛下に恩返しがしたいんです」


 ふたりの決意に、女王はまっすぐ向き合い、静かに微笑む。


「ありがとう、クリス。期待しております」


「はい」


 クリスが返事をすると、メービスはふたりを見据えた。クリスも姿勢を正し、次の言葉を待った。


「それでは、わたくしの名のもとに、この任務を銀翼の一員であるあなたたちに託します。わたくしにとっての戦場は王宮ですが、気持ちはみんなと同じです。どうか無事に帰ってきてください」


 無事に帰ってきて。その言葉が、クリスにはことさら強く残った。銀翼の一員として送り出され、帰りを待ってもらえる。レオンの返事を聞きながら、彼女も女王を見つめていた。


「かしこまりました、陛下。必ずや、伯爵の行方をつかんで戻ります。銀翼の誇りにかけて戦います」


 クリスは膝を折り、「わたしたち、精一杯やってみせます」とはっきり告げる。


「ありがとう。早速、準備にかかってもらいます」


「はっ!」


「了解です!」


 クリスは立ち上がった。受けた役目を果たすために、旅に何を持ち、どう連絡を取るかも聞いておかなければならない。


「王都への連絡方法は、後ほどコルデオから説明を受けてください。くれぐれも目立たないように。『影の手』と呼ばれる者たちについても、分からないことが多いです。くれぐれも、無理はしないでください」


 レオンが顎を引き、口元を引き締めるのを見て、クリスも女王へ向き直った。揃えた指に力がこもり、次の息が浅くなる。姿の見えない相手に、こちらの動きを知られるかもしれないと思うと、女王が続ける言葉をひとつも聞き漏らしたくなかった。


「偽装や任務に必要な物資は、すぐに手配させます。行商の馬車、雑貨類、旅費、それから旅装も。新婚の行商人夫婦であることを忘れないで。……あと、お互いの呼び方も考えておいたほうがいいでしょう」


 クリスは旅に必要なものを頭の中で数えていたが、最後の言葉で止まった。呼び方まで変えるとなると、いよいよ普段どおりにはいかない。


「お、お互いの呼び方……。そ、それは……『あなた』とか『奥さん』とか、そういった、ものですか……?」


 クリスの頬にまた熱が差し、声の端が跳ねる。


「ええ。ただ、無理に呼び慣れない言葉を使う必要はないです。話し方や立ち居振る舞いも含めて、旅の夫婦に見えるようにしてほしいのです。いかにも騎士然とした態度には、特に注意してくださいね」


 レオンが苦笑してこちらを見た。クリスも顔を向けたが、「あなた」と呼ぶつもりで口を開こうとすると、どうにも声が出なかった。


「わかりました。……その、夫婦に見えるよう、できる限り頑張ってみます」


 レオンの返事に、メービスはうなずいた。その表情が改まるのを見て、クリスは握っていた袖を離した。


「ありがとう。……本当に無理はしないで。危なくなったらすぐに引くこと。なにがあっても生き延びること。それだけは忘れず、どうか自分の命を大切に。そして、仲間を信じて」


 危なくなったら引く。その指示を、クリスは心に留めた。任せてもらえたからといって、成果を焦ってはならない。レオンとともに戻り、見聞きしたことを伝えるまでが任務なのだ。


「はい。陛下がそうおっしゃってくださるなら、わたしたちも力の限りお応えしたいです」


「俺も……死に急ぐつもりはありません。必ず生きて戻り、報告します」


 メービスは手元の書状を折り直し、クリスへ差し出した。両手で受け取ると、紙の角が指に当たる。続きを聞き漏らさぬよう、彼女は書状を持ったまま顔を上げた。


「任務について、この書状にまとめておきました。詳しいことはコルデオから聞いてください。あなたたちも、うまく夫婦を装えるよう、しっかり予行練習をしてみて。気になることがあったら、彼を通じてわたくしに伝えてください」


 ふたりが礼をすると、メービスは静かにうなずいた。レオンが扉を開け、クリスは書状を胸元に寄せてそのあとに続いた。


 扉が閉じると、クリスはようやく長く息を吐いた。廊下の冷気が頬に触れる。手元の書状へ目を落とし、折り目を指で確かめた。何かを任せてほしいと願っていた。その役目が、今はふたりに託されている。


「レオン……本当に、わたしたちに務まるのかな……?」


 声を抑えて尋ねると、レオンは笑みを浮かべ、肩を軽く叩いた。何度もそうやって励まされてきたはずなのに、クリスはその手へ目を向けてしまった。


「大丈夫さ。せっかく陛下が俺たちに賭けてくださったんだ、応えないわけにはいかない。ただ、新婚の夫婦ってのがな。まさかそんな作戦になるなんて、ちょっと想像もしてなかったんだけど。どうしよう……」


 クリスはうなずきかけて、唇を結んだ。任務を引き受けたときには言えなかったことが、ふたりきりになると口をついた。


「……そうだね。わたしも、戸惑ってる。形だけって言っても、なんだか変に意識しちゃいそうで……」


 レオンは口を開きかけ、軽く咳払いをした。


「まあ……まずは任務に集中しよう。色々忙しくなるけど……お互い、がんばるしかない」


 クリスは小さくうなずいた。レオンと力を合わせることなら、これまでにも何度となくやってきた。書状を握りしめそうになった手を緩め、もう一度彼を見る。


「うん。いつもみたいに、力を合わせてやっていこう。……でも、とりあえず、わたしたちってどう呼び合えばいいんだろう? 『マイ・スイート・ハート』とか、『ダーリン』とか……?」


 口にした途端、クリスは顔が熱くなった。レオンが「ごほっ」とむせ、手で口を覆う。試しに言ってみただけなのに、彼の顔を見ていられなかった。


「だ、それはちょっと……いや、そんな洒落た呼び方は……俺にはハードル高すぎるよ……」


「あはは……だよね。もう少し、自然に呼べる言い方を考えないとね」


 ふたりは顔を見合わせ、声を抑えて笑った。通りかかった侍従が道を空ける。クリスは軽く会釈をし、声を潜め直した。窓から差す夕焼けが、大理石の床を薄紅に染めている。


 笑えたことで、少し肩の力が抜けた。けれど、手元には女王から預かった書状がある。伯爵の消息を探るための旅だ。夫婦役に戸惑ってばかりもいられない。


「レオン、早めに支度を済ませないと。コルデオさんに呼ばれちゃうよ」


「そうだな。行こう。夫婦役だろうが何だろうが、俺たちは俺たちらしく、全力でやるだけだ」


 曲がり角の先で侍従長コルデオが待っていた。扉の前で穏やかに一礼する。


「お疲れさまでした。お話はいかがでしたか?」


「ええ。大体の任務内容は把握できました。……それで、俺たちはいつ出立すればよろしいのでしょう?」


 レオンの問いに、コルデオは目を細めて答える。


「荷馬車の準備は明日までに整います。行商人としての装いも、最低限は揃えられるでしょう。もっとも、新婚夫婦らしい雰囲気をどう醸すかは……あなたたち次第ですが」


 ふたりは思わず視線を落とし、「は、はい……」と揃って頷いた。


「では、明朝に厩舎へいらしてください。荷の積み込みが終わり次第、王都を出発していただけます。武装については、出所を探られないよう細工を施しておきます。あくまで最低限の自衛用と心得てください」


「わかりました」


 クリスはきっぱりと返し、書状を大切に持ち直した。王都を出れば、銀翼の名を頼りにはできない。持ち物も、振る舞いも、出発までに確かめておかなければならなかった。


「それから、ボコタへ急ぐあまり、雪の中を無理に進むことのないように。街道が塞がれていれば、手前の宿場でお待ちください。そこへ入ってくる人や荷の情報を集めることも、任務のうちです。連絡の手順についても、ご説明しましょう」


 コルデオに促され、ふたりは脇の部屋へ入った。クリスは王都への報告をどこへ届けるのか、返事をどう受け取るのかを確かめながら説明を聞いた。馬車や商材の扱いも、明朝、出発前に教わることになった。剣を使う場面ばかりを考えていては務まらない。聞き慣れない段取りが出てくると、レオンと顔を見合わせ、その場で尋ねていった。


◇◇◇


 その夜、ふたりは騎士団の寮に戻った。別任務で王都を離れるという話が伝わったらしく、食堂では、新たに加わった候補生たちが顔を上げる。煮込みの香りに、手入れ中の装備から漂う革油の匂いが混じっていた。クリスがレオンと並んで通りかかると、さっそく声が飛んできた。


「おい、おまえら何をやらされるんだ?」


「いや、まあ……よく分からないけど、しばらく王都を離れることになったんだ」


 レオンがはぐらかすと、クリスも「あまり詳しくは言えなくて……ごめん」と頭を下げた。新婚夫婦役だとは、口が裂けても言えない。仲間のひとりが残念そうに肩をすくめ、周りから笑い声が上がる。いつもの調子にほっとしながらも、任務の話が続かないうちに食堂をあとにした。


 ふたりはそれぞれの部屋へ戻り、身支度を始めた。クリスは長らく愛用した鎧や兜を抱え、傷のついた縁へ指を滑らせる。明日からは、これを身につけずに旅をする。「少しだけの別れだ」と心の中で呟き、手入れをして置いた。窓の外では王都の灯りが点々と滲んでいる。旅装に替えても持ち歩けるものを選び、荷をまとめていった。


 荷をまとめ終えると、ふたりは小さな広間の長椅子に腰を下ろした。クリスは背を預け、隣のレオンを見た。今朝の会議が終わったときには、また何もできずに一日が終わると思っていたのだ。


 遠くで馬具の金具が触れ合い、乾いた音がした。

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