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雪籠(ゆきごもり)の王宮――ふたつでひとつの翼を信じて②

 小会議室を後にし、王宮の回廊を進む。石の床が靴底へ乾いた冷えを返し、窓の隙から入る風が外套の裾を揺らした。さっきまで背筋を伸ばしていたせいか、肩の内側に重さが残っている。それでも、向かい合っていた宰相の顔が見えなくなると、ようやく深く息を吸えた。


「よくやったな、メービス」


「あなたが隣で支えてくれているからよ。感謝しているわ、ヴォルフ」


 声を落として答えると、彼は口元を緩めた。けれど、角の向こうから侍従が現れたのを見て、それ以上は話さなかった。わたしも前を向き直り、挨拶に頷きながら通り過ぎる。誰の前で何を話したかまで、宰相へ届いているかもしれない。執務室へ戻るまで、二人の足音だけが並んで続いた。


 室内に人が残っていないことを確かめると、ヴィルは扉を閉め、内側の錠を下ろした。わたしは机へ手をつき、手袋を片方ずつ外す。その指先が震えていることに気づき、今更ながらに自分の怖れを自覚した。


「宰相め、伯爵の捜索よりも、母子をどうするかのほうが気になるらしいな」


「ええ。継承の話とは別だと言えば、お二人を動かせると思っているのかもしれない。伯爵が戻るのを待つあいだ、安全のために王都へお迎えしましょう、なんて言い出されたら……」


 机の縁へ置いた指に力が入った。昼の宰相の言葉を思い返すと、男爵家へ続く街道に、こちらの知らない兵が立つ光景まで浮かんでしまう。


「貴族院で審議を始めるころには、リュシアン殿をもう手元へ置いているかもしれないのよ。そう思うと、やっぱり怖くなるわ」


「宰相は形式を重んじる。母子を動かすにしても、自分の言葉を踏み越えずに済む名目は欲しいだろう。こちらへ説明できる形を整える間に、銀翼を進める。そのための時間は稼げた」


 ヴィルが隣へ来て、わたしの肩へそっと手を置いた。宰相を前にしていたときの張り詰めた仕草とは違い、手袋越しの指が、外套に触れたまま留まっている。わたしはその手を見てから、窓へ目を向けた。夜の硝子には、机の前に並ぶ二人の姿が映っている。


「そうね。でも、ここで言葉を交わしているあいだにも、ロゼリーヌ様たちは、お屋敷に閉じ込められているのよね。何が起きているかを、すぐに確かめに行けない。それが、たまらなくもどかしいの」


「何か動きがあれば、ステファンが足止めしてくれるさ。銀翼本隊も、冬季訓練の名目で近くまで進めておけば、手が届くようになる。伯爵の捜索はダビドたちだ。お前が必死に稼いだ時間は、皆が生かしてくれるさ」


 その言葉に、雪の中庭で見送ってくれた顔が浮かんだ。わたしが王宮で矢面に立つと告げたとき、彼らは自分たちの役目を引き受けてくれた。いまも、あの雪の中で支度を続けているはずだ。肩へ置かれた手の重みを感じながら、わたしは机へ向き直った。


「ええ。みんなが動けるように、わたしは、ここでできることをするわ」


「それでいい」


 ヴィルが肩から手を離したあとも、外套の上にはしばらく温もりが残った。わたしは紙片を一枚引き寄せ、宰相へ見せる仕事と、こちらで進める仕事を頭の中で分けていく。先ほど約束した情報交換を、そのまま彼らに内側まで覗かせる窓口にしてはいけなかった。


「では、宰相には表向き、捜索に協力するという形で、定期的な情報交換の場を設けるよう、連絡してちょうだい」


「わかった」


 手元の紙へ視線を落とすと、昼に耳にした若い二人の声が思い出された。ただ、あれほど張り切ってくれていたその二人へ、王都に残る役目を頼むことになる。わたしはペンを取り、その二人の名を記した。


「担当者としてこちらから出せる人員は……そうね、クリスとレオン。あのふたりに任せるわ」


「あいつらをか? 戦場経験は豊富だが、実務の経験は薄いぞ? いいのか?」


「あくまで、表向きの窓口よ。ふたりには申し訳ないけどね。万が一に備えて、すぐに動いてもらえる人を、手元に残しておきたいというのもあるの」


「なるほど、悪くない判断だ。あいつらにとっても、いい経験になるだろう」


 ヴィルは、わたしが差し出した紙片に目を通し、二人の名を確かめてから折った。机の端には、前日に整えた銀翼の冬季演習の命令書の控えがある。本隊は予定どおり、男爵領へ続く街道へ向かわせる。


「伯爵の捜索についてはダビドを主軸に進めるとして、重要な報告は宰相府へ回すものと分けて、こちらへ密かに届くようにしてちょうだい。何を掴んだのか、まず、わたしたちが確かめたいの。宰相派も、連絡に来るのがあのふたりだと知れば、油断するかもしれないしね。銀翼は経験の浅い若者ばかりだと、思っているようだから」


 あの場で団員たちの実力を言い募らなかったことを、いまはそのまま使える。もっとも、宰相まで同じように侮っているとは限らない。わたしは、ヴィルが折った紙片を見つめた。あの二人に何かあれば、役目を命じたわたしの責任だ。


「了解だ。宰相の影の手がこちらを探ってくるのは確実と見ていい。なら、こっちも逆手を取って、奴らの背を嗅ぎまわってやればいい」


 ヴィルの声に、わたしは頷いた。王都で得た情報を北の捜索へ渡すときにも、宰相府を経由させる必要はない。報せが届けば、そのたびに次の手を選び直す。雪道の先を動く仲間たちに、ここで受けた約束だけを頼りに進めと言うつもりはなかった。


「伯爵の行方が分かれば、リュシアン殿を矢面に立たせようとする思惑も、崩せるかもしれない。あの人が何を知っていて、何をしようとしていたのか、本人の口から直接聞かせてもらわなければ」


 次の紙へ手を伸ばそうとすると、ヴィルが椅子の背を引いた。その音で顔を上げると、彼はわたしの手元から顔へと視線を移していた。


「ミツル、大丈夫か? 随分と疲れが見えるぞ?」


「さすがにね……少し気を張りすぎたかも」


 椅子に腰を下ろすと、脚に溜まっていた重さがほどけていった。ヴィルは引いた椅子の背から手を離し、そのままそばに立っている。外套の合わせを緩めたとき、革と毛皮の匂いがわずかに立ち、馬車の中で抱きしめられた感触が蘇った。頼もしい腕の中で聞いた、彼の速い鼓動。あれを思い出すと、わたしだけが怖がっているような気持ちには、もう戻れなかった。


 胸の奥に残る切なさを持て余しながら、そばにある手を見た。手袋の縫い目を目で辿ってから顔を上げると、ヴィルはこちらを見ていた。わたしは少しだけ笑みを返し、白紙を机の中央へ置いた。


「ヴィル。正式な手続きで、もう一度書簡を用意して、男爵家へ連絡を試みてみるわ。それすらも妨害されるようなら……」


「宰相は、その手の妨害を調べると言った。ならば、言葉どおりに働いてもらおうじゃないか」


 声に含まれた皮肉に、わたしは頷いた。伯爵の命令が残っているのか、別の誰かが動かしているのか。影の手とは関わりがないと言った以上、そう呼ばれる者が現れたときに庇えば、自分で否定した関係を疑わせることにもなる。


「ええ。こちらも譲歩する姿勢は見せたのだしね。いまさら、女王の意向など知らなかったとは言わせないわよ。もし、連絡を妨げようとする者が現れるのであれば、その時は一席設けて皆の前で伺うつもりよ」


 宰相の冷徹な顔を思い出すと、舌打ちしたくなる。


「なるほどな。そういう意図か。とはいえ、もし伯爵側の私兵が、母子との面会をあれこれ理由をつけて拒むなら?」


「そのときは、銀翼を動かす理由を、宰相にも示せるわよ。『王太子にと擁立をお望みの方の安否を、いつまでも確認できないままにはしておけません。一貴族の私兵に任せたままでよいと、宰相殿はお考えですか』と。国の未来を案じるのなら、その子がいま無事かどうかを、まず確かめるべきでしょう」


 現地で危険が迫ったときの判断は、すでにステファンへ託している。本隊の支度も進めている。そこへ、王宮から正式に母子の安否を問う書簡を重ねるのだ。宰相が連絡妨害の調査と対処に当たるという言葉を守るなら、その力も使う。妨げる者を放置するなら、誰が、どんな理由で動かなかったのかを残す。母子を守るために進めていることを、あとから女王の勝手な振る舞いだったとは言わせたくなかった。


「よし、俄然やる気になってきたな」


 ヴィルの口元に淡い笑みが浮かんだ。わたしは息を吸い、彼の目を見返す。疲れは残っている。窓の向こうの雪も止んでいない。


「ここまで伝えてなお、女王の意向を妨げるというのなら――」


 言いかけたわたしを見て、ヴィルはゆっくりと頷いた。続きまで聞かなくても、そばにいてくれる。その眼差しを受けてから、わたしはペンを取り、宛名の最初の文字を書き始める。


 ふたつでひとつのツバサを信じ、ヴィルと、力を貸すと応えてくれた仲間たちとともに、あの母子へ手を届かせる。机の上を照らす灯の下で、彼が隣に立つ気配を感じながら、わたしは次の一手を、一文字ずつ書き進めていった。

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