雪籠(ゆきごもり)の王宮――ふたつでひとつの翼を信じて①
大理石の床を踏みしめながら、わたしは胸の奥へ溜めていた息をゆっくりと吐いた。背後では、馬車が再び動き出す音がしている。振り返った先の扉越しに、雪と薄霧に霞む白銀の塔と、門前で敬礼する衛兵たちの姿が見えた。凍えきった顔でこちらを見送る彼らは、わたしが目を向けると、すぐに姿勢を正して視線を戻す。その仕草まで、誰かに見咎められるのを恐れているように思えてしまう。
「参りましょう、ヴォルフ。……もう、背を向ける時ではないわ」
声に出して彼を呼び、襟元を正す。女王の言葉遣いへ戻ると、それまで隣にいた人とのあいだにも、わずかな隔たりが生まれたような気がした。それでも、ヴォルフがこちらを見て微笑んだのを確かめると、喉の奥につかえていた息が通った。
「ここからは戦場だ。行くぞ、メービス」
さっき、馬車の暗がりで、ふたりでなら乗り越えられると確かめ合ったばかりだ。外套の内側には、まだ、馬車の中で触れていた彼の温もりが残っていた。
――だから、だいじょうぶ。
わたしは小さく頷き、足元の冷えを踏み越えていく。回廊へ入るにつれて外の風音は遠ざかり、代わりに靴音が高い天井へ響くようになった。
宰相は、すでに謁見の間で待っているという。帰還を迎えに来ることもなく、重臣たちとともに奥へ控えていると聞かされると、こちらが呼びつけられたような気分になる。けれど、顔には出さず、案内の侍従へ礼を言って歩を進めた。
廊下を行き交う侍従たちは、わたしたちを見ると足を止めて礼を取った。そのまま何か言いかけるように唇を動かしながら、自分の後ろに続く者へ気づいて頭を下げ直す人もいる。伯爵の消息が知れないという報せは、王宮にも広まっているのだろう。彼らが何を聞かされているのか、わたしの帰還をどう受け止めているのかも分からないまま、その前を通り過ぎる。
「考えるなとは言わんが、あまり考え込みすぎてもよくないぞ。戦でもそうだが、あえて余白を残しておくのも重要だ」
半歩後ろから届いた声に、わたしは短く頷いた。彼の言いたいことは、わたしにも分かった。何もかも読み切ったつもりで決めてしまえば、予想が外れたときに動けなくなる。退く道を残しておくように、考え直せる余地も残しておく。いま分からないことまで考え詰めて立ち止まるより、状況を見ながら次の手を選んでいけばいいのだ。
――だいじょうぶ。わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから。
怖さを全部押し隠して、一人でここを歩く必要はない。彼の足音が変わらずそばにあるのを聞きながら、重い扉の前で顔を上げた。
◇◇◇
大扉の蝶番が低く鳴り、王宮本棟の謁見の間へ入った。赤い絨毯の左右には重臣と貴族が並び、その奥で宰相クレイグ・アレムウェルが待っていた。わたしが玉座へ向かうあいだ、頭を垂れた人々の視線が足元を追ってくる。腰を下ろして顔を上げると、宰相が進み出て、改めて深く礼を取った。
「女王陛下、ようこそご還御あそばされました。この雪の中、ご無事にお戻りになりましたこと、何よりと存じます」
礼の角度は申し分なかった。顔を上げたときには、いつもの穏やかな微笑が整っている。その後ろで書記官が羽根ペンを持ち直したのを見届け、わたしは背筋を伸ばした。
「ご配慮は不要です。道は雪深くとも、務めを遅らせるほどではありません」
息を急がずに言い終えると、宰相はわたしから、そばに控える王配ヴォルフへ目を移し、労うように首を傾ける。
「左様でございましたか。ところで、例の銀翼騎士団の件――王配殿下ご自らお選びの者たちと承っております。僭越ながら、世評ではステファン卿を除き若手が多く、いささか尚早との声も聞こえてまいります。陛下直下の精鋭として、実戦に堪えうるや否や、案じておりまして」
ヴォルフの喉仏が動き、革手袋が微かにきしんだ。王配が自分で集めた若者たち。その言い方を聞いた貴族の一人が、隣の者と目を合わせている。わたしの脳裏には、雪の中庭でこちらを見つめていた団員たちの顔が浮かんだ。あの眼差しを、この人たちは知らない。けれど、ここで彼らの力を誇ってみせることが、あの母子へ近づく助けになるわけでもなかった。
「発足二か月、千を揃えるような大部隊でもありません。ゆえにこそ、志と素質を見て選んでいます。部隊として実戦へ臨むには、まだ連携を整える必要がありますから、冬季であろうと演習は欠かせません。いまは、そのための支度を進めているところです」
列の中で、張っていた肩を緩める者がいた。視察を終えた女王の口から、勇ましい報告が出てこなかったことに安心したのかもしれない。ヴォルフは口を挟まず、わたしの横に立っている。彼が直々に集めた人たちをどう見てきたかは、あとで二人になれば伝えられる。
「さすがは陛下。ご着眼の高さ、まこと頼もしく。杞憂に終われば、これ以上の幸いはございません」
宰相の微笑は変わらなかった。こちらの説明を受け入れたのか、まだ何かを探っているのか。その目を見返したまま、わたしは話を移した。
「それで、レズンブール伯爵殿の件です。隊舎にて、襲撃を受けられたとの報せを聞きました。宰相殿のもとには、その後、何か届いていますか?」
「まことに痛恨の極みに存じます。配下に探索を命じておりますが、いまだ伯爵殿の所在を確かめるには至っておりませぬ。早期のご帰還を願うばかりにございます」
その返答を聞いても、王都へ戻る馬車の中で抱えていた疑問は一つも解けなかった。伯爵本人をここへ迎え、書記官の前で説明させるはずだった。その当人が消えたことを、宰相はどう扱うつもりなのだろう。わたしは肘掛けへ置いた指を揃え、彼から目を逸らさずに続けた。
「伯爵殿の不在を受けて、改めて貴族院を開くおつもりですか。先の取り決めを変えるために、ということではありませんね?」
「陛下のご意向を外すことなど、あろうはずもございません。ただ、諸卿の間にも不安が広がっております。国政の方途を整え、今後の対応について意見を合わせることは、必要かと存じます」
伯爵がいなければ、何もかも止めるしかない。そう言わせるつもりはなかった。
「必要な相談は進めてください。ただし、王位継承の審議に先立つ条件を省くことは認めません。伯爵殿がいらっしゃらないからといって、ロゼリーヌ殿とリュシアン殿のお気持ちまで分からなくてよい、ということにはなりませんもの」
「もちろんでございます。もっとも、伯爵殿のご不在が長引くようであれば、男爵家のご不安も増しましょう。お二人の保護につきましては、継承の議論とは別に、手当てを考える必要があるかと」
背後の重臣が、わずかに頷いた。母子の身を案じる言葉としては、何もおかしくない。けれど、先ほどまでの捜索の話よりも滑らかに出てきた返答が、気にかかった。
「保護とは、具体的にはどのようになさるおつもりですか?」
「いまだ方策を定めたわけではございません。まずは安否を確かめ、必要ならば、より安全な場所へお迎えすることも含めて――」
「その必要を、お二人の言葉を聞かないまま決めることはなさらないでください。伯爵殿を待つ間に、お二人の居場所だけが決まっていた、などということは、わたくしは決して認めません」
宰相の唇が閉じた。わたしはその顔を見たまま、声を和らげた。保護という言葉でお二人を動かされれば、議題が再び上がるころには、もうこちらの手が届かなくなっているかもしれない。
「お二人を案じる気持ちは、わたくしも同じです。だからこそ、まずは直接、ご無事を確かめたいのです」
「……心得ております。陛下のご意向を踏まえ、慎重に取り計らいましょう」
書記官の羽根ペンが紙を擦った。宰相は、母子を移す手配があるとは認めていない。彼の背後に並ぶ人々へも視線を巡らせてから、わたしは書記官へ向き直った。
「いまのやり取りも、先の会議の記録とともに、正確に留めておいてください。取り決めが変わったと受け取られることのないように」
書記官が頭を下げると、宰相は袖口を整えた。先ほど頷いていた重臣は、もう顔を動かさない。誰も反対を口にしなかったが、それが、この場を出たあとの行動まで約束するものではないことは分かっていた。
「伯爵殿の捜索には、こちらからも人を出します。宰相府と連絡を取り、情報を共有できるようにしましょう。わたくしは、伯爵殿ご本人のご無事と直にお話しできることを願っております。そのためにも、一日も早く所在を確かめなくてはなりません」
「ご高配、忝なく。担当の者へ申し伝えましょう」
「お願いします。今夜、改めてお時間をいただきます。捜索の進み具合と、男爵家への対応について、伺いたいことがありますので」
「承知いたしました。それでは、手配に戻らせていただきます。新たな報せがございましたら、ただちに上申いたしますゆえ」
わたしが頷くと、宰相は一礼して退いた。裾が絨毯を払う音が遠ざかり、重臣たちの列もほどけていく。扉の向こうへ最後の姿が消えるまで待ってから、ようやく息を吐くと、指の腹に肘掛けの硬さが戻ってきた。
廊下へ出ると、遠い窓の向こうで雪が斜めに流れていた。ヴォルフがこちらを見て、何も言わずに歩調を合わせる。執務室へ戻り、人払いを済ませると、わたしは帰りの馬車で決めたダビドへの指示を書面にした。本隊への合流を取りやめ、伯爵の行方を探ること。宰相府と交わす報告とは別にこちらへ知らせるよう記し、伝達をヴィルへ託した。
書面を受け取ったヴィルが扉へ向かった。昼の対面で得た言葉を思い返しながら、わたしは、今夜どこまで踏み込むかを考え続けた。
◇◇◇
その夜、王宮本棟の小会議室で、わたしは宰相と向き合っていた。長卓の上座にわたし、その隣にヴォルフが座り、壁際には書記官と数名の重臣が控えている。燭台の火は低かった。昼間には白く見えていた窓も、いまは室内の火影を映すばかりで、その向こうから雪粒の当たる音が絶え間なく届く。
宰相が手元に置いた書面へ目を落とした。何が書かれているのか、こちらからは読めない。伯爵の生死も、襲撃の裏に誰がいるのかも分からないまま、わたしは彼が話し始めるのを待った。
「誠に困った事態にございます、陛下。探索の手配を進めておりますが、いまだ確たる報せが上がりませぬ。もし伯爵殿みずから身を退いておられるのなら……何かご事情でも、と案じております」
宰相は親指で宰相印を撫で、唇にだけ笑みを載せた。そう考える根拠があるのか、それとも、そういう事情にしておきたいのか。問い詰めたい気持ちを抑え、わたしは卓上で手を重ねた。
「ご事情があるのでしたら、それも伯爵殿ご本人から伺いましょう。王宮の側でも探索を急がせます。無事にお戻りいただかなくては、先のお約束も果たせませんから」
「忝うございます。新年に向け、体制を整える必要もございますゆえ、このままご不在では、諸卿も今後の見通しを立てかねております。――さて、リュシアン殿の件につきましては」
書面から顔を上げた宰相の視線が、わたしへ戻ってきた。隣ではヴォルフがわずかに身を起こしている。その先を言わせる前に、わたしは口を開いた。
「お二人の安否を確かめるお話でしたら、伺いましょう。昼にも申し上げたとおりです」
「御意。まずは陛下のお考えを承り、諸卿へお示しする方針を整えられればと存じます」
こちらの返事を待つ宰相の顔は穏やかだった。彼が望んでいる言葉を、そのまま渡すつもりはない。けれど、伯爵を待つと繰り返すだけでは、雪の向こうにいる母子へ近づけないのも確かだった。
「伯爵殿の所在が分からないままであれば、必要に応じて、わたくし自ら調査を進めるつもりです。諸卿の不安を解くためにも。宰相殿にも、ご協力いただけますね」
「……無論。女王陛下にお手を煩わせるは心苦しゅう存じますが、国のためとあらば。私も掴み次第、ただちにご報告いたします」
宰相印へ触れていた指が止まった。書記官のペンは動き続けている。わたしは、宰相が視線を伏せる前に、その目を見て言葉を継いだ。
「必要とあらばですが、わたくし自ら男爵家へ赴くことも考えております。ロゼリーヌ殿とリュシアン殿に直接お会いし、ご無事と、お気持ちを確かめたいのです」
椅子の脚が石床を擦る音がした。壁際の重臣が姿勢を変え、書記官は顔を上げかけてから、すぐ紙面へ目を戻した。宰相は眉をわずかに寄せたものの、すぐには答えなかった。
「……陛下御自らでございますか。ご負担が大きくはございませんか」
「王家の事情でお二人を長く騒がせていること、女王として大変心苦しく思っています。伯爵殿が戻られるまで、ご不安のまま待っていてくださいと申し上げるだけでは、済まないでしょう。わたくしが礼を尽くしてお話しすることも、必要だと考えています」
「お心遣いは、もっともにございます。しかし男爵家は遠隔、護衛の兵も要しましょう。まして、この雪でございます。まずは伯爵殿の捜索を優先されてはいかがでしょう」
外で風が唸り、窓框がかすかに鳴った。王都の中でさえ、荷車は雪に足を取られていた。北へ進めば、馬も荷も、もっと動かなくなるかもしれない。それを承知でなお、いつまでもここに留まっていてよいとは思えなかった。
「そちらを進めながら、訪問の備えも整えておくことに矛盾はありません。雪が収まるのを待てば必ず行けるというものでもないのでしょう。ならば、予め支度を進めておくべきです」
「ですが、陛下の御身に万一がございましては、国の不安はかえって大きくなりましょう」
「ええ。ですから、備えもなく出立するつもりはありません。ただ、わたくしの身を案じてくださるのであれば、男爵家との連絡や面会が滞らぬよう、お力添えをいただきたいのです。お二人のご無事を、ここで確かめられるのが何よりですもの」
宰相はわたしを見つめたまま、返事をしなかった。どこまでが女王としての体裁で、どこからが本気なのかを量っているのだろうか。わたしの隣にいるヴォルフへ視線を移し、それから再びこちらへ戻す。わたしは重ねていた手をほどき、卓上へ静かに置いた。
「伯爵殿が見つからない間も、お二人の安全を確かめる手は進めます。そのためにわたくしが赴く必要があれば……参ります。宰相殿も、そのようにお考えください」
「……承りました。陛下のお覚悟を尊重いたします。ご出立の際は、どうか万全の備えを」
丁寧に頭を垂れた宰相を見て、胸の奥へ溜めていた息がわずかに抜けた。けれど、顔を上げた彼の目に、困惑は見えなかった。思ったよりも容易に引いた。そのことが、かえって気にかかる。わたしが王都を離れるのを、この男はどう受け止めているのだろう。雪で道が閉ざされれば、戻ろうと思っても戻れなくなるかもしれない。
「では、捜索の進捗を伺いながら、男爵家へ参る段取りも整えます」
「ええ、陛下のお心のままに」
「書記官、いまのお話も記録に留めてください。継承案の審議は先の取り決めに従い、その間にも母子の安全確認と面会の準備を進める、ということです。宰相殿、貴族院へ新たに諮ることがあれば、議題と日程は事前にお知らせください。急な招集で混乱を増やすことのないように」
宰相が頷くのを確かめ、わたしは椅子から立った。ヴォルフも席を離れ、壁際の重臣たちが一斉に頭を下げる。書記官の羽根ペンが最後の行を書き終えるまでのあいだにも、窓の外では雪の音が続いていた。
「もとより陛下のお気持ちは承知しております。混乱回避のためにも、情報は随時共有いたしましょう。どうぞ……ご安心を」
その声に振り向くと、宰相はまだこちらを見ていた。礼を返して扉へ向かいながらも、最後の言葉が耳に残る。ご安心を――この男の口から聞くときだけは、何に気をつけるべきかを考えずにいられなかった。




