はんぶんこの誓い――翼(はね)を合わせる二人
わたしたちを乗せた馬車は、深い雪に残る轍をたどり、王宮へ向かって進んでいた。灰色の雲が空を覆い、雪は風に煽られながら降りしきっている。巻き上がった雪粒が硝子を軽く弾き、車輪は低い軋みを一定に刻む。
馬車が細かく揺れるたび、胸の奥がきゅっと縮み、みぞおちが浅く沈む。革の油と湿った毛皮のにおいが、鼻の奥にじんわり広がり、衣服の内側に静かな冷えが残った。
喉がかすかに詰まる。
――大丈夫、わたしは女王としての責務を果たすの。自分にできる最善を尽くすだけ……。
唇がかすかに震えた。そう言い聞かせてみても、指先の血が戻らない。焦りと恐れが頭のなかを駆け巡り、ただでさえ冷えた車内が息苦しくなる。
「……どうしよう、想定外のことが次々に起こりそうで……」
わたしは小さく肩をすくめた。
震える声で小さくつぶやいたとき、隣に座っていたヴィルが、ためらいもなくわたしの肩を腕ごと包み込んでくる。その動きは、まるで息を吸うのと同じくらい自然で、厚手の外套越しにも彼の体温がぴたりと伝わってくる。
太い腕に抱き寄せられた一瞬、はっと息をのんでしまう。
「怖いか?」
低く抑えた声色が、冷えた馬車の空間に小さく揺れる。彼の息遣いが、外気よりもほんのり温かい。
「……怖くないわけ、ないでしょう?」
苦笑まじりに返す自分の声は、どこか頼りなく震えていた。強がっていたはずなのに、こうして隣から気遣われると、胸の奥に堆積していた弱音がこぼれ出しそうになる。
わたしは必死に目を伏せて、ヴィルからの視線を避けた。
「あなたはわたしを強いって言ってくれるけど……本当はそんなことないよ。たいしたことない理屈をこねて、強がってるだけ。こういった想定外のことが起こると、いつだってあたふたしてばかり。その程度の人間だって、わたし自身がいちばんよくわかってるのにね……」
そう口にしたあとで、頬の奥が熱くなる。
馬車が傾いた拍子に、思いがけずさらに寄りかかってしまい、彼の腕がぐっと力を込めてわたしを抱きしめた。厚手の毛皮越しに、確かな体温が伝わる。静かな安心が胸の内側に満ちていき、胃の奥が重く沈む感覚も、彼のぬくもりに吸い取られていく。
彼の心臓の鼓動が、ごくかすかにわたしの耳へ震えを伝えてくる。その波は、冬の寒さに凍えた内側をそっと解かすようだ。
「それでも、お前は諦めきれないんだろう?」
息をひそめるような沈黙が一拍流れる。
ヴィルの声は、わたしの本質を見透かすように静かで、低い。
「……ええ、そうよ。怖いけど、ここで投げ出すわけにはいかない。最善を尽くすしかないのもわかってる。だけど……わたしたちだけじゃどうにもならない出来事が起きるかもしれない。それが、たまらなく怖いの」
指先がほんの少し白くなる。
想定外が重なりすぎて先が読めない。ダビドたちを伯爵の捜索へ回すと決めたものの、そのあいだにも宰相が次の手を進めていたらと思うと、胸が冷たい手に締めつけられる。何が起きても不思議じゃないこの状況――一歩進むごと、窓の縁がかすかに曇り、視界の白が厚みを増す。
けれど、ヴィルはまるで「大丈夫だ」と言わんばかりに、背中をゆっくりとさすってくれた。その大きな掌の圧と温もりが、何も言わなくても心の奥へ沁みてくる。
「だからこそ、俺がいる。何度だって言うが、忘れるなよ。……俺だって――」
胸の奥が弱く跳ねた。
彼は言いかけ、少しだけ言葉を詰まらせる。逡巡ののち、もう一度わたしを強く引き寄せる。ごつごつした大きな手がわたしの腕をしっかりつかみ、彼の胸が近づくにつれて、落ち着きのない脈の速さまでが伝わってくる。
「――えっ!?」
驚きで息が浅くなる。急に増した腕の力に、思わず目を丸くしてしまう。離宮でパニックに陥ったとき以来、こんなふうに力強く包まれるのは、久しぶりだった。胸が高鳴り、自分の鼓動ばかりが耳の近くでドキドキと騒ぎ立てる。外は雪で寒いはずなのに、襟足にだけ微かな熱が滞る。
「聴こえるだろ、俺の心臓の音が……」
耳の内側まで、鼓動のぬくみがそっと触れる。彼の低い声が、わずかに震えを帯びている。促されて耳を澄ませば、自分の動悸とは別の、彼の速い鼓動が確かに伝わってきた。
「すまん……だが、わかってほしかった。俺だって怖い……。何が正解かわからんのは、今も同じだ。情けないが、俺はただの剣の餓鬼にすぎん。剣筋は読めても、政治の駆け引きなど読めん。……まるで霧の中を手探りしてるようなもんだ。だがな、俺はお前がいるから、なんとか戦えてるんだ。……守ると言ったのは本気だ。だが、俺ひとりで踏ん張ってるわけじゃない。お前と一緒だから、やってやろうと思えるだけさ」
低音が紡ぐ言葉が、わたしの胸を深く揺さぶった。
わたしを抱いている腕は、こんなにも頼もしいのに、その胸ではまだ速い鼓動が続いている。わたしと同じように恐れに押し潰されそうになりながらも、それでも「ふたりでなら」と踏みとどまってくれている――その怖さも、わたしを必要としてくれる思いも、いまは彼の言葉とともに胸の奥へ沁みてくる。
「あなたって……」
まぶたの裏で何かが柔らかく震え、胸が熱くなる。切なさに近い感情でいっぱいになり、そのまま彼の匂いを感じながら、吐息を重ねる。革の残り香と、汗ではない温かなにおいが微かに混ざり合い、わたしの心に「大丈夫」と囁いてくれている気がする。
「まぁ……お前と一緒にいると、退屈する暇もないしな。それがせめてもの救いだ」
ヴィルの照れ隠しのような冗談に頬がゆるみ、わたしは思わず笑みをこぼす。
こんな状況なのに、なぜか馬車の中でふたりだけは穏やかな時間を共有している。それがとても不思議で、そして愛おしい。
「ねえ、ヴィル。ひとつだけ聞いてもいい?」
小さな声が震える。
「なんだ?」
彼の声が少し警戒したように低くなる。いつもの落ち着きがあるように見えて、どこか緊張しているのがわかる。
「……正直に答えてほしい。いま、こうしているわたしは、あなたの目にどう映っているの?」
その問いにわたしの胸はぎゅっとなる。十二歳の子供の身体だったはずのわたしが、大人の姿になり、女王の座についた。こうして抱き寄せられていると、彼の言葉を、もう少し先まで聞きたくなってしまう――けれど、何を言ってほしいのかまで口にするのは怖かった。
ヴィルは短く息をのむ。視線を少し逸らしてから、言葉を選ぶように静かに口を開いた。
「どうって……お前はお前だろう。前にも言ったじゃないか。姿も、成長したお前そのままに見える」
聞き慣れた言い方なのに、すぐそばから返ってくる声が嬉しくて、胸の奥でじんわりと温かさが広がる。
「それだけ?」
わざと小首をかしげて問い返すと、ヴィルは困ったように眉間に皺を寄せる。照れ隠しなのか、静かに目を伏せた。
「それだけじゃないさ。あのころのお前は、十二歳とは思えんほど頭が切れて、妙に達観しててな……正直、顔を見ると子どもなのに、話しているとそうは思えんことばかりだった。だが、今は見た目と中身が釣り合ってる気がする。落ち着いたというか、しっくりくるというか……こうして話していても、俺には自然に思える」
この姿で話すわたしを、彼も自然に受け止めてくれているのだと思うと、くすぐったい。まだ何かを聞きたい気もするのに、胸に広がる柔らかな安心に、次の言葉が見つからなくなる。
「そっか……。ありがとう。なんだか恥ずかしいような、嬉しいような、不思議な気持ち」
気恥ずかしさを隠すように、ちらりと窓の外に視線を向ける彼の横顔は、やや赤みを帯びているようにも見える。馬車の中に差し込む白い光が、その照れをほんのり浮かび上がらせている。
車輪の軋みは、雪を踏むたび一定の拍を刻む。外は相変わらず寒々しく、路面も凍結しているのか、ときどき軽い横揺れを覚える。だが、わたしの心は先ほどまで感じていた極度の緊張から、すこし解放されたようだ。
「強がってるのは、俺だって知ってるさ。だが、普通ならとっくに諦めちまいそうなところで、お前は怖いと言いながら、それでも立ち止まろうとしないだろう。そういうところは、嫌いじゃない……」
瞳が潤むのを感じた。
「……ありがとう、ヴィル」
さっきまで照れて目を逸らしていた彼が、わたしの強がりまで見たうえで、そんなふうに言ってくれる。言いよどむような語尾までが胸に沁みて、じんわりと目頭が熱くなる。
わたしはそのまま、彼の体温に身を預け、外套を少しだけ合わせるようにしてくっついた。
寒冷の風が馬車の車体を揺らし、遠くで吹き溜まりの雪がさらさらと舞う音がする。けれど、わたしの身体はもう先ほどのようには震えなくなっていた。
「落ち着いたか?」
かすかな笑みを返す。
「うん、ちょっとはね。……あなたが守るって言ってくれると、わたしも強くなくちゃって、どうしても強がりたくなるの。でも、ひとりでも平気なわけじゃないんだよ。わたしも、あなたがいるからこそ進めるの」
そう口にすると、肩の力がほどける。
ヴィルに視線を向けると、彼は優しげに目を細めてうなずいた。
「お互い様ってわけだ」
「うん、そうよ」
軽く笑いあう。そんな穏やかな時間がわたしを包み、世界のすべての色がやわらいで彩られていくように思えた。
この時代で孤立しているように感じるたび、そばにいる彼を支えにしてきた。ヴィルも同じで、だからこそふたりであれば乗り越えられるものがある。言葉が途切れても、寄り添う彼の体温は変わらずに伝わり、わたしの心を確かに支えてくれる。
しばらくのあいだ、わたしたちは言葉を交わさずに寄り添っていたが、やがてヴィルが低い声で切り出す。
「なあ、ミツル。以前俺がいた銀翼騎士団だが、左翼と右翼っていうあの呼び名の由来を知ってるか?」
窓の外を見つめる。
「え? 左右の片翼でひとつになる、というのは覚えてるけど……そういえば、普通なら第一部隊と第二部隊って呼びそうよね。どうして、わざわざ左右にしたのかしら?」
彼は少し懐かしむようにまぶたを伏せ、言葉を続ける。
「数字で順番をつけると、上下関係みたいに見えるだろ」
「たしかに」
「そうじゃなくて、左右それぞれの片翼が対等な、ふたつでひとつの翼――どちらかが欠けたら飛べん、ってのが創設時の理念だったらしい。互いに頼り、頼られるからこそ、連携も強まるし、結束も固くなる。俺はそれが気に入ってた」
懐かしむような彼の声を聞いていると、胸の内に温かな波が満ちる。
『これはふたつでひとつ。そのどちらかが欠けてもだめなんだ。それは、わたしたちも同じなのかもって……。ふたつでひとつの、ツバサなんだよ……』
あの頃に教わった言葉が胸裏で静かに反響する。前世で、弟の弓鶴の中で男の子を演じていた時に、茉凜がくれた大切な言葉だった。
彼の腕の温もりの中で、その声を聞いていると、遠い日の言葉まで近くに感じられて――わたしは改めて胸を打たれ、息が詰まるほどの感覚に襲われる。
「……いまのわたしたちも同じなのかもしれないわね。どちらかが欠けたら、うまく飛べない――そういう、不完全な存在」
胸の内にあった思いを彼へ伝えると、静かな確信が指先まで届く。
「かもしれないな。俺たちはどこまでいっても相棒さ。だから、どちらかが立ち止まったとしても、もう一方が支えてやればいいってだけの話だ」
わたしは彼の言葉に小さく笑みを返す。
白い息が、冷たい車内にかすかに漂っては消えていく。ふたつでひとつ、どちらが欠けてもだめ――かつて大切な存在がわたしに教えてくれた言葉を、いまはヴィルと交わしていることが、これからともに進むための希望になっている。
「さあ、王宮に着いたら忙しくなるぞ」
ヴィルがまるで肩を貸すように、わたしをゆるやかに抱きしめたまま窓の外へと目を向ける。勢いよく吹きつける雪が、遠くの景色を一面の白に染めていた。
「ええ。怖いけど……進むしかないわね」
深く息を吸い込み、鎧のように固くなっていた胸の一部が、ふっと解けるのを感じる。
「俺もお前も、何もかもひとりで引き受けられるほど、強いってわけじゃない。だが、ふたり一緒ならきっとやれるさ」
そう言い切るヴィルの声には、確かな自信と熱が宿っている。まるで、わたしの心に暖かな炉火を灯すように。わたしは少し身を起こして、馬車の小窓へ視線を向けた。
石畳が見えはじめ、馬車の揺れが変化を帯びる。遠くには、雪と霧に霞む王宮の尖塔が見え隠れしている。そこで、宰相という権謀術数に長けた人物がわたしたちを待ち受け、伯爵不在の混乱をどう利用するか画策しているかもしれない。
でも、もうわたしは怯むまい。守るべきものがある。リュシアン殿とその母ロゼリーヌ様を、どんな思惑からも、どんな争いからも救い出したい。それがわたしの私情に過ぎないのだとしても、力を貸すと応えてくれたヴィルや銀翼騎士団となら、乗り越えられると信じたい。
馬車が減速し、石畳の上でがたがたと大きく揺れる。わたしは外套の襟を握りしめ、深く息を吐いた。硝子にうっすら凍りついた雪模様が、外の冷気を象徴するように結晶を輝かせる。
「行こう、わたしたちの戦場へ」
わたしの呟きに、ヴィルが微かな笑みを浮かべる気配が伝わってきた。彼が御者へ合図を送ると、馬車は王宮の門前へと滑り込むように進む。槍先の金属が触れる小さな音を聞き、門前の鉄のにおいを吸い込みながら、冷たい石の段差を靴底で踏みしめる。その確かな足応えに、王宮へ戻ってきたのだと思うと、紙粉の乾いたにおいまで記憶の中から蘇ってきた。
呼気をひとつ整え、外套の合わせを指で確かめる。大理石の冷えが、足裏から静かに上がってきた。




