雪の王宮と銀翼の誓い②
中庭の中央を指し示し、皆に手招きする。
若い騎士たちは整然と身を正し、わたしとヴォルフを円の中心へ迎え入れた。氷を帯びた地面に人の熱が集まり、空気の層がわずかに温む。
ケープについた雪を払い、輪の一人ひとりを見渡す。六十人分の白い息が幾重にも立ち上り、その向こうで、誰ひとり視線を逸らさずにわたしの言葉を待っていた。もう、受け止めてもらえるだろうかとは思わなかった。この人たちへ、女王の大義に言い換えず、一人の人間としての願いを渡したかった。
「この寒いなか、よく集まってくださいました。ほんとうにありがとうございます。……皆さんが精霊の巫女と騎士に助けられたと思ってくださることを、とても光栄に思います。大戦のとき、わたくしやヴォルフが前線で戦った日々は、決して無駄ではなかったのだと思えます。ですが、実はその記憶は、わたくしたち自身にはほとんど残っておらず、大変申し訳なく思っております。聖剣の力の代償がこれほど大きいとは、思いもしなかったものですから……」
掌の中で指が小さく折りたたまれる。
「でも、ここにいる皆さんは、そのお礼を言うためだけに集まったわけではないでしょう。そして、今日わたくしがここを訪れた目的も、ただの視察ではありません。わたくしは、この銀翼騎士団とともに、もう一度この国を守りたいと願っております。そして、皆さんは、その意志に共鳴してくださった方々だと思っています」
一度、目を伏せた。
「……わたくしはモンヴェール男爵家令嬢ロゼリーヌさんの御子息、リュシアン殿を守りたいと考えております。王家の血筋を理由に十歳の子を政治の駒にする未来を、わたくしはどうしても見たくありません。アドリアン・レズンブール伯爵やクレイグ・アレムウェルをはじめとする、宰相派の陰謀から、母子を、そしてこの国を守りたいのです」
そこで、一息継ぐ。
「本来、指導者とは国の将来を見据え、また国の利益や現実的な均衡を考慮しなければなりません。女王とはそういうものでしょう。……けれど、わたくしはこの母子を守りたいと思う、一人の人間としての気持ちを捨てたくないのです。ロゼリーヌさんが涙を流す未来も、リュシアン殿が夢を奪われる未来も見たくありません」
唇を結び、こみ上げるものを堪えた。
「……愚かだと、私情だと批判されることは、わかっております。それでも、力を貸してほしいのです。わたくしと一緒に、この母子を守ってほしいのです」
舌の裏に金属の味が立ち、喉が一度だけ鳴る。
「そんなひどいこと、断じて許せません」
「幼い子どもを犠牲にするなんて、ありえない」
「子どもの夢を奪うなんて、あんまりです」
「伯爵や宰相に、陛下のお気持ちを踏みにじらせてなるものか……!」
声は輪のあちこちから上がった。奥歯を噛み締める者や、手袋の拳を胸へ当てる者へと視線を巡らせるうち、隣の仲間と一度だけ目を合わせ、深く頷く姿も目に入った。戦場で守れなかったものを知る顔が、今度こそ守るのだと引き締まっていく。
怒りと決意の囁きが共鳴し、大きな波になる。赤髪のレオンが前へ出た。
「陛下……俺たちは、ただあなたに命を救われたんじゃないです。あのとき、あの地獄の戦線で、あなたが理不尽と戦おうとしてくれたことが、心の支えだったんです。今度は、俺たちが誰かを守る番です。遠慮なく命じてください!」
続いてクリスが声を張る。
「そうです! 陛下が私情を重んじて何が悪いんですか。だって、大戦であんなに辛い思いをされて、思い出まで失って、そこまでして国を、世界を救ってくださった……。そんな陛下が、私たちを頼ってくれることが、なにより嬉しいです。リュシアン殿の未来のため、私たちは全力を尽くします!」
「やるぞ、俺たちの出番だ!」
「伯爵も宰相も蹴散らして、陛下の願いを通そう!」
熱がはぜ、白い息の層が一段高くなり、歓声が中庭を満たす。胸が詰まり、言葉が見つからない。涙が目の縁で震える。
「……みなさん……ありがとう。本当に……ありがとう……」
とてもうまく話せない。けれど、感謝は確かに体温を上げ、心を奮い立たせた。
「ほらな。おまえの言葉は、ちゃんとみんなに伝わった」
「……うん、本当に……こんなの、あっていいのかしら。信じられない」
「信じていい。みんな、おまえに借りがあると思ってるのさ。俺が銀翼騎士団を作ったのも、そういう連中とおまえを繋げたかったからだ」
ヴィルの囁きに、胸の芯がさらに熱を持つ。ここにいる兵たちの想いは、本気でわたしを支えたいというものだ。たしかに、わたしはメービスではない。彼らを救い、これほどの感謝と尊敬を受けるだけのことを成し遂げたのは、わたしではなくメービスだ。その功績まで自分のものにすることはできない。それでも、ヴィルがそう言ってくれることの意味がわかる。
だからこそ、メービスが命を懸けて守った人たちと、彼女が守ろうとしたものを、わたしの都合で途切れさせてはいけない。彼女ならきっと、もう一度この人たちとともに誰かを守ろうとする。ならば、わたしは最後までメービスを演じきる。ここにいる一人ひとりの思いを受けて立ち、メービスの名に恥じない選択をする。
雪の空を仰ぎ、瞼を静かに伏せる。侵されない絆が、確かな支えとしてそこにある。気づけば、指先の力が抜け、息だけが白くほどけていく。
「それでは皆さん。改めて、お願いします。伯爵や宰相が何を仕掛けてこようと、リュシアン殿とロゼリーヌさんを救い出す作戦を――冬季演習を隠れ蓑に、どうか進めてください。宰相の影の手に悟られぬよう、慎重に、でも必ず成功させましょう」
「はい、陛下!」
「必ずやり遂げてみせます!」
「俺たちが陛下の剣になります!」
「よし、まずは訓練計画を具体的に固めよう!」とレオンが気の早い声を張り、クリスも負けじと応じる。二人がそのままの勢いでわたしたちを司令部へ案内しようとした、そのとき――。
門衛が大声を張り上げ、雪を蹴って駆け込む。革底が石を叩く三連の音が弾け、中庭がすっと静まる。
「陛下! 殿下! 緊急のご報告です! レズンブール伯爵の一行が、何者かに襲撃されたとのことです!」
熱が一気に凍り、白い息だけが空に残る。
「伯爵が……?」
「どうして、今こんな時に……」
困惑が輪の内側を巡る。わたしは息を呑み、肌の上に冷えが戻る。
「いつ、どこで、どんな手口で襲われた?」
ヴォルフが矢継ぎ早に問う。門衛は肩で息をしながら通達文を読み上げた。
「襲撃の日時は、まだ判明しておりません。場所は北方街道の中間要衝である『ボコタ』とのことであります。悪天候に阻まれ、滞在していた模様。護衛は全滅。伯爵ご自身は生死不明。検分によれば、何者かに拉致された可能性が高いとのこと」
場所はボコタ。北方主街道の中間に位置する、交通の要衝。距離は王都から三日。積雪を考えれば、その倍。
「そんな……」という声が一斉に漏れる。クリスは「まさか宰相の仕業でしょうか?」「それとも伯爵が……?」と混乱した表情で呟く。
最悪のタイミングだ。伯爵本人を問いただせないあいだに、宰相はその不在を利用して、王太子擁立の筋書きを組み替えるかもしれない。
「……皆さん、落ち着いて!」
わたしの呼びかけにざわめきが収まり、隣の仲間へ向けられていた顔が、次々とこちらへ戻った。誰もが口を閉じ、わたしの次の言葉を待っている。
「逸る気持ちはわかります。ですが、いまは堪えてください。大丈夫、わたくしたちはすぐに王宮へ戻り、宰相の動きを確かめます。ですから、皆さんはいつでも動けるように、予定どおり冬季演習の準備を進めてください。この意味はわかりますね?」
呼気が短く揺れる。
「王都にいるダビドたちにも、すぐに知らせてください。犯人が誰なのかは分かりませんが、この事態を利用して、宰相が次の一手を打ってくる可能性もあります」
「了解です!」――返事は揃うが、表情に苦渋の影が浮かぶ。隣り合う者たちが顔を寄せ、低い声で言葉を交わしていた。
「くそっ……」
「これではもう無茶苦茶だ。状況が読めないどころか、悪くなるばかりじゃないか」
「それでも、陛下のために、俺たちは踏ん張るしかない!」
「だな……」
「俺たちも、やるべきことをやろう」
動揺の底で、覚悟の熱がふたたび灯る。
せっかくの好発進の矢先に、伯爵の失踪。宰相の仕業と断定はできないが、彼ならやりかねないと、そう思わせるだけの材料はある。同盟と裏切りは常に裏表。掌返しは、ためらいなく行われる。
けれど、その一方で脳裏に浮かぶのは――「宰相にとっての伯爵は、まだ利用価値のある駒ではなかったか?」という疑念だった。
――まさか宰相以外の別の勢力の思惑が? それとも、両者示し合わせた自作自演か? いずれにせよ、ロゼリーヌ様とリュシアン殿の危機であることには変わらない……。
突風が走り、雪面が舞い上がる。わたしは胸を張り、輪の全員を見渡した。マントの裾だけが一拍遅れて揺れた。
「レズンブール伯爵の身に何が起きていようと、わたくしたちが守るべきものは変わりません。ですが、いまは、宰相派の目が光っています。正直申し上げて、王宮内でのわたくしにはお味方も少なく、微妙な立場に置かれています」
団員たちの顔に、苦渋の色が広がった。
「ご安心ください。わたくしが彼らの矢面に立ち、できうる限りの時間を稼ぎましょう。……その間、皆さんも全力を尽くしてください」
そこまで言ってから、わたしは気づかないまま、自然と頭を下げていた。この身は女王メービス。けれど、どうしても言葉では届かない想いがあって、そうするしかなかった。それは柚羽美鶴としての願いであり、礼儀でもあった。
「――どうか、お願いします。皆さんの力を貸してくださいませ……」
その瞬間、中庭の空気が変わった。
誰も声を返さない。風が庇を撫でて、かすかな軋みだけが響いた。女王陛下が頭を下げるなど、常識外れにも程があると分かっている。それでも、差し出せるせめてもの礼儀として、わたしは頭を下げ続けた。彼らに「命を賭けろ」と命じているのも同じなのだから。
伏せた顔の下で、吐く息が襟元にこもった。皆がどんな顔をしているのかも分からないまま、わたしは返事を待ち続けた。
「……お任せください、陛下! 我々が、必ずやり遂げてみせます!」
「男爵家は俺たちが――絶対に守ります!」
その声にはっと顔を上げると、団員たちはまっすぐにわたしを見つめていた。唇を引き結んで頷く者も、目を潤ませながら胸を張る者もいて、どの顔にも、やり遂げようとする気迫が満ちている。
クリスも唇を震わせながら、まっすぐに言った。
「陛下の願いは、何があろうとも私たち銀翼が誇りをもって貫いてみせます!」
「……皆さん、ありがとうございます。本当に……」
こくり、と頷く。焦燥の刺は残るが、士気の熱がそれを和らげる。――銀翼は、決してわたしを独りにしない。
わたしはヴォルフと視線を交わし、足早に馬車へ向かった。
◇◇◇
馬車の扉の前で、冷気が指を刺す。乗り込もうとしたとき、ヴォルフが低く呼び止めた。
「覚悟はできているか? 伯爵本人を王宮へ引っぱり出すはずだった。その当人が消えた以上、待っていれば済む段階じゃない。宰相はこの混乱に乗じて、別の名目で母子を動かすかもしれんぞ」
ヴォルフと馬車に乗り込み、腰を下ろした。肩の力がひとつ抜け、呼吸が細く整う。
「分かってる。……でも、もう迷わない。銀翼のみんなが、あんなにも『女王陛下のために』って言ってくれているのよ。だったら、絶対に諦めない。たとえ、どんな手を使ってでも……」
「待て待て」
「なによ?」
「お前、まさか自分が出張ろうなんてこと、考えてないだろうな?」
「さっき言ったでしょう。まぁ……必要とあれば、だけど。いざとなったら仕方ないじゃない」
「いざとなればな。その前にだ。一手、賭けてみようじゃないか」
「賭け? なにを?」
窓桟の氷がきしみ、薄い音が車内へ染み込んだ。
「本隊に合流予定だったダビド班を回して、伯爵の行方を徹底的に探らせよう。伯爵の身柄を先に押さえられれば、逆転への大きな一手になるやもしれん」
喉の奥に冷たさが落ちる。
「でも、敵の狙いがこちらの戦力分散や、揺さぶりだったらどうするの?」
「それしか手がない。今やらなければ、間に合わなくなる」
視線の先で旗が軋み、風雪が布を叩く。状況の硬さが、その音でわかる。
「……わかった。……その賭けに、乗るわ」
言葉と同時に、風が強まり、雪粒が窓硝子へ吹きつける。過酷な風景と同じだけ、状況も苛烈だ。だが、守りたい人がいる。兄・ギルクの血を継ぐリュシアン殿と、その母ロゼリーヌさん――どんな策の渦でも、必ず救ってみせる。
「それじゃあ……王宮へ戻ろう。ただし、気取られぬよう、慌てず騒がずにな。勝負はまだこれからなんだ。落ち着いていこう」
「わかってる。でも、もう立ち止まっている時間はないことも確かね」
煤けた毛布の匂いがわずかに立ち、鼓動が少しずつ落ち着いていく。
ヴォルフが御者へ合図を送り、車輪ががたがたと動き出す。軋む音が、冷気の中でいつもより硬く響く。
振り返り、クリスやレオンたちへ小さく手を振る。彼らは帽子を取り、敬礼し、声を重ねた。
「陛下、どうかご武運を……!」
「何かあればすぐにお声かけください!」
その光景を胸に刻むうち、温もりがじわりと広がっていった。
銀翼騎士団との結束は固めた。だが、伯爵襲撃という予想外の一報で、宰相がどう動くかは読めない。もはや、一刻の猶予もない。波乱の幕が、いま上がったのだと、背筋がひりつくほどにはっきりわかる。
ヴィルへ向き直り、浅く息を継ぐ。
「……王宮に戻ったら、まず宰相の動きを確かめましょう。連携していたと思しき伯爵が消えた今、必ず何らかの動きを見せるはずよ」
ヴィルは頷き、遠くを見る目で言う。
「分かった。だが、絶対に気を抜くな」
「もちろんよ。わたしたちには、銀翼という心強い〝仲間〟がいる。負けるつもりなんてないわ」
外は吹雪。雪粒が薄い硝子を絶え間なく叩き、その律動が警鐘のように耳へ刺さる。
王宮へ向かう。宰相の思惑が渦巻き、貴族院会議で引き出した言葉が、伯爵の失踪によって早くも試されようとしている。男爵家の母子の状況も緊迫を増すはずだ。それでも、必ず乗り越える――そう誓い、ヴィルとともに馬車の先を見据えた。




