雪の王宮と銀翼の誓い①
低く垂れ込めた雪雲の下、夜のあいだに積もった雪へ、なお絶え間なく新しい雪が重なっていた。王宮を囲う石造りの城壁は白く凍りつき、明け方に雪を掻いたはずの石段も、もう半ば埋め戻されている。
前日、わたしが銀翼騎士団への命令書を仕上げるあいだに、ヴィルはひとりで隊舎へ向かい、先発の支度を始めさせていた。
わたしの訪問の段取りが整った翌朝、わたしは厚い外套に身を包み、回廊を急ぎ足で歩いていた。回廊脇の石畳には、人が一人通れるほどの細い道だけが雪の中に開けられている。その外では運搬車の轍が早くも新雪に埋まり、遠くの衛兵の肩にも白いものが積もっていた。庇の下では侍従が凍えた指先へ息を吹きかけ、降り続く雪を不安そうに見つめている。
回廊の出口で、ヴィルが待っていた。雪明かりを受けた銀髪と端正な顔立ちは、どう見ても「若い貴公子」ヴォルフのものなのに、肩の力を抜いた立ち方も、わたしを見つけてわずかに顎を上げる仕草も、見慣れたヴィルそのものだった。思わず、くすりと笑ってしまう。
「メービス、馬車の支度はできているぞ」
「ありがとう。それにしても……今年の冬は冷えるわね。これって、やっぱり〝異常気象〟なのかしら」
つい、この世界では聞かれそうもない言葉が口を衝いて出てしまった。以前、騎士団の訓練場を訪れた朝にも、石畳の隙間は白く凍り、砂地のくぼみには薄氷が残っていた。あのころから例年より寒いとは感じていたけれど、明け方に掻いた道まで、朝のうちに新しい雪へ埋め戻されるとは思わなかった。言った瞬間、自分でも違和感に気づいたものの、この急激な変わりようを表す言葉は、ほかに思いつかなかった。
「異常……? そうだな。軍の気象官からは、例年にない寒さだと聞かされたが」
「この王都は、南から温かい海流が来るはずなのに。……もしかすると、魔族大戦の影響がまだ残っているのかもしれないわね」
「俺には難しいことはわからん。風邪を引く前に、とっとと馬車に入っちまおう」
馬車の前まで来ると、ヴォルフが風上へ回り込み、わたしに手を差し伸べた。革手袋の縫い目が掌に当たり、細い痛みが熱の戻りを告げる。
「……ええ、分かったわ。本当に、空気が刺すみたいで、顔が痛い」
外套の襟を立てても頬への冷えは引かず、指先の熱だけがじわりと戻る。背筋を震わせたのは、気温だけではなかった。王宮の中でさえ、朝に開けた道がもう埋まり始めている。この調子で降雪が続けば、北へ向かうほど雪は深くなり、あの母子へ手を伸ばす道そのものが閉ざされるかもしれない。
不安の根は、伯爵と宰相が企む王太子擁立。兄ギルクが命を落として残した十歳のリュシアン殿、その母ロゼリーヌさん――二人が血筋の名目で駒にされようとしている。
――宰相麾下の影の手が、きっとわたしたちの動きを見張ってるはず。でも、そんなこと気にしてられない。いまは急がなきゃ。自由を奪われたロゼリーヌ様とリュシアン殿のことを思えば……。
唇の内側を噛んだ。まだ齢十の子どもが、大人たちの思惑に翻弄される光景など、想像すらしたくない。深淵の血族に生まれ、宿命に弄ばれ続けた前世のわたし自身が重なってしまう。
わたしは、風上に立って雪を遮る大きな背中を見つめた。彼――ヴィルは、未来の銀翼騎士団で父の右腕として戦線を渡り歩いた人。いまは王配ヴォルフとして隣にいるけれど、実質はわたしの相棒であり、偽りの夫婦を演じる……共犯者でもある。
――わたしたちは……それ以上でも、それ以下でもない。ただ、背負うしかないだけ。逃げられないだけ。
「メービス、そんなふうに肩を落とさなくていい。俺たちは、ちゃんと準備してきた。銀翼騎士団さえ動かせれば、きっと突破口は見えてくるさ。この悪天候だって、むしろ時間稼ぎになるに違いない」
たしかに、雪は敵の動きも鈍らせる。けれど、足を取られるのはこちらも同じだ。それでも、ふっと彼が手を取るだけで、掌の強張りがゆるむ。視線はまっすぐで、意志の光が揺れない。
「……それも、そうね。でもね……心配はどうしたって消えないの。銀翼騎士団はまだ実用段階の手前でしょう? それに……宰相の手の者が紛れていないとも限らない」
「おいおい、信用してないのか? この俺が直々にかき集めた部隊だぞ?」
「それは分かってるつもりよ。でも、いろいろと悪い方に考えちゃって……ごめんなさい。戦うって決めたはずなのに、弱音なんて」
「後手に回され続けているこの状況では、不安は当然だ。むしろ弱音が吐けるうちはまだましとも言える」
「そうかしら……」
「それくらい慎重でなければお前じゃないだろう。それを補うために俺のような馬鹿がいる」
「そういう言い方はやめて。わたしのせいで、あなたに負担を掛けたり、心配させるなんて嫌よ。言ったじゃない。わたしも守るんだって」
「わかってるさ。お前がリスクも含めて考えてくれれば、俺も対処がしやすいというだけだ。いざという時は一緒に動く。それで問題なかろう」
ヴォルフが軽く笑う。けれどその目には、ちゃんと熱があった。
「ま、これから行く先にいる連中は、なかなかの曲者揃いさ。だが、これだけははっきりしてる。巫女と騎士に捧げる想いはまっすぐだ」
「そこが問題なのよ……」
「何故だ?」
「わたしたちには、本来のメービスとヴォルフとしての記憶がない。だから、どうしたって……」
伝承に刻まれた、救世の巫女と騎士。けれど、その記憶は未来から落ちてきたわたしたちには存在しない。偽物に過ぎない自分が、救世の英雄を演じることへの後ろめたさが、胸の奥に雪のように降り積もる。
「そんなもの気にするな」
「気にするわよ。今日、初めて顔を合わせるわけだけど、それを思うと不安で、昨夜もなかなか寝付けなかったんだから。どんな顔をして向き合えばいいのか、どんなふうに話せばいいのかって」
「ははは」
「笑わないでちょうだい」
「とにかく、会えばすぐ分かるさ。中でも生きの良い若者が数人ばかりいてな、そいつらの熱意を見れば、きっとお前も安心できる」
「そう……」
それ以上、言葉を返す余裕はなかったけれど、彼の声が体の内側を温める。
「……さあ、さっと馬車に乗れ。冷えすぎると、あとで辛くなるからな」
頬のこわばりが、少しゆるんだ。
「うん」
わたしは微笑をこぼし、跳ねる雪粒の中を馬車へ駆け込む。彼の手を借りて座席へ身を預けると、ヴィルも続いて乗り込み、馬車が動き出した。遠のいていく王宮の城壁が視界の端で静かに揺れた。風に晒される衛兵の影が、小さく震えている。吐く息が白い断片に砕け、すぐに空気へ溶けてゆく。
――どうか無事に、あの母子を救えますように。
指先に残るヴィルの温もりが、凍える思考を細くつないでいた。
◇◇◇
王宮を出た馬車は、深い轍を拾いながら、人が歩くほどの速さで王都の城壁へ向かって進んだ。御者は慎重に手綱を操り、馬の蹄が一歩ごとに固い雪を砕く。車輪の軋みが絶えず車体を渡ってきた。
窓の外では、荷を積んだ車が何度も車輪を取られ、そのたびに通りの者たちが寄って、車輪の周りの雪を掻いていた。凍てつきながらも脈を打つ王都の営みを、窓越しに確かめる。
王都の中でさえこれなら、北へ進むほど、雪は兵より先に馬と荷を止めるだろう。
――急がなければ。雪が道を閉ざしきる前に。
城壁を抜けたところで、ヴォルフが窓の外へ顎を向けた。
「もうすぐ着く。次の三叉路を過ぎれば、隊舎はすぐそこだ」
冬空は薄暗く、乏しい陽は雪雲に阻まれたまま。やがて漆喰塗りの壁が現れ、建てられたばかりの隊舎が、簡素な木柵と訓練具を抱いていた。
馬車が止まり、ヴォルフに手を貸されて雪上に降りる。王宮に比べれば設備は粗末。けれど、肌でわかる活気がある。
中庭では、兵たちが馬具に張りついた雪を払い、濡れた装具を軒下へ運び、掻いたそばから積もる雪を木柵の外へ運び出していた。誰も、雪が止むのを待ってはいなかった。
門前の若い兵がこちらを認め、踵を返して奥へ走る。ほどなく、六十名近い本隊の団員が中庭へ集まった。男性に混じって女性も数名いる。二十代から三十代が大半で、出自も階級も、外套の下にのぞく装具の揃い方もさまざまだった。それでも、二重の円陣へ加わる足取りに迷いはなく、声を掛け合わずとも互いの間隔が整っていく。
若い。けれど、誰ひとり幼くは見えなかった。わたしたちの姿に浮き立つ笑みを見せながらも姿勢を崩さない者、無意識に周囲へ目を配る者、使い込んだ手甲を固く握る者。全員が魔族大戦の激戦地で辛酸を嘗め、それでも生きて戻った者たちだ。その面構えには、憧れと高揚だけでなく、同じ地獄を越えた者にしかない硬さも刻まれていた。
一人ひとりの顔を見回しているうちに、凍えていた身体の内側へ、じわりと熱が戻ってくる。けれど、向けられる眼差しがあまりにまっすぐで、まだ素直に受け止めきれない。
「これって……わたしたち、まるで舞台の上の登場人物みたいに見られているんじゃ……」
肩越しの風が厚手のケープを軽く持ち上げる。
「そんなものかもしれんな。だが、これだけ真っ直ぐな目で迎えられるのも悪くない。堅苦しいのより、ずっといいだろう?」
ヴォルフが冗談めかして笑う。わたしも苦笑を返す。
内側の輪から、一人の青年が踏み出し、敬礼した。
「メービス陛下、ヴォルフ殿下、本日を心待ちにしておりました! ここにいるのはステファン班、ダビド班をのぞく六十名です。皆で歓迎させていただきます!」
「ありがとう。こんな寒いなか、本当にご苦労さまです」
胸の奥で鼓動がひとつ跳ねる。視線を巡らせると、彼らは興奮を抑えきれない。ひとりの女性騎士が手を握りしめ、前へ出る。
ダークブラウンの短髪に、あどけなさを残す顔立ち。灰色がかった瞳には、抑えきれない感激と、それでも姿勢を崩すまいとする強さが同居していた。
「陛下……直接お会いできる日が来るなんて、夢のようです。私はクリスと申します。コーリノ戦線の末期、命を助けていただきました。あのとき、本当に救われたんです……感謝してもしきれません……」
喉の奥が熱を帯びる。
クリスは頭を垂れ、その目の縁に涙が光る。周囲からも「ああ、僕も同じだよ!」と応える声が上がる。
そのひと声を合図に、列のあちこちで何人もの団員が大きく頷いた。声を出せずに唇を噛む者、胸へ拳を当てる者、ただまっすぐにわたしとヴォルフを見つめ続ける者。
次いで、鮮やかな赤髪をした背の高い若い騎士が前へ出た。いかにも血気盛んに見える。
「俺はレオンといいます。赤髪で目立つから、覚えてくださったら嬉しいです。大戦で小隊が壊滅しかけたとき、命を救っていただきました」
どの顔も喜びで満ち、崇拝にも似た眼差しが向けられる。
ただ英雄を珍しがる目ではなかった。あの戦場で何を失い、何に救われたのかを、誰ひとり忘れていない。その記憶が、感謝と尊敬と、揺るぎない忠誠になって、まっすぐこちらへ向けられていた。
ひとり、またひとりと見回すうち、彼らとどう向き合えばよいのかと、昨夜から胸に絡みついていた不安が、一気にほどけていく。代わりに腹の底からせり上がった熱が胸を満たし、凍えていた指先まで脈を取り戻した。
――ヴォルフの言っていた「巫女と騎士への思い入れが強い若者」とは、この熱のことなのか。
けれど、向けられた感謝が本来誰のものかは分かっている。彼らを救ったのは、わたしではなくメービスだ。それでも、彼女が守った者たちの前で、偽物だからと退くことだけはできなかった。
「皆さん……ありがたく存じます。そのように思ってもらえて、わたくしの方こそ、胸がいっぱいになります。こうして、あなたたちの顔を見られてほんとうに良かった」
賛嘆の息が広がる。けれど、この胸に満ちた熱を、感謝だけで終わらせるわけにはいかなかった。今日、どうしても伝えねばならない言葉がある。ロゼリーヌ様とリュシアン殿のために。




