貴族院会議――女王の微笑は策を秘めて②
「然るに、現在男爵家から王宮へは、一通の便りも届いておりません。宰相殿は、ロゼリーヌ殿とリュシアン殿が、外部と自由に連絡を取れる状態にあると確認なさっているのですか?」
「男爵家の内情につきましては、私も逐一承知しているわけではございません」
「では、ロゼリーヌ殿が、わたくしの書状を読まれたかどうかはご存じですか?」
「……存じません」
短い返答が落ちたあと、誰も動かなかった。宰相が知っていると答えれば、男爵家の内側へ通じる情報経路の存在を認めることになる。知らないのであれば、男爵家の内情を確かめないまま、伯爵の庇護を擁立案の前提としていたことになる。
「そうですか。それでは、男爵家から便りが届かないことを、伯爵殿の申し出への同意とも、王太子擁立への賛意とも扱うことはできませんね」
宰相は答えなかった。否定すれば、本人たちの意思を確かめないまま、その沈黙を同意として利用すると認めることになる。肯定すれば、少なくとも、その沈黙を擁立案の根拠にはできなくなる。
宰相が沈黙を選んだのを見届けてから、わたしは、先ほどの答えを曖昧なまま終わらせないことにした。
「ご存じないとは、少々意外でした。宰相殿は、『影の手』と呼ばれる諜報網をお持ちだと、王都では噂されておりますのに。――書記官。宰相殿は、男爵家が外部と自由に連絡を取れる状態にあるとは確認しておらず、ロゼリーヌ殿がわたくしの書状を読まれたかどうかもご存じない。そのように記録してください。事実と異なるのであれば、宰相殿、いまここで訂正を」
重臣たちの視線が、一斉に宰相へ集まった。書記官はわずかに手を止めたあと、紙の上で羽根ペンを動かした。
「噂は得てして独り歩きするものでございます。『影の手』とは、ずいぶん物騒な呼び名ですな。私が知るのは、国家の安寧と秩序を守るために必要な情報のみでございます」
「確認いたします。宰相府も宰相殿ご自身も、『影の手』と呼ばれる者たちとは関わりがなく、その活動にも一切関与していない。その理解でよろしいですね?」
「……左様にございます」
「それならば結構です」
わたしは微笑を崩さなかった。
「書記官、いまの確認を記録してください。そのうえで、今後、男爵家と王宮との連絡を妨げる者、関係者を威嚇する者、あるいは関係する記録を隠滅しようとする者が現れた場合には、宰相府も王家とともに、その実行者と背後関係の究明に尽力してくださるものと理解いたします。国家の安寧と秩序を守るために、必要な調査ですものね」
杖を握る宰相の指に、力が入った。
「無論でございます。いま陛下が挙げられた行為のいずれにつきましても、宰相府の権限を余すところなく用い、調査と対処に当たりましょう」
「頼もしいお言葉です。国と民を想う宰相殿のお力が正しく用いられるのであれば、王家にとっても、これ以上心強いことはありません」
宰相は、もう笑っていなかった。
「それでは、伯爵殿が王都へ到着された折には、貴族院で改めて会議の場を設けましょう。リュシアン殿の件と、男爵家の保護の件は、いずれも極めて重要でございます」
「そのように取り計らってください。ただし、王位継承案を審議する前に、満たすべき条件が二つあります。一つは、伯爵殿を正式にお迎えし、書記官立ち会いのもと、出立の目的と男爵家への関与について説明を受けること。もう一つは、ロゼリーヌ殿とリュシアン殿について、伯爵殿の説明とは別に、その安全を確認し、ご意思をお二人ご自身に直接伺うことです。その双方が揃ってから、改めて貴族院で王位継承に関する提案を審議します。いずれかを省くことも、一方を他方に代えることも認めません」
声を荒げる必要はない。わたしが女王として定めた手順を、宰相と重臣たちが聞き、書記が記録している。それだけで、言葉は命令になる。
「承知いたしました。陛下のお考えに従いましょう」
「では、今後の手続きについて確認します。冬季演習について、宰相府から異議はない。レズンブール伯爵殿が王都へ到着された場合には、書記官の立ち会いのもと、貴族院で伯爵殿本人から、出立の目的と男爵家への関与について説明を受ける。ロゼリーヌ殿とリュシアン殿については、伯爵殿の説明とは別に、その安全を確認し、ご意思をお二人ご自身に直接伺う。その双方が揃ってから、貴族院で王位継承に関する提案を審議する。それまでは、男爵家から言葉が届かないことを、伯爵殿の申し出への同意とも、王太子擁立への賛意とも扱わない。男爵家と王宮との連絡を妨げる者、関係者を威嚇する者、又は関係する記録を隠滅しようとする者が現れた場合には、宰相府も、その実行者と背後関係の調査及び対処に当たる。宰相殿、以上の確認事項に相違はございますか?」
蝋燭の芯が小さく弾け、宰相の帽子の影が頬の上で揺れた。会議室にいるすべての者が、返答を待っている。
「……相違ございません」
「ありがとうございます。それでは、本日の議題はここまでといたしましょう。寒さも厳しゅうございます。皆様、どうぞお身体を大切に。――宰相殿、伯爵殿にも、道中お気をつけてお越しくださるよう、お伝えくださいませ」
最後の言葉に、宰相の瞼がわずかに動いた。
「……承知いたしました」
重臣たちが立ち上がり、順に礼を取った。椅子の脚と衣擦れが重なり、会議室を満たしていた緊張が、扉の開閉とともに少しずつ廊下へ流れていく。宰相は退出する直前に一度だけ振り返り、わたしの顔を読み取ろうとするように目を細めた。
わたしは上座に座ったまま、その視線へ静かに微笑を返した。
◇◇◇
執務室へ戻るまで、わたしもヴォルフも言葉を交わさなかった。回廊には近衛と侍従が立ち、窓の外で強くなった雪が、硝子へ細かな音を立てている。会議室から執務室までの道のりに、誰の耳が置かれているかは分からない。ヴォルフは王配として半歩後ろを歩き、コルデオも普段と変わらない足取りで続いた。
執務室へ入ると、コルデオは扉を閉めただけでは終えなかった。控えの間と書庫を確かめ、窓の留め金を点検し、廊下に残す近衛を自ら選んだ。茶器を整えようとした侍女たちも下がらせ、最後に扉の外へ立つ者へ、許可なく誰も通さないよう命じる。
そのあいだ、ヴォルフも外套を脱がず、コルデオが確かめたあとを追うように、控えの間と書庫へ自分で足を運んだ。窓の留め金を一つずつ試し、廊下に残る近衛の顔ぶれを見届けると、最後の侍女が出ていくまで扉の脇を動かなかった。
足音が完全に遠ざかってから、コルデオはわたしの前へ戻った。
「それでは、陛下。会議の記録は、書記官の正本とは別に、私の監督下でも写しを作らせます。文言が後から変えられぬよう、出席者にも確認を取ります」
「お願いします。とくに、冬季演習への異議がなかったことと、母子の沈黙を擁立への同意として扱わないことは、正確に残してください」
「承知いたしました。すべて整いましたら、改めてお持ちいたします」
コルデオが一礼して退出すると、ヴィルは扉の外に残る近衛の顔をもう一度確かめてから、扉を閉め、内側の錠を下ろした。ようやく、執務室にはわたしとヴィルだけが残った。
胸の奥へ押し込めていた息を吐くと、肩の内側へ遅れて重さが戻ってきた。机へ手をつき、閉じた扉を見つめる。会議中から指先に残っていた冷えが、いまになって爪の際へ集まっていた。
「よくやったな」
ヴィルの声が、すぐ近くへ落ちた。
「最後には、あの宰相から『相違ない』という言葉を引き出した。あれでは、演習を止めるにも、男爵家の沈黙を利用するにも、自分で自分の言葉を踏み越えなきゃならん」
「警戒はされたでしょうね。けれど、警戒させることが目的だったわけじゃないわ」
わたしは机の上に残されていた白紙へ目を落とし、会議で交わした言葉を順に辿った。
「宰相が使える手を、使われる前に封じたの。冬季演習を止めようとする手。レズンブール伯爵をわたしの前へ出さないまま擁立案を進めようとする手。ロゼリーヌ様たちの沈黙を、同意だったと言い換えようとする手。『影の手』を使って連絡を妨げ、証拠を消し、それを誰の仕業でもないことにする手。全部、あの場にいた人たちの前で、宰相自身に否定させたの」
「相手に次の手を選ばせたんじゃない。選べる手から順に潰したというわけか。いやはや、大した策士だ」
「お褒めいただき光栄に存じます」
わざと澄ましてそう返すと、ヴィルと目が合った。そのまま二人して、しばらく声を忍ばせて笑った。
「それと、レズンブール伯爵についてだけど、宰相の言いなりで動くだけの人物と決めつけることはできないわ。ほら、コルデオが言っていたでしょう?」
「ああ。相当な切れ者らしいな」
「当然、宰相に切り捨てられる可能性だって、想定しているはずよ。だからこそ、本人をこちらの場へ引き出して、何を語り、何を語らないのかまで見極めなければならないと思うの」
ダビドが危険を冒して集めた証拠は、一つも見せなかった。宰相が何を知り、伯爵とどこまで繋がっているとこちらが疑っているのかも、悟らせてはいない。伯爵本人から説明を受ける場と、ロゼリーヌ様とリュシアン殿の安全と意思を別に確かめたあとに開かれる王位継承の審議で使うためだ。証拠を消されるより先に、今日、記録に残した宰相の言葉と伯爵本人の説明を揃え、証拠と照らし合わせる。そこへ至る順序だけは、あの場で固定できた。
「だが、公の言葉だけで止まらない手もある」
「分かってる。そのために、ステファンには現地での判断を託したの。伯爵家の紋章を掲げた兵が暴走しても、宰相が伯爵を切り捨て、別の名目で兵を北へ向けても、お二人の意思を確かめないまま連れ去らせはしない。あとは、どちらが動いても間に合うよう、銀翼本隊の北上を急がせるだけよ」
窓の外では、雪が中庭の石をすでに覆っていた。北へ続く街道も、男爵家の屋根も、ここからは見えない。
「これで進むべき道は決まったわね。銀翼の展開と配置が完了するまで、もうしばらく暇を稼ぐ必要はありそうだけど」
「それでいい。奪われちまったあとじゃ、選ぶも何もないからな」
「ええ。こちらが先にお二人を保護しなければ、伯爵か宰相に奪われる。だから先に確保する。でも、守ったあとの人生まで、わたしたちが取り上げてはいけない。それでは、宰相がしようとしていることと同じだわ」
ヴィルは大きく頷き、外套の前を合わせ直した。会議のあいだ外していた手袋を嵌め直し、指を一本ずつ深く入れていく。
「今一度確認しておく。銀翼本隊は、冬季演習として北へ向かわせる。演習地は男爵領へ続く街道沿いに置く。伯爵家の紋章を掲げた兵が動こうと、宰相が別の部隊を北へ出そうと、こちらが先に割って入れる位置取りを狙う。できれば分断が理想だ。母子を移送する動きがない限り、こちらから戦端は開かない。そこは絶対だ。だが、移送の動きがあれば、何をおいても止める。これでいいか?」
「それでお願い。ステファンへの指示も、朝に決めたとおりよ。書状がロゼリーヌ様へ届いたかを確かめ、お二人と、退避を望む屋敷の者たちを安全に連れ出せる経路を探ること。男爵夫妻と使用人たちを危険に晒さないよう、接触を急ぎすぎないこと。ただし、ロゼリーヌ様とリュシアン殿の意思を確認できないまま、お二人を移送する動きがあれば、その限りではない」
「任せろ。風耳鳥を返したら、俺も隊舎へ行く。今日のうちに先発の支度へ入らせる」
ヴィルは扉へ向かいかけ、途中で足を止めた。振り返った顔には、会議室で王配としてまとっていた硬さが、まだ少しだけ残っている。
「それにしても、あの宰相を前にして、最後まで声ひとつ揺らさなかったのには驚いたぞ」
「負けられないって、必死だっただけよ。それと、わたし、演じてみせるのは得意なのよ」
「演技だろうと、俺には十分立派に見えたぞ」
「それができたのはね……隣にあなたが立っていてくれたからよ。ほんと……」
ヴィルの眉がわずかに上がり、それから口元が緩んだ。
「そうか。そりゃあそうだ。そのための俺だからな」
伸びてきた手が、肩先へ触れた。厚い手袋越しの指は、ほんの短いあいだそこに留まり、押しつけるでも引き寄せるでもなく、わたしが立っていることを確かめるように一度だけ力を伝えた。離れていく温度を追いそうになった指を、わたしは机の縁へ置いたまま動かさなかった。
窓の外を流れる雪の向こうには、北へ続く道がある。机の上には、これから出す銀翼騎士団への命令書が置かれていた。
「……わたしを侮ると後悔するわよ。我が名はメービス・マティルデ・アデライド・フォン・オベルワルト=リューベンロート――この女王は、そう簡単には倒れはしない」
閉ざされた扉の向こうへ届くほどの声ではなかった。それでも、ヴィルには聞こえた。彼は何も言わず、ゆっくりと頷いた。
わたしは椅子へ座り直し、命令書を手元へ引き寄せた。待つだけの時間は終わった。乾いた紙を走るペンの音を聞きながら、わたしは命令を書き始めた。




