封印された恋文、解き放たれた誓い
翌日の夜――。
ロゼリーヌは、閉ざされた部屋の空気を壊さぬよう浅く息を継ぐ。窓の桟には夜の結露が残り、指でなぞれば水筋が爪の間へ冷たく滑り込む。廊下のほうからは、鍵束が触れ合う金属音が一定の間隔で反復し、胸の内側の拍をじわじわと速めていく。
夕餉を運ぶ年配の侍女が、さりげない足取りで入ってきた。灯芯を短くしたランプが低く揺れ、皿の縁に淡い影を落とす。彼女は短く挨拶を交わして食事を置くと、扉を一度だけ振り返り、廊下に人影がないのを確かめるようにしてから、声を低めた。
「――お嬢様、失礼いたします。……どうか、人目に触れませんように」
灯芯が細り、革の匂いがわずかに濃く、湯気が細くほどけた。囁きと同時に、彼女は前掛けの内側に縫いつけられた深い物入れへ手を入れた。指先の震えがわずかに見え、ロゼリーヌの喉がからからに渇いた。そこから取り出されたのは、赤い封蝋の残る封書。紙は上質で、薄い光沢がランプの火を吸っていた。
――そんなところに隠していたの……?
汗が指腹ににじむ。
「それは……王宮から?」
喉の奥で息が詰まり、汗ばんだ指先がかすかに強張る。ごくりと唾を飲んで問うと、侍女はすまなそうに頷いた。
「はい。……女王陛下よりの書状でございます」
侍女から封書を受け取った瞬間、視界の縁がかすかに明滅した。胸の奥でどくん、と跳ねる。指が小刻みに震え、握った紙角が手のひらへ鋭く食い込んだ。
「本当に……? ……嘘じゃ、ないわよね?」
唇の内側が乾き、握った紙角の鋭さだけが確かだった。
侍女は顔を上げかけ、すぐ伏せる。
「詳しく申し上げる暇がございません。どうか……ご用心を。わたくしは厨房へ戻ります」
踵の革がかすかに鳴り、風の筋が扉の隙間をすり抜けた。
小走りの足音が遠ざかる。ロゼリーヌは息を止めていたことに気づき、細く吐いた。扉の閂を下ろし、ランプをわずかに明るくする。机の前に座り、封を切る。封蝋の薬草めいた香りがかすかに立ち、王家の紋が光の角度で沈んでは浮いた。紙の縁には擦れた汚れ――長い移動の痕。便箋を開く。指先の油を紙が静かに吸い、部屋の音が一段低くなる。
◇◇◇
ロゼリーヌ様。
執事殿は、いま、わたくしたちのもとで保護され、手当てを受けておられます。書状は奪われましたが、あなたが託してくださったお話は、確かに伺いました。まずは、そのことをお知らせいたします。
お返事を急ぐ必要はありません。これまでお伝えしたとおり、何を選ばれるかは、あなたとリュシアン殿がお決めになることです。王家の都合によって、そのご意志を曲げさせるつもりはありません。
信頼できる者を、そちらへ向かわせます。ステファンという騎士です。もし危険が迫っているなら、どうか彼へ直接お伝えください。
わたくしは、お二人を見捨てません。あなたとリュシアン殿が、ご自身の意志でこれからを選べるよう、わたくしにできることをいたします。
どうか、これだけは信じてください。
あなたは、独りではありません。
◇◇◇
末尾に記されたメービスの名まで目を通した瞬間、視界が揺れた。息を吸うたび胸郭がきしみ、涙が溢れて止まらない。紙面の文字が涙に滲み、最後の一行だけがなお目の奥に残った。
「母上……? どうしたの。……ねえ、なんて書いてあったの?」
寝台の布が小さく擦れ、子の体温が袖口へ移る。遠慮がちに揺さぶる小さな手。その体温が腕を伝い、さっきまでの冷えがほどけていく。ロゼリーヌは書面を畳み、鼻をすすって振り返った。
「……メービスさんは、わたしたちのことを見捨てたりしないって」
言葉の熱が喉に残り、涙の塩が唇へ薄く触れた。
「本当に……? メービス様が助けてくださるの?」
瞳の水が揺れ、呼気が白く短くほどける。
「そうよ。メービスさんは、この国の女王陛下なの」
「僕、知らなかった。そうだったんだ……」
「ええ。あの方ができる限りのことをしてくださるって。……だから、今はもう少しだけ堪えましょう」
髪を撫でる。幼い石けんの匂いがやわらかく鼻をくすぐり、胸の奥に小さな熱が灯る。ステファンという騎士が今どこにいるのか、どうすれば彼へ危険を伝えられるのかは分からなかった。
そのとき、廊下から荒い足音。近くで怒鳴り声が弾け、扉の外の空気が一気に硬くなった。
ロゼリーヌは書状をクッションの裏へ滑り込ませ、指を唇へ当てる。
「……いい、リュシアン。いまは大人しくしていなきゃいけないの。あの兵隊さんたちがいるうちは、こちらが下手に動くと危ないわ。――陛下のお手紙を無駄にしないためにも、我慢しましょうね」
指先に添えた息が温かく、布の皺が静かに沈んだ。
「うん、わかった。僕、がんばるよ」
袖口をつかむ力がわずかに強まり、体温が手首へ宿る。
やがて足音が遠ざかる。ロゼリーヌは息を吐き、扉の外で金具が微かに触れ合う音を聞いた。
◇◇◇
巡回の笛が一度だけ鳴り、廊下から兵たちの低い談笑が聞こえてきた。リュシアンの寝息は、もう乱れていない。ロゼリーヌは寝台の隣へ腰を下ろし、額へ落ちていた髪を指でそっと払った。
「リュシアン……あなたがいなかったら、私はもう、とっくに……」
言い終える前に唇を押さえ、首を振った。掛け布を肩まで戻してやると、リュシアンは眠ったまま、母の指先を追うようにわずかに顔を動かした。
机の引き出しには、もう一通、メービスから返されたギルクの書簡原本が残されていた。書簡と破断した封蝋は新しい内包みへ納められ、その外装の封印にはまだ触れていない。
――これを読んだら、私……どうなるの? いまさら、何が変わるというの? 苦しいだけじゃないの?
ギルクの文字を目にするのが怖かった。王都を去ったあの日から、胸の奥へ押し込めてきたものが、もう一度すべて戻ってくるような気がした。それでも、いつまでも読まずに隠しておくこともできない。ロゼリーヌは内包みを机へ置き、何度か指を離しかけた末、外装の封へ爪をかけた。
乾いた音とともに内包みが開く。破断した封蝋とともにギルクの書簡を取り出すと、古い紙の匂いがかすかに立った。指先へ伝わる乾いた感触に、夜の研究室で羊皮紙をめくった記憶が、灯の揺れる机の上へ重なる。
「……ギルク」
名を呼んだだけで、喉の奥が狭くなる。紙の縁を両手で支えたまま、指が動かなくなった。廊下を巡る靴音が扉の前を通り過ぎ、遠ざかっていく。それでも書簡を内包みへ戻すことはできず、ロゼリーヌは最初の行へ目を落とした。
◇◇◇
ロゼリーヌへ
この手紙を書き始めてから、何度も筆が止まった。
君が残した「どうか私のことは忘れてください」という言葉を思い出すたび、いまさら私が何を書けるのだろうと思う。それでも、私は君を忘れることができなかった。
王立魔術大学の回廊で、君が抱えていた本を受け止めた日のことを覚えている。夜の研究室で、君が油燈の芯を短く切ったこと。二人で乾いた羊皮紙の文字を追い、気づけば外が暗くなっていたこと。厨房の隅で、まだ温かいパンを半分に分けたこと。インクで汚れた君の手を見て笑った私に、君がひどく不満そうな顔をしたこと。
中庭で月を見上げながら、君は「世界は広すぎて怖い」と言った。あのとき私は、何と答えただろう。君の言葉ばかりが残っていて、自分が何を言ったのかを思い出せない。
私は魔術を学ぶために大学へ赴いた。それだけではない。王宮を離れられることに、私は安堵していた。王宮へ戻れば、私は王子であり、クラリッサの夫だった。王家と公爵家を結ぶ婚姻を、私一人の望みでほどくことはできなかった。私たちの仲は夫婦と呼ぶにはあまりに冷え切っていたが、王宮では「一日も早く世継ぎを」と、同じ言葉が繰り返された。けれど、ほどけなかったことと、君の手を取ったことは別だ。
君も私も、この先へ進めば誰かを傷つけると知っていた。王宮へ戻る日が近づくたび、私は君のそばへ逃げた。私の苦しさに気づき、離れずにいてくれた君の優しさに甘えてしまった。
君は、私が息をつくためだけの場所ではなかった。そう分かっていたのに、私は何一つ確かな未来を渡せないまま、君の手を取った。私は、君を愛していた。そして――今もなお、心から愛している。
君が置き手紙だけを残して大学を去ったあと、私はあの短い文を何度も読んだ。なぜ何も言わなかったのか、私の何が君を追い詰めたのか、考えても答えは出なかった。ただ、忘れてほしいという君の言葉だけが残った。
リュシアンのことを知ったのは、そのあとだった。君があの子を産み、今日まで育ててきた日々のどこにも、私はいなかった。どれほど詫びても、その年月を君へ返すことはできない。私たちが選んだことを、なかったことにもできない。
だが、リュシアンに罪はない。あの子が私の血を引いているというだけで、王家や貴族たちの思惑に巻き込まれることだけは、どうしても避けたい。
私はこれから戦場へ立つ。君のもとへ行くより先に、また王子としての務めを選ぶ。君が王家を憎むのなら、その王家から離れられない私も、同じように憎まれて当然なのだと思う。
もし生きて戻ることができたなら、私は君を探す。門前で追い返されてもかまわない。もう会いたくないと、君自身の声で告げられたなら、そのときは帰ろう。けれど、それを聞くまでは、私はきっと諦めることができない。
もし私が戦地から戻れなかったなら、父上に、君とリュシアンを守ってほしいと託してある。
妹のメービスは、若緑の髪の下に黒髪を隠している。あの子は、自分が傷ついていても、ほかの誰かが苦しんでいれば放っておけない。私が帰れなければ、王家があの子を呼び戻し、国を立て直すための象徴として使うのではないかと、私は案じている。
私が帰れず、父上の手も届かなくなったとき、最後に信じられるのはあの子だ。もしメービスが私の代わりに王座を継ぐことになっても、あの子なら、王家のために君からリュシアンを取り上げることはしない。母と子を引き裂かないと、私は信じている。
それだけでは足りず、父上の手が届かなければメービスを頼ってほしいと、こうして君に書き残している。何より、君にはリュシアンとともに生きていてほしい。自分では何一つ果たせないかもしれないのに、私がいなくなったあとのことまで、残される者に頼るしかない。
君に赦しを求める資格はない。それでも本当は、赦してほしい。いつか、私と過ごした時間のすべてを憎まずにいてくれたらと、そんなことまで望んでいる。
この手紙への返事はいらない。ただ、君と過ごした時間が、私にとって何ものにも代えられないものだったことだけは、伝えずに終わりたくなかった。
ロゼリーヌ。どうか、リュシアンとともに生きてほしい。王家のためでも、私のためでもない。君とあの子が望む場所で、二人で生きてほしい。
そして、もし許されるなら、ときどきでいい。夜の研究室や、半分に分けたパンや、インクで汚れた手を見て笑った男のことを、思い出してほしい。
君を忘れることのできなかった者として――ギルク
◇◇◇
最後の署名まで読み終えても、ロゼリーヌは紙から目を上げられなかった。息を吸おうとするたびに喉の奥が狭まり、涙が頬を伝って便箋へ落ちる。慌てて拭おうとして、墨を擦ってしまうのが怖くなり、伸ばした指を止めた。
「ギルク……どうして、あなたはこんなにも私のことを……。私は王家を憎むあまり、あなたまで憎んでしまいそうだったのに……」
声にした途端、夜の研究室で向かいに座っていた青年の顔が浮かんだ。王子の礼装も、戦場の甲冑も身につけていない。片側の頬にだけえくぼを作り、インクで汚れた彼女の手を見て笑っていた、あのころのギルクだった。
手紙を胸元へ引き寄せる。紙が衣へ触れ、わずかに鳴った。その音に、隣の寝台でリュシアンが身じろぎした。
「母上……泣いているの?」
ロゼリーヌは頬を拭おうとしたが、指先にうまく力が入らなかった。涙の筋を残したまま、寝台のほうへ顔を向ける。
「大丈夫よ。ちょっと昔のことを思い出しただけよ……」
「それ……もしかして、お父様の手紙……?」
リュシアンの目はまだ眠たげに細められていた。それでも、胸元の紙と母の顔を交互に見ている。ロゼリーヌは無理に笑おうとするのをやめ、寝台へ戻ると、細い肩を抱き寄せた。
「リュシアン……お父様は、あなたが不幸にならないことだけを、必死に願っていたの。だから……そうね。メービスさん――女王陛下のことも信じてみましょう。正直、すんなりはいかないかもしれない。でも……それを、お父様も望んでいるはずだから」
女王を信じ切れたわけではない。屋敷の外には兵が立ち、明日になれば何が起こるかも分からない。ギルクが妹へ託した願いが、王家の内側でそのまま守られるという保証もなかった。
それでも、ギルクはメービスを信じた。自分がいなくなったあと、母と子を引き裂かない者として、妹の名を残した。その願いまで拒んでしまう前に、メービスが何をしようとしているのか、自分の目で確かめてもよいのではないかと思えた。
「……信じてみる、か……」
リュシアンが、母の言葉を確かめるように繰り返した。ロゼリーヌは答えを急がず、その身体をもう一度、強く抱きしめた。腕の中にある重みも、肩へ触れる温かさも、誰にも渡すことはできない。
遠くの足音が止まり、すぐにまた歩き出した。窓から差し込む月明かりが、寝台の端と、ロゼリーヌの手に残された書簡を薄く照らしている。
「ありがとう、ギルク……。あなたの想い、確かに受け取ったわ」
返事は届かない。それでも、声にしておきたかった。リュシアンは何も尋ねず、細い腕で母の衣を掴んだ。その指へ手を重ねると、胸の奥を塞いでいたものが、涙とともに少しずつほどけていった。
――必ず、リュシアンを守り抜いてみせる。ギルクの思いに応えるためにも、私は決して諦めたりなんかしない。メービス様、ありがとう……。
ロゼリーヌは手紙を胸元へ抱いたまま、リュシアンとともに寝台へ身を横たえた。屋敷を閉ざす闇も、廊下を行き交う軍靴の音も消えてはいない。それでも、執事へ託した言葉が王宮へ届いたのかさえ分からなかった昨日までとは違う。頬を伝う涙はまだ止まらなかったが、子を抱く腕から、もう力は抜けなかった。




