宵色に染まる王宮と密やかな戦端①
夕焼けの薄雲がゆるく流れ、橙色の光が大窓の縁だけを照らしていた。中庭を行き交う衛兵の影は硝子の向こうで淡く滲み、石を踏む靴音が、厚い壁を隔てて遠く響いていた。
わたしは机に広げた意見書の一文へ、細く線を引いた。レズンブール伯爵は女王の召喚に応じ、王都へ向かっている――そう書かれている。けれど、正式に確かめられているのは、伯爵本人とその一行が領地を出たことまでだ。行き先も、出立の意図も分かってはいない。それなのに王都では、すでに伯爵が女王との謁見へ向かっているものとして、いくつもの書面が書かれ始めていた。
余白へ「進路未確認」と記し、その下へ「召喚への応諾を示すものではない」と書き添えた。机の右端には、ステファンからの正式な報告を収めるための帳面が置かれている。開かれた頁には、まだ何も書かれていない。わたしが封をした書状が男爵領へ届いたのかどうかさえ分からなかった。便りがないことを、失敗とも成功とも決めつけてはいけない。そう分かっているのに、紙を送る指は、ときおり同じ場所で止まった。
朝から机を離れたのは、昼食を取ったときと、決裁済みの書類をコルデオへ渡したときだけだった。北部へ送る食糧の割当、港湾施設の修繕費、冬を越すための飼料と薪、滞っている賃金の支払日。伯爵と宰相の動きだけを見ていればよいわけではない。こちらが立ち止まっているあいだにも、国の暮らしは続いている。
壁際には、ヴィルが使う椅子が空いたまま置かれていた。このところ、彼が王宮の執務室にいる時間は少ない。朝は軍の厩舎や馬具庫を回り、日が傾けば城外の駐屯地や継走所へ足を運び、台帳の数字と実際の馬の状態を照らし合わせている。馬だけではない。馬具、蹄鉄、飼葉、馬を休ませられる場所、急ぎの連絡を通せる相手。何かが起きてから探したのでは間に合わないと、使えるものと使えないものを一つずつ洗い直していた。
わたしが朝から夜中まで執務室へ籠もる一方で、ヴィルは王宮の内外を駆け回っている。寝所でふたりが揃う夜そのものが、いつの間にか減っていた。以前なら、同じ寝台へ入る前に、ヴィルは必ず「今夜も、ここでいいか」と尋ねた。けれど最近は、その問いを交わす時刻までに、どちらかの仕事が終わらない。侍女たちがいつものように二枚の毛布を整えていても、向こう側の一枚には、朝まで皺ひとつつかない夜がある。ひとりで眠ることには慣れていたはずなのに、いまの寝所は、ひどく広く感じられた。
紙の上で、ペン先から小さな墨の雫が落ちた。慌てて吸い取り紙を重ねたところへ、扉が静かに叩かれる。
「失礼いたします、陛下」
コルデオが、書面の束と茶器を載せた盆を抱えて入ってきた。机の空いた場所を確かめてから、意見書を種類ごとに置いていく。そのとき、もう一度扉が叩かれた。
許しを出すと、冷えた外気とともにヴォルフが入ってきた。濃色の外套には細かな土埃がつき、手袋には革と馬の匂いが残っている。片腕に抱えた帳面と書き付けの束は、綴じ紐の色ごとに分けられていた。
「戻ったぞ、陛下」
「おかえりなさい、ヴォルフ」
コルデオの前では、それだけを交わし、ヴォルフは外套を着たまま机の脇に立った。
「伯爵殿の進路に言及した意見書を確認いたしましたが、いずれも独自の裏付けを伴っておりません。貴族院で流れている話を、そのまま引用したものにございます」
「では、進路報告の束から外してください。誰が、いつ、どの言葉を引用したのかだけ、流布記録へ回します」
「かしこまりました」
「確認済みなのは、伯爵本人が領地を出たことまでです。王都へ向かっているのか、召喚に応じたのかは、まだ同じ線へ結ばないで」
以前なら、言い終えたあとに、自分の指示が正しかったかをコルデオの顔から探していたかもしれない。いまは彼が一礼するより先に、次の書面へ手を伸ばしていた。
「ステファン殿からの正式な報告、ならびにダビド殿からの続報は、いまだ届いておりません」
「届き次第、時刻と経路を分けて持ってきてください。夜中でも構いません」
「承知いたしました。ですが陛下も、少しはお休みくださいませ」
コルデオはそう言って、薄琥珀色の茶を二つのカップへ注いだ。ローズマリーとミントの青い香りが、紙と墨の匂いのなかへ静かに広がる。ヴォルフの分のカップを机の端へ置くと、一礼して部屋を下がった。扉が閉じ、足音が遠ざかるまで、わたしたちは互いの私的な名を口にしなかった。
「今日は、どこまで行っていたの、ヴィル?」
「いつも通りだ。軍の厩舎と馬具庫。それから城外の駐屯地を、二箇所ばかり視察してきた」
ヴィルは外套を脱ぎ、帳面を机の端へ置いた。手袋を外すと、冷たい風に晒されていた指の節が赤くなっている。
「また一日がかりだったのね。お疲れ様」
「帳面の数字と実物が、まるで合っていない。使えると書かれた馬が脚を痛めていたり、数だけはある馬具が傷んでいたりする。荷を引ける大柄な馬も、飼葉と蹄鉄まで揃わなければ動かせんときた。再建途上とはいえ、なかなか骨が折れることだ」
「それで、使えそうなものは見つかった?」
「銀翼本隊向けの頭数は、なんとか目星がついた。だが、本隊を北へ向かわせるとなると、それだけでは済まん。休ませる場所、連絡を通せる相手。全部を確かめてからでなければ、使えるとは言えん」
「そうよね。わたしもあなたのスレイドと一緒に旅をしていたから、なんとなくわかるわ。兵站について詳しくはないけど、部隊を動かすとなると、生易しいものではないでしょうね」
「ま、そこは俺の役目だ。やれることをやるまでさ」
ヴィルは当然のように答え、カップを取った。冷えていた指へ湯気が触れ、わずかに目を細める。わたしも茶を口へ運ぶと、やさしい苦みが舌に残り、固くなっていた喉がようやく温まった。
ヴィルは机に広げられた意見書へ目を落とし、わたしが余白へ書き入れた文字をしばらく眺めていた。
「それにしても、お前、前より女王が板についてきたな」
「なによ、急に」
「さっきのコルデオへの指示だ。何が確かで、何をまだ決めないか、迷わず分けていただろ。前みたいに、言ったあとで顔色をうかがうこともなくなった」
「それ、褒めているの?」
「褒めてるに決まってるだろう。素直に受け取れ」
「はいはい」
カップを置き、向かいに立つヴィルを見上げた。
「そういうあなたは、ぜんぜん変わらないわよね」
「本物のヴォルフが普段どんな男だったのかも分からん。必要な場でそれらしく振る舞うくらいはできても、朝から晩まで王配の顔をしていたら、そっちのほうが不自然だろうが」
「それもそうね」
「即答か」
「だって、必要なときにはきちんと振る舞えるくせに、わたしの前では昔のままだもの」
「ふん。お前相手にまで澄ましていられるか」
「エレダンで魔獣狩りをしてた頃も、昼食の途中でわたしに酒を勧めたわよね。『少し酒が入ったくらいが調子がいい』とかなんとか」
「いつの話をしてやがるんだ」
「忘れてないわよ。離宮では、ブランデーの入ったスキットルを懐に忍ばせて、リディアの目を盗んでは、ぐいっとやってたわよね」
「言ってくれる」
ヴィルは不満そうに眉を寄せ、カップから立つ湯気を鬱陶しそうに払って、残っていた茶をひと息に飲んだ。その仕草まであのころと変わらなくて、わたしはくすくす笑った。
「……まあ、ステファンには事あるごとに、『なんと嘆かわしいことか。殿下は変わってしまわれた』などと言われてはいたが」
喉の奥に残っていた笑いが消えた。「変わってしまわれた」と口にしたとき、ステファンの声はわずかに掠れていた。あれは、いつもの軽口へ混ぜてよい言葉ではなかった。
「それは、彼の知っている騎士としてのヴォルフと比べてのことでしょう? 王配としてのあなたを見て言っているわけではないと思うけど」
「ああ。分かってる。あいつの知っているヴォルフには、俺はなれん」
「なろうとしても、きっと余計に傷つけるだけよ。どうひっくり返したって、あなたは雷光のヴィル・ブルフォードだもの」
「だろうな。だから俺は、俺のやり方でやるしかない」
ヴィルは空になったカップを指先でゆっくり回し、ふとわたしへ視線を戻した。
「それを言うなら、お前も同じだな」
「わたしが?」
「メービスを演じていようが、お前はお前だ」
「そりゃそうよ。そう簡単にメービスになりきれるわけじゃないもの」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味よ」
「……つまりだな。俺から見りゃ、十二やそこらだったお前が、いまじゃこうして女王の顔をしてるんだからな。まるで、本当に大人になったみたいに見えるってことだ」
「失礼ね。最初に会ったときにも言ったでしょう。わたしはもともと大人なのよ。お・と・な」
「そう言われても、あの頃は信じちゃいなかったさ。だが、実力は一人前だと認めたはずだ。見た目だけで決めつけたことも謝っただろうが」
「ええ。そこは偉かったわね。よしよし」
「お前というやつは、この俺を子ども扱いするか」
「だってしょうがないじゃない。そうとしか思えないときがあるんだから」
「まだ言うか。まあ、いい。だがな、いまじゃ大人顔負けなんて言葉では足りん。これまでのお前を見てきた俺には、お前が俺と同じくらいの〝重さ〟を背負っているとしか思えんのだ。その姿で女王の顔をされると、余計にな……」
「……そう」
どきりとした。けれど、考えてみれば、それも不思議ではないのかもしれない。いまの身体は十九歳のメービスで、前世から持ち越した理性は二十一歳の美鶴のものだ。見た目と内側の年齢には、ほとんど隔たりがない。十二歳の身体にいた頃のように、幼い姿と大人びた言葉が食い違って見えることも、少なくともいまはないのだ。
――要するに、いまのわたしは、見た目と中身が釣り合っているということなのか。
そうやって年齢のせいにしてみると、思いがけないところへ触れられたような驚きは、少しだけ静まった。それでも、カップの縁へ添えた指は、しばらく緩まなかった。
ヴィルが見てきたのは、いまの姿だけではない。わたしが何を選び、何を引き受けてここまで来たのかを知ったうえで、自分と同じほどの重さを背負う者だと認めてくれた。この姿が仮初めのものだとしても、いま認められたのは、その内側で選び続けてきたわたしだった。そのことが、ただ嬉しかった。
ほんの短いあいだだけ、執務室から伯爵も宰相も消え、呼吸がゆっくりと胸の底まで下りていった。
ヴィルは持ち帰った帳面を抱え、壁際の卓へ移ると、椅子へ腰を下ろした。わたしに背を向けたまま綴じ紐を解く指は、外の冷気に晒されていたせいか、まだ節のあたりが赤い。紐がほどけるたび、紙の束が厩舎ごとに分けられていく。その手を見ているうちに、カップへ添えていたわたしの指も、熱の置き場を探すようにわずかに動いた。
あの冷えた指の上へ、自分の指を重ねてみたい。
温めるためではない。怪我をしているわけでも、支えが必要なわけでもない。理由を探しても、どれも違った。ただ、わたしが触れたいのだ。そう気づくと、机の上に置いていた右手が、もう一度かすかに動いた。
ヴィルは気づかず、書き付けの一枚を棚へ戻そうと身を伸ばした。外套を脱いだ背中が、燭台の明かりを片側だけ受けている。その姿を眺めていると、寝所でその背を見ないまま朝を迎えた夜が、このところいくつも重なっていたことを思い出した。
けれど、いまは三歩ほど先にヴィルがいる。そのことに安堵したはずなのに、戻ってきたヴィルを前にすると、眺めているだけでは足りないような、落ち着かない思いが湧き上がってきた。
立ち上がって、あの背中へ近づきたい。後ろから腕を回し、ほんの少しだけ身体を預けてみたい。そこまで思い浮かべた瞬間、息が浅くなった。
抱き締めてほしいのではない。わたしのほうから、ヴィルを抱き締めてみたいのだ。ここにいるのだと、自分の腕のなかで確かめたい。そしてできるなら、今夜はどこにも行かず、いっしょにいてほしい。
それが自分の欲なのだと気づくと、頬の内側から熱が上がった。
椅子を引けば、三歩もかからない。それなのに、わたしは立ち上がれなかった。
ヴィルはまだ形の見えない危険へ備えるため、朝から王宮の外を走り回っている。わたしの寂しさを埋めるために、その時間を使っていいわけがない。今夜だって、持ち帰った帳面を確かめ終えれば、ほかにやることがあるのかもしれない。
――それに、いまのわたしは女王メービスなんだ。
メービスが背負ってきたものを、守りたかったものを、この手で守る。それが、この名と立場を使ってここに立つと決めた、わたしの責任だった。ロゼリーヌ様とリュシアン殿を、王家の都合でどこかへ連れてくるためではなく、本人たちが選べるまま守る。そのためにヴィルも、ステファンも、ダビドも動いている。こんなときに、自分が寂しいからといって、我儘を言えるはずがない。
きっと困らせる。仕事の邪魔になる。いきなり後ろから抱き締めたりしたら、迷惑だし、鬱陶しいと思われるに決まっている。そう言い切ってしまえば、動きかけた手を引っ込める理由になる。
――ばかだ。わたし、何を考えているの。
膝の上で指を固く握り、ゆっくりと開いた。それからペンを取り直し、止まっていた意見書の次の行へ目を戻した。
欲望は、消えていなかった。ただ、胸の奥へ押し込めた。
ヴィルは何も知らないまま、卓の向こうで帳面をめくっている。紙が擦れる音と、ペン先が走る音だけが、静かな執務室で重なった。
窓の外では、橙色だった空が暗紅へ沈み、やがて硝子は外の景色よりも室内を濃く映し始めた。そこには、机のこちら側に座るわたしと、向こう側で馬の記録を確かめるヴィルがいる。すぐ近くにいるのに、ふたりのあいだには、触れないままの距離が残っていた。
――それでいい。いまは、それでいいんだ。
自分へ言い聞かせ、次の紙を手に取った。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいた。いつも一定の歩幅を崩さないコルデオの靴音が、今夜だけは明らかに速い。足音は扉の前で止まり、息を整える間もなく、焦燥を帯びたノックが執務室を叩いた。
入るよう告げると、扉が開いた。コルデオは一通の封書を手に、乱れた呼吸を抑えきれないまま執務室へ入ってきた。壁際の卓で帳面をめくっていたヴォルフも手を止め、椅子から立ち上がった。
「大変です。陛下! ダビド殿から緊急便が届いております。どうか早急にお目通しを、と――」
ペンを握り直したばかりの指が止まった。さきほどまで指先に残っていた熱が急速に遠のき、代わって喉の内側が狭くなる。
「ダビドから?」
椅子を引いて立ち上がり、コルデオの差し出した封書を受け取った。紙越しに伝わる冷たさが、掌へ張りつく。
ダビドからは、すでに一度、王都で確かめられた事実が届いている。通常より多額の支払いが複数あったこと。その日時、一部の受取人と仲介者、貴族屋敷を出入りした使者。けれど、誰が金を出したのか、その金が最後にどこへ渡り、何に使われたのかまでは分かっていなかった。傭兵の募集についても、仲介人が伯爵の計画だと聞いたという証言にとどまっている。
わたしは、確かめられた事実と証言、ダビド自身の見立てを混ぜず、無理に証拠を取りに行かないよう命じていた。その彼が、通常の続報ではなく緊急便として送ってきたのだ。
机の上に残っていたカップを脇へ寄せる。陶器の底が漆の表面へ触れ、乾いた音を立てた。さきほど動きかけた右手は、いまは封書の端を強く押さえている。
封に乱れがないことを確かめてから、慎重に切り開いた。折り畳まれた紙を引き出すと、インクの匂いが茶の香りを押し退けるように立ち上がった。ヴォルフが机の脇まで来たが、わたしの手元を覗き込まず、一歩離れたところで足を止める。コルデオも扉の近くに控えたまま、言葉を待っていた。
細かな文字が紙面を埋めている。項目ごとに分けられた記述の脇には、直接確かめた事実、他者から得た証言、なお確認を要する見立てが、それぞれ区別して記されていた。
最初の数行を追ったところで、息を吸ったまま吐けなくなった。読み違えたのかと思い、同じ箇所へ視線を戻す。けれど、文字の並びは変わらない。
「これは……」
思いのほか掠れた声が落ちた。紙の縁が指に食い込んでいることにも気づかなかった。
ヴォルフは何も尋ねなかった。コルデオも身じろぎせず、わたしが言葉を取り戻すのを待っている。けれど、視線はその一行から動かなかった。




