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静寂に閉ざされる山あいの屋敷――ロゼリーヌの苦悩

 山あいを渡る風が石壁に触れ、冷えが窓枠の金具へ薄く移っていく。朝だというのに、燭台の小さな炎は紙面の端だけをおぼつかなく照らし、壁の石目に落ちる影が細く震える。窓の桟には夜の結露が残り、指で拭うと冷たい水筋が爪の間へ滑り込んだ。


 ここ数日の男爵家は、息を潜める場所になってしまったのだと、ロゼリーヌは思う。


 表向きは「護衛」。けれど廊下を歩けば、革と油の匂いが濃く、レズンブール伯爵家から来たと名乗る兵たちの靴音が使用人の足取りを上書きしていく。カーペットの縁には泥の跡が複数の方向へ伸び、曲がり角には粗い麻縄で作られた“見張り線”が張られている。誰かが鍵束を指で弄ぶ小さな金属音が、一定の間隔で反復し、聞くほどに胸の内側を締めつけていく。


「どこへ行く、言え。使用人が勝手に動くんじゃない!」


 角の陰で空気が固まり、麻縄がわずかに軋んだ。


 遠くの角で鋭い声が刺さり、若い執事見習いが足を止める。別の方向から槍の穂先が石壁へ軽く当たり、乾いた金属音が跳ねた。


 ロゼリーヌは目を伏せ、手袋の内側で指を寄せ合う。屋敷の者たちは、彼らを「伯爵の兵」と呼んでいた。


 その兵たちは、屋敷を自分たちのもののように扱いはじめている。だが、本当に伯爵の命令で動いているのか、誰が彼らをここへ送り込んだのか、ロゼリーヌには分からない。門と廊下を押さえられ、屋敷の者が自由に動けなくなったことだけは、疑いようがなかった。


 当主のモンヴェール男爵は怒りのままレズンブール伯爵領へ向かったが、二週間以上、便りがない。玄関脇の掲示板には外出制限の張り紙が増え、封蝋の割れ目に触れれば粉が指腹へこびりつく。男爵夫人は心労で床に伏し、暖炉の灰は薄く冷え、屋敷の空気はひたすら沈んでいく。


 ロゼリーヌは自室のカーテンを閉め、机へ額を伏せる。布地の陰は浅く揺れ、木肌の冷たさが額へ伝わった。砂時計の細い流れが耳の奥でかすれ、時間さえ細く削られていくようだ。やがて窓辺の光が白さを増し、昼が近づいた。


「ロゼリーヌ様……失礼いたします。お昼のご用意ができました」


 燭台の薄明かりが湯気越しに卓上へ落ち、扉の蝶番が息を吸うように鳴った。扉がきしみ、別の若い侍女が身を小さくして入ってくる。盆の湯気は弱く、薄いスープの匂いに金属のような寒さが混じる。麦パンは乾いて角が固く、皿に触れるたび粒子がぱらりとこぼれた。


「……そこへ置いてちょうだい」


 湯気がほどけ、金縁の皿が微かに触れ合った。


 唇の震えを押さえるように、声だけを出す。侍女が盆を卓へ置くと、陶器が触れる乾いた音が室内に落ちた。


「申し訳ございません……屋敷じゅう伯爵の私兵に見張られ、私どもも身動きがとれません。外へも出られず、市場にも。……食事も、このような粗末な仕度しか」


 ここ数日は外出の許しも下りず、買い入れが滞っていた。


 侍女の指は、前掛けの布を強くつまんでいた。


「あなたのせいじゃないわ。悪いのは――伯爵のやり口よ」


 声の温度が一段下がり、唇の裏に苦さが滲む。かすかに笑みを作ろうとして、頬の内側が乾く。侍女は言葉を足しかけて、視線だけで謝り、深く頭を下げた。


「どうか……お心を折られませぬよう。きっと、どこかに道が」


 小さな励ましが卓上に灯り、スープの湯気が細った。


 扉が閉まると、静けさが戻る。胸の鼓動が早くなる。食器の縁へ指を触れる。ぬるい湯気はすぐに薄れ、空腹より先に喉の渇きだけが残った。


――活路なんて、いったいどこにあるというの?


 半月前、執事に託した王宮宛の書簡について、何の知らせもない。執事が王都へ着いたのか、途中で書簡を奪われたのか、それさえ確かめられなかった。宰相と伯爵の関係も分からない。けれど、もし二人が手を結んでいるのなら、彼女の声は紙の上で潰されるだろう。机の抽斗を開ければ、未送の手紙が数行で途切れ、インク壺の口に乾いた膜が張っていた。


「あの書状が届かなかったら……わたしたちは……」


 舌の裏が乾き、砂時計の音が耳の奥で強まった。机に落ちる自分の声が、ひどく遠く聞こえた。窓の桟から入る隙間風が、襟元の細い産毛を撫で、背中へ冷えを滑り込ませていく。


◇◇◇


 昼下がり。格子越しの光が廊下の石を細く刻む。角を曲がる手前で、鎧金具の触れ合う音が増え、道の中央に数人が立った。彼らの背後では、壁の飾り金具に兵たちのマントがかかり、左右の窓は内側から閂で固められている。巡回の笛が遠くで短く鳴り、廊下の空気が音に合わせて強張った。


「ロゼリーヌお嬢様、少々お時間をいただいてもいいですかな?」


 呼気に革の匂いが混じり、廊下の冷えが足首へ絡む。息を整え、歩幅は変えない。脂の匂いが鼻にのぼり、手袋の縫い目が白く立つ。鍵束がひと揺れして、金属音が小さく跳ねた。


「……なんでしょう。ご用なら手短に願います」


 襟元の糸がわずかに張り、喉が浅く動いた。

先頭の壮年兵の頬には、古い傷跡が硬く刻まれていた。わざと腕を組み、低い声で続ける。槍の影が床の石目に沿って伸び、足首に冷気が触れる。


「上からの新たな指示でね。近々『殿下』をお迎えにあがるそうだ」


 呼吸が短くなる。


「それは本当ですか?」


 喉の奥に冷たさが落ちた。


「貴族院の方でも話が動いてるって噂だしな。じきに決まるだろうさ。――リュシアン坊ちゃまの王都行きは、避けられんだろうな。もっともあんたが頷いてくれりゃあ、今すぐにでもだが?」


 槍の影が敷石を渡り、兵たちに囲まれた廊下がさらに狭く感じられた。


 喉の奥がきゅっと狭くなる。用意していた言葉を、舌の先で整える。足先が石の冷えへ沈み、体重の置き場が少しずれる。


「……わたくしは認めません。そんな勝手は通しません」


 握った指の関節が白み、布越しに脈が触れた。


 嘲りの笑いが短く弾む。別の兵が、茶化す調子で肩をすくめた。汗と革の混ざった匂いが近づき、距離の狭さが皮膚へ乗ってくる。


「先代の時代から、宰相閣下の権力は絶大だからなぁ。それがリュシアン殿の王太子擁立を押してるとなれば、賛成はすぐに集まるさ。――男爵家にとっても悪くない話だろう? なんたって正統な血筋を育て上げたんだ。報奨だってたんまり貰えるさ。喜ばしいじゃないか」


 笑いの熱が近づき、脂の匂いが喉に張りつく。


 目の前の男が事実を告げているのか、自分を怯えさせるために嘘を並べているのか、ロゼリーヌには分からなかった。


 皮膚の下に言葉が刺さる。視線を伏せ、拳を握ると、手袋の布が指先で張った。兵たちは「抵抗したって苦しいだけですよ」と吐き捨て、靴音を残して去る。去り際、壁飾りに触れた金具が軽く揺れ、長い廊下の奥まで冷たい音を引いた。


 事実なら、迷っているあいだにリュシアンを連れ出される。脅しだとしても、問い詰めて騒ぎを起こせば、屋敷の者へ危害が及ぶか、移送を早める口実を与えるかもしれない。手袋の中で爪が食い込んでも、呼び止めることはできなかった。


◇◇◇


 部屋へ戻ると、リュシアンが小走りで胸元へ飛びつく。小さな体温が、冷えた指先にじわりと戻る。袖口の布が指にまとわり、息が一拍深くなる。


「母上、どうしたの? さっき兵隊さんと話してたよね……顔、こわかったよ」


 頬に温い息が触れ、胸の硬さがわずかに解ける。笑みの形だけが先に生まれ、声が少し掠れる。窓の隙間風が、子の髪に細い波を作った。


「だいじょうぶよ。……ちょっと嫌なことがあっただけ。リュシアンは心配しないで」


 声の端だけを笑みに寄せた。その言葉を支える知らせは、ロゼリーヌのもとへ何ひとつ届いていない。それでも、リュシアンをこれ以上怯えさせることはできなかった。指先はまだ冷たかった。袖をつまむ指が細く震える。抱きしめようと腕を上げたが、肩にうまく力が入らない。それでも、こわばる腕をリュシアンの背へ回した。


「『王都へ連れて行く』って言ってた。僕……母上と離れ離れになっちゃうの? ……そんなの、やだよ」


 細い肩が震え、布が擦れる音が胸に痛い。自分の腕からリュシアンを引き離される光景が浮かんだ。喉が冷えて、返事の出だしが遅れる。胃の辺りが薄く痛み、息をひとつ置いてから言葉を探す。


「……ごめんね、リュシアン。いまは外に出られないの。わたしたちが動けば、すぐ追われるから……」


 言葉の影が窓辺へ落ち、風が紙片の端をめくった。


「じゃあ、僕が剣を持って、大きな声で追い返すよ……」


 小さな手の熱が掌へ移り、喉の渇きがほどける。


「だめ。いまは静かにして……様子を見ましょう」


 胸の奥で数える呼吸が、ひとつ深くなった。


 言いながら、自分の指の温度を確かめる。守る手立ては見えない。それでも、いま腕の中にいる子だけは離すまいと、ゆっくり握り直した。部屋の梁の上で埃がうっすら光り、静けさは薄紙のように破れやすそうだった。


◇◇◇


 夜が深まる。扉の外では見回りの靴音が一定の間隔で止まり、笑い声が短く弾けてすぐに消える。廊下を過ぎる灯の影が敷居の下で細く揺れ、蝋の匂いは薄くなり、石の冷えが足裏から上ってくる。遠くで鐘が一度だけ鳴り、砂時計の流れがそれに合わせて遅くなる。


「母上……眠れないの?」


 寝台の布がわずかに動き、灯の影が壁を浅く渡った。


 寝台の縁で、リュシアンの声がほどける。額に触れると、温かい。その温もりに、胸の奥の強張りが少しだけほどけた。


「いいえ、少し考えごとしてただけ。……あなたこそ、ちゃんと休まないといけませんよ」


 囁きを落とすと、まつ毛の影が手の甲にそっと触れた。


 少年は浅い眠りへ戻り、寝息が規則正しくなる。ロゼリーヌはリュシアンの手を包み、自分の指先の震えが収まるのを待つ。窓辺の布が風にかすか鳴り、扉の外で鍵束が小さく触れ合って、誰かが通り過ぎる気配がした。


「……私は、どうすればいいの?」


 窓の金具が冷え、呼気が薄く白んだ。寝台の傍らで漏らした声は、夜気に吸われていく。答えは来ない。だからこそ、いまは耳を澄ます――すぐそばの寝息、遠い靴音、窓を鳴らす風。部屋の外から届く音は、内側を狭めていく。


「……だいじょうぶ。きっと……だいじょうぶ……」


 口にしても、胸の内側の震えは止まらなかった。何が大丈夫なのか、自分にも分からない。扉の外では、また見回りの靴音が止まった。


 子の手をもう一度握る。連れてはいかせない。そう思っても、そのために何をすればいいのか、答えはなかった。指を絡め、眠る子の温度を確かめる。夜半の風が壁の端を撫で、扉を押すたびに閂がかすかに軋んだ。

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