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王座の狭間に揺れる灯火

 翌日、午後を少し回ったころ。昨夜持ち帰られた召喚状の受領記録の隣には、朝から届き始めた書状が重なっていた。大窓を背に紙束をめくるたび、乾いた擦れが指腹へ返り、封蝋の甘い匂いが薄く鼻に残る。床を渡る光は静かなのに、胸の内側だけがじりじりと熱を持っていた。宰相派の動きは、想像していたよりも速い。


「いかがなさいますか、女王陛下」


 隣に立つコルデオが、先ほど受け取った手紙をこちらへ差し戻した。貴族院の一部からの要望書だ。封蝋の縁に爪を当てると、崩れた赤い粉が指腹につき、紙の上へ細く落ちた。


 文面は常套だった――「女王陛下のご意志を確認したく、早々に王位継承を明確化いただきたい」。言い回しは柔らかいが、求めていることは一つしかない。リュシアンを王太子に据えれば、すべては収まる、と。


 昨夜、速達使者が戻るより先に流れていたのは、「女王陛下の御決断を仰ぐため、伯爵が謁見に臨む」という話だった。それが一夜明けると、伯爵が王都へ入り、女王陛下と面会するのは、提案を了承したからだという触れ込みに変わっている。召喚状の受領、その後の伯爵本人の出立、そして貴族院を走る噂は、三つとも別々に記録させたはずなのに、王都ではもう一つの筋書きとして語られていた。


「伯爵に召喚状を送ったのはこちらだというのに、まったく、調子の良い話ですね」


 ため息が落ちた。炉の残り熱を含んだ紙はぬるく、紙端へ滑らせた指が、ささくれに引っかかる。伯爵を王都へ呼び、そのあいだに男爵家へ伸びる手を鈍らせる。こちらから置いたはずの一手を、相手は女王がリュシアンを迎えるための招致へ塗り替え、行き先だけを奪おうとしていた。


「表立って陛下を非難する向きはございませんが、『ご同意くださると信じてやみません』といった文言が、まことしやかに囁かれております。実質的には、貴族院で多数を占める宰相派からの圧力と見受けられます」


 コルデオは声を落とし、机上の書状を日付順に揃えた。要望書の脇へ、貴族屋敷を訪れた使者の控え、貸付と資金援助に関する書面、香辛料の相場と輸送権をめぐる照会が並べられていく。どれも別の役所に残っていた記録だ。先王の懐刀として政務を支えたころから知る官吏を一人ずつ辿り、家名と日付を重ねてきたのだろう。紙を置く手には、少しの迷いもなかった。


 要望書の末尾には、宰相派の名が隙間なく続いている。墨の酸味が、めくった紙のあいだから薄く戻った。この名の列の先で、伯爵とわたしが「リュシアンの王都入り」に合意すれば、退位への流れは一気に固まる。「正統な血筋」という言葉が、議場で誰にも退けられない重さを持ち始める。


「けれど、伯爵本人からは、まだ正式な回答が届いていないのですね……」


 伯爵家の受領印はここにある。けれど本人からの返書はなく、イストリアを発った一行がどこへ向かったのかも分からない。応諾とも拒絶ともつかない空白を残したまま、彼が王都へ来るという話だけが、先に輪郭を得ていた。


 背後で衣擦れがした。ヴォルフは窓と扉へ一度ずつ目をやり、室内の死角を確かめている。剣には触れず、その必要がないかぎり動かないという緊張だけを立ち姿に残していた。


「奴はタイミングを見計らってるんだろう。宰相と示し合わせたうえで、女王が自らリュシアンを承認する形に持っていくつもりかもしれない」


 まだ、そうと決まったわけではない。それでも、行く先も分からない伯爵の謁見だけが、これほど早く広まるのは出来すぎている。窓枠の金具が風に鳴り、壁飾りの影がわずかに揺れた。


「宰相派はすでに、貴族院の重鎮たちに次々と声をかけているようです。たとえば――」


 コルデオが地図を開き、ラプリエ侯爵、ハウレット伯爵、ケルビン子爵の所領へ石駒を置いた。羊皮紙が指先の下で鳴る。書面の末尾に並んでいた名が、王都の屋敷と領地を持つ者として、机の上へ立ち上がった。


「ラプリエ侯爵はすでに『王位継承会議が開かれれば、リュシアン殿を支持する』と表明しております。ハウレット伯爵については、宰相派の資金援助との関連が疑われますが、確証はございません。もともと財政難に苦しむケルビン子爵家などは、宰相派からの融資を当てにしているとの噂がもっぱらです」


 ラプリエ侯爵の発言は議事録に残っている。ほかの二家について、コルデオは断定しなかった。ただ、資金を仲介する使者が屋敷へ入った時期と、貴族院で態度を変えた時期が重なっている。封蝋も紙質も異なる書簡が、机上では同じ日付のあたりへ集まっていた。支持を口にした家は、まだ一部にすぎない。その外では、使者と金がすでに動いている。先に頷かなければ、融資も香辛料の取引も、輸送権も取り逃がすのではないか。そんな恐れと欲へ、「女王陛下もご同意」という一言が火をつけていた。


「現状、明確な支持を表明しているのは七〜八家程度ですが、使者の往来や資金相談などを照合いたしますと、水面下で動いている家は、その二倍から三倍に及ぶ可能性がございます。宰相が『女王陛下もリュシアン殿を受け入れる』と吹聴すれば、出遅れまいと焦る貴族が続々と増えましょう」


 ダビドが王都の裏で拾った多額の支払いと使者の往来に、コルデオが官吏たちの記録から拾った、貴族の屋敷と議場の動きが重なる。すべてが同じ命令で動いたと証明するものではない。けれど、別々に追っていた線が、机の上では同じ家々の近くを通っている。紙束を支える手首へ、重みが遅れて食い込んだ。


「なるほど。資金援助による取り込み、根回し、そして『女王も同意』の看板――仮にこの三点で押し切るつもりなら、極めつけにレズンブール伯爵が謁見に来るという触れ込みを最後の一押しにする。これでとどめ――それが宰相の描いた筋書きでしょうか? まったく、大したものですね」


 最後の書面まで目を通し、束の上へ返した。これはまだ仮説だ。だが、最悪の筋書きを考えから外したまま待てば、確かめ終えるころには逃げ道まで塞がれている。相手がその順で手を置いているのなら、こちらだけが一つずつ確定を待っているわけにはいかない。


「陛下、午後に貴族院へお顔をお見せになりますか。宰相閣下の動きが気懸かりにて、こちらからさりげなく様子を探るのも一案かと存じます」


 議場の冷えが脳裏に戻る。半円の石床、爵位順の入場、四つの刻を告げる鐘。行けば「了承」にされ、行かなければ「渋っている」と囁かれる。どちらも噂の餌になるのなら、いま姿を見せること自体が、相手の言葉へ形を与えかねない。


「その必要はないでしょう。あの人たちが勝手に盛り上がるのなら、こちらも乗ったふりをしておきましょう。いまわたくしが出向いて『レズンブール伯爵の王都入りを歓迎いたします』などと皮肉を言えば、すぐにでもロゼリーヌ様を都合よく扱う条文を作りかねません」


 コルデオは異を唱えず、地図の端へ手を置いた。ヴォルフは三つの石駒からダビドの報告書へ目を移す。多額の支払い、レズンブール伯爵の名で傭兵を集める計画があるという伝聞、貴族街を行き来する使者。その前には、モンヴェール男爵家から王宮へ運ばれるはずだった書状が奪われている。男爵家からは今も何も届かず、ステファンの第一報もない。


「これほど動きが早いとなると、男爵家の様子も気になる。レズンブール伯爵の名で傭兵を集めるという話が事実で、その兵が男爵家へ向けられるなら、屋敷の包囲や制圧まで考えておくべきだ」


 屋敷の外へ兵を並べ、「リュシアンの警護」と名乗れば、人の出入りを止めても内側からは抗いにくい。ヴォルフが見ているのは、まだ届かない知らせの向こうにある最悪の形だった。遠いモンヴェール男爵家の石壁へ、悪夢で見た炎が重なりかける。紙の角を押さえ、息を吐いた。あれは夢だ。けれど、夢だったからといって、危険まで見なかったことにはできない。


「ええ……もしそうなら、まさに孤立無援ね」


 袖口のほつれを指で押さえ、暗くなり始めた窓へ目をやった。硝子に映ったヴォルフと目が合う。起きていると決めつけるつもりはない。それでも、起きていた場合に何を失うのかは、もう互いに分かっていた。


「精神的な圧は、想像を絶するはずだ」


 紙の角が親指に白い跡を残した。レズンブール伯爵家の名を掲げた兵が外を囲み、王宮からの言葉も、外の知らせも届かない。そう思わされるだけでも、屋敷の内側にいる者の時間は、外で待つ者とは違う速さで削られていく。


「いまは一刻も早く、書状が届くことを祈るばかりよ。目を通していただければ、わたくしの気持ちをきっと汲み取ってくださるはず」


「書状が届くまで持ちこたえられるかどうか……。外からの知らせを断たれたままでは、一端の兵でさえ心が折れかねん」


 外へ出る道だけではない。助けが向かっていると知らせる一通さえ届かなければ、屋敷の内側では、同じ一日がいくらでも長くなる。薄雲が窓の光を冷やし、机上の影が濃くなった。紙の縁を一度だけなぞり、口を開く。


「ヴォルフ、あの方はぜったいに負けはしないわ」


「そう願いたいが……この状況は、母子には酷すぎるとは思わんか?」


 ヴォルフの目は、すでに屋敷の内側にいる人々を見ているようだった。強いのだから耐えられると言ってしまえば、苦しみまで本人へ返すことになる。それでも、ロゼリーヌ様を、ただ救いを待つ人として思い浮かべることもできなかった。


「大丈夫。だってロゼリーヌ様は、リュシアン殿のお母さんなのよ。諦めるなんてこと、どうしてできるの? ……できるわけない。それにギルク兄の手紙が、きっと力になってくれるはずよ」


 書斎で見た幼い頬と、夢を語ったときの瞳が浮かぶ。彼を守るときのロゼリーヌ様の声も、まだ耳の奥に残っていた。目の端で、ヴォルフがわずかに目を細める。


「メービス……」


 呼ばれて顔を上げた。コルデオの前では、わたしはメービスで、彼はヴォルフだ。けれど、見返した目に、役割を確かめるための言葉はいらなかった。


「宰相なんかに、負けてたまるもんですか」


 言い切ったところで、喉の奥に残っていた苦さが消えたわけではない。ただ、もう書面から目を逸らさずにいられた。指先で要望書を押さえ、ヴォルフを見た。


「そうか。ならば、俺も負けるつもりはない」


 ヴォルフはそれ以上言わなかった。わたしも返さない。コルデオが次の書状を手に取るまで、灯の芯が弾ける音だけが、三人のあいだに残った。


◇◇◇


 その日の夕刻。モンヴェール男爵家の領地では、日が落ちきる前から街道の要所に見張りが立ち、屋敷の正門と南西の門に、レズンブール伯爵家の紋章旗が掲げられていた。


 旗を隠すつもりはないらしい。「次期王太子候補に万全の警護を」と掲げれば、伯爵家の紋章は、門を塞ぐ兵を正当な警護に見せる。けれど、旗が証明するのは、彼らがその名を掲げていることまでだ。実際にどこから集められ、誰の命令で動いているのかは、布一枚では分からない。それでも、公然と門を押さえ、街道を行く者へ紋章を見せつける布陣は、王家が動けば「警護を妨げた」と言い立てるための構えにも見えた。


 先に領内へ入った者たちは、旅人や日雇いの荷運び人に紛れ、門ごとの人数、交代の時刻、荷車の出入りを日ごとに記録していた。最初に確かめたときより、門に立つ兵はほぼ倍に増えている。使用人が呼び止められる時間も長くなり、屋敷へ入る荷は、見張りの兵が荷車ごと改めていた。


 王都から遠く離れた辺境で、ステファン・ギヨームは、その様子を森の暗がりから見ていた。懐には女王から預かった書状がある。彼を含む二十名は、書状をロゼリーヌへ届け、男爵領の現状を確かめる密命を受け、出立する日も道も分けて王都を離れていた。


 夕風が枝葉を擦り、荷を縛る縄の軋みが短く届く。ステファンは銀灰色の長い髪を後ろで束ね、鋼を思わせる瞳を門の周囲へ据えていた。色褪せたマントの下には、身体の線を隠す粗末な服を着ている。選抜戦でヴォルフに敗れた日から、あの男への対抗策を捨てたことはない。王配となった今も、信じ切ってはいなかった。だが、胸元に収めた書状は、女王から直に預かったものだ。ヴォルフを信じることと、この任務を果たすことは、ステファンの中では別だった。


 背後にいるのは、追跡がついていないかを確かめながら別の道を通り、ここまで合流できた者の一部だけだった。残る者たちは街道、村外れ、屋敷を見下ろす斜面へ散り、一か所には集まらない。誰もが旅人や冒険者にしか見えない身なりで、声を潜めている。正面から女王の名を掲げれば、屋敷を囲む側へ先に動く理由を与えかねない。いまは、外から確かめられるものを一つずつ拾う。この任務のあいだ、合流した者たちはステファンの指示で動いており、常設の役職ではないものの、呼ぶ必要があるときだけ彼を「班長」と呼んだ。


「報告します、班長。伯爵家の私兵が南西の門に三十名ほど配置されています。であれば、屋敷内にもかなりの数が常駐していると見てよいかと。しかも火薬の樽らしきものを運び込んでいるとの報告が」


 小柄な男が、息を潜めて耳打ちした。南西の門を見張り、交代する兵を数えていた者だ。「伯爵家の私兵」と言ったものの、いま見えている目印は、門に掲げられた紋章旗しかない。兵を乗せて入った荷車の一部は戻らず、門外で交代する人数だけでは数が合わなかった。運び込まれた樽は、兵たちがひどく慎重に扱い、周囲の火まで消させていた。それで火薬ではないかと見たらしい。


 ステファンは短く頷き、木々の隙間から門を見た。雲の切れ間に月がのぞき、頬を一瞬だけ白く照らす。


「どうやら、本気で男爵家を屈服させるつもりらしいな。『警護』とは、よく言ったものだ。実際は脅しのための包囲ではないか」


 屋敷の内側で誰が命令を出し、男爵家へ何を要求しているのかまでは見えない。だが、門と街道を押さえ、使用人を呼び止め、外から入る荷を調べていることは、ここからでも確かめられる。警護という言葉だけでは隠しきれないほど、人と物の流れを握っていた。


 唇の端をわずかに歪め、腰の剣帯へ指を添えた。革が乾いた音を立てる。指は柄へ届く前に止まり、そのまま離れた。二十名で正面から門を破り、この数の兵と戦うために来たのではない。戦えば、屋敷の内側へ刃と火を持ち込むことになる。薄闇を抱いた森の奥で、ふくろうが一声鳴いた。


「女王陛下からお預かりした書状を、なんとしてもロゼリーヌ殿に届けねばならんが……この状況では容易ではないな」


「そうですね。使用人の出入りも厳しく監視されています。物資の搬入は、すべて私兵が仕切っているようです」


 南西の門では、外へ出ようとした使用人が呼び止められ、籠の中まで調べられている。荷車は門前で御者から兵へ引き渡され、その先へ外の者を入れない。人も物も、彼らの検分を受けずには門を越えられなかった。


「つまり、男爵家は外との行き来を押さえられているということだ。しかし、まさかここまでやるとは……大胆にもほどがある。陛下が恐れておられたのは、こういうことだったのか」


 その声は低く、森の湿気の中へ沈んだ。このままでは、助けを求める者が門を出ることも、外から届いた知らせを内へ入れることも難しい。


 胸元の書状の角が、衣の内側から肋骨へ当たっていた。屋敷を囲む者たちが次の手を打つ前に、これをロゼリーヌ殿へ届けなければならない。けれど、見えていない内側を都合よく埋めて動けば、守るべき者を巻き込む。いま手元にあるのは、門の人数、巡回、荷車の出入り、裏庭へ続く林の深さだけだった。


 ステファンは瞼を閉じ、冷えた空気を肺の奥まで入れた。ゆっくり吐くと、門だけへ寄っていた意識が、屋敷の周囲へ戻っていく。西の空には、まだ日暮れの名残があった。屋敷の窓では人影が動き、裏庭側は林が塀の近くまで迫っている。荷車が通らないぶん、正門より人目も少ない。入るなら、見張りが夜番へ替わり、外からの荷も途絶えたあとだ。


「夜を待つ。裏庭から入る。戦闘は避けろ。見つかったときは、書状と退路を優先しろ。――書状を渡す。それが最優先だ」


 月光がステファンの横顔を細く照らした。仲間たちは黙って頷くと、合流点に留まらず、それぞれの観察位置へ音もなく戻っていく。夜が深くなるまでは塀を越えず、裏庭側の巡回を見届ける。


――書状は、必ずお届けしてみせる。


 先発に遅れて領内へ入ったぶん、焦って手順を崩すわけにはいかない。巡回の間隔と塀の内側から届く音をもう一度確かめ、任務を損なわずに掴める内情は持ち帰る。ステファンは裏庭の北寄りを見渡せる窪地へ身を落とした。遠く、門前に立つ兵の声が、風に削られて流れていた。


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