王宮戦域
扉が開いたのは、わたしがソファの毛布を畳み終えたころだった。ヴィルは片手に数枚の書面を持ち、もう一方の手で扉を閉めると、そのまま机へ向かおうとした。休むように言われたことなど、廊下へ出た途端に忘れてしまったような顔をしている。
「コルデオから、午後の貴族院の動きをまとめた記録を預かってきた。あと、召喚状を持たせた使者は、まだ戻っていないそうだ」
「そう。ありがとう。じゃあ、今度はあなたの番ね」
「何の番だ?」
「休む番よ。あなたのほうが疲れてるのは、顔を見れば分かるわ」
ヴィルは返事をせず、手にしていた書面を机の端へ置いた。目の下には薄い影が残り、書面を手放したあとも、指はすぐには伸びなかった。この一週間、彼はわたしと同じように報告を待ちながら、王宮内で目撃された不審人物の記録に目を通し、コルデオと夜番の配置を見直していた。昨夜も寝室へ戻ったのは夜半を過ぎてからで、今朝はわたしより早く執務室へ来ている。
「その前に、宮中で広がっている噂だけは話しておく。間者まがいの連中だが、狙いは王宮の内情を探ることだけじゃないらしい。聞き取りをさせたところ、どうやら『ギルク殿下の遺児を疎ましく思う女王陛下』という話に仕立てたいようだな」
机の端に置かれた書面を手に取り、一枚ずつめくるたび、乾いた紙の擦れる音が机の上で小さく鳴った。そこには、似た話を聞いた者の所属と、その話を耳にした時刻が並んでいた。
「黒髪の巫女を騙り、病床にある先王の弱みにつけ込んで王位を簒奪した」
「正統な王家の血を恐れ、玉座にしがみつこうとしている」
出所の確かめられない言葉ほど、誰の口からでも繰り返しやすい形になっていた。
「ひどい話ね。けれど、ここで声を上げたり、取り締まりに乗り出したりすれば、噂を恐れたからだと言われるだけでしょうね」
「本当なら、俺が王宮を駆け回って全員とっ捕まえてやりたいところなんだが、王配殿下自ら出張ったんじゃ、敵の思う壺だからな。まったく、忌々しいことだ」
吐き捨てるように言いながらも、ヴィルは扉へ戻ろうとはしなかった。以前なら、疑わしい者の襟首をつかんででも確かめに行っただろう。いま彼が踏みとどまっているのは、自分が動けば、それを女王側の弾圧だと喧伝されると分かっているからだ。
人目のない執務室でまで、形式ばった振る舞いにこだわっている余裕はなかった。彼は今、王配であり、わたしにとっての「剣」であり、「支柱」でもある。だからこそ、その身体を本人の頑丈さ任せにしてはいけない。
「それはいいとして、早く休んでちょうだい。わたしはさっき眠らせてもらったんだから、次はあなたよ」
「……ああ、そうだったな。お前に言われたんだったか。だが、一時間だけだぞ」
そう言いながら、ヴィルは一度だけソファへ目を向けた。それでも、わたしが頷くまではその場を動かず、返事を待つようにこちらを見ていた。
「いいわ、一時間だけ。わたしが起こしてあげるから、しっかり寝てちょうだいね」
「約束だぞ。――しかし、非常識だな」
「ええ、非常識極まりないわね。王配殿下が女王陛下の執務室のソファで横になるだなんてね。宰相派の貴族が見たら卒倒すると思うし、噂はあっという間に王都中へ広まるでしょうよ」
ヴィルは眉を寄せたものの、反論はせず、剣帯を外し、すぐ手の届くソファの脇に置いた。それから、その縁に腰を下ろした。さっきまでわたしが使っていた毛布を差し出すと、素直に受け取り、膝に載せた。眠る支度をすっかり整えたくせに、目だけはまだわたしを追っていた。
「きっかり一時間だ。忘れるなよ」
「分かってるって。いいから、早く横になって。ゆっくり休んでね」
言い終えるころには、ヴィルは長い脚をどうにかソファに収め、毛布を胸元まで引き上げていた。わたしの声を合図にしたように肩から力が抜け、まぶたが閉じた。呼吸もすぐにゆっくりと深くなっていった。ついさっきまで一時間という約束を念押ししていたのに、横になった途端、何の疑いもなく眠りへ落ちていった。荒野でも馬車の揺れのなかでも、眠れるときに眠ってきた人だ。王宮の執務室だからといって、その習慣が変わるはずもなかった。
「ほんとに……早いわね」
声を落として机へ戻り、書面へ目を戻した。ヴィルの眠りを妨げないよう、紙をめくるときも机の上を滑らせず、一枚ずつそっと持ち上げて重ねた。それでも、何度となく視線がソファへ戻った。眠りにほどけた横顔を確かめるたび、笑みが浮かびそうになり、そのたびに唇を結び直した。窓の外では風が中庭の木を揺らし、細い枝がときおり硝子を掻いた。廊下を通る者にも静かにするよう伝えられているのか、扉の向こうから聞こえる足音まで、いつもよりひそやかだった。
しばらくすると、規則正しかった寝息に、低いいびきが混じりはじめた。毛布の下では大きな胸がゆっくりと上下し、さっきまで宮中の噂に腹を立てていた人とは思えないほど、穏やかに眠っていた。
「……ぷっ」
笑いを飲み込んでも、肩がわずかに揺れた。あれほど一時間にこだわっていたのに、わたしが約束すると、それで満足したように横になり、そのまま眠ってしまった。その姿は、わたしのそばで安心して眠る大きな犬のようだった。そんなことを本人に言えば、きっと不服そうな顔をするだろう。そう思うと、こらえたはずの笑いがまた込み上げてきた。
王配殿下の寝顔としては、あまりにも無防備だった。引き締まっていた口元は緩み、眉間から険しさが消えている。姿も年齢も、背負っている名も違う。それでも、どこででも眠り、起きれば何事もなかったように剣を取る人を、わたしは知っている。
「ちゃんと、あなたなのね……」
囁きは、いびきに紛れて届かなかった。届かなくてよかったのだと思う。目覚めている彼に聞かれたら、また何を言っているのかと眉を上げただろう。
召喚状を持った使者は戻らない。ダビドからも、ステファンからも便りはない。机の上に並ぶ書面のどこにも、男爵領で何が起きているかは書かれていなかった。それでも、部屋の一角から大きないびきが聞こえてくるたび、わたしがいまいるのは炎の前ではなく、王宮の執務室なのだと分かった。悪夢から覚めても、男爵領の無事まで確かめられたわけではない。わたしは乾いた紙をめくりながら、約束の一時間が過ぎるのを待った。
◇◇◇
遠塔の鐘が時を告げるのとほとんど同時に、ヴィルは目を開けた。
「――よーし、きっかり一時間だ」
毛布を押し下げ、上体を起こした。首を左右に傾けて肩を回し、ソファの脇に置いていた剣帯へ手を伸ばした。その一連の動きには、眠気を引きずる様子など少しもなかった。つい先ほどまで豪快ないびきをかいていた人が、もう部屋の中を見回している。その切り替わりの早さが可笑しくて、わたしは口元を緩めた。
「よく眠れた?」
「まあな。このくらいがちょうどいい。お前は……顔色、悪くないか?」
「わたしは平気よ。あなたが寝てるあいだ、大きな動きもなかったし。……でも、伯爵は本当に召喚状に応じるのかしら?」
ヴィルは剣帯を腰に回して締めると、机の上に置かれた召喚状の控えへ目を向けた。伯爵家へ届いたかどうかさえ、まだ確認できていない。宰相派の者たちは貴族院でもリュシアン殿の名を繰り返し口にしていたが、その渦中で名を挙げられている伯爵本人は、公には一言も語っていなかった。
「正直、のこのこ王都へ出てくるとは思いがたい。だが、召喚状が伯爵家へ届いたことを確認できれば、来るにせよ、拒むにせよ、黙るにせよ、その選択は伯爵側の態度として記録に残せる」
「ええ。宰相が公の場で伯爵の名を挙げた以上、わたしは本人の言葉を確かめなければならない。そのための召喚状だもの。できることなら、伯爵を王都へ呼び寄せておきたいの。もし男爵領へ手を伸ばしているなら、本人が領地を離れるだけでも、その動きを鈍らせられるでしょうから」
「応じるかどうかは、向こうが選ぶことだ」
「分かってる。伯爵を動かせるかどうかは賭けよ。でも、このまま好き勝手にされるのだけは嫌。ギルク兄の遺した母子が踏みにじられるなんて、絶対に見たくない」
「なら、俺はそれに合わせて動くだけだ。お前が決めたことなら、全力で支えると誓ったからな」
「うん、ありがとう」
ヴィルが眠っているあいだ、部屋に響いていた大きないびきを思い出すと、張りつめていた息が少しだけほどけた。わたしたちには、わたしたちのやり方がある。王宮の作法に従い、確認の取れた事実を一つずつ記録に残す。その一方で、ロゼリーヌ様とリュシアン殿の意思を奪うことなく、お二人を守るために王宮の外へも人を送り、こちらからは見えない場所の状況を探る。そのどちらが欠けても、ここでは戦えない。
◇◇◇
日が西へ傾き、執務室の床に落ちた窓枠の影が長く伸びたころ、扉を叩く音がした。ヴィルはすぐに表情を改め、机の脇に立った。扉が開き、コルデオが入室したときには、そこにいたのは王配ヴォルフだった。
「陛下。ダビド殿より第一報が届いております。王都内での調査に関する報告にございます」
「ありがとうございます。すぐに確認します」
コルデオから受け取った報告書は、数枚にわたっていた。ダビドたちが直接確かめた事実と、他者から得た証言と、そこから導いたダビド自身の見立て。それぞれが混ざらないよう、報告書のなかでは明確に書き分けられていた。わたしは一枚目から順に読み進めた。
【ダビドの報告】
『レズンブール伯爵家の関係者及び宰相派に属すると見られる者の周辺で、通常より多額の支払いが複数確認されました。現時点で確認できたのは、支払いの日時、受取人の一部及び仲介に入った者までです。支払者と最終的な用途は、まだ確認できておりません。
ある仲介人からは、レズンブール伯爵が大金を投じて辺境の傭兵を集め、男爵領周辺へ送る計画があると聞いたとの証言を得ました。ただし、その者が伯爵本人又は伯爵家の正式な代理人から直接依頼を受けた事実は確認できておりません。傭兵の人数、雇用の成立及び行き先も未確認です。
また、宰相派と見られる貴族の屋敷だけでなく、中立的な立場を取る貴族の屋敷でも使者の往来が増えております。金銭又は便宜供与による貴族院への働きかけも考えられますが、現時点で確認できた事実は、使者の出入り及び一部の金銭移動までです。
これまでに把握した金銭移動、傭兵募集に関する伝聞及び貴族の屋敷への使者の往来だけでは、同一の命令系統が存在するとはまだ断定できません。貴族院への働きかけについても、現時点では可能性に留まります。引き続き、支払者、受取人、仲介人及び使者を分けて追います』
報告を読み終えると、わたしはもう一度一枚目に戻った。金が動いたことは確かだ。けれど、その金が誰の命令で、何のために渡されたのかまでは見えていない。仲介人がそう聞いたと証言した事実だけでは、伯爵本人の関与を裏づけることはできず、第三者が伯爵の名を利用している可能性も残る。
「金の力で、貴族たちを囲い込もうとしている……そう見ることはできるわね。でも、まだ伯爵と宰相が同じ目的で動いているとまでは言えない」
「先王陛下の容体が予断を許さない今、継承問題を利用して地固めを急いでいる可能性はある。だが、これらの支払いがそのためのものだという証拠はまだないな」
「父上……」
「すまん。だが、奴らがそこまで見越して動くことは考えておくべきだ」
「ううん。それが現実だもの」
父上のやせた手が脳裏に浮かび、胸の奥に細い痛みが走った。けれど、その痛みに気を取られているわけにはいかない。わたしは報告書を机に置き、確認済みの事実を記した箇所と、伝聞を記した箇所に、それぞれ別の紙片を挟んだ。
「レズンブール伯爵の名が出た傭兵募集と、宰相派や中立の貴族の屋敷で増えている使者の往来は、いまは別々に追わせるべきね」
「ああ。最初から答えを決めてかかれば、見たいものしか見えなくなる」
「ダビドには、支払者と受取人、仲介人がその話を誰から聞いたのか、貴族の屋敷に出入りする使者の面会相手を、これまでどおり別々に調べるよう通達してください。ただし、危険を冒してまで、証拠の確保を急ぐ必要はありません。確認できた事実だけを、また知らせてほしいと伝えてください」
「かしこまりました」
「ステファンからは、まだ何も届いていないのですね?」
「はい。現時点では、連絡はございません」
予想していた返答だった。それでも、言葉として聞くと、夢のなかの炎が胸の奥でまた揺れた。計画どおりに進んでいるのなら、ステファンたちは行き先を悟られないよう、途上での連絡を控えているはずだ。便りがないことを失敗の証拠にしてはならない。それでも、無事だという証拠にもならない。
「分かりました。報告が届いた時刻と受領経路も、記録に残しておいてください。それから、コルデオ。あなたも少しは休んでください。夜番には、信頼できる者を必要な人数だけ残すよう、手配してください」
「お心遣い、痛み入ります。手配いたします」
コルデオが一礼して退出すると、ヴォルフは肩の力をわずかに抜いた。扉の向こうで指示を出す声が遠ざかり、執務室には、わたしとヴィル、それから机の上の報告書だけが残った。
◇◇◇
日が沈むにつれ、窓の外は赤紫から群青へ変わっていった。男爵領へ向かわせたステファン率いる総勢二十名も、状況次第では動きを封じられるかもしれない。夜襲に紛れて母子を攫う策――想像するだけで、胸の奥が冷えた。
「今夜は寝所には行かんのか?」
「ええ。今夜は、このままここで待つわ」
「それでも構わんが、お前も少しは休め。悪夢でうなされてる暇なんてないぞ?」
「それはあなたにも言えるでしょう。さっき一時間寝たからって、徹夜していいことにはならないんだから」
「なら、交代で仮眠を取る。それでいいな」
「了解。旅をしていた頃と同じ要領ね。何か動きがあったとき、二人とも疲れ切っていたら意味がないもの」
言葉にしたあとも、窓から目を離せなかった。北へ続く道は宮壁の向こうにあり、ここからは見えない。召喚状がどこにあるのか。ステファンたちはどこまで進んだのか。ロゼリーヌ様とリュシアン殿の周囲で、いま何が起きているのか。分からないことばかりが、暗くなった硝子に重なった。
「伯爵が素直に召喚に応じてくれればいいのだけれど……宰相派が本格的に動き出したら、ロゼリーヌ様が、リュシアン殿が……」
吸い込もうとした息が喉の奥でつかえた。夢で聞いた悲鳴が耳の奥によみがえり、床がわずかに揺れたように感じた。窓枠に手をつくより早く、ヴィルの腕が身体を支えた。
「しっかりしろ、ミツル」
「……大丈夫。少し、夢を思い出しただけ」
「お前の判断は間違っちゃいない。今は、まだ起きていないことに呑まれるな。分かっていることと、これから確かめることだけを見ろ」
肩を支える掌の温度を感じながら、ゆっくり息を吐いた。見上げた顔は、旅の途中で何度も見たヴィルのものだった。焦るわたしを叱り、立てるようになるまで離さない。そのやり方は、どれほど姿が変わっても同じだった。
「分かってる。わたし自身でやるって決めたんだから、こんなところで挫けていられない。宰相にも伯爵にも、道を譲るつもりはないわ」
「それでいい。それでこそ、お前だ」
呼吸が戻ったのを確かめてから、ヴィルはゆっくり腕を離した。支えがなくなっても、膝はもう震えなかった。
「王宮とはいえ、宰相派の手の者が夜襲を仕掛けてくる可能性だって、ゼロじゃない。いざというときは……分かってるだろう?」
否定はできない。コルデオによれば、衛兵の多くは貴族家の出身だという。王家の紋章と礼装の下に、誰の意志が潜んでいるのかは分からない。石壁によく響く足音の一つ一つが、敵の只中にいるような錯覚を呼んだ。
「ええ、もちろんよ。でも、誰が敵か分からないうちから、全員を敵として扱うつもりもないわ」
「分かっている。だから夜番を絞り、コルデオが確かめた者だけを近くへ置く」
わたしたちが二振りの聖剣を使って何ができるのかも、わたしがこの身体でどこまでその力を扱えるのかも、まだ分からない。王宮で試すつもりもなかった。頼れるのは、いま手元にある記録と、役目を託した人々、それから隣にいるヴィルとともに積み重ねてきた判断だった。
「今は待つしかないな」
「ええ。けれど、焦って先へ進まないようにしなくちゃ。まだ見えていないもののほうが多いんだから」
ヴィルが小さく頷いた。机の燭台に火を灯すと、淡い光が報告書の上へ落ちた。わたしたちは交代で休む時刻を決め、その前に、翌朝の貴族院対応を整理しはじめた。
◇◇◇
夜も深くなり、最初の仮眠を取る時刻が近づいたころ、廊下を急ぐ足音がした。扉の前で止まり、間を置かずにノックが響く。
「陛下、緊急の報告にございます」
「入ってください」
入室したコルデオは、一枚の受領記録を両手に持っていた。呼吸は乱れていなかったが、扉まで近づいてきた靴音は、いつもより明らかに速かった。
「召喚状を携えた使者が、ただいま王都へ戻りました。書状はレズンブール伯爵家において正式に受領され、受領記録も持ち帰っております。また使者は帰路につく前、伯爵本人とその一行が領地イストリアを発つところを確認したとのことにございます。ただし、一行の目的地までは確認できておりません」
「伯爵本人であることは、確認できているのですか……?」
「はい。使者は見間違いではないと申しております。なお、貴族院の一部では、すでに『女王陛下の御決断を仰ぐため、伯爵が謁見に臨む』との話が広まっております」
「使者が戻るより先に、ですか?」
「そのようでございます」
受領記録を受け取り、記された日付と伯爵家の印を確かめた。召喚状が届いたあとに伯爵本人が領地を発ったという事実だけを並べれば、召喚に応じたようにも見える。けれど、一行の目的地は確認できていない。それなのに貴族院では、すでに伯爵が謁見へ向かうものとして話が広まっている。こうも早く、すべてが整うものだろうか。レズンブール伯爵が何を考え、誰が先回りしているのか、まだ何も分からない。
召喚状の受領、伯爵本人の出立、そして伯爵が謁見に臨むという話の流布。三つは一続きの動きのように見えるけれど、いま確かめられているのは、それぞれが起きたということだけだった。勝手に結びつけず、別々に記録しておかなければならない。
「召喚状の受領と、使者が目撃した伯爵本人の出立は、それぞれ記録に残してください。貴族院で流れている話については、誰が、いつ、どのような言葉で語ったのかを確認してください。こちらからは、伯爵殿が王都へお越しになるのであれば歓迎し、わたしが直接説明を伺う用意があるとだけ表明します」
「かしこまりました」
「それから、伯爵一行の人数と進路は、公に確認できる範囲で調べてください。こちらが追跡していると思わせるような動きは、くれぐれも避けてください」
「直ちに手配いたします」
コルデオが退出して扉が閉じると、机の脇で報告を聞いていたヴォルフの肩から、公の場でまとっていた硬さがわずかに抜けた。ヴィルはわたしの傍へ来た。
背に、ヴォルフの掌が置かれ、低い囁きが落ちる。
「ここからだ、メービス。おまえの願いを貫くなら、徹底的にやれ」
はっきり頷く。
召喚状の受領記録にも、ダビドの報告書にも、男爵領で起きていることは書かれていない。ステファンからの報告も、まだ届いてはいなかった。けれど、伯爵一行の進路を追い、貴族院で噂を流した者を洗い出し、次の報告が届けばすぐ動けるよう備えることはできる。やるべきことは山積みだった。夜は更けても、気は抜けない。
ヴォルフが肩をすくめ、こちらを見る。瞳の奥に確かな炎。
――もう迷わない。伯爵が牙を剥き、裏で宰相がどんな糸を引こうが、母子は守り抜く。ロゼリーヌ様とリュシアン殿の意思まで、誰かの都合で奪わせはしない。
やがて、石畳を巡る衛兵の足音が冷たく響いた。燭台の灯がわずかに揺れ、わたしたちの影が壁で重なり、ほどける。その揺らぎが、旅の夜に囲んだ小さな焚き火を思い出させ、心の芯が少し強くなる。あの頃と同じように――彼となら、嵐は切り抜けられる。
「……行くわよ。どこまででも」
小さく、けれど確かな独白。ヴォルフは黙って頷いた。言葉にしなくても、意志は通う。冷えた空気に、細い灯が落ちる。
悪夢になど屈さない。現実を見据え、護りたい者を救う――それが誓い。戦いはまだ序章。わたしの心が定めた結末は、もう手の届くところにある。




