黒髪の巫女と焦熱の悪夢
ヴィルと茶を分け合い、ほんのひととき身体を休めたあの午後から、一週間が過ぎていた。そのあいだに、王宮からは何人もの者が、それぞれ異なる名目と道筋で門を出た。けれど、進展を知らせる便りはまだ一通も届いていない。窓辺を横切る冬の光だけが日ごとに傾きを変え、机の上の空白を照らしていた。
あの翌朝には、すでに封を終えていたレズンブール伯爵宛ての召喚状を、コルデオが選んだ速達の使者へ託した。けれど使者は戻らず、書状が伯爵家へ届いたのか、伯爵本人の手へ渡ったのかも分からない。受領を示す記録も、伯爵本人からの返書も、まだ王宮には届いていなかった。
王都を出たのは、使者だけではない。ロゼリーヌ様への書状を託され、男爵領の状況確認を命じられたステファン率いる総勢二十名もいた。表向きには、各地を視察しながら有望な人材を発掘するのが任務であり、各々が冒険者や傭兵にしか見えない装いを整え、出立時期と経路をずらして少しずつ王都を発った。まず先発の者たちだけを動かし、その後を追う者が現れるかを見定める。追跡側の出方に応じて、後続の出立時期と道筋を変える手筈だった。
ステファン自身も先発とは日をずらし、別の道から出立した。大勢が一度に同じ方角へ動けば、それだけで目的を悟られかねない。出立時期と経路を分けたのは、男爵家へ人を向かわせたことを宰相派に気取らせないためだった。
王都に残ったダビドは、ヴィル自ら選抜に関わった手勢十七名を率い、表向きの記録には現れない金の支払いと人の動きを調べている。彼の調査は、伯爵家へ向かった使者や、分かれて出立したステファンたちの任務とは切り離されていた。
ダビドからの第一報も、ステファンたちからの連絡もない。計画どおりなら、ダビドは報告できる事実を掴むまで調査を続け、ステファンたちは行き先を悟られないよう、途上での連絡を控えているはずだった。それでも、男爵家で何か起きているのではないかという考えを、どうしても振り払えなかった。
昼を過ぎたころ、コルデオが持ってきたのは新しい報告ではなく、せめて今のうちに身体を休めてはどうかという進言だった。机の前に残っていても、まだ届いていない報告を呼び寄せられるわけではない。わたしは執務室のソファへ移り、毛布を肩まで引き上げた。
目を閉じたのは、眠りたいからではなかった。息を整えようとしただけだった。呼吸を数えるうちに、ヴィルが紙をめくる音も、廊下を行き交う足音も、少しずつ遠のいていく。
そのまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
◇◇◇
耳の奥で、何かが砕ける音がした。大地を裂くような轟音とともに、モンヴェール男爵家の屋敷が炎に包まれた。赤黒い熱の層が石壁の輪郭を歪め、窓から噴き出した煙が空を塞いだ。焼けた木と布の臭いが鼻の奥へ入り込み、息を吸っているはずなのに胸が膨らまなかった。舌には灰の苦みが貼りつき、噛み締めた奥歯が軋んだ。
わたしは灼けた門の前に立っていた。頬を打つ熱に目を細めながら、屋敷へ踏み込まなければと思うのに、足の裏が石に縫い留められたように動かなかった。これは夢だ。目の前の炎も、皮膚を刺す熱も、現実ではない。そう言い聞かせても、屋敷の奥から届いた悲鳴だけは、聞き違えようがなかった。
「助けて……!」
ロゼリーヌ様の声だった。崩れかけた扉の向こうで、彼女はリュシアンを胸に抱き込み、降りかかる火の粉から小さな頭を庇っていた。煤に汚れたリュシアンの目がこちらを向いた。母の腕にしがみつく指まで見えたのに、どれほど力を込めても、わたしの腕は持ち上がらなかった。
扉が内側へ倒れ、火が唸りを上げて廊下へ走った。ロゼリーヌ様の髪に赤い光が映った。呼びかけようとした舌は上顎に貼りつき、喉からは掠れた息しか出なかった。炎の奥で、低い笑い声が重なった。誰の顔も見えなかった。ただ、助けられないわたしを、ここまで手を延ばしておきながら間に合わなかったわたしを、幾人もの声が嗤っていた。
「やめて……やめてーっ!」
叫びと同時に、視界が炎で白く潰れた。ロゼリーヌ様も、リュシアンも、その向こうへ呑まれていった。手を伸ばしたまま、わたしは一歩も動けなかった。
◇◇◇
「――っ!」
喉を塞いでいた息が一度に抜け、わたしはソファの上で身を起こした。窓から差す昼下がりの光が眩しく、瞬きを繰り返しても、瞼の裏に焼きついた炎が消えない。すぐ傍では、ヴィルが片膝をついていた。眉を寄せ、手を伸ばせば届く距離から、わたしの顔を覗き込んでいる。
「随分うなされていたぞ。大丈夫か?」
汗ばんだ額を手の甲で拭う。鼓動がこめかみの内側まで響き、背に張りついた衣服がひどく冷たい。肩からずり落ちた毛布を握ると、ようやくここが執務室だと分かった。
「うん……ちょっと、悪い夢を見ちゃった。時間はどれくらい経ったの?」
「小一時間ってところだな。コルデオが午後の貴族院の動きをまとめた記録を持ってきたが、おまえが寝ていたから下がってもらった。特段、急ぎではないそうだ」
毛布の端を握ったまま、冷えた空気をゆっくり吸い込んだ。呼吸を重ねるうちに、夢の熱が少しずつ遠のいていった。ソファから立ち上がり、足裏に絨毯の硬さが返るのを確かめる。窓の外では中庭を横切る侍従の影が長く伸び、夢のなかにあった煙も炎もどこにもなかった。
「……もう大丈夫。ちょっと驚いただけよ。少し眠ったぶん、身体は楽になった気がするし」
「なら、何よりだ。俺も合間に書類を整理しておいた」
「そう……ごめんね。いろいろと」
「謝ることじゃないさ。今のところ、王都で目立った動きはない。貴族院では同じ話が繰り返されているが、それが宰相派の地固めなのか、別の意図があるのかはまだ分からんのだからな。落ち着かないのは、俺も同じだ」
机には、ヴァロワ侯が貴族院で耳にしたという話をソフィアから聞き取った記録、王宮内で人影を見たという証言、宰相府から届いた書面が、出所ごとに分けて置かれていた。いくら見比べても、伯爵本人の意思や、宰相とのあいだに何があるのかを証明するものはない。けれど、召喚状を受け取ったかどうかすら分からない沈黙のなかでは、その断片の一つ一つが妙に重く見えた。
「……召喚状がもう届いていて、それでも返答がないのだとしたら、伯爵はわたしたちの出方を窺っているのかしら。もし宰相と連携しているなら、貴族院の圧力でわたしを王宮へ縛っておいて、そのあいだに男爵領の方で動くのがいちばん都合がいいもの」
「かもしれんが、まだ伯爵が召喚状を受け取ったかどうかも分からんのだ。まずはステファンとダビドからの連絡を待つしかあるまい」
ヴィルの低い声に頷き、窓辺へ近づく。硝子越しの陽射しは白く、指先を近づけると外気の冷たさが伝わってきた。夢で嗅いだ煙の名残が鼻の奥へ戻りそうになり、わたしは唇を閉じて一度だけ深く息を吸った。
「あんな夢を見ちゃうと、余計に気がかりになるわ……ロゼリーヌ様とリュシアン殿、本当に大丈夫かしら。書状は託したけれど、向こうで何が起きているのか、わたしたちにはまだ何も見えない」
「日程どおりなら、先発の者の中には、そろそろ男爵領へ近づいている者がいてもおかしくないが、頭であるステファンが到着せねば、本格的には動けまい。ロゼリーヌ殿へ書状が届いたかどうかは、連絡が来るまで分からん」
「そうね。あとは、彼の判断に任せるしかない。今は我慢の時ね……」
胸の内には、助けを求める声だけが焦げ跡のように残っていた。
「よし……待っているあいだに、こちらで確かめられることをもう一度整理しておくわ。コルデオに、召喚状を届けた使者から報告が来ていないか確かめてもらって、午後の貴族院の記録も持ってきてもらえる?」
「わかった。呼んでこよう」
ヴィルが扉へ向かう。その背に声をかけたのは、さっき目を覚ましたとき、彼の目の下にも薄い影が落ちていたのを思い出したからだった。
「あっ……待って!」
「なんだ? 言い忘れたことでもあるのか?」
「……戻ってきたら、交代であなたも寝てちょうだい」
ヴィルは片眉を上げたが、何も答えないまま部屋を出ていった。




