幕間その② 王宮に満ちる影と、かすかな甘さ
翌朝、執務室の窓から差し込む冬の光が、昨夜ヴィルと分けた書類の束を白く照らしていた。朝の政務を始めて間もなく、扉がノックされ、侍従長コルデオが姿を現した。仕分け途中のファイルを両腕に抱え、表情には険しさが滲んでいる。
「陛下、こちらは王宮警護隊長からの報告書でございます。夜半過ぎ、廊下と倉庫付近で、複数の者が人影を目にしたとのことで……」
差し出された書類を受け取り、頁を繰る。記されていたのは、目撃した時刻と場所、いずれも人影を見たという短い証言だけだった。顔も服装も分からず、それぞれの証言が同じ人影を指しているのかどうかさえ確かめられていない。
「人影を見た、というだけなのね」
「はい。宮中の者を見誤った可能性もございます。昨夜の配置や出入りの記録との照合も、これからでございます」
「では、誰かが王宮の中へ入り込んでいた可能性はある、と?」
「可能性はございます。ですが、まだそれ以上は何も申し上げられません」
紙を持つ指に力が入り、縁のざらつきが皮膚へ食い込んだ。扉を閉めても、その向こうに誰がいるのか分からない。もし見知らぬ者が廊下を歩いていたのなら、どこまで来て、何を見たのだろう。
「信じられない……もし、王宮の中にまで入り込んでいるのだとしたら」
「陛下。現時点で大がかりに動けば、宮中を騒がせることになります。もし何者かがこちらを窺っていた場合、何を警戒しているのかまで知らせることになりかねません」
コルデオの声は落ち着いていた。その慎重さに引かれるように、握り込んでいた指を少しずつ開く。
「ええ。昨夜の出入りの記録と、廊下や倉庫の当直配置だけを確認して。侍従や侍女を一斉に疑うような調べ方はしないでちょうだい。配置と記録だけでは説明のつかないところがあれば、そこだけ報告して」
「かしこまりました」
「確認していること自体も、なるべく広めないでくれ。普段の点検に見えるようにな」
ヴィルが付け加えると、コルデオはもう一度深く頭を下げ、ファイルを抱え直して退出した。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。窓外の中庭では、騎士や侍従たちがいつもと変わらない足取りで行き交っていた。報告書に残っているのは、人影を見たという証言だけだ。それが見間違いだったのか、本当に誰かがいたのか、書面はどちらにも答えてくれない。
宰相の周囲には、人知れず情報を集める者がいるらしい。以前コルデオから聞かされたのは、その程度の噂だけだった。まとまった組織なのか、誰の命令で動くのかさえ、まだ分かっていない。
「もし、コルデオが言っていた『影の手』とやらが本当にいて、宰相の指揮下で動いているなら、王宮の中まで探りに来た可能性はある。だとすれば、ずいぶん、なりふり構わん真似だ。……だが、この目撃だけじゃ何も決められんな」
「ええ。尻尾も掴めないうちから、こちらで相手の顔まで作るわけにはいかないもの」
「まずは昨夜の帳尻だ。合わなければ、そのとき考える」
報告書の角を揃え、机へ戻す。その下から、「王位継承の明確化」を求める書状の一行が覗いた。もし父上の容体が急変すれば、宰相派はわたしの「暫定」という立場を口実に、リュシアン殿を押し上げようとするかもしれない。何も起きていない今でさえ、同じ文言の書状がこれだけ積まれている。
視線を文書へ戻しても、指はしばらく同じ行の下を往復していた。窓から射し込む光が少しずつ強まり、紙の白が眩しく滲む。
「そんな顔をするな、『メービス陛下』。もし本当にこちらを探っている者がいるなら、そいつらだって楽じゃない。お前がいつまでも止まらんからな」
「でも、少し怖いわ。王宮なのに、扉を閉めても、廊下の向こうに誰がいるのか分からない。眠っているあいだに足音が止まって、何か仕掛けられるかもしれないって……一度考え始めると、目を閉じるのまで怖くなる」
口にしてから、自分の声が思っていたより細かったことに気づいた。ヴィルは眉を寄せたものの、すぐに否定も慰めもしなかった。
「分からんものを、いま決める必要はない。だが、今夜も俺はいる。何者であれ、お前には指一本触れさせやしない。離宮にいた頃だって、そうだったろう?」
「そうだったわね……。でも、あなたも無茶はしないでね」
「分かっているさ。もっとも、王国最強の騎士の寝込みを襲おうなんて、気骨のあるやつがいるとも思えんがな」
「そうね。その上、熟睡していても気配だけで勝手に目が覚めるような、獣みたいな人だし」
「そういうことだ。俺は品のいい騎士とはひと味違う。任せておけ」
ヴィルの低い笑い声が、暖炉で薪の崩れる音に混じった。わたしも口元を緩めると、指の下で強張っていた紙が、ようやく元の形へ戻った。
◇◇◇
やがて、ふたたび扉がノックされた。顔を出したコルデオは、先ほどとは別の伝言票を手にしていた。
「陛下。宰相閣下が、昼前に執務室へ伺いたいとお申し出です。重臣の方々も同席を望んでおられるとのことですが……」
わたしは机上の紙の山を見やり、隠す必要のない疲れをそのまま息に乗せた。
「昼前にはお会いしないわ。昨夜伝えたとおり、先日の要求を項目別に分けた書面を、先に届けていただいて。それを確認するまでは、付け加える返事はありません、と伝えてちょうだい」
「かしこまりました。そのようにお伝えいたします」
コルデオが退室すると、扉の閉じる音が執務室へ重く残った。ダビドの第一報も、ステファンが男爵領で確かめる事実も、まだ届いていない。届いていないものを、宰相の声の大きさで埋められるわけにはいかなかった。
机に片手をついたところで、床がわずかに傾いた気がした。目を閉じ、もう片方の手で額を押さえる。疲れた女王を見せるつもりはあっても、このめまいまで演じるつもりはなかった。
「おい。今のうちに何か口へ入れておけ。食えるときに食っておかないと、体が持たんぞ」
目を開けると、ヴィルが小さな紙包みを差し出していた。包みの隙間から、焼いた小麦と焦げ糖の香りがこぼれ、空になっていた胃の奥が遅れて反応する。
「あなたって、いつだって唐突で荒っぽいのね。もう少し優しく言えないの?」
「優しく言えば、お前が素直に食うのか?」
「……それとこれは別でしょう」
「いいや、別じゃないな」
仕方なく包みへ手を伸ばすと、その途中でヴィルがわたしの手を握った。力を込められたわけでもないのに、掌の温度が冷えた指の節へ移り、強張りが少しずつほどけていく。
「俺だって、無理ばかりするお前を見てると、気が気じゃないんだ……」
言葉を返すまで、少し時間がかかった。ヴィルの指が離れてから焼き菓子を一つ取り、視線を包みへ落としたまま口へ運ぶ。しっとりした生地が舌に触れ、噛むたびに香ばしい匂いが鼻へ抜けた。
「……いつもありがとうね、ヴィル」
ヴィルは首を振り、紙包みをわたしの手元へ押した。
「礼はいい。ほら、もっと食っとけ」
「そんなに食べたら、昼食が入らなくなるわよ」
「いま目を回しかけたやつが、先の食事を心配するな」
「目を回したわけじゃないわ。ほんの少し、床が動いただけよ」
「そういう言い訳が出るってことは、かなりの重症だな」
「しつこいわね。心配しなくても、女王を演じるくらい、なんてことない……」
最後の言葉だけが細く掠れた。何でもない顔を作ろうとしたところで、ヴィルは呆れたように肩をすくめた。
「放っておけないと言ったばかりだろ」
「だからって、いつまでも子どもみたいに扱わないでちょうだい」
「お前が子どもなら、もう少し素直に休んでるだろうさ」
一瞬胸が跳ねた。
「どれだけ強がろうと構わん。そういう厄介なとこも含めて、俺は隣にいる。どう思われようと、俺はそう決めてる。宰相府の書面が届くまでは、まだ時間がある。とにかく今は食って、少し休め」
「……休むのと食べるのは、べつ、でしょう?」
「お前の場合は同じだ」
言い返す代わりに、包みへもう一度手を伸ばした。ヴィルは自分の前へ残りの書類を引き寄せ、何事もなかったように頁を開く。紙を送る音が、昨夜と同じ近さで続き始めた。
窓から射す光はいつの間にか机の半ばまで進み、宰相府から届いた書状の封蝋を赤く照らしている。包みに残っていた焼き菓子を噛み切ると、さくりと小さな音がして、舌の上に焦げ糖の甘さが残った。




