幕間その① 危なっかしいわたしを、「好きだ」と言うあなた
窓から差していた冬の光は、いつの間にか机の端を離れ、壁際で薄くなっていた。朝から続いた書類の確認とソフィアへの応対、その後も途切れなかった政務で、平然とした顔を保つにも意識が要る。
今日の政務を一区切りつけたコルデオたちを前に、わたしはあえて疲れを隠さず、背筋だけを伸ばし直した。
「申し訳ないけれど、宰相府から何か催促があっても、今日はお取り次ぎしないで。『陛下はひどくお疲れなので、面会は明日の昼以降に。項目別の書面を確認するまでは、先日のご回答に付け加えることはない』と伝えてちょうだい」
声だけは崩さずに済んだものの、口の中は舌が上顎に張りつきそうなほど乾き、羽根ペンを握り続けた指にも強張りが残っていた。考えるための半日を確保することさえ、いまは命令の形にしなければならない。
「仰せのままに」
コルデオが一礼し、護衛と侍従たちを伴って退出する。
扉が閉まっても、わたしは廊下を遠ざかる足音が聞こえなくなるまで姿勢を崩さなかった。
部屋に残ったのがヴィルとわたしだけになったところで、ようやく肩の力を抜く。開いたままの書類を避けて額を机へ預けると、冷えた木の感触が、熱のこもった皮膚へ移った。
「はぁ……。時間稼ぎのための言い訳とはいえ、ほんとうに疲れたわ。だからといって、こっちが寝込んでいるあいだに何をされるか、分かったものじゃないしね」
暖炉で薪が崩れ、灰の落ちる音がした。
絨毯を踏む足音が机の傍らで止まったけれど、ヴィルはすぐに起きろとも、もう休めとも言わなかった。
「今はそれでいい。疲れているのは事実だ。向こうが、それを『今日は強く出られない』と受け取るなら、勝手にそう思わせておけ」
「無力なふりをしすぎるなって言ったのは、あなたでしょうに」
「言ったが、何もできん女王を演じろとは言ってない。書面が届くまで、こちらから返事を増やす必要はない。それだけだ」
「なんだかんだで、ずいぶん細かい注文ね」
「何を言うか。お前が加減を知らんからだ」
机へ額をつけたまま顔だけを横へ向けると、ヴィルは慰める気などない顔でこちらを見下ろしていた。
「だからといって、明日の昼まで何も考えないわけにはいかないでしょう?」
「はぁ……」
ヴィルはため息をついた。
「考えるなと言って、止まるお前ではあるまい。だが、同じ一行を三度読むのは別だ」
「……気づいていたの?」
「嫌でも目に入る」
「読んでいたんじゃないわ。ただ、その……眺めていただけよ」
「気を取られているだけじゃないか。余計に始末が悪い」
「むーっ……」
反論できず、額を机から離して椅子へ座り直した。
判断を急がないことが必要なのは理解している。それでも、報せを待つ時間が長くなるほど、自分だけが同じ場所にとどまっているように思えてしまう。
「答えを出せないものを、そのまま残すのって疲れるのね。女王なのに、今日は『まだ分からない』『いまは答えられない』と、そればかり言っていた気がするわ」
「分からんものを、分かった顔で決めるよりましだろうが」
「少しも慰めになってません」
「慰めるつもりなどない。呆れているだけだ」
「もうっ。そこは嘘でも慰めなさいよ」
「そうもいかんだろう。俺が嘘をついたら怒るくせに」
「そりゃ、まあ……怒るけど?」
「なら、言わせるな」
あまりに当然のように返されて、口元が先に緩んだ。
ヴィルはそれを見ても笑わず、開いたままの書類へ目を落とした。
「だがな、自分に都合のいい話へ飛びつかず、分からんものを分からんまま残した。それを、何もしていないとは言わん」
「それは、女王メービスを褒めているの?」
「いいや、ミツル・グロンダイルの話だ」
公の場では使われない名前を呼ばれ、書類の端を揃えていた手が止まった。
ヴィルは椅子の傍らへ立ち、わたしの肩へ掌を置いた。押さえるでも引き寄せるでもない重みが布越しに伝わり、わたしが顔を上げるころには離れていた。
「何を言ってるのかしら。今のわたしはメービスなのよ。名前も身体も、置かれている立場も違うのだから」
「そういうことを言ってるんじゃない。お前自身の気質だ。一度決めたら諦めることを知らない。その面倒くささは、俺が嫌ってほど見せつけられてきた。問題は、ほかの誰かには答えを急ぐなと言えるくせに、自分が休むことだけは後回しにするところだ。そこだけは危なっかしくて、放っておけない」
「ひどいわね……相変わらず、褒めてるんだか貶してるんだか、さっぱり分からないじゃない」
「なら、こう言えばいいか?」
「俺はな、お前のそういうところが、どうしようもなく〝好き〟でな」
揃えたばかりの書類の角が、わずかにずれた。顔を上げると、ヴィルはもう机の書類へ目を落としていた。
「……こんなときに冗談言わないでちょうだい」
「褒めただけだが、何かおかしいか?」
「そういうの、なんて言ったらいいか……素直に褒め言葉として受け取れるほど、わたしは器用じゃないの」
「そういうところも面倒なんだ」
「言っておくけど、余計な評価の項目を増やさないでちょうだいね」
わたしは視線を机へ戻し、中央に積まれた書類の山を見やった。
頬に集まった熱はまだ引いていなかった。
「それで、あなたはそんな危なっかしいわたしを、書類の山と二人きりにしておくつもり?」
「ほう……ずいぶん都合よく使うじゃないか」
「あなたが言ったんじゃない。だったら……ねえ、ヴィル」
「何だ?」
「……手伝って、くれない?」
「書類仕事は得意じゃないと言ったろうが……。ま、お前一人にさせるわけにもいかんな。いいだろう、やるか」
ヴィルは机の向こう側ではなく、わたしの隣へ椅子を運び、残っていた食糧輸送と港湾復旧の書類を中央へ寄せた。上から勝手に分けるのではなく、表書きを一枚ずつこちらへ向け、わたしが今夜見るものか、いったん脇へ置くものかを答えるたびに、束の順を崩さず二つへ分けていく。
「今夜やるのは照合だけよ。裁可と返答は、明日の朝、頭が動くようになってから改めて見ることにするわ」
「ようやく休む気になったか」
「残念、まだ言ってないわよ」
「まったく、そこが面倒なんだ」
ヴィルはいったん脇へ置く束を机の端へ寄せ、照合だけで済む書類の半分より少し多くを自分の前へ引き取った。
羽根ペンを一本取り、数字の並んだ一枚目を開いた途端、眉間の皺が深くなる。
「……とても、苦手な人の手つきには見えないわね」
「苦手なのと、やったことがないのとは別だ」
「それなら、数字と日付に食い違いがあれば印をつけておいて。判断は明日、わたしがするから」
「しかしなぁ……よりにもよって数字とはな」
「そんな嫌そうな顔をしないでちょうだい。こっちだって、頭が痛いのに」
「嫌いなものを嫌って何が悪い」
「そこは迷わず認めるのね」
「だからって、逃げるわけにはいかんだろ」
椅子の間にはわずかな隙間があったけれど、彼が紙を送る音はすぐ隣から聞こえ、それに遅れて、わたしも自分の束から一枚目を開いた。
「ま、まぁ……頼りにしてるわ。あなたがいてくれると、鬼に金棒っていうか、安心できるのは確かだし」
「お前は鬼だからな。せいぜい使われてやるさ」
「いちいち引っかからないで」
数字と日付を追うだけのはずなのに、行を移るたびに目が止まり、羽根ペンも思うように進まない。
一枚目へ印をつけ終え、次の書面へ手を伸ばすと、その上に置かれていた二枚が、ヴィルの手で横へ滑っていった。
「それ、わたしの分じゃなかった?」
「手が止まっていたからな」
「ちょっと休んでいただけよ」
「なら、そのまま休んでろ」
「半分って言ったでしょう?」
「数えたのか?」
「か、数えてないけど」
「なら半分だ」
ヴィルは取り上げた書面を自分の束へ重ね、何事もなかったようにペンを動かし始めた。
わたしはすぐには次の一枚を開かず、羽根ペンを紙の上へ置いたまま、隣で頁が送られる音を聞いていた。
やがて文字がもう一度読めるようになってから、目の前に残された一枚だけを、ゆっくりと開いた。




