黒髪の女王は退かない――王宮闘争と幼き王子の命運②
廊下を遠ざかる足音が聞こえなくなってから、ヴォルフが低く息を吐いた。
「いや、なかなか堂に入っていたぞ」
「それ、褒め言葉のつもり?」
「ああ、褒めている。向こうも、それぞれ別の判断だとは承知していた。そのうえで、すべてまとめて飲ませようとした。だが、お前も見事に切り返した」
「そうは言うけど、正直、ぎりぎりだったわよ」
「それでも、向こうに口実を与えなかったのは見事だ。だが、あの宰相がこれで引き下がるとは思えん」
「ええ。今日の記録だけで宰相を止められるわけではないわ。でも、少なくとも、この面会を『女王も招致に同意した』と言い換えるのは難しくなったはずよ。次は、先の王統調査で確認できた事実と、そこからどの措置を求めるのかを、項目ごとに書面で示してもらうわ」
「それにしても、予想以上に動きが早い」
「ええ。けれど、だからといって、執事を襲わせたのが宰相の側だとは限らない。そこは分けて考えましょう」
コルデオが頷いた。
「王位継承に関する動きは、昨夜急に生じたものではなく、以前から水面下で準備されていた可能性がございます。私も、意見書が誰の手で起草され、賛同を求めた時点でどこまで記されていたのか、リュシアン殿の名と血縁の根拠がいつ加わったのか、残された記録から分かる範囲で確かめてまいります」
「お願いします。ただし、こちらが探っていると悟られないように。日常の文書整理のなかで確かめられる範囲に留めてください」
「かしこまりました」
わたしは新しい便箋を求めた。コルデオが用意するあいだに、何を記すかを頭の中で確かめる。
途中で再び奪われても、こちらの手の内を渡さずに済むよう、作戦も、疑っている相手の名も書かない。それでも、ロゼリーヌ様を再び沈黙の中へ置き去りにはしない。
ペンを取り、短い言葉を一つずつ書きつけた。
◇◇◇
ロゼリーヌ様。
執事殿は、いま、わたくしたちのもとで保護され、手当てを受けておられます。書状は奪われましたが、あなたが託してくださったお話は、確かに伺いました。まずは、そのことをお知らせいたします。
お返事を急ぐ必要はありません。これまでお伝えしたとおり、何を選ばれるかは、あなたとリュシアン殿がお決めになることです。王家の都合によって、そのご意志を曲げさせるつもりはありません。
信頼できる者を、そちらへ向かわせます。ステファンという騎士です。もし危険が迫っているなら、どうか彼へ直接お伝えください。
わたくしは、お二人を見捨てません。あなたとリュシアン殿が、ご自身の意志でこれからを選べるよう、わたくしにできることをいたします。
どうか、これだけは信じてください。
あなたは、独りではありません。
◇◇◇
最後に名を記し、読み返した。乾ききらない墨が、朝の光を鈍く返していた。誰が何のために動いているのか、こちらが何を調べ、どこまで備えようとしているのか、書き添えたいことはいくつもある。けれど、届ける途中で書状を奪われれば、それらはそのまま相手へ渡る。伝えるべきなのは、こちらがどんな手を打つかではなく、見捨てないというわたしの意志だった。
便箋を折る前に、「あなたは、独りではありません」の一行に、もう一度目を落とした。これだけは削れなかった。書状を奪われる危険を恐れて何も知らせないことのほうが、ロゼリーヌ様を深く追い詰めるかもしれない。
わたしは便箋を折り、封蝋を落とした。王家の紋章を刻んだ印章をまだやわらかな蝋へ押し当てると、蝋が沈む手応えと、かすかなぬくもりが指先へ伝わってきた。
「先ほどお召しになったステファンが、人目を避けて隣の控え室に控えております」
「通してください」
コルデオが側扉を開けると、ステファンが入ってきた。足取りには迷いがなく、わたしの前で膝をついた。ヴォルフへ向けた一瞥には、以前と変わらぬ硬さが残っていたが、すぐにわたしへ視線を戻した。
「お召しにより参上いたしました、女王陛下」
「急な呼び出しで申し訳ありません。あなたには、北のモンヴェール男爵領へ向かい、ロゼリーヌ様とリュシアン殿を訪ねてもらいたいのです」
ステファンが顔を上げた。
「お二人のもとへ、でございますか?」
「ええ。その前に、分かっていることと、まだ分かっていないことを分けてお伝えします」
わたしは、執事から聞いた内容と、昨夜確認できた事実を、必要な範囲に絞って説明した。レズンブール伯爵家の使者を名乗る者が、リュシアン殿の進学と支援を繰り返し申し出ていたこと。ロゼリーヌ様がそれを断り、その仔細を知らせるため執事を王都へ向かわせたこと。道中で執事が襲われ、書状を奪われたこと。そして、執事はダビドに救われ、いまは安全な場所で保護されていること。
「ダビドの見立てでは、襲撃は単なる物盗りとは考えにくいそうです。けれど、使者を名乗った者と襲撃者が同じ意図で動いているかは分かりません。使者が本当に伯爵家の者かどうかも、宰相と伯爵家が今回の件に関わっているかどうかも、不明なままです」
「疑わしい相手を、初めから一人に決めるなということでございますね」
「そのとおりです。あなたに頼みたい第一のことは、この書状をロゼリーヌ様へ届けることです。接触の手順については、現地の様子を見てあなたが決めてください。王家の名を前に出せば、かえってお二人の立場を危うくするかもしれませんから、あくまで慎重にお願いします」
封書を差し出すと、ステファンは両手で受け取った。
「第二に、男爵家で何が起きているのかを確かめてほしいのです。誰が訪れ、何を申し出ているのか。ロゼリーヌ様が何を恐れ、何を望んでいらっしゃるのか。こちらの考えに従わせるのではなく、ご本人から伺ってください」
「もし、すでに危険が迫っていた場合は、いかがいたしましょうか?」
「現地での接触のしかたと、差し迫った危険への対処は、いま伝えた範囲であなたに任せます。ただし、お二人を王都へ連れてくることが目的ではありません。危険が現実に迫っているなら、お二人の安全を確保してください。その際も、可能なかぎりロゼリーヌ様のご意思を確かめてください。それ以上、王家の都合を押しつけてはなりません」
「襲撃者、あるいは使者を名乗る者を見つけた場合、捕らえてもよろしいでしょうか?」
「男爵家の方々を傷つけようとしているなら、止めてください。けれど、疑わしいというだけで捕らえてはなりません。この任務では、事実を持ち帰り、お二人を守ることを最優先にしてください」
ステファンはしばらくわたしを見つめ、それから深く頭を下げた。
「承知いたしました。必ずや女王陛下のお言葉を、ロゼリーヌ様へお届けいたします」
「わたくしからの指示は以上です。任務に必要な人員や装備については、王配殿下と相談してください」
ステファンの視線がヴォルフへ動く。
「ステファン。これは女王陛下から、直にお前へ命じられた任務だ」
ヴォルフは、彼の警戒を正面から受け止めた。
「任務に必要なものは整えさせよう。俺ができるのはそこまでだ。陛下がお示しになった範囲であれば、現地での判断に口を挟むつもりはない。自分の目で確かめ、自分で判断し、必ず事実を持ち帰れ」
「……承りました、王配殿下」
ステファンの返答から、先ほどまでの硬さがほんの少し抜けた。信頼と呼ぶには早くても、互いの役目を認めることはできるらしい。
「ステファン、これだけはお願いします。どうか、無事に戻ってきてください」
ステファンは目をわずかに見開き、わたしを見返した。
「誰かを捕らえることよりも、あなたが見聞きした事実を、あなた自身の口から聞きたいのです。だから、決して無理はしないでください」
「女王陛下に仕える騎士として、必ずご命令を果たして戻ります」
封書を懐へ収め、ステファンは立ち上がった。今日のうちに同行者と経路を選び、準備が整い次第、目立たぬ形で王都を発つという。出立の時刻も人数も、この場では決めなかった。外の状況を知らないわたしたちが手順まで縛れば、彼の目を曇らせるだけだ。
ステファンが側扉から退出すると、ヴォルフは机上の地図を開き、王都と北方を結ぶいくつもの道へ目を走らせた。
「王都の調査はダビドに任せ、男爵領への書状と現地の確認はステファンに託した。いま命じられることは命じた。ならば、ほかの備えも前倒しする。ただし、銀翼には、本隊と呼べるものなどまだない。候補者を限られた範囲で試し、適性を確かめている途中にすぎない」
「ええ。だからこそ、いま進められる準備だけでも急がなくてはならないわ」
「まずは、これまで候補者を試してきた結果を洗い直す。使える馬、装備、連絡の方法もだ。一か所へ集めれば目立つ。普段の任務を崩さず、必要な連絡と確認を進める。訓練も選抜も途中だ。今日明日で精鋭部隊が生えてくるわけじゃないからな」
「ええ。それでも、何も整えずに二人からの知らせを待つよりはいい。コルデオ、騎士たちの勤務に不自然な空白を作らず、必要な物資も通常の手続の中で動かせるよう、手を貸してもらえますか?」
「通常の勤務を崩さず、物資の支給も正規の記録に残せる範囲であれば、調整いたします。ただし、大きく動かせば、いずれ宰相府の目にも留まりましょう」
「大きくは動かさないでください。まだ誰が敵かも分からないのに、こちらから王宮を二つに割る必要はありません」
宰相に対抗するための私兵を作るのではない。人を守り、事実を確かめ、必要なときに動ける手足を持つ。そのために銀翼を整えているのだ。焦りに任せて目的を変えれば、守るはずの者たちを、今度はわたしが権力争いの道具にしてしまう。
「ダビドからの連絡は、まだないのね?」
「ああ。今のところ、何も届いていない」
「こちらから急かすのはやめましょう。連絡を増やせば、それだけ彼の動きを知らせることになるかもしれない。最初の一報を待つことにしましょう」
待つしかないものもある。ダビドが王都で何を見つけ、ステファンが男爵領へたどり着いて何を目にし、ロゼリーヌ様がこちらの言葉を受け取って何を選ばれるのかは、ここにいるわたしにはまだ分からない。
「コルデオ、今日の評議には予定どおり出席します。復興と食糧に関する案件も止めないでください。宰相から追加の書面が届いたら、受理した時刻と届けた者を記録し、書面はまずわたしへ届けてください」
「御意にございます」
「それから、先ほどの記録は正確に保管してください。わたしが受け入れたのは、リュシアン殿の血縁と立場について検討を続けることです。それを、血縁や継承順位を確定したこと、王都への招致や王太子への指名を承認したことと、決して混同させないでください」
「抜かりなく」
コルデオは一礼し、執務室を出ていった。
二人きりになると、ヴィルは小さく息を吐き、張っていた肩をわずかに落とした。
「本当にこのまま評議へ出るのか? ろくに眠っていないだろうに」
「出るわよ。疲れているのは本当だけど、隠そうとして不自然になるより、そのまま見せたほうがいいんじゃないかしら?」
「わかっちゃいるが、倒れるところまで演じなくてもいい」
「倒れたら、それはもう演技ではなくなるでしょう? いざとなったら、支えてちょうだいね」
笑うと、ヴィルは眉を上げたものの、すぐに地図と書類へ目を戻した。
「表は任せる。俺はステファンの出立準備と、銀翼の現状を見直す。だが、判断材料が足りないうちは、目立つような動きはさせん」
「ええ。わたしは宰相への返答を急がない。そのあいだに、あなたが動ける選択肢を増やしてくれると助かるわ。どちらか一人だけでは、きっと間に合わないでしょうからね」
「分かっている。俺たちは、並び立たねば戦えん」
その一言に、馬車の中で交わした約束が重なった。守る者と守られる者に分かれるのではない。わたしが公の言葉で時間を作り、ヴィルがその時間を命を守る備えへ変える。どちらか一方が欠けても、この局面は越えられない。
茉凜がくれた「ふたつでひとつのツバサ」という言葉が、いまのわたしたちを表しているのかもしれない。
机の端には、今日決裁しなければならない書類が積まれている。港の復旧、食糧の輸送、地方へ回す資材。リュシアン殿の継承問題や、男爵家に迫っているかもしれない危険に気づいたからといって、国政のすべてをそこへ向けるわけにはいかない。書類を一つずつ手元へ引き寄せながら、王統の安定、王家の庇護、ふさわしい教育――宰相が並べた言葉を、頭の中でもう一度ほどいていった。どれも美しいが、その美しさは、何を急いで決めさせようとしているのかを覆い隠している。ならば、その覆いを一枚ずつ外し、別々のものとして名前をつけ、書面に残せばいい。相手が次の手を打つなら、その動きも見ればいい。わたしが何もつかんでいないと思うのなら、そう思わせておく。
表では結論を急がず、裏では人と道を整え、届くべき報せを待つ。そうして、待つ時間を相手の時間にだけはしない。わたしは次の書類を開き、王宮のいつもどおりの政務へ戻った。




