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黒髪の女王は退かない――王宮闘争と幼き王子の命運①

 執務室の扉が閉じると、夜のあいだ張りつめていたものが、わずかに緩んだ。


 それでも、安堵するには早すぎる。窓から差し込む朝の光は、すでに夜明けの白さを抜け、机の上に積まれた書類の輪郭をはっきりと浮かび上がらせていた。王宮の朝は始まっている。わたしたちが隠れ家で何を見聞きしたのかとは関係なく、政務も、人の思惑も、待ってはくれない。


 侍従が外套を受け取り、別の者が温かな茶を置いて退出した。残ったのは、わたしとヴォルフ、そして侍従長のコルデオだけだ。コルデオは扉の閉まる音を確かめてから、机上に三つの書類を並べた。


「お戻り早々、申し訳ございません。ですが、陛下がお出ましになる前にご覧いただくべきものと判断いたしました」


 いちばん上には、宰相の署名がある。次は、王位継承に関する審議を求める意見書。最後の一枚には、複数の重臣と貴族の名が連なっていた。


「これは、いつ届いたのですか?」


「王統調査は、これまでどおり進められております。そのうえで、リュシアン殿を名指しする今回の要請が届いたのは昨夜でございます。その時点では、王統の安定について早急に協議したい、という内容にとどまっておりました。ところが夜が明けるまでに、ギルク殿下の御子であるかを確認し、血縁が確かめられた場合には王位継承権の筆頭として扱い、王太子として王都へお迎えすることも含めて検討すべきだと、文言が具体的になりました。賛同を求める書面も、すでに一部へ回っております」


「リュシアン殿の名まで、書かれているのですね?」


「はい。もっとも、血縁を裏づける根拠については、提出者の主張が記されているのみです」


 宰相の動きは、予想より早かった。意見書が求めているのは、リュシアン殿の血縁を確認し、継承順位を定め、王太子に指名したうえで、王都へ招致することだ。つまり宰相は、リュシアン殿を次代として確保するための手続きを、すでに始めている。執事が襲われた直後という時期は気にかかる。けれど、宰相が襲撃に関わった証拠はない。レズンブール伯爵家の使者を名乗った者と襲撃者が同じ側かどうかも分かっていない。宰相が王位継承を急いでいることは事実でも、その動きと襲撃がつながっているかどうかは、まだ判断できなかった。


 即位したばかりのころ、宰相たちは、王宮のしきたりも貴族同士の力関係も知らないメービスなら、御しやすいと見ていたはずだ。実際、未来から来たわたしには、分からないことばかりだった。けれど、晩秋の即位から、季節はすでに冬へ移っている。そのあいだ、わたしは積極的に評議へ出席し、食糧不足への対策を示し、港湾と交易路の復旧を優先させ、魔石資源を用いた海上交易の準備を進めてきた。銀翼を形にするための備えも、少しずつ進めている。北方への視察を終えて王都へ戻ってからの三週間だけでも、止まりかけていた政務が少しずつ動き、わたしの言葉に耳を傾ける者も増えている。何一つ完成してはいない。けれど、時間がたつほど女王の立場が固まると宰相が考えているなら、王位継承の議論を急ぐ理由にはなる。それも、いまのところは推測にすぎない。


「署名した方々は、この内容すべてに賛成しているでしょうか?」


「いいえ。少なくとも、書面上は審議を求めるとのみ記されています。王太子への指名や王都への招致まで、全員が同意しているとは確認できません」


「では、そこは一緒にしないでください。審議を求めることと、結論に賛成することは別です」


「御意にございます」


 コルデオが静かに頭を下げた。その横で、ヴォルフが意見書へ目を落とす。


「血縁の確認、継承順位、王太子への指名、王都への招致と教育か。どれも、それだけならもっともらしい。だが、ひと続きにすれば、俺の目から見ても性急すぎる」


「ええ。それに、お迎えするという言葉も曖昧だわ。どこで暮らしていただくのか、誰が後見するのか、ロゼリーヌ様の立場をどうするのか。それらも決めないまま招致することを前提に押し進めようとしているように見える。これでは、あとから好きなように意味を足されかねないわ」


 机に置かれた意見書を、初めから読み直す。王統の安定、民心の不安、兄上の遺児と目される子の保護と教育。どれも、それだけなら反対しにくい。だからこそ、一つの提案として受け入れてはならない。何を確認し、何を決め、何をまだ決めないのか。ひとつずつ分ける必要があった。


「それで、宰相は?」


「すでに登城し、陛下への拝謁を願い出ております。定例の評議に先立ち、少しでもお時間をいただきたいとのことです」


「こちらが戻ったことは?」


「陛下が玄関をお通りになった以上、ほどなく伝わるかと存じます。ただし、昨夜、陛下がどちらへお出ましだったのかは、私から何も申しておりません」


「それでいいわ」


 茶器を手に取ると、立ちのぼる湯気が目元をやわらかく撫でた。ひと口含んで、乾いていた喉を潤す。眠気も疲れも消えない。けれど、隠す必要はなかった。


 夜通し政務に追われ、次々と持ち込まれる難題に答えを出せずにいる女王。宰相がそう見たいのなら、見せておけばいい。


 何も分かっていないメービスを演じることと、実際に判断を宰相へ委ねることは違う。黙る時間も、答えに迷うふりも、こちらの手として使える。演じることは、わたしにとって昔から、生き延びるための術だった。


「では、お会いしましょう。コルデオ、書記を一人、同席させてください。宰相の申し出と、わたしの返答、それから、この場で確認した事項を記録に残します」


「かしこまりました」


「ヴォルフにも、同席してもらえるかしら?」


「無論だ」


「招致した場合の警護と移動については、まだ安全を保証できる段階ではないと、あなたから説明してほしいの」


「承知した。それで、陛下は何を引き出すつもりだ?」


 ヴォルフに、目だけで笑いかける。


「宰相が、何を根拠に、どこまで決めさせようとしているのかよ。王統調査の結論を待たず、なぜリュシアン殿についてだけ判断を急がせるのか。血縁を裏づける資料を、宰相府がどこまで確認しているのか。血縁の確認、継承順位の決定、王太子への指名、王都への招致、王家による教育。その五つを分けて、本人の口から答えてもらうわ」


 コルデオは一礼し、宰相を案内するために退室した。


 ほどなくして扉が開き、コルデオに案内された宰相が入室した。早朝から登城していたはずなのに、衣服には乱れひとつなく、深く一礼する所作にも急いできた気配はない。少し遅れて書記が入り、壁際の小机につくと、紙を広げてペンを取った。コルデオはわたしの斜め後ろに控え、ヴォルフは王配として隣に立った。


「女王陛下におかれましては、夜通しご政務に当たられたとうかがっております。お疲れのところ、拝謁をお許しいただき、恐縮に存じます」


「ええ。少し疲れてはおりますけれど、王位継承に関わるお話なのでしょう。聞かずに休むわけにはまいりません」


 宰相の視線が、目元に残る疲れを確かめるように止まった。わたしは椅子へ身体を預けたまま、先を促した。


「恐れ入ります。先の評議で、陛下がお命じになった王統調査が継続中であることは承知しております。法令、系譜、過去の評議録をそれぞれ調べるとのご方針にも、異論はございません」


 宰相は、こちらが定めた手順を承知している。そのうえで、調査の結論を待たずに先へ進めようとしていた。


「しかし、調査の完了を待つあいだにも、王統の先行きが定まらぬことへの不安は広がります。今般の意見書には、ギルク殿下のご遺児である可能性が高い人物として、モンヴェール男爵家のリュシアン殿の名が挙げられております。まずはその血縁を確かめ、王家の庇護下へ迎え、王族として必要な教育を受けさせる方針を、早急にお示しいただきたく存じます」


「リュシアン殿の名は、どの記録から確認されたのですか?」


「王統調査の過程で、先王陛下の名でモンヴェール男爵家へ送られた書状と、使者を遣わした記録が確認されました。両方を照合した結果、リュシアン・ド・モンヴェールという名が挙がっております。ただし、ギルク殿下との血縁は、いまだ確認の途上にございます」


「では、宰相府も、リュシアン殿が兄上の子であると確認できてはいないのですね?」


「王家が血縁を正式に認めるには、なお系譜と関係記録の照合を終える必要がございます。しかし、可能性が高い人物の存在を把握しながら、王家が何の方針も示さずにいれば、それもまた不安を広げましょう」


「その確認が終わっていないうちから、王位継承順位の第一位と定め、王太子として王都へ招くよう求めるのですか?」


「手続のうえで、それぞれが別の判断であることは承知しております。しかし、政治上は切り離せません。継承順位だけを示して王家の保護外に置けば、庇護する意思を疑われます。反対に、地位を定めないまま王都へ迎えれば、なぜ呼び寄せたのかと憶測を招きます。ゆえに、継承順位、王太子への指名、王都への招致を、併せてお示しいただきたいのでございます」


 別々の決定だと知りながら、一度に承認させようとしている。


 わたしはすぐには答えず、手元の意見書へ目を落とした。読み返しているふりをしながら、先の評議で宰相自身が認めた言葉を拾い直す。


「お考えは分かりました、宰相殿。わたくしはまだ、王宮のしきたりにも、この国の王位継承の手続にも、宰相殿ほど通じてはおりません。ですから、分からないことは教えていただきたいのです。王統を調べることと、意見書に記された提案を承認することは別だとおっしゃったのは、宰相殿ご自身でしたね?」


「さようでございます」


「ならば今回も同じです。血縁の確認と、その後の決定は別でしょう。いま承認を求めているのは、リュシアン殿が兄上の子であると確認することですか? 継承順位を定めることですか? 王太子に指名することですか? 王都へ招致することですか? それとも、教育を王家が引き受けることですか?」


「いずれも王統を安定させるために必要な措置でございます。個々の手続が別であっても、あまりに慎重を期して時を費やせば、それ自体が不安を招きます」


「ええ。調査と検討は続けます」


 わたしは書記へ顔を向け、意見書の上に指を置いた。


「ただし、一つを認めたことを、すべて認めたことにはできません。先の王統調査では、確認済みの事実と未確認の情報を分け、解釈が異なる場合は併記すると決めました。今回も、何を根拠に、どの決定を、どの手続で求めるのか、分けて書面にしてください」


 宰相が、わたしの不慣れを額面どおり信じたとは思わない。血縁の確認と、その後の政治的な決定を分ける手順は、以前の評議で宰相自身も認めている。いま彼がそれを否定すれば、過去の発言と食い違う。


「加えて、ロゼリーヌ様が、リュシアン殿を王都へ移し、王家へ教育を委ねることに同意された書面はありますか?」


「正式な同意書は、まだございません。ゆえにこそ、王家が先に保護と教育の意思を示し、その方針をもって男爵家と協議すべきかと存じます」


「先に招致を決めてしまえば、それは協議ではなく、決定に従うよう求めるだけになるのではありませんか?」


「王家が何の方針も示さず、男爵家の判断だけを待てば、王位継承に関わる判断を、一男爵家へ委ねたとの批判を招きましょう。王家の血を引くことが確かめられた御方には、王族としての責務も生じます」


「王家が保護と教育の方針を示すことにも、血縁を調べることにも反対いたしません。けれど、血縁はまだ確認されておらず、後見を誰に委ね、どこに住まわせ、誰が教育と警護を担うのかも決まっておりません。何よりロゼリーヌ様とリュシアン殿のご意思も確かめていない段階で、王都への招致まで一度に承認することはできません。王家の保護を名目に、母子を引き離すことになれば、王家の威信と責任が問われます」


 宰相の視線が、わたしからヴォルフへ移った。


「王配殿下はいかがお考えでしょう。王家の警護のもとへお迎えするほうが、男爵領にとどまっていただくより安全であることは明らかかと存じますが」


「安全だとは断言できん。男爵領から王都までの移動、到着後の滞在先、護衛の指揮を誰に任せるのか――何一つ決まっていない。近衛を割けば、それだけ王宮の警護が薄くなる。人数だけ増やしても、指揮が定まらなければ穴はできる。現段階で、王配として安全を保証することはできん」


 ヴォルフは招致そのものの是非には踏み込まず、準備不足という事実で線を引いた。わたしの判断を先回りせず、実行に伴う危険だけを、宰相の前へ並べてくれる。


「宰相殿のご提案は、意見書として承りましょう」


 宰相がわずかに顎を上げた。わたしはその反応を見届けてから、書記へ視線を移した。


「ただし、意見書を受け取ることと、内容を承認することは別です。本日の面会で確認したことを、次のとおり要旨に残してください」


 書記がペンを構える。


「本日、宰相殿は、リュシアン殿とギルク殿下との血縁確認を優先し、血縁が確認された場合の措置として、王位継承順位の決定、王太子への指名、王都への招致、王家による教育を一体の方針として示すよう求めた。これに対し、王家は本日、リュシアン殿とギルク殿下との血縁をまだ確認していない。継承順位、王太子への指名、王都への招致、教育を誰に委ねるか、後見を誰に定めるか、どのように警護するかについても、何一つ承認していない」


 書記のペン先が紙を走る。わたしは言葉を継いだ。


「ロゼリーヌ様とリュシアン殿のご意思、王都へ移る場合の生活と安全についても、なお確認が必要である。先に命じた王統調査は、本日の提案とは別の手続として続行する。また、宰相府は、各事項の根拠と必要な手続を分けた書面を、あらためて提出する――以上です」


 書記が書き終えた紙をコルデオへ差し出した。コルデオは文面に目を通し、要旨を初めから読み上げた。


「ただいまの要旨に、相違ありませんね、宰相殿?」


「陛下が本日、いずれの措置も承認なさらなかったことに相違はございません。ただし、調査と検討を続けるとのお言葉も、併せてお残しください。国の不安は、すべての調査が終わるまで待ってはくれませぬ。各事項を分けた書面は早急に整えます。陛下におかれましても、速やかにご判断くださいますよう、重ねてお願い申し上げます」


「ええ。それも残してください。調査と検討は進めます。けれど、確認できていないことを前提に、決定を急ぐつもりはありません」


 この記録だけで、宰相の次の動きを止められるわけではない。それでも、今日の面会で何を受け取り、何を承認しなかったのかは、記録に残った。次の書面では、宰相自身がひとつに束ねた要求を、ひとつずつ分けて説明しなければならない。


 わたしは疲れを隠さぬまま、穏やかに微笑んだ。


「朝早くから、ご苦労さまでした。書面をお待ちしております」


 面会の終わりを告げると、宰相は深く礼をして退出した。扉が閉まり、書記もコルデオの指示で退室した。

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