馬車の行方――ふたつの魂、ひとつの運命
王宮へ戻る道のりは、来たときよりもはるかに遠く感じられた。どれほど眠っていたのか分からない。石畳の継ぎ目を越えた車輪の揺れに目を開けると、空は深い藍から淡い群青へ移りつつあり、王宮へ続く街路には、まばらな街灯が朝の光に薄れながら浮かんでいた。人影はほとんどなく、遠くで御者が馬に掛ける声も、夜の名残に吸われて小さく聞こえた。
浅い眠りへ落ちる前と同じように、向かいにはヴィルがいた。背もたれに身体を預けてはいるものの、眠ってはいない。窓外に向けた横顔には、隠れ家を出たときから変わらない警戒が残っている。蹄の音や、路地の奥で何かが動く気配を拾うたび、灰色の瞳がわずかに動いた。
車軸の油と湿った革の匂いが薄くこもる車内で、わたしは毛織のローブを胸元へ引き寄せ、冷えた硝子に額を寄せる。眠ったはずなのに、隠れ家の寝台で聞いた執事の声は、まだ耳の奥に残っていた。
男爵家そのものが襲われたわけではない。けれど、ロゼリーヌ様から託された書状を携えた執事は、王都へ向かう途中で命を奪われかけ、その書状を奪われた。使者を名乗った者と、執事を襲った者が同じ意図で動いているのか、レズンブール伯爵家や宰相がどこまで関わっているのか、まだ何も分からない。それでも、ロゼリーヌ様が書状に託した言葉を、わたしはそのまま受け取ることができなかった。その事実を思うたび、手袋の内側で指が冷えた。
「ミツル……」
なじみ深い名が、車輪の音を縫って届いた。顔を上げると、ヴィルがこちらを見ている。二人きりのときにしか呼ばれないその名が、女王として考え続けていたわたしを、ひとりの人間へ引き戻した。
「おい、聞こえてるのか?」
「あ、ご、ごめんなさい……。また考え事に沈んでたみたい」
姿勢を正すと、ローブの襟元から冷えた空気が入り込んだ。ヴィルは呆れたように眉を上げたものの、責める言葉は続けず、窓外へ一度視線を戻してから、低く息を吐いた。
「いつものことだな。まあいい。……王宮に戻ったらどう動くか、俺なりに考えがある。聞いてもらえるか?」
「あ、うん。ごめんね。いろいろなことが頭を巡りすぎて、もうごちゃごちゃになってて……」
口にすると、自分がどれほど多くのことを同時に考えようとしていたのかが分かった。父上の容体、復興のための政務、貴族院でようやく得られ始めた理解、男爵家へ近づいた使者、奪われた書状、まだ名も分からない襲撃者。どれか一つを見誤った隙に、ロゼリーヌ様とリュシアン殿へ手が伸びるのではないか。いくつもの懸念が、その不安を中心に絡まり合っていた。
「周りは『お前は女王だろう』と簡単に言うが、内心じゃ焦るよな。俺だってそうさ」
ヴィルは、慰めるために平静を装ったりはしなかった。その率直な声の温度が、先に届いた。わたしは重ねていた手をほどき、指先をゆっくり開いた。
王配としてそばにいることを引き受けても、彼はわたしに代わって答えを決めようとはしなかった。寝所でも、父上とのことでも、ロゼリーヌ様とリュシアン殿をめぐる選択でも、わたしが言葉にたどり着くまで待ってくれた。待つだけでは間に合わない今夜も、その姿勢は変わらない。自分の考えを差し出しても、最後に選ぶ余地は、必ずわたしに残してくれる。
「ええ……もちろん、不安だらけよ。誰が何のために動いているのかも分からないのに、ロゼリーヌ様とリュシアン殿へ危険が近づいていることだけは、はっきりしてる。ひとつ間違えば、お二人をもっと危険にさらしてしまうかもしれない。……なんとかしたい。でも、妙案なんて、そう簡単に見つかるものじゃないわ」
ヴィルは急いで答えず、馬車が角を曲がるのに合わせて片手を窓枠に添えた。揺れが収まってから、まっすぐにわたしを見た。
「そうだな。だが、分からないことが多いからといって、何もせずにいるわけにもいかん。犯人を決めつけることと、危険に備えることは別だ」
「そうね……」
「ダビドには王都側を調べさせる。もう一方で、男爵家へこちらの言葉を届け、向こうで何が起きているのかを確かめる目が必要だ」
「となると……ステファンかしら?」
「そうなるな。あいつはいまだ俺を信じ切ってはいない。だが、女王陛下に対する忠義は疑いようがない。何より頑固で、融通が利かないときた」
「そのようね。でも、あなたはそういう人が好みなんでしょう?」
「まぁな。その最たるものがユベルだった。だからこそ信頼に足る」
「わたしも、そう思うわ。おかしいと思えば立ち止まり、自分で確かめなければ気が済まない。そういう人のほうが、こういう任務に向いているはずよ」
「でも、王家の名で大勢を動かせば、こちらが男爵家を重く見ていると知らせることになるかもしれない。かといって、何も伝えずに向かわせるわけにもいかないし……」
「人員や経路、ロゼリーヌ殿への近づき方は、現場を見たステファンに任せる。俺たちがここで手順まで決めても、状況が変われば役に立たんからな」
「ええ。守るべきものと、してはいけないことだけを伝えて、あとはステファンに任せましょう。でも……彼にできるかしら?」
「できるさ。あいつは根っからの騎士だ。自分の型を本気で信じてきた男だからな。だが、この任務では、その型にないものを見つけてもらわねばならん。最初から答えまで持たせたら、見えるものも見えなくなる」
「相変わらずのスパルタね」
「ひどい言われようだ。俺はあいつの実力も信念も信じている。だからこそだ」
その言葉を聞きながら、隠れ家の寝台で息をつないでいた執事の手を思い出した。ロゼリーヌ様は、何度拒んでも訪れる者たちを疑い、その仔細をわたしに知らせようとなさった。ならば、こちらから返すべきなのは、完成した策への服従を求める命令ではない。書状は奪われても、伝えようとなさった意思は届いたこと。お二人を見捨てるつもりはないこと。そして、次にどうするかを、今度こそご本人に問い返すことだった。
「わたし、書状を書くわ」
「ロゼリーヌ殿へか?」
「ええ。ダビドの調査結果を待って、何をどのような形でお伝えするのかを決めようと思ったのだけどね。だからといって、お返事を待たせる必要はないでしょう? きっと不安でいらっしゃると思うから」
「そりゃそうだが、いったい何を書くつもりだ?」
「決まってるじゃない。わたしの気持ち。そして、お二人を守り抜くという決意よ。お伝えしたいのは、それだけ」
書状を奪われたあと、何も届かないまま待っているのは、わたしだけではない。ロゼリーヌ様には、執事が無事なのか、言葉がどこまで伝わったのかさえ分からないはずだった。調査の結果が出るまで沈黙を守れば、危険な目に遭った執事を案じながら、王家からの反応もないまま待たせることになる。それは、ご自身で考える時間を守ることとは違う。
「そうだな。それでいい。その書状を、ステファンへ持たせるんだな?」
「そのつもりよ。本音を言えば、わたしが直接行ってお話ししたい。でも、女王が向かえば、それだけでお二人を王位争いのただなかへ引きずり込みかねないでしょう。だから、書状はステファンに託す。どのように接触するかは、現地を見た彼に任せるわ」
「危険な役目だが、奴なら女王陛下のために張り切ってくれるさ」
「たとえお会いできても、こちらの考えを押しつけず、ロゼリーヌ様のご意志を最優先にしてもらうわ」
「ステファンなら、その線は越えんだろう。お前からの書状となれば、なおさらな」
頼もしさを覚える一方で、それだけでは足りないという思いも残った。ダビドが王都で事実を追い、ステファンが男爵家へ言葉を届ければ、お二人へ伸びる手を早く見つけられるかもしれない。だが、こちらが調べて守るだけなら、相手は気配を消し、別の名を使い、別の申し出を持ち出すこともできる。
先の連絡では返事を求めず、兄上の書簡を読む時期もロゼリーヌ様に委ねた。事件が起きたからといって、その約束まで消えるわけではない。助けるという名目で周囲を王家の人間だけで固めれば、伯爵家からだという支援を拒み続けたロゼリーヌ様に、今度はわたしが別の囲いを作ることになる。
「それだけだと、やっぱり守勢に回るばかりになる気がするわ。使者を名乗った者が、こちらに気づかれたと知って引けば、その背後も意図も見えないままになる。執事を襲った者が別にいるなら、そちらも口を閉ざしてしまうかもしれない」
「……そこはやはり、ある程度踏み込む必要があるな。お前に何か考えがあるのか?」
窓の外では、石造りの家々が少しずつ密になっていた。閉ざされた店先を照らす灯りは弱く、その光も路地の奥ではすぐ闇に途切れた。その明暗を見ているうちに、胸の奥に引っかかっていたものが、ようやく言葉になった。
「わたし、囮作戦を考えているの」
「囮だと? そいつはどうやるというんだ?」
「男爵家のお二人を、何も知らせず囮にして危険にさらすという意味ではないわ。むしろ、囮になるのはわたしよ」
「どういう意味だ?」
「女王は無知で、無力で、無策。何もかも相手の掌の上にあり、女王自身は日々の政務に追われ、疲れ果てている――そう思わせるの。そうすれば、裏で動いている者は高を括って、今より大胆に動くかもしれない。そこで初めて見えてくるものがあると思うのだけど、どうかしら?」
ヴィルはすぐには頷かなかった。膝の上で組んだ手に視線を落とし、考えを確かめるように親指で指の節をなぞった。
「やれやれ……」
「だめ?」
「だめじゃない。考え方は分かるし、相手が乗れば儲けものだ。だが、そううまくいくか?」
「それはそうなんだけど、今のわたしに取れる策の中では、これが最善だと思うの」
「だとしてもだ。何を知らぬふりをし、どの手を隠すかは、ダビドの調べと、ステファンの報告次第だ。動いているのが一人とは限らんのだぞ」
「ええ。進学の申し出と襲撃が同じ企みだとは、まだ決められない。伯爵家と宰相が今回の件でつながっているかどうかも、まだ分からない。だから、最初から一つの筋書きに賭けるのではなく、こちらがまだ何も掴んでいないと思わせておく。それなら、状況に応じて手を変えられるんじゃないかしら?」
「それならいい。ロゼリーヌ殿の協力が必要になったら、危険も含めて伝え、本人に決めてもらえ。それまでは、勝手にあの母子を餌にするなよ」
「分かってる。ロゼリーヌ様は、何度申し出を受けてもご自分で拒み、それでもわたしへ知らせることを選ばれた。だから、次の選択までこちらが奪ってはいけない。わたしたちに従うことではなく、リュシアン殿を守るためにご自身で選ばれることを信じたいの」
言い終えると、胸の内にあった焦りの向かう先が少しだけ変わった。男爵領へ自分で駆けつけられないことに変わりはない。それでも、王宮に残ることは、ただ報せを待つことではない。ここに残り、次の判断を下す。それが、わたしの役目だった。
「王宮へ戻ったら、いきなり宰相や伯爵を呼びつけて問い詰めるわけにはいかないわ。今夜のことは決して表には出さない。政務もこれまでどおり進めるわ。眠れない夜を過ごした疲れまでは隠せそうにないけれど、それならそれで、手をこまねいているように見てもらえばいい」
「だが、無力なふりもやりすぎるなよ。お前がこの三週間で何を動かしたかは、もう連中にも見えている。急に何もできん娘に戻れば、かえって芝居だと勘ぐられる」
「分かってるわ。ただ、爪まで見せる必要もないでしょう?」
わたしが笑うと、ヴィルの口元もわずかに緩んだ。その表情はすぐに消えたが、張りつめていた車内の空気が、ほんの少しだけほどけた。
「……ねえ、ヴィル」
「何だ?」
「わたし、ここにきて、逃げ出したくなることもあるの。何もかも背負うなんて、わたしには荷が重すぎるんじゃないかって……」
隠れ家へ向かう馬車の中では、彼が肩を抱いてくれたらと思いながら、口にできなかった。いまも同じ距離を挟んで座っている。それでも、彼が不安を隠さず、ともに考えてくれたからこそ、胸の奥に押し込めていた言葉が、ようやく外へ出た。
「逃げ出したくなるくらいで、ちょうどいいさ」
「そりゃ、あなたなら怖くもないんでしょうけどね」
「いいや、俺だって不安だらけさ。いきなりこんな舞台に放り込まれて、精霊の聖剣を与えられた救世の巫女と、その騎士だの、女王と王配だの、妙な役回りを押しつけられているんだからな。それだけでもあっぷあっぷなのに、そのうえ、こんな得体の知れない時代の権力争いにまで巻き込まれている。普通なら尻込みして当然だろう」
「ヴィル、あなた……」
彼がここまで弱さを口にすることは珍しかった。いつも先に危険を見つけ、わたしが身をすくませるより早く剣に手を掛けてきた人だ。その彼も、何もかも分かってここにいるわけではない。それでも、わたしをひとりで立たせまいと、いまは剣より先に言葉を差し出してくれている。
「……かつてあなたは、何が何でも守るって誓ってくれたよね」
「あ、ああ……」
「わたし、いつもあなたに守られてばかりだった。でもね、これからは違う。わたしもあなたを守るわ。それが、一緒にいるってことだと思うから」
声にした途端、頬が熱くなった。好きだとか、愛しているだとか、そうした言葉だけで言い表すには、わたしたちが積み重ねてきた時間はあまりに長く、いまの身体も立場も複雑だった。それでも、これから先も彼とともにいたい。いつか思い描いた未来へたどり着くまで、彼ばかりに傷を負わせたくない。その願いも思いも、偽りではなかった。
「ミツル、お前……」
ヴィルは何かを言いかけたまま、口を閉ざした。灰色の瞳はわたしから逸れなかった。その沈黙に耐えきれなくなったのは、告げたわたしのほうだった。窓の外へ目を向けると、淡い朝の光が石造りの屋根の輪郭を薄く浮かび上がらせていた。
抱きしめてほしいと願ったことはある。でも、まだ言えない。それでも、彼が答えないまま目を逸らさなかったことで、これ以上を急いで求めなくてもよいと思えた。守るという言葉を交わしたからといって、わたしたちの関係に今すぐ一つの名を与える必要はない。元いた時代から連れてきたものも、この身体で新しく生まれたものも、どちらも偽物にせず抱えていけばいい。手袋の中で、指先の冷たさが少しずつ薄れていった。
「……あ、そういえば、書状には作戦のことまで書かないほうがいいわよね」
「話を変えたな?」
「い、いまは書状の話をしているのよ」
低い笑いが返ってきた。わたしは火照った頬を隠すように、冷えた硝子に顔を近づけた。
「書状には、執事殿が保護されていることと、託された話を聞いたこと、信頼できる者をそちらへ向かわせることだけで十分だろう。途中でまた奪われる可能性も考えて、それ以上は書かんほうがいい」
「ええ。返事の期限も設けないわ。ただ、もし危険が迫っているなら、ステファンへ直接伝えていただけるよう、書き添える。そこまでね」
「それでいい」
馬車は石畳の上を揺れながら進み、やがて王宮へ続く大通りが窓の向こうに見え始めた。巡回する衛兵の外套が、白みを増した空の下で揺れている。遠鐘が一度鳴り、荷車の鉄具が触れ合う乾いた音が届いた。
「……もうすぐ着くわ。門をくぐって王宮へ入れば、わたしたちがどこへ出ていたのかを探ろうとする者もいるでしょうね」
「それでも、こちらから決定的な動きは見せない。お前はいつもどおり政務を続けろ」
「ええ。なるべくおとなしくしているわ。少なくとも、そう見えるようには。でも、何も見えていないふりをしても、誰かの言うままになるつもりはない。些細な変化も見逃さないわ」
「玉座の間でやったような無茶は、二度とごめんだからな?」
「それとこれとは別でしょう」
「俺にとっては同じことだ」
あまりに即座に返され、思わず口元が緩んだ。彼は、わたしが傷つくことを政治上の損失としてではなく、自分自身の痛みとして受け止めている。いまなら、そのことが分かる。
馬車は大通りに入ると速度を落とした。窓の外では、夜の帳が少しずつ薄れていった。
早起きの商人が店先の覆いを外し、荷を積んだ車が市場へ向かっていた。パンの焼ける匂いが冷気の中を細く流れ、路地を掃く箒の音が石壁に返った。王宮の外では、人々が昨日と同じ朝を始めようとしていた。食糧を運ぶ道の整備も、港を立て直す計画も、机上の数字を動かすためではなく、こうした朝を途切れさせないために進めてきた。誰かの企みに気づいたからといって、国政のすべてを男爵家の問題だけに向けることはできない。だからといって、ロゼリーヌ様たちへ伸びる手を見過ごすつもりもなかった。どちらも、この朝を守るために必要なことだった。
やがて王宮の外門が近づき、門番の合図で馬車が一度停まった。紋章を確かめた兵が、改まった声で通行を許した。再び車輪が動き出すと、窓の外の景色は商家から王宮の外壁へ変わっていった。
「そろそろ、メービスとヴォルフに戻る時間だな?」
「ええ。馬車を降りれば、わたしは女王陛下、あなたは王配殿下。王宮という舞台で、それぞれの役を演じるの。けれど、これからはただ演じさせられるだけじゃない。その立場を使って――戦うの」
「なら、俺も王配としてお前と並び立ち、戦おう」
「……ありがとう。ほんと、あなたがいなかったら、わたしなんてとっくにくじけてたかもしれない。こうして話せるだけで、だいぶ気持ちが楽になるわ」
「そいつはお互い様だ」
言葉が途切れると、馬車の揺れと互いの呼吸だけが残った。もう少し話していたかったが、それ以上を口にする勇気はなく、ヴィルも続きを求めなかった。それでも、その沈黙は苦しくなかった。
街灯の光が窓を横切るたび、床に落ちた二人の影は揺れ、重なってはまた離れた。向かい合った二人の距離は変わらなかった。馬車が大きく傾くと、ヴィルが先に足を踏ん張った。その気配に、わたしの身体から余計な力が抜けた。
やがて馬車が止まり、御者の足音が近づいてきた。金具が鳴って扉が開くと、冷たい朝の空気が襟元に差し込んだ。吐いた息が白くほどけるのを見ながら、外套の留め金を指先で確かめた。
「――さあ、行こう」
わたしが声を掛けると、ヴィルは「おう」と応じた。
ステップに足を下ろし、石畳へ降り立った。その硬さが靴底から踵へ伝わり、朝の鋭い空気が頬を打った。玄関前には数名の侍従が控え、その奥から侍従長のコルデオが衛兵を伴って足早に近づいてきた。静まり返った玄関前に、彼らの靴音だけが響いていた。
「お帰りなさいませ、女王陛下。お疲れのところ申し訳ございませんが、急ぎ執務室へ――」
「ええ、ありがとう。……夜通し出ておりましたから、少々疲れてはおりますけれど、大丈夫です。すぐに執務室へ向かいます」
侍従たちが馬車の荷を確かめに動き出したところで、コルデオにだけ聞こえるよう、声を落とした。
「それから、人目につかないよう、ステファンを呼んでください」
「かしこまりました」
それ以上は告げず、振り返った。ヴィルはすでにヴォルフ王配殿下としての顔に戻り、馬車を降りてわたしの少し後ろに立っていた。言葉は交わさず、その眼差しを受けて小さく頷き、王宮の玄関へ向き直った。
父上は、リュシアン殿を迎えれば、いずれわたしは自由になれるとおっしゃった。けれど、あの子に王座を譲り、役目を終えたわたしだけが静かに消えていく。それが本当に救いなのだろうか。自分の意思を問われることもなく、あの笑顔のまま王座へ近づけられていくあの子を見ながら、それをわたしの自由と呼べるのだろうか。
いつか、この時代で背負った役割を終え、ヴィルと自由に世界を飛び回りたい。その願いはいまも消えていない。だからこそ、リュシアン殿から選ぶ権利を奪ってまで、その自由を得たくはなかった。あの子が何を望んでいるのかは、あの子にしか分からない。何を選ぶかも、あの子自身が決めることだ。父上の願いも、王家の都合も、わたしの未来も、どれも、あの子に代わって決めてよい理由にはならない。
兄上の名を勝手な大義名分に仕立て、あの子の行く先を定めようとする者がいるのなら、絶対に許さない。わたしが守らなきゃ。その思いは、隠れ家を出たときよりも深く、胸の内に根を下ろしていた。
王宮の扉が開き、磨かれた石床に朝の淡い光が差し込んだ。
外套の裾が石床を擦り、冷えた廊下にかすかな音が響いた。奥では朝番の侍従たちが頭を下げ、壁際の燭台の火が順に消されていく。夜のあいだに何が起きたのかを知る者は、この場にはほとんどいない。わたしがいつもどおりに歩けば、王宮の朝もまた、何事もなかったように始まるだろう。その平穏を崩さず、こちらの動きを隠す幕にする。そう考えると、頬に浮かべる微笑みにも、もう迷いはなかった。
――……ならば、わたしは笑顔でいよう。笑って、黙って……そして、ぜんぶ引き剥がしてやる。
掌に、ゆっくりと熱が戻ってきた。わたしは背筋を伸ばし、王宮の奥へ歩みを進めた。
これが、ミツル・グロンダイルであり、柚羽美鶴でもあるわたしの戦い方だ。持てるものをすべて使い、必ずやり遂げてみせる。




