白みゆく朝、わたしは願いを受け取る
馬車の揺れがゆるみ、ガウンの袖口へ視線を落とす。膝の上で重ねた手は冷え、指先だけがかすかに震えていた。怖いからなのか、寒さのせいなのか、それとも別の何かを望んでしまったからなのか、自分でも分からない。
――いま、彼が大丈夫だと言って肩を抱いてくれたなら、どれほど楽になるだろう。
先ほど胸の内で認めた願いは、これから先のことだけではなかった。いま、この暗い馬車の中でも、彼へ寄りかかりたい。ちらりと正面を窺うと、ヴィルは暗がりの向こうを見据えたまま、静かに呼吸していた。騎士というより、獲物の気配を嗅ぎ分ける狩人の顔だ。こちらの視線に気づいたらしく、目元がわずかに動く。それでも顔は向けず、警戒を解かない。その横顔を見ていると、何も言われなくても、彼がわたしのぶんまで外の気配を見張っていることだけは分かった。車輪の軋みと蹄の音が、少しずつ耳へ戻ってくる。そのとき、馬車がひと揺れして停まった。
車輪の音が途切れ、窓外へ目を向ける。大きな街道へ出る手前で荷車が詰まり、御者は前との間を空けているらしい。
「しかし、こういうときにカテリーナがいてくれたらな……」
あまりに自然な独り言に、どう返すべきか一瞬迷う。わたしは身を少し乗り出し、苦笑まじりに答える。
「……やっぱり、そう思う?」
「口やかましいわ、俺を番犬扱いするわで、ひどい女だがな。こと情報分析にかけては、あいつほど頼りになる奴はいない」
「ほんとよね……」
冷えた車内に、カテリーナのきびきびした声が蘇る。口調はあけすけで、こちらの遠慮も迷いも容赦なく払いのける。それでいて、誰かが助けを必要としているときには、恩に着せることもなく手を差し出す人だった。朗らかに笑うたび、瞳まできらめいた。
わたしとヴィルが元の時代にいた頃、元軍情報部員だった彼女は、大胆で柔軟な頭脳と独自の情報網で、わたしたちの策を幾度も支えてくれた。わたしが幾つもの謎を解く糸口へたどり着けたのも、カテリーナが表に出ない人や情報の動きを拾い上げてくれたからだ。そんな大仰なことじゃない、あんたもヴィルも似た者同士の変わり者なのだと茶化しながら、それでもいつも案じてくれていた。その記憶をたどると、いまも胸の内に明るさが戻ってくる。
この時代にも、ヴィルがいる。文書と手続きの面では、信頼できるコルデオが支えてくれ、銀翼の構想にも人が集まり始めている。けれど、銀翼はまだ、候補者を見定め、限られたところから試し始めたばかりだ。カテリーナのように、公的な報告には上がらない人と情報の流れを、表と裏の双方からたどれる者は、いまのわたしたちの手元にはいない。王宮の名で人を動かせば記録が残り、正式な命令を出せば、その経路を通じて相手にもこちらの関心が伝わる。だからこそ、わたしたちは王宮を内密に抜け、中央商業区の東寄りにある小屋敷へ向かっていた。
「政務は前へ進んでいるのに、情報の面ではまだ手が足りない……。見えないところで動かれて、後手に回らされるのは本当に癪ね……」
窓の留め具をずらすと、細い隙間から夜気が入り、頬を撫でていった。この三週間、公務に追われ、先王である父の容体に心を割き、ギルク兄上の忘れ形見であるリュシアン殿の行く末を考え続けてきた。先発の連絡も、後から送った兄上の書簡原本も男爵家へ届き、王宮側でも受領を確認している。それでも、王家への返事も、兄上の書簡を読むかどうかの知らせも求めなかった。ロゼリーヌ様がご自身で考えるための時間を守るつもりだったからだ。
ところが、男爵家の執事は、兄上の書簡とは別の、わたし宛ての書状を携えて王都へ向かっていた。それがロゼリーヌ様から託されたものなのか、何を伝えようとしたものなのかは、まだ分からない。分かっているのは、書状が何者かに奪われ、届けようとした執事が命を失いかけたことだけだった。
返事を急かさずに待つことと、何も知らずにいることは同じではない。けれど、襲撃の報せが届くまで、異変の端緒すら掴めなかった。誰かがこちらより先に手を出した。その事実は、怒りが湧くより先に、胸の奥へ重く残った。
考えがそこへ沈んでいくのを察したのか、ヴィルがこちらを向く。警戒を残したまま、それでも声は落ち着いていた。
「焦るなとは言わないが……おまえはいつだって何もかも抱え込もうとしすぎる。いいか、ミツル。この俺がいることを忘れるなよ」
二人きりの馬車だからこそ呼べる名だった。その響きは、女王ではなくミツルへ向けられている。口にできずにいた、彼を頼りたいという願いまで、黙って受け止めてもらえたように思う。その言葉があったからこそ、考えることを止めずにいられた。
一番大切なのは、リュシアン殿とその母が、本人たちの意思とは無関係に何かへ巻き込まれていないかを確かめることだ。書状が奪われたという事実だけで、誰が何を企んでいるのかまで決めることはできない。だからこそ、執事が何を見聞きし、誰からどのような言葉を託されたのかを、まず本人の口から聞かなければならなかった。
馬車は再び走り出し、中央商業区へ続く表通りを避けて、細い道を幾度か曲がった。窓の向こうでは、閉ざされた商家の戸と運河沿いの裸木が交互に流れていく。油灯の届かない路地は、町並みに刻まれた黒い切れ目のように現れては、すぐに後方へ消えていった。
◇◇◇
どれほど走ったのか分からないうちに、馬車がゆっくりと速度を落とし、東運河沿いの道から一本入った小さな屋敷の前で停まった。
夜は白みはじめていたが、辺りにはまだ暗さが残っている。馬車を降りると、冷気が肌を刺した。固まっていた脚をほぐすように二度足を踏み、門の奥へ目を凝らす。三週間前にヴィルから聞いたとおり、元は香辛料商が使っていた小屋敷らしく、外した看板の跡と、赤錆の浮いた門扉が残っていた。沈んでいた屋根には新しい板が当てられ、正面の戸と錠は替えられている。それでも、伸びた庭木も壁の染みもそのままだった。門前に立つ、ありふれた街着の男たちは、ヴィルの合図を受けると敬礼めいて頭を下げ、わたしたちを屋内へ導いた。
中はさらに暗く、壁紙はところどころ剥がれ、天井も色褪せていた。古い床が足の下で低く鳴り、長く閉ざされていた部屋の粉っぽい匂いが残っている。人目を避けて負傷者を休ませるには、それで十分だった。
奥から、赤髪の背の高い男が現れた。一礼したのち、ヴィルへ視線を移して報告する。
「殿下、執事殿は奥の部屋で休ませております。医師の手当てで、どうにか命はつないでおりますが、熱が高く、傷の痛みもひどいようです」
「ダビド、こんな時刻まで悪かったな」
「お気遣いなく。いつ何時でも動けるようにしておくことも、いまの我々には必要です。よい訓練になりました」
ヴィルは男の肩へ軽く手を置き、わたしを振り返った。
「こいつが、執事殿を助けてくれた男だ。貧民街育ちでな。王都の裏道にも、表の記録には残らん金や人の流れにも通じている」
彼が、銀翼のダビドなのだ。二十代半ばにして、面立ちにはまだあどけなさが残るものの、その瞳は冴えていた。王宮の帳面だけではたどれない場所を知るという来歴を、ヴィルは本人の前で隠さず明かした。
ダビドはわたしに向かい、胸に手を当て、恭しく頭を下げた。
「ダビドにございます。女王陛下……」
俯いたまま、彼はしばらく動かなかった。胸に当てた手に、かすかに力がこもる。続くはずの言葉は、とうとう聞こえてこなかった。
「どうか顔を上げてください。このような刻まで、ご苦労をおかけしました。執事殿を助けてくださったこと、心より礼を申します」
わたしが告げると、ダビドはなおしばらく顔を伏せていた。やがて顔を上げたとき、薄暗い灯りのせいか、その瞳はわずかに濡れて見えた。彼は何も言わず、控えめに微笑むと、すぐに奥の扉へ視線を戻した。
三週間前、現況の確認と最低限の修繕までを認めた小屋敷が、いまは傷を負った人の命をつなぐために使われている。別の用途が生じるなら、その前に知らせてほしいと伝えたはずだが、今夜は報告の遅れを責めるときではない。まずは、この場所が間に合ったことを喜ぶべきだった。
扉の向こうは、寝台のほかにほとんど家具のない簡素な部屋だった。明かりは落とされ、血の滲んだ包帯を巻かれた執事が、浅い息を繰り返している。看護にあたる女性騎士が、寝台のそばに控えていた。
「……どうか、無理はなさらないでください。わたくしはメービスです。お話を伺うために参りましたが、おつらいようでしたら、いまはお話しいただかなくて構いません」
声を抑えて告げると、執事はうっすらとまぶたを開いた。焦点の定まらない目が、わたしの姿を捉えようと揺れる。
「おお……女王陛下でございますか……。しかしながら、わたくしめは……ロゼリーヌ様からお預かりした大切な書状を……守ること叶わず……」
唇が震え、声が途切れた。
寝台の傍らへ膝をつき、包帯の巻かれていない手の甲へ、そっと触れる。
「あなたが生きていてくださったことが、いまは何より大切なのです。どうか、ご自分をお責めにならないでください。いまお話しいただけることだけで構いません。書状を託されたとき、ロゼリーヌ様からどのようなお話があったのか、お聞かせいただけますか?」
執事はまぶたを伏せ、苦しげに言葉を探した。急かさず待っていると、やがて掠れた声がこぼれる。
「実は……陛下が男爵領をお発ちになって、幾日もしないうちに……レズンブール伯爵の使者を名乗る者が参りまして……リュシアン様の進学を援助したいと、申し出たのでございます……」
レズンブール伯爵の名は知っている。北方イストリアに広大な所領を有し、王国でも指折りの財力と影響力を持つ大貴族だ。けれど、ギルク兄上や男爵家との関わりは聞いた覚えがなかった。
傷に響いたのか、執事の眉間へ皺が寄った。わたしは声をさらに落として確かめる。
「進学の援助、ですか?」
「はい……。使者を名乗る者は、王都には貴族の子弟だけが学ぶことを許される寄宿制の名門校があると申して、リュシアン様をそこへ入学させるよう……何度も勧めてきたのでございます。そして、学費を含むあらゆる面倒を、伯爵家がみるとも……」
思い当たる学校がひとつある。黒鉄の格子門に梟の校章を掲げ、貴族の子弟だけが出入りする寄宿校だ。
「伯爵家と男爵家には、以前から何かご縁があったのでしょうか?」
「いいえ……。所領のあるイストリアは、北壁を隔てて男爵領と近うございますが、家同士には、これまで何の関わりもございませんでした。レズンブール伯爵家は、宰相閣下とも深い縁があると聞き及んでおります。ですが、その使者を名乗る者は、こう申しました。『亡きギルク殿下とは古くから親交があった。ゆえに遺児であるリュシアン様を、生涯にわたりお支えするのは当然である』と……」
「……その申し出を、ロゼリーヌ様はどのように受け止めておられたのでしょう?」
「お嬢様は、疑っておられました。王都の有力者が、支援を口実にリュシアン様を手元へ置こうとしているのではないか、と……。お嬢様が何度お断りになっても、使者を名乗る者は繰り返し訪れました。伯爵家が本当に使者を遣わしたのか、そうであるなら、何を知り、なぜこれほど早く動いたのか……。その仔細を書き記し、女王陛下にお確かめいただくため、書状をわたくしに託されたのでございます。ですが、その道中で襲われ……」
書状を守れなかった無念に、執事の目が潤んだ。部屋の隅で黙っていたヴィルが、低い声で言う。
「ダビドによれば、執事殿への襲撃は手慣れた者の仕業らしい。行きずりの物盗りとは考えにくい。だが、背後に誰かいるのか、使者を名乗った者とつながっているのかは、まだ何も分からん」
ロゼリーヌ様は、リュシアン殿を守るため、いま起きていることをわたしへ届けようとした。その書状を携えた執事が襲われ、書状は奪われた。行きずりの物盗りによるものなのか、書状がわたしへ届くのを阻もうとした者がいるのかは、まだ分からない。
レズンブール伯爵がギルク兄上と親しかったという話も、わたしは聞いていなかった。だからといって、使者を名乗る者の言葉が偽りだと断じることはできない。それでも、これまで関わりのなかった伯爵家の使者を名乗る者が、わたしたちの訪問から幾日も置かず、生涯にわたる支援を申し出てリュシアン殿へ近づいた。その素早さと、拒まれても訪れ続けたという事実を見過ごすこともできなかった。
「どうか……ロゼリーヌ様と、リュシアン様を……」
執事のまぶたが重く落ちかける。これ以上、話を続けさせてはならなかった。
「ご安心ください。ロゼリーヌ様とリュシアン殿は、必ずやわたくしがお守りいたします。あなたは、どうか傷の治療に専念してください。ここには信頼できる警護の者もおります。いまは何も案じず、お身体をお休めください」
「なんと……恐れ多いお言葉……。何卒、よろしく……お願い申し上げます……」
執事の面差しから、張りつめていたものがわずかに解けた。やがてまぶたが閉じると、その手を掛布の上へ戻し、看護にあたっていた女性騎士へ目で合図する。
できすぎた支援の申し出と、書状を奪った襲撃。その二つが同じ意図から出たものかどうかは、まだ分からない。だが、ロゼリーヌ様が申し出を何度も断り、その経緯をわたしへ知らせようとしたことだけは、執事の証言によって確かになった。
◇◇◇
部屋を出て扉を静かに閉めると、窓の隙間から入り込む夜気が、薬と血の匂いの残る廊下をゆっくり通り抜けていった。乏しい明かりが傷んだ床板へ落ち、そのそばに立つヴィルの面差しは険しかった。
「……今の証言から、レズンブール伯爵家が動いたとはまだ言えん。伯爵がギルク殿下と親しかったかどうかも、本当に使者を出したのかも分からん。執事殿への襲撃を命じたと決めつけることもできん。ただ、使者を名乗る者が、何度断られてもリュシアン殿を王都へ出そうとした。その動きだけは事実だ」
「はい。わたくしたちが男爵領を発ってから、幾日も置かずに訪れたという時期は気になります。イストリアは北壁を隔てて男爵領に近い。短い日数で人を送ることはできたでしょう。ですが、そこまでです。伯爵家が本当に使者を送ったのか、誰かがその名を使ったのか。伯爵家が送ったのであれば、何を意図していたのか。いずれも、まだ分かりません」
それでも、分からないことを理由に、起こり得る危険まで小さく見積もることはできなかった。そもそもメービスが王位へ就いたのは、戦後の国家再建を進め、民をひとつに束ねる象徴が必要だったからだ。いまのわたしには、女王として決裁し、命令を出す権限がある。それでも、国が安定するまで掲げられる一時の旗印にすぎないと見る者がいることも知っていた。もし、わたしを一時の旗印にとどめておきたい者がいるなら、この三週間で施策が通り始め、わたしの判断が政務を動かし始めたことは、歓迎できる変化ではないだろう。そのうえ、メービスが黒髪の巫女であるという秘密を悪意ある者に暴かれれば、揺らぐのはわたしの立場だけではない。黒髪への忌避がいまも残るこの国では、王家そのものへの不信にまで結びつけられかねなかった。
そして、ギルク兄上の忘れ形見であるリュシアン殿が、王位継承に連なる者として広く知られれば、本人の意思とは無関係に、わたしに代わる王家の旗印へ仕立てようとする者が現れる可能性もある。寄宿校へ進むことは、学ぶ機会を得る一方で、男爵家を離れ、王都の貴族社会のただなかに身を置くことでもあった。そこに、誰かがリュシアン殿へ影響を及ぼし、その名を政に利用する余地が生まれる。だが、そうした危うさがあることと、今回の申し出がその意図から出たものだと決めることは、別だった。
「リュシアン殿を手元へ置き、必要とあれば、わたくしに代わる王家の旗印として掲げようとする者がいる可能性は否定できません。けれど、いまの証言で確かなのは、使者を名乗る者が、何度断られても進学を勧め続けたことまでです。伯爵家が本当に使者を遣わしたのか、それとも誰かが伯爵家の名を騙ったのか。執事殿への襲撃が、その動きとつながっているのか。どれも、まだ確かめられていません」
閉じた扉へ視線を戻した。向こうには、ロゼリーヌ様の書状を届ける途中で襲われ、命を失いかけた人が横たわっている。真相はまだ見えない。けれど、それを待たなければ決められないことばかりではなかった。
「……それでも、わたくしが守りたいのは玉座などではありません。リュシアン殿の自由な意思と、それを守ろうとするロゼリーヌ様の願いです。リュシアン殿を、誰の思惑によっても政の手札にはさせません」
ヴィルはわずかに目を細め、低く息を吐いた。
「ああ。点を都合よくつなげれば、筋書きはいくらでも作れるからな」
「その通りです」
「陛下が男爵家を訪ねたことを知った者が先回りし、リュシアン殿を手元へ置こうとした。その動きを知らせる書状が王都へ送られようとしたため、執事殿を襲わせて奪った。施策が通り始め、お飾りでは済まなくなった陛下を排除するために――そういう筋書きだ」
ヴィルはそこで言葉を切った。窓枠が風に押され、かすかに軋んだ。その音が途切れるまで、彼は口を閉ざしていた。
「だが、あまりに都合よく、すべてがつながりすぎている」
「その通りです。まず、男爵家への接触が監視されていたのか。後から原本を送ったことまで外へ漏れていたのか。関係者以外の誰が、どこまで知っていたのかさえ分かりません。使者を名乗る者が本当に伯爵家から遣わされたのか、襲撃者が初めから書状を狙っていたのかも、まだ確かめられていません」
「伯爵家と宰相との関係はどう見る? 仮に裏で結託しているなら、伯爵家の動きと王宮内の思惑は、一つの線でつながり得る。それに、施策は貴族諸侯からも評価され始めている。今回の件と無関係だとも言い切れんぞ」
「どちらも、調べる入口にはなります。ですが、伯爵家が宰相と深い縁を持つという話と、両者が今回の件で結託していることは別です。施策への評価が広がっていることと、それを快く思わない者が今回の件を動かしたことも、同じではありません。いま並べた筋書きのどこまでが事実なのかは、まだ分からないのです」
言葉にするうち、調べるべきことの順序が、ようやく見えてきた。疑わしいものを一つの答えへ閉じ込めるのではなく、失われた事実を一つずつ拾い直さなければならない。
「だからこそ、一つずつ事実を拾うところから始めましょう。ロゼリーヌ様が知らせようとしたことを、今度こそ確かに受け取るために」
「了解だ」
ヴィルは廊下で控えていたダビドへ向き直った。
「ダビド。伯爵家が本当に使者を出したのかを確かめろ。寄宿校には、誰が、どのような立場で話を持ち込んでいるのか当たれ。陛下が男爵家を訪れたことと、原本を送ったことを誰が知り得たのかも追え。襲撃は別に調べろ。最初から同じ者の仕業だと決めつけるな」
「承知いたしました。まずは王都から当たります」
ダビドは一礼すると、そのまま屋敷を出ていった。最初に調べるのは、遠い北方ではなく、王都に残されている人と情報の動きだった。
◇◇◇
――わたしは、甘かった。
この三週間、わたしは復興と公務に没頭していた。施策は少しずつ受け入れられ、滞っていた国務も、ようやく前へ進み始めた。わたしの判断へ耳を傾ける者が増えていく手応えに、どこかで安堵していたことは否めない。
見えない場所から事実を持ち帰るため、銀翼の構想にも着手した。けれど、拠点を整え、候補者を見定め始めたばかりで、まだ自在に動かせるほどの力はない。その手が形になるまでに生じる空白を、わたしは危険として十分に見積もれていなかった。
王家への返事を求めず、ロゼリーヌ様とリュシアン殿を急かさない。それは、いまも間違っていたとは思わない。こちらから使者を重ねれば、ご自身で考える時間を守るという約束を、わたし自身が破ることになる。
けれど、待つことと、見えないままでいることは同じではなかった。お二人へ圧力をかけず、その周囲で何が起きているかを知る。そのための手を、もっと早く持たなければならなかったのだ。
以前、わたしは少なくとも五年は王位を保てると考えた。正面から退位を迫り、ようやく立ち直り始めた国を再び混乱させることは、誰にとっても不利益が大きい。その見通しは、いまも変わらない。
だが、玉座へ直接手をかける必要などないのかもしれない。王位へ結びつけられ得る子どもの周囲へ近づき、支援を与える代わりに、その子が選べる道を少しずつ狭めていく。そうして手元へ置くだけでも、いまの女王へ圧力をかける手段にはなり得る。
もちろん、それは起こり得る筋書きの一つにすぎない。レズンブール伯爵家が本当にそのような意図を持っているのか。使者を名乗った者が伯爵家から遣わされたのか。執事への襲撃と進学の申し出が、同じところから出たものなのか。どれも、まだ確かめられてはいない。
それでも、何度断られても使者を名乗る者が訪れ続けたこと。ロゼリーヌ様から書状を託された執事が襲われ、その書状を奪われたこと。その二つは、すでに起きた事実だった。
書状に記されていたすべてを受け取れたわけではない。けれど、ロゼリーヌ様がなぜ書状を託し、何を案じておられたのか、その一端は執事の口から聞くことができた。ダビドも、王宮の文書だけでは追えない事実を拾うため、王都側の調査へ向かった。
書状は奪われても、ロゼリーヌ様が伝えようとなさった意思まで消えたわけではない。
何度拒まれても進学を勧め続けた者と、執事を襲って書状を奪った者。それぞれの背後が同じかどうかは分からない。だからこそ、ひとつの企みと決めつけることはできない。けれど、どちらも見過ごすつもりはなかった。
「わたくしは、ここで退くつもりはございません。何度拒まれても、そのご意思を顧みず進学を迫り続けることも、人を襲い、託された書状を奪うことも、決して見過ごしません」
声に出すと、怒りの向かう先がはっきりした。まだ名も分からない誰かへ、疑いだけで刃を向けたいのではない。ロゼリーヌ様がご自分で考え、ご自分で拒み、それでも知らせようとなさった。その意思が踏みにじられることを、許したくないのだ。
「たとえ、それぞれが別の者による行いであったとしても、ロゼリーヌ様のご意思を途中で失わせるわけにはまいりません。今度こそ、わたくしが確かに受け取ります」
ヴィルは何も遮らず、静かに頷いた。その眼差しは、わたしに代わって答えを決めようとはしていない。ただ、わたしが選んだ道を最後まで支えると告げていた。
長い廊下の先では、窓越しの景色が白み始めている。夜と朝の境を押し開くような淡い光が、傷んだ床板の上へ細く伸びていた。怖さも、怒りも、焦りも消えてはいない。それでも、次に何を確かめるべきかは見えていた。
屋敷を出ると、東運河から吹き上げる朝の風が頬を打った。すでにダビドの姿はない。何を持ち帰るかは分からなくとも、事実へ向かう最初の一歩は、もう踏み出されている。
帰途につくため、再び馬車へ乗り込む。扉を支えるヴィルへ目を向けると、彼は何も問わず、いつものように向かいの席へ腰を下ろした。馬車が動き出すより早く、その注意は窓の外へ向けられている。
行きの馬車では、彼が肩を抱いてくれたなら、どれほど楽になるだろうと思った。いまも、その願いが消えたわけではない。ヴィルはわたしへ触れず、慰めの言葉も口にしなかった。それでも、彼が外の気配を見張っているあいだは、自分の身体を座席へ預けてもよいのだと思えた。
彼が、いまのわたしをミツルとして見失っていないことは知っている。分からないのは、その先だった。十九歳のメービスと、二十代前半のヴォルフ。かつて父と子ほどにも見えた歳月の隔たりは、いまの姿からは消えている。それでも、積み重ねてきた時間まで消えたわけではない。
彼にとって、わたしが親友の遺した娘であり、同じ時代からこの世界へ落ちた相棒であることは変わらない。そのうえで、一人の女として見られているのか。それを尋ねれば、いま隣り合って成り立っている関係に、答えを求めることになる。
いまはまだ、この思いへ名を与えなくてもよかった。十九歳の身体で生きるいまのわたしも、前世から続いてきたわたしも、どちらも切り離すことはできない。ヴィルとともにありたいという願いも、いつかこの立場から解き放たれ、彼と自由な世界を飛び回りたいという望みも、胸の内に抱いたままでいい。
その未来を失わないためにも、いまは順序を誤るわけにはいかなかった。
まず、伯爵家が本当に使者を出したのかを確かめる。寄宿校へ話が通されているのか、男爵家への訪問や原本の送付がどこから漏れたのかを調べる。襲撃についても、進学の申し出と最初から同じ線へ結びつけずに追わなければならない。
その結果を見たうえで、ロゼリーヌ様へ何を、どのような形でお伝えするのかを決める。直接赴くべきかどうかも、いま急いで答えを出すことではなかった。お二人の意思を守るためにこそ、こちらの都合だけで距離を縮めてはならない。
馬車は、朝の光が差し始めた東運河沿いの道を王宮へ向かって進んでいく。車輪の揺れに身を任せ、静かにまぶたを閉じると、向かいでヴィルがわずかに身じろぎした。外の気配を見張り続ける、その衣擦れの音だけが耳へ残る。
言葉はなかった。それでも、いまだけは眠ってよいと告げられたような気がした。
ロゼリーヌ様とリュシアン殿の姿、これから拾い直すべき事実、そして向かいにいるヴィルの気配。それだけを胸に残し、わたしはようやく浅い眠りへ落ちていった。




