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朱に沈む夜、わたしはまだ間に合うのか

「……あれから三週間、か」


 夜の帳が落ちはじめ、王宮の奥で人目を避けるようにして、先王の寝所の前に立つ。廊下の空気はひやりと冷えて、油灯の光が壁の金具を白く撫でていく。天井の緋の垂れ幕がゆるく揺れ、細い影が床を横切っては消えていった。


「わたしは――何もできていない、のかな……」


 言葉が落ちたあと、胸の内で二つの実感がぶつかった。この三週間、昼も夜も公務に追われた。けれど、書類と会議にただ押し流されていたわけではない。コルデオが文書と手続きの面から支えてくれたことで、止まりかけていた仕事が、少しずつ結果となって返ってくるようになった。


 北部の食糧問題には、ひとまず供給をつなぐための道筋が立った。魔族大戦で得た潤沢な魔石を海洋交易へ生かすため、港湾設備を復旧し、さらに拡張する案も、貴族院でようやく理解され始めている。復興のために負担を求めるだけではなく、交易が広がれば、貴族と連なる大商家にとっても利益となる。その見通しが伝わるにつれ、当初は費用ばかりを問題にしていた者たちも、話を聞くようになっていた。


 穏健派を代表するヴァロワ侯からも、復興案を支持する声がわずかながら増え始めたと知らされた。黒髪の巫女という象徴だけではなく、何を決め、どこまで動かしたのかによって、少しずつ認められ始めている。そう思ってよいだけの手応えがあった。


 先王オリヴィエの代から国政を担ってきた宰相クレイグ・アレムウェルも、少なくとも表向きは施策を妨げていない。この三週間の政務は、うまく進みすぎていると戸惑うほど、滞りなく動いていた。


 それでも、父の衰えは緩やかに深まり、侍医司の「春まで、もつかどうか」という吐息がみぞおちに重く残る。そして、ギルク兄上の書簡原本は後発便でモンヴェール男爵家へ届き、先方が受け取ったことも確認できている。ただ、その後、ロゼリーヌ様からの返答はない。王家への返事も、書簡を読むかどうかの知らせも求めてはいない。こちらから期限を置いてもいないのだから、三週間という長さを拒絶の意味へ勝手に置き換えることもできない。


 国政を前へ進めることと、ロゼリーヌ様がご自身とリュシアン殿の行く末を考える時間を待つことは、同じではなかった。決裁と命令で動かせるものが増えたからこそ、その権限をロゼリーヌ様へ向けてはならないと分かる。


 それでも、このまま父が逝くまでロゼリーヌ様から何の返答も届かず、ギルク兄上の忘れ形見――リュシアン殿のことも宙に浮いたままになったら。そんな想像だけで、胃の底が重く沈んでいく。国政では、できたことがある。けれど、いちばん急ぎたいことに限って、急いではならなかった。その一事が、ほかの成果までも遠く感じさせていた。


◇◇◇


 足元の石に落ちる光を見つめ、冷たい空気を深く吸い込む。扉の向こうで父が小康を保っているという事実は変わらないのに、刻限だけが近づいてくる気配が、首筋をひやりと撫でていく。


「陛下、いらっしゃいましたか……。侍医が『少しお休みになっている』と申しておりますが……」


 声をかけてきたのは、先王付きの侍女セラだった。よく気がつく人で、瞳の底に不安が渦を巻いている。視線を返すと、彼女は息を呑んで一歩退いた。


 いま入れば眠りを妨げるかもしれない。それでも確かめたい。眠れていることを、自分の目で見るだけでも、いまは必要だ。何より、このままでは自分を保てない。


「大丈夫です。そっと見守るだけですから……」


 胸がかすかに痛んだ。セラへ微笑を返すと、彼女は唇を震わせ、きゅっと頷いた。皆が先王を案じながら、どうにもならない無力さに立ち尽くしている――その重さは、わたしにもよく分かる。扉へ向き直ると、呼吸がひとつ詰まる。まだ息をしているだろうか。扉の金具へ、そっと指をかけた。


 冷たさが指腹に吸い付き、古い木の匂いが浅くなった呼吸に混じる。蝋の甘さが細く漂い、喉の奥が狭まった。扉を押し開ける。ひんやりした空気といっしょに、静けさが胸の内へ沈んで、肩の力がわずかに抜けていく。


 厚いカーテンが光を遮る寝所には、油灯の明かりがゆらぎ、長い天蓋の影が壁をゆっくり滑っていく。遠目に先王の寝台だけが淡く浮き、侍医司の医官が壁際に息をひそめて立っていた。煎じ薬の辛い香りが残り、静かな寝息の合間に、かすかな布ずれの音がした。


「今はあまりお話は……」


 足音を殺して近づくと、医官が申し訳なさそうに唇を動かす。そこで、寝台の上の身体が身じろいだ。やせ衰えた先王が、弱く首を振る。話したい、という意志が伝わる。


「父上。わたくし、メービスでございます。失礼いたします……」


 できるだけ声を落として名乗り、絨毯に足音を沈めながら進む。先王のまぶたが動いた。それを見た途端、首筋の強張りがほどけ、わたしは寝台の傍らへ膝をついた。近くで見る頬はこけ、唇には血の気がない。呼びかけようとした言葉が、喉で止まった。


「……メービス……来てくれたか……すまぬな……」


 掠れた声音が身体の奥へ落ちていく。布越しに手をやさしく包む。薄氷のような冷たさの奥に、わずかな温度が残っていた。


 奇妙なことだ。メービスにとって確かに父でも、本来のわたしにとっては父ではないはずなのに――この時代で父娘として過ごした短い時間が、いつの間にか情を刻んでいる。


「いいえ、父上……そのように仰っては、わたくしのほうが申し訳なく存じます。ご容体はいかがでございますか……少しはお楽になりましたでしょうか?」


 声をかけながら、頬の削げた影に胸が詰まる。薄く開いた目に宿る光まで弱く見えた。それでも、父は咳をこらえ、わたしの顔を探してくる。


 わたしは呼吸を抑えて耳を寄せる。父の喉がわずかに震え、掠れた声がこぼれた。


「その後……ギルクの……子……どう……なった……」


 侍医司の医官が「陛下、今は安静に」と制しかけるが、父はもう一度首を振った。削られていく命の端で、それでも気がかりはただ一つだということ。分かっていても、何度も繰り返されるたび、胸が締めつけられる。


 歯を食いしばりそうになるのをこらえ、わたしは微笑を作ってうつむいた。


「実は、ギルク兄上の書簡原本は、記録と護送の支度を整えた後発便でモンヴェール男爵家へお届けし、先方にお受け取りいただいたことも確認できております。ただ、その後、ロゼリーヌ様からは何のご連絡もございません。王家へのお返事も、書簡をお読みになったかどうかのお知らせも求めないとお伝えしておりますし、こちらから期限を置くつもりもございません。焦りはございますが、それを理由に先方をお急き立ててはならないと考えております……それでも、何も分からないまま待つのは、もどかしくて」


 最後の言葉だけが、思ったより高く喉を抜けた。三週間のあいだに国の仕事はいくつも前へ進み、わたしの判断に耳を傾ける者たちも増えた。けれど、その手応えを理由にロゼリーヌ様の沈黙へ踏み込めば、認められ始めた権限を、最も向けてはならない相手へ使うことになる。急かせば離れる――その恐れも、同じだけ強い。


「……そうか……まだ……か。そなたも……心配であろう。……儂には……もう……時間が……残されていないが……母子を……追い込むこと……儂は……望まぬ……」


 弱い声でも、言葉の底ははっきりしている。兄を守り切れずに国の闇を許した王として、もう誰かを縛りたくないのだろう。わたしも、同じところへ立っている。


 包んでいた父の手を、ほんの少し強く握る。ひとつ深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


「ええ、わたくしも同じ思いにございます。お二人を力ずくでお引き離しするような真似だけは、決して致したくございません……。ただ、時が乏しいのも事実です。――父上、わたくしの務めを果たしてまいります。必ずや、事態をよき方へと動かしてみせます」


 父はかすかに頷いたように見えた。けれど、その動きはすぐに咳へ変わり、侍医司の医官が「そろそろ……」と声を上ずらせる。


「どうか、ゆるりとお休みくださいませ。――なにとぞ、少しでも長く……」


――生きていてくださいませ。


 最後は、言葉にならなかった。額に手を当てる。微かな熱が指へ移り、父がまだ生きていることを確かに伝えてくる。父はその温度に気づいたのか、消え入りそうな表情でまぶたを閉じた。


 布団を整えて寝所を出ると、廊下の冷えが肌に刺さる。


――春まで、もつかどうか。


 残された時間のなかで、ロゼリーヌ様とリュシアン殿をどう救うのか。考えるほど、こめかみが重く疼く。


「陛下……いかがでしたか。先王陛下のご容態は?」


「あまりよろしくありません。気力だけでなんとか持ちこたえていらっしゃるようで……」


 扉の前のセラは、肩をこわばらせて目を伏せた。


「この先、どうなるのでしょう。宰相様や重臣たちが、ずいぶんと『次代を決めよ』と騒いでいると聞きます」


 細い声が、不安をさらに掻き立てる。施策への理解者が増え始めても、次代を巡る圧が消えたわけではない。三週間、ロゼリーヌ様からの返答は届かず、父に残された時間だけが短くなっていく。


「……何とかしなくてはならないのですが……」


 曖昧にしか言えず、舌に金属の味が薄く乗る。セラの表情にも憂いがさして、わたしは歩幅を早めた。次の公務へ、執務室へ。表では、三週間前にはなかった道がいくつも開き始めている。その一方で、モンヴェール男爵家が書簡原本を受領したことは確認できているものの、ロゼリーヌ様からの返答はない。


 ――決めかねているだけなら、いくらでも待てる。どうか、待っているあいだに、ロゼリーヌ様とリュシアン殿の身に何も起きていませんように。


◇◇◇


 部屋に戻り、書類を片付け終えたころには、刻はもう深夜に近かった。公務の波に揉まれ、父への思いに胸を抉られ、体も心も底をつきかけている。寝台に横たわっても、思考が渦を巻いて眠りの縁が遠い。


 侍医司の「春まで、もつかどうか」という見立て。前へ進み始めた復興。書簡原本の受領を確認した後も届かないロゼリーヌ様からの返答。どれも胸の内で重なり合い、息苦しさを募らせる。政治の上では、怖いほど滞りなく結果が返ってきている。それでも、紙の上へ載らない場所まで、同じように穏やかであるとは限らなかった。


 うつらうつらと沈みかけたとき、廊下を駆ける慌ただしい足音が近づいた。つづいて、扉が激しく叩かれる。心臓が跳ね、夜着のまま扉を開け放つと、コルデオが蒼白な顔で立っている。


「メービス陛下、失礼いたします! 至急、お耳に入れたいことがございます」


「どうしたのです、コルデオ……こんな夜更けに、いったい何が起きたのですか?」


 先王の件が脳裏をかすめ、手がふるえる。コルデオは胸を押さえ、息を整えてから言葉を絞った。


「たった今報せが参りました。昨夜、王都近くの街道においてモンヴェール男爵家の執事が……何者かに襲われて重傷を負ったとのことです」


 視界が一瞬、遠のき、呼吸が浅くなる。執事が生きているのか、まずはそれを確かめなければならなかった。


「何ですって!? それで、執事は無事なのですか?」


「はい。偶然非番の銀翼騎士団員が居合わせ、瀕死のところを救護いたしました。しかしながら、犯人は闇夜に乗じて逃走を……。執事が申すには、持っていた陛下宛ての書状を奪われたとのことです」


 わたし宛ての書状――ロゼリーヌ様の意向か。


「誰が、どうして……? いえ、これはただの賊ではない可能性が高いですね……」


 唇を噛む。指先にじっとり汗がにじみ、廊下の冷えが夜着を通して肌へ届く。金具が小さく鳴り、隣室からヴォルフ――ヴィルが現れた。わたしとは対照的に、その声は落ち着いていた。


「その件なら、こちらで把握している」


「どういうことですか?」


「陛下、まあ落ち着け。執事はかなりの重傷だったが、なんとか命をつないでいる」


「ほんとうですか?」


「ああ。前に話した小屋敷へ運び込んで、今は医師に治療させているところだ」


「……そうでしたか。しかし、どうしてわたくしに知らせてくださらなかったのです? これほどの一大事を、なぜ黙っていたのですか?」


 詰問の調子になる。冷静な彼に比べ、わたしだけ空回りしている気がして、頬へ熱が集まった。


「そうは言うが、ここのところ、ろくに寝ていないだろうが。こんな話を聞かせれば、陛下のことだ。夜通しでも走り回りかねん」


 図星で、言葉が出ない。頭で動くつもりが、感情で走ってしまう癖を、彼はよく知っている。


「……それは……」


「安心しろ……小屋敷は信頼のおける連中に警護させている。いったん落ち着いて、夜が明けてから会いに行こう」


 理屈では頷けても、じっと夜明けを待てる気はしなかった。


「あなたの仰ることはごもっともです。……ありがとうございます。ですが、わたくしはどうしても今夜のうちに会いに行きたいのです。どのような状況なのか、わたくし自身の目と耳で確かめなければ、落ち着くことも眠ることもできそうにありません。――そういうわけですので、お願いいたします」


 彼は苦笑を浮かべ、少し呆れたように肩をゆるめた。


「やれやれ……まったくうちの陛下ときたら、一度決めたら歯止めが利かん。とんだじゃじゃ馬だ」


「それにつきましては、自分でもよく分かっております。ですが、一刻も早く事態を把握したいのです」


「じゃあ、行くか? コルデオに馬車を手配させて、裏手から静かに抜ければ、気づかれない程度には動けるだろう」


「ええ、参りましょう。……わがままを言って申し訳ありません、ヴォルフ。いつもあなたには負担をかけてしまいますね」


「気にするな。そんな陛下を支えるのが俺の役割だ。――んじゃ、準備しよう。俺も少しばかり荷をまとめる。コルデオ、頼めるか?」


 コルデオが苦笑し、足早に去っていく。わたしはナイトドレスの上に厚手のガウンを重ね、深夜の王宮を静かに後にする支度をはじめた。


 男爵家の執事が襲われ、書状が奪われた。三週間のあいだ、男爵家から何の動きもなかったわけではない。少なくとも、モンヴェール男爵家の執事は、わたし宛ての書状を携えて王都へ向かっていた。それがロゼリーヌ様から託されたものなのか、何が記されていたのかは、まだ分からない。誰が、何のために奪ったのかも分からない。それでも、じっとしていられるはずがなかった。父の余命が短いからといって、ギルク兄上の書簡を読むかどうか、その内容をどう受け止めるかというロゼリーヌ様の判断を急かすことはできない。だが、母子のまわりで何が起きているのかを確かめ、考える時間そのものを守ることはできる。まずは執事から聞く――それが先だ。


 夜気に沈む王都を、ヴィルの手配した馬車で抜けることになる。女王が深夜に王宮を出たと広く知られれば、それだけで憶測を呼ぶ。人目を避けて脇門を出るには細心の注意がいるが、彼の導きがあれば、余計な痕跡を残さず動けるかもしれない。


 眠気と緊張が混じり、奥歯へ知らず力が入る。身体は重いのに、神経だけが張りつめていた。この三週間、国の仕事は進み、わたしの判断を受け止める者も増えた。けれど、その同じ時間に、見えていなかった出来事が男爵家のまわりで起きていたのなら、いまから確かめればいい。父上に残された時間が尽きる前に、ロゼリーヌ様とリュシアン殿の無事を確かめたいという焦りと、ロゼリーヌ様が何の妨げもなく考えられる時間を守りたいという願い。そのどちらにも嘘をつかず、まず届こうとした言葉を拾い直さなければならなかった。


 階下から、馬車を整える物音が静かに届く。ガウンの裾を指にからめ、暗い廊下を足早に抜ける。足音を抑え、呼吸をひとつずつ整えた。


 濡れた踏み石を靴底が擦り、小さな音がした。歩幅がわずかに伸びる。脇戸の金具が一度だけ鳴り、手渡された毛布の粗い織り目が革手袋をざらりと擦った。手袋の中で指が一度こわばり、わたしは石段を降りた。


 馬車の車輪が石畳を踏むたび、微かな振動が身体を揺すり、窓外の景色がじわじわと遠ざかっていく。闇のなか、王宮の中庭に灯っていた灯火が、やがて見えなくなっていく。


 その消えゆく明かりを追うたび、胸の奥がちくりと疼き、馴染みの場所を自分の手で手放していくと知る。窓枠の冷えが指腹へ移り、吐いた息が薄く白んだ。


 冬の夜気が肌を刺すように、窓の隙間から入り込んだ冷たい風が頬をかすめた。そちらへ意識を向けると、手袋の内側ににじんだ汗が冷え、その冷たさに指先の感覚が少しずつ戻ってくる。


 それでも窓辺から離れられない。去りゆく王宮の灯を最後の一瞬まで見届けたくて、目を凝らしてしまう。今のわたしにとって、あの光は帰る場所である。同時に、父を置いて出てきた後ろめたさを思い出させる光でもあった。


 先王の病床に寄り添いたいと思いながら、どうして今ここを出ていくのかと、自分に問い返してしまう。答えは分かっているはずなのに、苛立ちと迷いは消えず、窓枠に触れた指に力がこもった。


 けれど、動かなければ奪われた書状と、その向こうで起きている異変を見過ごしてしまう。それだけはできない。深く息を吸い直すと、窓外へ貼りついていた意識が少しほどけた。


 背もたれに身を預けると、革張りの座面がわずかにきしんだ。身体を支える感触があっても、落ち着きは戻らない。王宮を離れるにつれて周囲の物音は減り、御者の声と馬のいななきだけが、車輪の響きの向こうで途切れ途切れに聞こえた。車軸の油が淡く匂い、身じろぎするたび座面の縫い目が短く鳴った。


 正面の座では、ヴォルフ――ヴィルが窓外を警戒していた。その姿を見て、わたしはようやく車内へ意識を戻す。鋭い瞳が、暗がりの縁を射抜いている。


 今の彼は青年の容姿で、わたしの知る「ヴィル」とは遠い。瞳の底には昔と同じ影があるのに、顔立ちにも肩にも若さがあり、そのたび記憶の中の彼と目の前の姿がわずかにずれる。長い年月を刻んだ落ち着きのある横顔も、四十四歳の身体が帯びていた重みも、いまはここにない。


 それでも彼はそこにいて、手を伸ばせば触れられそうで、しかし近づきがたい。息を潜めているわけでもないのに、衣擦れの音をほとんど立てず、暗がりに馴染んでいる。


 どうしてこれほど懐かしく、肩の力がほどけるほど安心できるのだろう。まだ名を与えられない思いだけが、言葉にならないまま、彼を見つめる視線に残っていた。


◇◇◇


 四十四歳の彼――ヴィル・ブルフォードと出会ったのは、わたし――ミツル・グロンダイルが十二歳の頃。わたしはふたつの人生が重なった違和感に苛まれていた。前世の大人の思考を持ちながら、身体も感情もまだ幼い。その段差に、毎日つまずいていた。


 そんな、どちらでもない半端なわたしの前に現れた彼は、最初は掴みどころのない人だった。けれど日が重なるうち、その懐の深さに気づき、いつの間にか信頼が根を張った。


 普段は昼間から酒を飲み、くだらない冗談で笑わせながら、いざとなれば剣を取り、どんな魔獣にも冷静に対処する。荒れた海に静かに錨を下ろすような、確かな安定だった。


 寒空の焚き火を囲んだ夜もある。赤い火をともに見つめ、毛布に包まれたわたしの上へ、彼が革の外套を掛けてくれたこともあった。その重みと温もりは、今も胸の奥に残っている。


 スレイド――彼の愛馬の鞍で、その背へしがみついたとき、父親に守られるような温もりを感じたことがある。前世で得られなかった家族への憧れが、別の形をとったのかもしれない。


 けれど、それだけでは語り尽くせない。荒野で魔獣と対峙すれば、わたしも肩を並べて戦った。守られてばかりは嫌なのに、どうしようもなく彼を守りたいと思ってしまう。相反する願いのどちらも嘘ではなく、ひとつを選んで片方を捨てることはできなかった。


 あるときは幼さが顔を出し、彼に父の影を求める。別のときには前世の大人びた感覚が目を覚まし、彼と対等でありたいと願う。二つの想いのあいだで揺れながら、どちらか一方だけを本当の気持ちとは決められない――その曖昧さこそ、わたしたちらしいのだろう。


 もし、わたしが年相応の子どもであったなら、あるいは前世の年齢のまま振る舞えるほど割り切れていたなら、この安堵は生まれなかったかもしれない。どちらにも決めきれないまま、彼のそばでは静かに息ができる。それで十分だと思える瞬間が、たしかに在る。


 だから今はまだ、全部を定めない。形にもしない。けれど、いまのわたしには、ただひとつの願いがあれば足りる。


――これから先もずっと……一緒にいてほしい。


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