陛下の御手となる場所
記録官が箱の蓋を閉じたあと、俺はステファンを連れて軍務棟を出た。日が落ちるまでに、あいつの目で確かめさせておきたい場所があった。
王宮から東へ向かい、中央商業区の東寄りで馬車を降りた。東運河沿いの道を折れた先に、長く使われていない小屋敷が残っている。以前は香辛料商が使っていたらしい。いまは正面の看板も外され、門扉の鉄には赤錆が浮き、伸びた庭木の枝が窓へ押しつけられていた。屋根も一部がわずかに沈んでいる。
人目を避け切れる場所ではない。だが、人の目から隠れすぎた場所は、そこへ向かう者の姿がかえって残る。ここなら、使い方さえ誤らなければ街の一部に紛れられる。
取り寄せておいた鍵を錠へ差し込む。古い歯は二度ほど中で引っかかり、力を込めると、腹へ響くような音を立ててようやく回った。
扉を押し開けた途端、乾いた埃と冷えた木の匂いが息へ入り込んだ。斜めに差す午後の光の中を、舞い上がった埃がゆっくり沈んでいく。
ステファンは何も言わなかった。まず天井を仰ぎ、床板、窓枠、暖炉と順に目を移しながら、奥まで歩いていく。裏手には荷を運び込める戸があり、そこから続く細道は正面とは別の通りへ抜けていた。寝台を置けるほどの部屋が二つあり、庭には井戸も残っている。
「殿下は、ここを何にお使いになるおつもりなのですか?」
裏戸の掛け金を何度か押し引きしてから、ステファンが尋ねた。
「表向きは、俺の休息所だ」
「表向き、でございますか?」
「簡単に言えば、隠れ家だ。少人数での訓練にも使えるかもしれんが」
「まさかとは思いますが……王宮が落ちるような状況まで、お考えなのでございますか?」
「おいおい。そいつは物騒過ぎるぞ。想定してないと言えば嘘にはなる。だがな、こうも考えられないか? 銀翼は即応性が第一だ。事が起きる度に召集を掛けて全員集合だの点呼だのしてたら、対応が遅れるだろう?」
「そのために、王宮の外へ武装を保管しておくというのですか?」
「いいや。すぐには置かん。いま決めているのは、屋根と戸を直して、使える状態にするところまでだ。その先は、修繕の具合を見てから決める」
必要な者がここで支度を整え、裏道から動ければいい。武器と装備を置くとしても数人分に限り、兵は常駐させず、大がかりな武器庫にもしない。怪我人を休ませ、夜を越すなら暖を取れる。その程度でいい。
ステファンは返事の代わりに裏戸から庭へ出た。井戸の蓋を持ち上げ、縁に溜まった枯れ葉を指先で払う。隣家との塀を仰ぎ、細道へ続く戸口を見た。正面から入った者が裏から出たとき、別の通りへ紛れられるか。その目は、俺の言葉より先に逃げ道を測っていた。
「隠れ家といったって、何も籠城が目的じゃない。捨てる時には捨てる。いわば足場に過ぎん」
「それでも、武器や装備を置くのであれば、保管責任者と持ち出しの記録が必要です。所在を伏せることと、帳簿から消すことは同じではございません」
「分かっている。ただし、その帳面を誰にでも見せる気はない。鍵を持つ者も限る」
「王配殿下だけがご存じの武器庫にはなさらない、と?」
「俺が死んだ途端に使えなくなる備えなど、備えとは言わんだろう?」
ステファンは井戸の蓋を元へ戻し、手袋についた埃を払った。異論を引っ込めた顔ではなかったが、視線はまた、建物の傷みと出入口へ戻っていった。
「この場所の管理は、どなたに任せるおつもりですか」
「実は目星をつけていてな。任せたい人間がいる」
「すでに、その者へお話を?」
「まだだ。ちょいと興味深い経歴の持ち主でな。会って話してみなければ、なんとも言えんが」
鍵を渡すかは、会って確かめてからだ。ステファンも、それ以上は誰なのかと尋ねなかった。
屋敷の中へ戻ると、緩んだ窓枠が風に押されて低く鳴った。ステファンは傷んだ梁を見上げたまま、口を開いた。
「この屋敷も、本日の選抜と関係があるのでございますか?」
「銀翼が現場へ出ることになれば、何もかも王宮へ持ち込めるとは限らん。その途中で判断するための場所も必要になる」
「そのために、レオンのような生存への執念を持つ者や、クリスのような特異な技能を持つ者をお求めになったのでしょうか?」
「それもある」
俺は埃の積もった卓へ手をつきかけ、白く曇った板へ触れる寸前で止めた。
「だが、それだけじゃあない」
「ほかにも、何か?」
「同じ規格で揃えた組織は、想定どおりの状況ではよく動く。だが、前提が一つ崩れた途端、全員が同じところで立ち止まる」
ステファンの眉間に、深い皺が寄った。
「ですが、騎士団には規律と統率が不可欠です」
「当然だ。俺も、規律を捨てろと言っているわけじゃない」
規律を失えば、現場の判断はただの独断へ落ちる。命令を自分に都合よく読み替え、失敗すれば上官へ責任を押しつける。そんな者まで、柔軟な人材と呼ぶつもりはなかった。
「だが、規律を守ることと、全員を同じ型へ押し込めることは別だ。剣の振り方も、物の見方も同じ者ばかり集めれば、同じものしか見えなくなる」
「だから、兵卒や下士官まで候補に含めたと?」
「名簿に残した者を見ただろう。全員、魔族大戦の激戦地を生き延びた連中だ。華々しい武勲を持つ者ばかりじゃない。下級騎士もいれば、現場で叩き上げられた兵もいる。最前線で要るのは、剣の強さだけではない。道が塞がれれば別の道を探す者も、命令が届かなくなっても何を守るべきかを見失わない者も、傷ついた人間を連れ帰り、見たものを正しく報告できる者も要る」
華々しい武勲として記録されなくとも、そうした働きが人を戦場から生きて帰す。
「身分も、階級も、年齢も関係ない。必要な能力があり、課した規律を守れるなら使うまでだ」
それでも、その皺は消えなかった。
「殿下がお求めになる騎士団とは、いったい何なのでございますか?」
鋼色の瞳が、逃がすまいとするようにまっすぐ俺を捉えた。
「女王陛下直属の騎士団となれば、近衛騎士団にも増して王家の威信を示すものとなりましょう。国民が仰ぎ見る、国家の誇りとなるべきものではございませんか?」
「近衛と同じ役目を担う騎士団を、もう一つ作ってどうする」
「同じ役目ではございません」
「ならば、宮殿の中で陛下の背後に立ち、見栄えのする鎧を並べる必要もないだろう」
ステファンの目が、わずかに険を帯びた。
「近衛が陛下の周りに立つ盾なら、銀翼は陛下の手が届かない場所へ伸ばす手だ。魔獣が襲来すれば、大部隊の準備を待たずに駆けつける。住民を逃がし、退路を確保し、負傷者を拾い上げる。誰が追われ、誰が嘘をつき、どこから敵が入ったのかを調べる。必要なら剣を振るい、必要がなければ一人も斬らずに戻る。そして、陛下が次の判断を下すための事実を持ち帰る」
「それでは、現場の者へ大きな裁量を与えることになります」
「教科書や命令書に書かれていないことばかり起きる場所へ、真っ先に放り込むんだから当然だ。その場で何を優先し、どこまでやり、いつ退くかを現場で判断させる。俺が欲しいのは、そういう泥臭い騎士団だ。だから、何を守るための組織なのかを、最初から共有させるんだ」
「それだけで、命令から外れないと?」
「そのために必要な訓練はする。失敗を繰り返しながらでもな。権限の境も決める。想定外の事態でも、陛下のご意思から外れずに判断できるまで鍛える。だが、現場の判断を鈍らせるような王宮からの横槍は受け付けさせん」
ステファンはしばらく黙り、風に鳴る窓の向こうへ視線を移した。
「ですが、それだけでは、本日の候補者でなければならない理由にはなりません」
「よく気づいたな」
外套の内側から、折り畳んだ候補者名簿を取り出した。
「今回俺が集め、そして残した連中には、もう一つ共通点がある」
ステファンが名簿へ目を落とす。
「魔族大戦の最前線で辛酸を嘗め、泥水を啜りながら生き延びた連中だ。そして、全員が精霊の巫女とその騎士の姿を、その目に焼き付けている」
紙を持つステファンの指が止まった。
「何も戦う姿だけではない。俺たちが何を守ろうとし、何を守れなかったのかを、直に目にしてきた者たちだ」
難民たちが集まり、救いきれなかった者が横たわるなかで、それでも次に救える命のために立ち上がり、進む俺たちを見てきた者たちだった。
「陛下に対する恩義を、選抜の基準になさるというのですか?」
「恩義しか持たない奴などいらん。忠誠を叫ぶだけなら、いくらでもできるからな。だから今日、判断と能力を試したんだ」
「では、なぜ?」
「命令系統が途切れたとき、何を優先すべきかを知っているか。それを確かめるためだ。救える者を見捨てない。勝つことだけに目を奪われず、生きて帰る道を残す。名誉や体面のために、民や兵を使い潰さない。言葉で教え込まれたのではなく、戦場で実際に見た者なら、上からの命令と目の前の現実が食い違ったときにも、守るべきものを見失いにくい」
ステファンは紙の端を揃え、名簿を閉じた。
「規律を同じにし、目的を同じにする。だが、そこへ至る方法まで統一する必要はない。それが、俺の考えている銀翼騎士団だ」
「私も、魔族大戦の最前線におりました」
「ああ。記録には目を通した」
「ですが、精霊の巫女と騎士のお姿を、この目で見たことはございません。お二人が戦場に立ったことも、多くの者を救ったことも、報告で知っただけです」
「知っている」
同じ戦争を戦ったからといって、同じ光景を見たことにはならない。
「お前に、あの者たちと同じ理由を求めているわけじゃない。それでも、お前はいまの陛下を見たうえで忠節を立てた。それは別の話だ」
閉じた名簿から、ステファンの視線が上がった。
「では、なぜ私へ、そこまでお話しになったのですか?」
古い床板が、風に押された窓枠の音を受けてかすかに軋んだ。ここは、言葉を濁してよいところではなかった。
「いまの陛下は、王国再建の為の旗印だ……。王位へ就き、決裁し、命令を出す権限は持っている。それでも、名が国の安定そのものと結びつけられたせいで、かえって自由には動けない。何をしても王家の判断となり、どこへ行っても国家の威信と危険がついて回る。乱暴な言い方をすれば、国中があいつを御旗として掲げたがっている。だが、旗は自分で戦場へ走れんのも事実だ」
「女王陛下を、お飾りと仰るおつもりですか」
「俺は、そうさせたくないと言っている。有事となれば、陛下は精霊の巫女として、現場へ向かおうとするだろう。救いを求める者がいると知りながら、王宮で報告を待つことなど嫌がるに決まっている。だが、陛下を危険な最前線へ出すことはできない。失うものは陛下一人の命では済まず、再建の途上にある国そのものが揺らぐ。陛下には命じる権限がある。だが、陛下のご意思だけで、誰にも遮られず即座に動かせる手足はまだ少ない。味方も、現状十分とは言えんからな」
女王が動けず、既存の手もすぐには届かない。その空白へ差し込むための手が銀翼だった。
「陛下が赴けない場所へ、陛下に代わって駆けつける。陛下であれば助けようとするだろう者を救い、陛下が判断するに足る事実を持ち帰る。そのための騎士団だ」
ステファンの口元に残っていた反論を押し返すような硬さが、少しずつほどけていった。
「それで、あの者たちなのでございますね?」
「ああ」
「陛下に救われた恩義があるからだけではなく、陛下が何を見てしまい、何を見捨てられない方なのかを知り尽くしている者たち……」
「そうだ。陛下は、メービスとは、そういう面倒くさい奴なのさ。おっと、これは不敬な物言いだな」
ミツルの生き様は、本来のメービスそのものに重なっているように思えて仕方がない。類まれな叡智と胆力、そして強い責任感の持ち主だと、そうした言葉で片付けるのは容易い。だが、あのユベル・グロンダイルを知る俺には、それがミツルのすべてではないと分かる。あいつは父親以上に、他人の痛みを自分のものとして引き受けてしまう。優しすぎるのだ。その純粋さゆえに、自らを死地へ追い込むことさえ厭わない。だからこそ、俺はミツルを失いたくない。彼女には、笑っていてほしいのだから。
「いいえ。陛下がそのお優しさと責務との間に置かれて、心を痛めるだろうことは、理解できるつもりです。つまり……殿下の思惑とは、陛下の命令が届かぬ場所でも、騎士たちにその御心から外れぬ判断をさせるため。そういうことだったのですね」
「ようやく分かってもらえたか」
ステファンはすぐには答えなかった。裏戸の隙間から入り込んだ風が、床の埃へ細い筋を引いていく。遠くで荷車が石畳を通り、その軋みだけが壁越しに小さく響いた。
「されど、私は殿下のために動くつもりはございません」
「知っているさ」
「以前のように、あなたを信じることもできません」
「それも、もう聞いた」
「ですが」
ステファンはそこで言葉を切った。閉じた名簿が、まっすぐ俺へ返される。
「陛下が御自ら赴くことのできぬ場所へ、その御心を届けるためであるならば、私の願いも同じでございます」
全面的な信頼でも、忠誠の回復でもない。だが、名簿はもうステファンの手を離れていた。俺を認めずとも、銀翼を何のために作るのか、その目的を自分の願いと重ねることはできると決めたのだろう。
「それで十分だ」
「ただし、女王陛下の名を用いる以上、殿下の独断で運用することは認められません。人員、費用、権限、記録、既存部隊との境界は、すべて明確にしていただきます」
「分かっている。そこは、陛下の裁量を仰ぐことになろう」
「現場の裁量という言葉で、規律違反を見逃すことも認めません」
「しつこいぞ、ステファン。分かったと言っているだろう」
「分かっておられる方が、木剣へご自分の喉を差し出されるとは思えませんが」
「まだ言うか。なんて口うるさい補佐役なんだ」
「拝命した以上、申し上げるべきことは申し上げます」
昨日までと変わらぬ、融通の利かない声だった。それでも、その厳しさが向けられる先は少しだけ変わっていた。ステファンは帳面を開き、屋根、井戸、正面の戸、裏口と、確かめた順に書き込んでいく。
「では、まず建物そのものが使用に耐えるか確認いたします。修繕へ入れる者も、用途を知らなくてよい者に限りましょう」
「お? ずいぶんと協力的になったな」
「女王陛下の御手となる場所が、最初の雨で潰れては困りますので」
ステファンは顔を上げず、もう梁の傷みを書き足していた。俺は掌の上で古い鍵を一度だけ返す。任せたい人間の顔には目星をつけている。だが、それはまだ、こちらが勝手にそう考えているだけだ。
この家も、銀翼も、形を整え始めたばかりだった。それでも、何のために作るのかは、今日初めてステファン自身の言葉になった。俺は古い鍵を外套へ戻した。それを次に誰の手へ渡すのかは、まだ決めなかった。
◇◇◇
夜になり、公の執務室を退いたあとも、ミツルは残りの書類を寝所の前室へ持ち込んでいた。卓に積んだ書類の最後の一枚を脇へ置き、ようやく細く息を吐く。若緑色のウィッグは鏡台に置かれ、ほどいた黒髪が背を伝い、椅子の端まで流れている。右手には拭いきれなかったインクが残っていた。固まった関節をほぐすように指を曲げ伸ばしするたび、燭台の光がその指先と紙の端で揺れた。
「今日は、どうだった?」
「面白い奴が二人見つかった」
名を告げると、ミツルは卓の端に置いていた選抜記録の控えに、レオン、クリスと順に書き留めた。
「あなたのお眼鏡に適ったということは、選考基準は剣の強さなの?」
「違うさ。いくら俺が剣の餓鬼とはいえ、求める人材はそれだけじゃあない」
「そう思った」
こちらを試すように尋ねたのだろう。ミツルは驚くこともなく、レオンの名の横へペン先を置いた。
「レオンは、俺の無理難題に対して、荷を捨ててでも人を守り、たとえ泥を啜ってでも生き延びて、負傷者を連れて帰ると答えた」
「ふふ……」
紙へこぼれかけた笑いを隠すように、ミツルは唇へ指を寄せた。朝から張りつめていた肩が、その短い間だけふっと下がる。
「何を笑う?」
「いかにも、あなたの好みそうなタイプだなって、思ったの」
「ふん」
言い返せるほど外れてもいない。俺が黙ると、ミツルは笑みの名残を目元に残したまま、次の名へ視線を移した。
「で、このクリスって名前だけど……もしかして女の人なの?」
「ああ。そうだ。こいつもちょっとしたものでな。目を閉じたまま、気配を消して近づこうとした俺を察知してみせたんだ」
袖に残る木剣の擦れ跡を指でなぞると、ミツルのペンが紙の上で止まった。
「あなたを相手に? それは驚きね……」
感心を浮かべた目が、擦れ跡から俺の喉元まで上がってくる。どこまで近づいたのかと問われる前に、二人とも今日の結果だけで決める気はないと付け加えた。レオンの答えは、人を救う覚悟であると同時に、命令を己に都合よく読み替える危うさも含んでいる。クリスの反応とて、本人にさえ理由が分からないままなら、相手を確かめるより先に剣を向けかねない。
ミツルは二人の名の脇へ、それぞれ違う幅の余白を残した。レオンには、条件が変わったときに撤退を選べるか。クリスには、反応したあとで剣を止められるか。俺の懸念を「選ばれた」の一語へ縮めず、次に見るべきものとして書き分けていく。
「ステファンの様子はどう? あなたの補佐役をしていると聞いたけど」
「なかなかに使える男だ。いろいろ突っ込まれて腹は立つが、真面目で融通が利かなすぎるだけだろう」
「それ、本人へ言ったの?」
「言う必要があるのか?」
「たまにはね。とくに、あなたの場合は」
ミツルは笑わなかった。ただ、伏せた目元から、朝から残っていた張りが少しだけ抜ける。ステファンが俺へ異を唱えながらも、補佐役として必要な仕事は引き受けている。それを聞いて、ひとまず息をつけたらしい。
俺は昼間に木剣が掠めた袖を直し、向かいの椅子へ腰を下ろした。外套の内側で、古い鍵が衣擦れの音にまぎれて胸へ硬く当たった。
「それと、王宮の外に、俺が自由に使える場所を一つ置きたいと考えている」
「場所って? どんな?」
「既に目星はつけてある。中央商業区の東寄りにある古い屋敷だ。長く使われていないが、屋根と戸を直せば、息抜きの場所としては使えるだろう」
ミツルの指が止まった。卓上に並んだ二人の名から、鍵の入っている俺の外套へ、ゆっくり視線を移す。ただ休むためだけに、俺が王宮の外へ屋敷を欲しがるとは思っていない。それくらいは、言われるまでもなかった。
「王配殿下がご自分から休む場所をお求めになるなんて、とても良いことだと存じます。王宮では人目もあるし、おちおちお酒も楽しめないでしょうしね」
あまりにも整った言い方だ。王家の管理簿へ記すなら、そのまま理由として使えそうだった。
「なんだ、その言い方は。気に食わん」
「冗談よ。どうせあなたのことだから、休むと言いながら、そこで誰かを鍛えるつもりなのでしょう?」
「少人数なら剣を振るうくらいはできるだろうが、目的はそれだけじゃない」
「じゃあ、悪巧みをするための秘密基地かしら?」
「人聞きの悪いことを言うな」
「だって、あなたが楽しそうな顔をしているからよ。まるで子どもみたい」
「そんなふうに見えるか?」
「うん。ちょっとね。ま、詳細については形になってから教えてくれればいいわ」
俺が何かを黙って先回りすることを、ミツルはもう知っている。だが、今夜はその中身を暴こうとはしなかった。ペンを持った指を止めたまま、若翡翠の目だけをこちらへ向け、答えを急かさずに待っている。
「いま決めているのは、屋根と戸を直し、使える状態にするところまでだ。それ以上は、まだ形にもなっていない」
「形になっていないから、話せないの?」
「話せば、お前は使うかどうかも分からん屋敷について、誰が責任を負うのか、どの費用を削るのか、今夜のうちに全部決めようとするだろうが」
「否定はしないけど?」
ミツルは白紙を一枚引き寄せ、ペン先へ新しくインクを含ませた。それでも、まだ紙へは触れさせない。話していない使い道まで知ったような顔はしなかった。俺がいま口にした範囲と、その先の未決とを分けて考えている。
「王家の管理下にある建物なら、現況の確認と、雨風をしのぐために必要な修繕までは認めるけど、費用と作業に入る人は、ちゃんと帳簿に残してね」
「あー、分かった。相変わらず細かいことだ」
「休息所と稽古場として定期的に使う人の範囲もね。誰が鍵を持っているのか分からない建物にはしないこと」
「それも残す」
「人を常駐させたり、武器や物資を集めたりするなら話は別よ。休息所という名目で始めた場所を、あとからあなた個人の部隊の拠点へ変えるのは認めません」
「そんなつもりはないが……」
「いまは、でしょう?」
口を開きかけて、やめた。屋敷の真の使い道を見抜いているわけではない。ただ、今はない選択肢まであらかじめ用意しておくのが、俺のやり方だと知っているのだ。
それでもミツルは、何を伏せているのかと問い詰めるために、女王の権限を使おうとはしなかった。今夜認めるのは、傷んだ建物を調べ、休息所として最低限使えるところまで直すことだけ。それ以外の使い方が形を持ったときは、その前に話せと線を引いている。
「休息所と稽古場以外の使い方が生じたときは、教えてちょうだい」
「そうする」
引き寄せられた白紙には、まだ何も書かれていない。秘密にすることと、存在しなかったことにするのとは違う。ミツルに話していない使い道があるからといって、建物も、費用も、作業へ入った者も帳簿から消してよいことにはならない。
だが、使い道のすべてを最初から広く記せば、守るための場所が、そこへ向かう者を追う道にもなり得る。どこまで残し、誰に見せるのか。その線は、実際の使い方が形になったときに引かねばならなかった。
「じゃあ、その場所が整ったら、一度は見せて。あなたのとっておきの〝ひみつきち〟を、ね」
「そうだな。女王陛下が、心置きなく休めるようになったら考えよう」
「それ、条件になってないでしょ。わたしが多忙続きであれば、見せずに済むわけだし?」
「よく分かったな」
「もう、意地悪なんだから」
今度は、ミツルの口元がわずかに緩んだ。白紙の上端へ、屋敷の現況確認と最低限の修繕について短く記す。それだけを書き終えた手は、そのまま次の書類へ伸びた。紙が引かれるより先に、俺はその端を指で押さえた。
「仕事が山積みなのは分かるが、今日のところは終わりにしろ」
「あと一枚だけ」
「その一枚が終われば、次も一枚になるのだろう?」
ミツルは指先へ力を込めたまま、しばらく紙を離そうとしなかった。燭台の火が揺れるたび、二人の手の影が同じ紙の上で重なり、ずれる。やがて諦めたように指が開き、インクの残る手が膝の上へ下りた。
「じゃあ、明日の朝にするわ。あなたも、審査で候補者に無茶をさせすぎないでね」
「俺は何もさせていないぞ。今日なんか、むしろ俺のほうが候補者に木剣で喉を狙われたくらいだ」
膝へ下りたばかりの手が止まった。ミツルは顔を上げ、真っ先に俺の喉を見る。
「……ちょっと。それこそ冗談じゃないわよ。あなた、なに危ないことしてるの?」
「候補者の能力を試しただけだ。少しばかり身体を張ったところで、俺なら何の問題もない」
「まあ、そこはヴィルだしね。大丈夫だとは思うけど……だからって、危ないことをしていい理由にはならないでしょ?」
「わかった。お前に気苦労を掛けないよう、善処しよう」
「お願いするわね」
「それにしても……」
「なに?」
「ここ最近のお前を見ていると、どうにも不思議な感じがしてな。なんだか……」
「なんだか?」
「いや、なんでもない。俺の気のせいだ。忘れてくれ」
「おかしなひと」
若翡翠の目が細くなった。余計なことまで口を滑らせる前に、俺は書類を重ね、卓の端へ寄せた。昼間、ステファンにまで何を言われたか話せば、今夜は俺のほうが記録を取られかねない。
ミツルは何か言いかけたが、俺の喉元に傷がないのをまた目で確かめると、音にならない息だけを吐いて立ち上がった。
寝室へ移る前に、上着の内側から古い鍵を取り出した。灯りを受けても鈍い色は変わらない。掌へ載せると、見た目よりも重かった。
ミツルは、それが先ほどの屋敷の鍵なのかとは尋ねなかった。屋敷について書きかけた紙を取り上げ、俺の手の中を一度見てから、その紙だけをほかの執務書類と分けて卓の端へ置いた。
この鍵だけは、一度も急いで回さずに済むほうがいい。今日許された修繕も、使われない備えのまま終わるのなら、それで構わなかった。
だが、必要になってから場所を探し、人を探し、誰を信じるのかを決めるのでは遅い。あの小屋敷が安全を約束してくれるわけでもない。出入りを知られれば、逃げ込むための扉は、そのまま待ち伏せの場所へ変わる。鍵を急いで回す夜が来たなら、そこで稼いだわずかな時間のうちに、さらに次の道を選ばねばならない。
親指で、錆のざらつきをなぞった。この古い鍵は、まだ屋敷を守る鍵ですらない。錠は替えねばならず、次の鍵を誰が持つのかも、使った事実をどこへ残すのかも、まだ決まっていなかった。
明朝、鍵の預かり先と錠の交換をステファンの帳面へ加えさせる。そのために、ミツルが取り分けた白紙の上へ鍵を置いた。紙に書かれているのは、現況確認と最低限の修繕までだ。上着へ戻せば、また俺一人の持ち物になる古い鉄が、まだ何も決まっていない白紙の上で、燭台の灯りを鈍く返していた。




