王配の昼、候補者たちの剣
コルデオから早馬が王宮を出たとの報告を受けたころ、俺は軍務棟の一室で候補者名簿を睨んでいた。
机の上には、所属、出自、従軍歴、負傷歴、上官からの評定が、同じ書式の枠へ几帳面に並べられている。従軍年数や褒賞の数は分かる。剣技、行軍、騎乗、野営についても、軍が点をつけられるものには点がついていた。
だが、紙を重ねるほど、書かれていないものの形が見えてくる。ある候補には家門の印を捺した推薦状が二通も添えられ、ある候補には直属の上官が書いた短い評定しかない。部隊が半数を失った戦場から生還していても、褒賞欄が空白の兵がいる。その一方で、後方任務の期間が長いのに、華々しい武勲だけを並べた者もいた。
従軍年数や褒賞の数は読めても、その上官がどの家門と近いのか、書かれた謹慎が命令違反によるものか、無理な命令から部下を連れ帰った結果なのかまでは、いまの俺には分からない。軍の上層には貴族の家に生まれた者が多く、推薦と昇進のあいだには、名簿へ書かれない道があるらしい。反対に、兵卒や下士官、軍馬や補給を扱う者たちの働きは、隊が帰還できたときほど記録の後ろへ隠れた。
扉が開き、ステファン・ギヨームが入ってきた。銀灰色の髪は背へ流して一つに束ねられ、軍装の襟元まで乱れがない。鋼色に近い目が、机上の名簿をひと巡りした。
「訓練場の準備が整いました」
「すまんな。助かる」
平民の家に生まれ、剣技と規律と実務だけで、貴族の多い軍務の中に立つ場所を作ってきた男だと聞いている。俺は名簿から一枚を抜き、差し出した。
「この者の上官は、功績を部隊長個人のものとして報告する傾向がございます。個人評定だけを見れば凡庸ですが、実際には二度、退路の確保を任されています」
名簿の評定は短い。だが、その一言だけで、紙の上に見えなかった戦場が少しだけ立ち上がった。
「では、この謹慎の理由は?」
紙を持ち上げると、ステファンの指が止まった。鋼色の瞳が、文字ではなく俺の顔へ向く。
「殿下は、この程度の事情もご存じないのでございますか?」
穏やかな声だからこそ、言葉の縁が硬い。かつてのヴォルフなら、名簿を開く前から知っていたことなのかもしれない。あるいは、ステファンが知っているヴォルフは、知らなくても知らない顔を見せなかったのだろう。
「知っていたら、お前をここへ呼んでいないさ」
「便利な言葉でございますね。記憶が混濁していると仰れば、以前の不始末も、現在の無知も、同じ場所へ収められる」
「収めるつもりはない。知らないまま選べば、巻き添えになるのは候補者だ。それが嫌だから聞いている」
窓の外で、訓練場の号令が壁へ反響した。ステファンは視線を名簿へ戻した。紙の端に置いた指が、先ほどまでより強く紙面を押さえていた。
「私は、女王陛下が裁可なさった限定試行に必要な事実を申し上げるだけです。殿下個人へ忠誠を誓った覚えはございません」
「それでいい。俺も、忠誠を量るために呼んだわけじゃない」
「では、何を量るおつもりなのですか?」
「量るも何もない。俺はお前の信念を評価した。それ以上でも、それ以下でもない。そして、俺が求めるのは、何が何でも生き延びて帰る奴だ。連れて帰れる者を置き去りにせず、それでも死ぬことを選ばない。そういうしぶとさを持つ奴だ」
ステファンの眉が、ごくわずかに動いた。
「武勲を立てることに血道を上げるような者など要らん。たとえ敵を倒せなくても、傷ついた兵や民を連れて戻れる者。命令が途中で変わっても、最初の命令にしがみつかず、全滅を避けて帰れる者。剣を持たぬ者の仕事を、蔑ろにしない者だ」
「そのような資質は、名簿からは読み切れません」
「だから今日、見るんだろうが」
俺が席を立つと、ステファンも続いた。
◇◇◇
試行に呼ばれた兵たちは、軍務棟の裏にある屋内訓練場へ集められていた。雨の名残を吸った土と、手入れに使う油の匂いが、石壁の内側へこもっている。壁際には木剣、縄、空の樽、担架、荷車の片輪まで並べさせた。剣技だけを見せる場ではないと気づいた者は、入ってきた時点で道具の位置を確かめている。
候補者の装具は揃っていなかった。新しい革当てを着け、家名の紋を小さく刻んだ剣帯を締めた者もいれば、補修した手甲を使い続けている兵もいる。ここへ呼ばれた理由を知っている者も、上官から何も告げられないまま来た者もいた。名前を読み上げる記録官の声は同じでも、その名がここまで届いた道は同じではない。
最初の組が動いているあいだ、俺は壇上へ座らず、訓練場の端に立った。王配が近くにいれば身体が固くなる者もいる。逆に、見られていると知った途端、声と動きが大きくなる者もいた。剣を合わせる前に、同じ組の兵が転んだときだけ目を動かす者もいる。そのどれも、名簿には書かれていない。
ステファンは俺の隣に立たず、少し離れた場所から候補者たちを見ていた。
模擬戦と負傷者役の搬送が終わるたび、候補者を一人ずつ奥の小部屋へ呼んだ。机には北部街道の略図と、木片で作った荷車、宿場、橋、負傷者の駒が置かれている。
赤い髪の若い兵が入ってくると、記録官が名を読み上げた。
「レオン。前へ」
呼ばれたレオンは、踵を揃えて背筋を伸ばした。まだ少年の名残を留めた顔は、戦歴の長い候補者たちに混じれば場違いにさえ見える。従軍期間は短い。それでも記録には、損耗の大きい部隊をいくつも渡り歩き、そのたびに生きて戻ったとある。
俺は地図の上へ駒を並べた。山道の中央に壊れた荷車を置き、荷台には食糧の樽や袋を示す小さな木片を積む。橋の手前には負傷者の駒を二つ、その後方には魔獣を示す黒い石を寄せた。
「お前はこの班の責任者だ。荷車には王家から預かった貴重な食糧がある。車軸が折れ、負傷者が二人。橋は傷んでいて、荷を積んだままでは渡れない。後方から魔獣が来る。救援は日没まで来ない。さて、お前ならどうする?」
レオンは返事をせず、地図へ視線を落とした。荷車から橋へ、橋から道の両脇へと目を移し、もう一度、黒い石まで戻る。指が荷車の上で止まったが、すぐには触れない。やがて食糧の木片を荷台から降ろし、数を確かめながら三つに分けた。
「歩ける者に持たせます。持てない分は、樽と荷車を横倒しにして道を塞ぎ、追ってくる魔獣を遅らせます。負傷者は担架へ固定します。身軽な者を先に渡らせて縄を張り、残りは一人ずつ。負傷者は、向こう岸から担架ごと引きます。全員が渡ったあと、こちら側の渡り口を壊します」
「では、食糧を捨てるというのか?」
「はい!」
大きな声が、部屋の壁へ返った。ステファンは眉を動かさず、三つに分けられた木片へ視線だけを落とす。レオンも目を逸らさず、王家の物資と聞いても、木片を荷車へ戻そうとはしなかった。
「王家に託された物資だぞ」
「仰る通りです。ですが、守ったまま全員死ねば、一袋も届きません。全員無事とはいかないかもしれませんが、帰還できれば失った量を報告し、取りに戻る方法も考えられます」
「渡り口を壊せなければ?」
「渡り終えた者から先へ退かせます。足の速い者を負傷者の護衛につけ、残りは橋の向こうで魔獣を引きつけます。そこで持ちこたえるのではなく、距離を取りながら順に退きます」
「最後まで残るのは誰だ?」
「この俺です!」
「なるほど。勇敢な答えだ。そのまま死ぬつもりか?」
レオンの眉間に皺が寄った。叱責に身を縮めたのではなく、なぜそこへ死ぬという答えが続くのか、問いの意味を測りかねたように視線がわずかに揺れた。
「無論、死ぬつもりはありません。橋まで退けなければ斜面へ逃げます。斜面が無理なら沢へ下ります。たとえ泥を啜ってでも生き延びて、負傷者がいれば連れて帰ります」
「命令が、持ち場を守れというものであってもか?」
「守れる間は守ります。ですが、何が起きたのかを報告することにも意味があると考えます。処罰されるなら、そのあとで受けます」
言い終えると、レオンの肩が一度大きく上下し、握っていた拳が開いた。死ぬことを恐れないとは言っていない。処罰も、泥にまみれて逃げることも、望んでいるわけではない。それでも、失われた持ち場へ立ち続けることを、忠実さの証しにしようとはしなかった。
レオンは三つに分けた食糧の木片を集め、荷台へ戻した。ひとつずつ元の位置と向きを確かめ、最後の木片が傾くと、指先でそっと立て直す。クソ真面目という言葉を、人の形へ押し込めたような男だった。
「下がっていい」
レオンは踵を揃えて礼をし、扉の向こうへ姿を消した。扉が閉じるのを待ってから、記録官のペン先が紙へ触れた。
ステファンが扉を見たまま言った。
「あの者、命令の解釈を、自分に都合よく変える危険もございます」
「懸念はもっともだ。だが、死ぬことを忠義の証明にする奴よりましだ。あの男は残せ。もう一度見る」
記録官が、レオンの名の脇へ短く書き足した。
次に入ってきたのは、ダークブラウンの髪を短く整えた若い女兵士だった。灰色がかった目が、俺、ステファン、壁際の兵、扉の位置へと順に動く。室内をひと巡り確かめてから、俺たちの前へ立った。クリスという名だった。
騎士格の家に生まれ、家族の反対を振り切って軍へ入り、一兵士として魔族大戦を生き延びた。いまも騎士になる道を諦めてはいない。
家門の推薦欄は空白だった。家の名を使わず軍へ入ったのか、いまも家から推されていないのか、名簿だけでは分からない。ただ、若さに似合わない激戦地を潜り抜け、その生還を兵として積み上げてきたことだけは確かだった。
控えめで、どこかのんびりとした立ち姿をしている。剣の成績は上位だが、他を寄せつけないほどではない。訓練場でも、自分から前へ出るより、横から入り込む敵役を見つけるほうが早かった。負傷者役へ誰かが近づくたび、本人より先に顔を上げる。その反応の早さが、剣筋よりも俺の目に残った。
「木剣を持て」
クリスは壁際から短めの木剣を選んだ。何本かを見比べたのはわずかな間で、握ると重心を一度だけ確かめた。
「目を閉じろ」
「はい? 何故ですか?」
「お前の反応を見たい。近づく俺を、闇夜に忍び寄る敵と思え」
ステファンがこちらを見る。危険だと言いたいのだろうが、声にはしなかった。代わりに記録官の肩へ手をかけ、木剣が逸れても届かない位置まで下がらせた。
クリスは目を閉じ、木剣を身体の前へ立てた。肩に余計な力はない。
足音を消すだけなら難しくない。人ひとり分の重さも、息も、押し退ける空気も悟らせずに近づいて、初めて不意を打てる。俺は肺に残っていた息を細く吐き、肩と指の力を抜いた。足裏の外側を床へ置き、板の沈みを探る。鳴らないと分かってから、全身の重さをゆっくり移す。クリスが息を吐くあいだだけ進み、吸う気配に合わせて止まった。壁際の革帯の端も、額にかかる短い髪も揺れない。
正面から二歩。反応はなかった。右へ回り、同じ手順でもう一歩だけ距離を詰める。あと半歩。手を伸ばせば肩に届く。触れたときが、最初の合図になるはずだった。
前の足へ重さを渡しかけた瞬間、クリスの木剣が走った。
身体が先に動いた。俺は手の甲で軌道をずらし、木剣の先を肩の外へ流す。木が袖を叩いた乾いた音に、扉の前の記録官が息を呑んだ。受けた腕の内側で、脈が一度だけ強く打つ。触れる前に来るとは思っていなかった。止めてから、自分が驚いたことに気づいた。
「何も、斬れとは言っていないんだがな」
「も、申し訳ございません……」
クリスは目を開けなかった。声は控えめで、最初の音だけが震えている。それでも木剣を持つ手は崩れず、切っ先も下がらなかった。
「ですが、殿下が止まられませんでしたもので」
「ほう……分かったのか?」
「いいえ。なんとなく、誰かがいるとしか」
俺は返事をせず、いったん元の位置へ戻った。
もう一度、今度は背後へ回る。同じように床と呼吸を確かめながら近づいても、クリスの肩は動かない。手を伸ばせば届くところで止まり、壁際にいた兵へ指先だけで合図した。反対側で、兵が鞘から手を離す。音へ意識が向いたところで、肩に触れるつもりだった。
だが、鞘がまだ空中にあるうちに、クリスの身体はこちらへ向いた。
木剣の先が迷いなく喉元へ上がる。俺は柄を掴み、皮膚へ触れる寸前で止めた。そのあとから、鞘が床を打つ乾いた音が響いた。
目を開いたクリスの顔から血の気が引いた。最初に見たのは、自分の木剣の先と、その向こうにある俺の喉だったらしい。どこかのんびりとしていた表情が消え、まだ少女らしさの残る顔に、ようやく自分が何をしようとしたのかが表れる。それでも、木剣を取り落としはしなかった。
「何を感じた?」
「分かりません」
「足音ではないのか?」
「はい。音でもなく、風の動きでもありません。そこに何かが来ると……そう思ったときには、勝手に身体が動いていました」
説明にはなっていない。だが、分からないことを隠している顔でもなかった。本人も、自分の反応に戸惑っている。
「分かった。だが、相手が誰か確かめる前に斬るな。味方の首まで刎ねられては困る」
「はい」
クリスが木剣を戻しかける。俺は呼び止めた。
「クリス。今のようなことは、以前にもあったのか?」
「はい。けれど……いつもではありません」
「何が違う?」
視線が手元へ落ち、親指が柄の木目を一度だけなぞった。
「分かりません」
記録官のペン先が、紙の上でわずかに止まった。
「下がれ」
クリスは木剣を戻し、深く礼をして出ていった。扉が閉じる直前まで、歩みは乱れなかった。木が枠へ収まる音を聞いてから、ステファンが低く息を吐く。その目が、俺の喉元へ一度だけ落ちた。
「殿下ご自身が試す必要はなかったのではございませんか?」
木剣の先が喉へ上がった光景だけが、まだ目の奥に残っている。俺は肩をすくめ、声だけを軽くした。
「なんとなく妙だとは思ったが、いやはや恐れ入った。完全に気配を消したつもりだったんだがな。あいつには分かるらしい」
「それを確かめるために喉を差し出されたと?」
喉へ触れかけた手を、そのまま顎へ滑らせた。ステファンの視線は外れない。
「そいつは想定内だ。結果は想定以上だったがな」
ステファンは何も言わず、俺の顎へ上げた手と喉を順に見た。言い訳として受け取ったらしい。
記録官のペン先がふたたび紙へ触れた。
俺は次の名を呼ばせた。
◇◇◇
午後の試行では、候補者をいくつかの組に分け、負傷者役や伝令役を交えて動かした。冬の淡い陽が訓練場の端へ傾き、組み上げたばかりの仮設橋から、兵が踏むたび乾いた軋みが返る。開始時に与えた命令は、橋を確保し、荷車を向こう側へ渡すことだった。だが途中で鐘を鳴らし、住民役の退避を優先する新しい命令を伝令に持たせる。その一方で、別の伝令には古い命令を持たせたまま走らせた。
新旧二つの命令が同じ場所へ届けば、紙を見比べたまま動けなくなる者が出る。混乱を上官の落ち度として立ち止まる者も、確認へ人を割きすぎて、足元の負傷者から目を離す者もいる。命令どおりに剣を振るう姿なら、午前中だけで十分に見た。俺が見たかったのは、命令の言葉と目の前で起きていることがずれたとき、誰のほうへ足を向けるかだった。
レオンは橋の手前へ残り、動けない者を一人ずつ向こう側へ渡した。敵役が迫ると声を荒らげたが、自分だけで前へ出ることはなく、最後の負傷者が橋へ乗るまで位置を変えない。クリスは目立つ腕章を狙って近づく敵役を先に見つけ、木剣で進路を逸らした。味方が切っ先の前へ入ったときには、午前より早く剣を止めている。
候補者たちを退出させると、記録官は今日の記録を机へ置き、ずれた端を指先で揃えた。
ステファンが、その一枚へ目を落とした。
「規律から外れかねない者もおります。扱いを誤れば、問題となりましょう」
「だから試すんだ」
「殿下。それではあまりに無責任ではありませんか。銀翼騎士団は、陛下の直属でございます。失敗もまた、陛下の名へ戻りますぞ」
「出来合いの騎士だけを集めるなら、既存の部隊から選抜すればいい。だが、それでは俺の目指すものには程遠い」
「私には、殿下のお考えが理解できません。いくら人材不足とはいえ、兵卒からも人材を募るというのは、無茶が過ぎます。騎士団には強い志だけではなく、厳格な規律が必要です。それを乱すような存在は――」
「分かっている。だから、まず目をつけた者を取り込む。運用を試す。今ここで決めるのは、それだけだ」
俺は机上の記録へ目を落とした。今日見えたものが、別の状況でも同じように働くとは限らない。
「俺が求めているのは、優秀な騎士ばかりじゃない。想定外の事態にも、迅速かつ柔軟に動ける者だ。もっとも、現段階では俺個人の構想に過ぎん。まずは本隊を固めることが先決だ。当面の指揮と指導を任せられる者の人選も、急がねばならん」
「殿下は、以前からこのようなお考えだったのでしょうか?」
問いには、過去のヴォルフを確かめる響きが混じっていた。
俺は答えを探したが、身体の奥から都合のいい記憶は返ってこない。机の上には、今日見たことを記した紙があるだけだ。
「知らん。魔族大戦で得た戦訓を生かすのであれば、これが最適だと思っただけだ。少なくとも、今の俺ならこうする」
ステファンはしばらく黙った。記録官が、重ねた紙を箱へ収める。
「私があなたに協力するのは、女王陛下の限定試行に必要だからです。それ以外の理由などありません」
「それでいい。俺は、そういうお前を信じている」
記録官が箱の蓋を閉じた。乾いた音に重なって、外では最後の木剣が枠へ戻された。




