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黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第十八章 五年の約束と、ひとりの子ども
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子を守る母の瞳、子を知らぬわたしの心②

 門柱が窓の外を後ろへ流れ、男爵家の屋敷は裸木の向こうへ少しずつ遠ざかっていった。閉じた玄関扉の前に、もう人影は見えない。それでもわたしは、あの扉の向こうにいる母子を探すように、窓硝子へ顔を向けたままでいた。車輪が土を踏むたび、屋敷の灯りは枝のあいだで明滅し、やがて小さな金色の点になっていく。


「……随分と締まりのない顔をしているな」


 不意にヴィルが言った。


「あら、そう? そんなに気が抜けてるように見えるかしら」


 窓硝子に映る彼を見ながら答えると、向かいの座席で片方の眉が上がった。


「そうじゃない。何かを拾って戻ってきたという、満足げな顔だ」


「失礼ね。人を拾い癖のある犬みたいに言わないでちょうだい」


「犬なら、もっと分かりやすく尻尾を振る。お前の場合は、一見澄まし顔をした猫だな。拾ったものを腹の下へ隠して、何もありませんという顔をしている」


「なによそれ。むーっ……」


 わたしはようやく窓から顔を戻し、正面から睨みつけた。けれどヴィルは、どこ吹く風で窓の外へ目をやる。口元に残るわずかな笑みがなければ、本当に興味がないようにも見えただろう。


 車輪が敷地の土から街道の敷石へ乗り上げ、革張りの座席が小さく軋んだ。御者台の吊り灯りが揺れ、その明かりが窓の縁から車内へ細長く差し込む。


「それで――」


 ヴィルは外套の上から腕を組み、つま先をこちらへ向けた。


「今度は何を拾ったんだ?」


「しつこいな。ただ……守りたいと思っただけよ」


 からかいに返すつもりだった声が、最後だけ少し低くなった。


「あの母親と子どもをか?」


「無論よ」


 窓の外を流れていく木立へ目を向ける。裸の枝が夕闇の中で重なり、男爵家の灯りを少しずつ隠していった。


「先王やギルクの願いだから、だけではないわ。あ……もちろん、それもあるか。けどね、ロゼリーヌ様とお話をして、リュシアン殿を誰かに都合よく使わせたくないと、より強く思ったの」


「リュシアン本人とは会えたのか?」


「ええ! もちろん!」


 返事とともに腰が座席から浮いた。ちょうど車輪が敷石の継ぎ目を越え、馬車が横へ大きく揺れる。座席の縁へ手をついて身体を戻すより早く、ヴィルの肩が動いた。膝へ置かれていた手がこちらへ伸びかけ、わたしが姿勢を立て直したのを見て、途中で止まる。


「こらこら。座れ。危ないだろうが」


「わかってます」


 わたしは浮きかけた腰を戻した。それでも膝は正面を向いたまま、上体だけは彼のほうへ乗り出してしまう。


「そんなことより聞いて。リュシアン殿はね、書斎で古い本を読んでいたの。それも、辺境民族の文化や風土に関する難しい学術書だったのよ」


「十歳の子どもが、一人でか?」


「そう。領地の冬至と春迎えのお祭りについて、複数の資料で記述が違うことに気づいて、どうして違うのか調べているんですって。古い習わしが時代によって変わったのか、それとも土地ごとに違うのか、ほかの本も読んで確かめたいって。まだ十歳の子どもがよ? すごいでしょう?」


 膝へ戻したはずの手は、話し始めるとすぐに離れた。頁をめくる真似をし、資料を並べるように指を動かす。聞いたことも、あの子の目がどう輝いたかも、ひとつ残らず伝えたくて、言葉が次々と口をついて出た。


 ヴィルの目が一度だけ見開かれる。最初はわたしの浮かれぶりを眺めていたはずなのに、いつの間にか、からかう色が少し薄れていた。


「それにね、剣を振るうのが好きで、騎士ごっこもするんですって」


「ほう……」


「旅に出ていろいろな場所を巡って、自分の目で見てみたいんですって。騎士にも、学者にも、探検家にもなりたいそうよ」


「そいつは、贅沢が過ぎないか?」


「そこがいいのよ。剣と学問と探検。三つを兼ね備える冒険者がいたって不思議じゃないわ。ああ、なんて素敵な夢なんでしょう」


「あ、ああ……そうだな」


 勢いに押されたような返事に構わず、わたしは指を一本立てた。


「木剣を振るなら、怪我をしないように稽古できる場所があったほうがいいでしょうね。調べものをするなら、読みたい本を探せる大きな図書館も必要だし、旅をしたいのなら、道や土地のことだって学ばなくてはいけないわ。それから、辺境独特の文化や言葉も覚えたほうが――」


 ヴィルが口を開きかけたが、わたしの言葉のほうが先に続いた。向かいで組まれていた腕がほどける。彼は片手で額を押さえ、とうとう諦めたように背もたれへ身体を預けた。


「ミツルよ」


「なに?」


「俺は、どう答えりゃいいんだ」


「それはまぁ……いまは聞いていてくれればいいわ。あなただから話せるのだけど?」


 ヴィルは返す言葉を探すようにわたしを見たあと、喉の奥で短く笑った。


「やれやれ。なら、好きなだけ話せ」


 窓の外で最後の屋敷の灯りが枝に呑まれた。暗くなった硝子には、こちらへ身を乗り出すわたしと、背もたれに沈んだヴィルの姿だけが残る。


「もちろん、さっきのはわたしの想像が膨らみすぎたけど……リュシアン殿が将来どうなりたいのかは、リュシアン殿自身が決めるべきだと思うの。騎士を目指すのも、学者を目指すのも、旅に出ることもね。彼がそうしたいなら、そうすればいい。誰かが先に、あの子の生き方を決めてしまってはいけない」


「だが、あの子を王家の血を引く者と見る連中が、それを許さんかもしれん」


「だから、わたしたちが守らなきゃいけないのよ」


「守ることと、囲い込むことは似ているぞ。それは理解しているはずだ」


 低い声だった。


 ヴィルは背もたれから身体を起こし、両手を膝へ置いていた。吊り灯りの揺れる光が眉骨の影を深くし、真っ直ぐ向けられた目だけを暗がりに残す。責めるのでも、止めるのでもない。わたしが見失いそうになれば、何度でも同じ場所へ戻すための声だった。


 馬車が緩い坂へ差しかかり、車輪の音が少し重くなる。さっきまで近かった向かいの座席が、急に一歩遠くなったように感じられた。


「わかっているわ」


 今度は身を乗り出さず、膝の上で指を組む。


「だから、わたしがあの子の行く道を決めるつもりはない。ただ、選べるだけの時間を作ること。選ぼうとしたときに、一つしか道が残されていないなんてことがないようにね」


「そのために、女王として踏ん張るというわけか」


「ええ。どこまでできるか、確証なんて何もないけれど……」


 五年という猶予も、所詮はわたしが並べた理屈の上にある。それでも、拒絶が答えとして受け取られるのかも分からないまま不安に耐えてきたロゼリーヌ様へ差し出せるものが、今のわたしにはあれしかなかった。


「少なくとも五年は、何が何でも玉座に残ってみせる。そのためには、復興政策を軌道に乗せ、着実に成果を上げることでしょう。宰相をはじめとする閣僚や、貴族院からの信頼も得なければならない」


「国を立て直すことは、本来の二人から俺たちが背負った責務でもある。そこに異論はない」


「簡単にはわたしを追い落とせないところまで持っていくしかない。その間に、リュシアン殿が誰かの旗印にされない道を作る」


「お前の『できる限り』は信用ならんのだが」


「どうして? こういう時にこそ、同意してほしいんだけど」


「お前の場合、その算盤に自分の犠牲を入れているからだ」


 ヴィルの指が、膝の上で一度だけ曲がった。冗談めかした言い方なのに、その目は笑っていない。


「今回は入れないわよ」


「いま、『今回は』と言ったな」


「言葉の綾よ」


「前科持ちの言葉の綾を、誰が信じるというんだ」


「……嫌なところばかり覚えているのね」


「忘れたら、お前はまたやりかねん」


 反論しようとして、できなかった。


 唇を開いたまま黙ったわたしを、ヴィルはしばらく見つめていた。馬車の振動に合わせて、吊り灯りの金具がかすかに鳴る。逃げ道を探すように窓へ目を向けても、硝子には彼の視線まで映っていた。


「いいか。一人で全部を抱えるな」


「わかってる。それに、いまは一人ではないでしょう?」


 思ったより早く、言葉が出た。


「『前』とは違うわ。いつだって、あなたがそばにいるもの」


 口にしてから、自分の声だけが近すぎたことに気づいた。


 ヴィルの眉がわずかに動く。すぐに減らず口が返ってくると思ったのに、彼は何も言わなかった。窓の外を流れる裸木の影が車内を横切り、わたしたちの顔を一度、暗がりへ沈める。


 ほんの数呼吸だったはずなのに、車輪の音がやけに大きく聞こえた。


「……その通りだ」


 やがてヴィルは、少しだけ顎を引いた。


「お前がいつ暴走するか、気が気でならない俺がいる」


「ほらまた、そういう減らず口を叩く。まったく、どちらが心配性なのかしら?」


「お前にだけは言われたくないがな」


 いつもの調子へ戻った声にほっとしたような、少し惜しいような気がして、わたしは外套の留め具へ指をやった。


「心配しないで。この身体はメービスのものよ。心身ともに無茶をするつもりはないわ」


「ならばいい」


「わたしは、メービスの身体だけじゃなく、彼女の人生を預かっているつもりなの。いつまでなのかも、ちゃんと返せるのかも分からないけれど。だから、間違いのないように生きて、もし帰るときが来たなら、できる限り損なわずに返してあげたい」


「俺も同じだ。ヴォルフの身体と立場を預かっている以上、好き勝手に使い潰すつもりはない」


 そこでヴィルは、わずかに口角を上げた。


「もっとも、お飾りの王配で終わるつもりもないがな」


「あなたがお飾りで我慢できるとは思ってません。なにせ、騎士団に喧嘩を売った前科持ちだし?」


「まったく、言ってくれる」


 ヴィルが深く息を吐く。けれど、本当に怒ってはいない。そのことくらい、もう声を聞けば分かる。馬車が深い轍を越え、二人の身体が同時に右へ傾いた。どちらも座席の縁へ手をつき、ほとんど同時に姿勢を戻す。


 目が合うと、ヴィルの口元が先に緩んだ。


「それで、手紙のことはどうなった?」


「ロゼリーヌ様が、兄上の手紙をご自分の手元へ届けてほしいと仰ったわ」


「彼女は、読むと決めたのか?」


「いいえ。今はまだ読めないし、届いても開けないかもしれないと。それでも、王家に置いたまま答えを預けておくのではなく、ご自分の手元で、読むかどうかを決めたいそうよ」


「そうか」


 ヴィルの表情から笑みが消えた。けれど、問い詰めるような険しさはない。


「自分で決めたのなら、それでいい。読む日まで、こちらが決めてやることじゃない」


「ええ。王宮へ戻ったら、すぐに原本の状態を確かめて、安全に運ぶ方法を整えるわ。いつ、どのように受け取るかも、ロゼリーヌ様に決めていただく。手紙の内容について、こちらから解釈を添えることもしない」


「それでいいだろう」


 ヴィルはそれ以上尋ねなかった。ロゼリーヌ様がわたしを信じたわけではないことも、わざわざ確かめようとはしない。わたしがその境界を理解していると、疑わずにいてくれるのだろう。


 車輪の音が一定の間隔で響き、その合間へ馬の蹄が重なる。話が途切れると、馬車の内側には思っていた以上に多くの音があった。外套の布が擦れる音。窓枠が細く震える音。ヴィルが息を吐く気配。そして、そのどれもが途絶えないことに、わたしは奇妙な安心を覚えた。


 リュシアン殿を見て何を思い出していたのかまでは、口にしなかった。


 ヴィルは、前世のわたしがどう生きていたのかを、すべて知っているわけではない。本ばかり読んで、自分の気持ちより父の言葉を先に置いていた少女のことも、家の中を駆け回り、叱られても懲りず、身体いっぱいに「好き」を表していた弓鶴のことも。


 物静かだったわたしと、わんぱくだった弓鶴。似ても似つかない二人が、リュシアン殿のなかでは不思議なほど重なって見えた。けれど、それを理由に彼の先を決めてはならないと、手帳へ書いたばかりだった。


「わたし、リュシアン殿に『じゃあ、今度は僕の構えを見てくださいね』と言われたの」


 胸の奥へ沈みかけたものを隠すように、わたしは口を開いた。


「約束したのか?」


「お母さまのお許しがあれば、と答えたわ」


「少しは学習したらしいな」


「なんですって?」


「以前のお前なら、その場で次の予定まで決めていただろう」


「そこまで無鉄砲ではないわよ」


「どうだかな」


 ヴィルは背もたれに片肘を置き、疑わしげに目を細めた。吊り灯りが揺れるたび、その表情だけが明るくなったり、暗くなったりする。


「お前が稽古の相手をするつもりじゃないだろうな」


「少しくらいなら、いいでしょう?」


「俺が乗り込んで行って、基礎から叩き込んでやってもいいが」


「それはだめ」


「何故だ?」


「あなたの指導って。ぜんぜん優しくないもの。忘れたのかしら。わたしの身体を痣だらけにしてくれたこと。ミースにも叱られたでしょう」


「あれはお前が望んだことだろうが。人聞きの悪いことを言うな」


「リュシアン殿はまだ十歳なのよ。そこまで本格的でなくてもいい。基礎の型なら、あなたの弟子であるわたしでも見てあげられるわ」


「なら、好きにすればいい。お前に任せよう」


「なんだか不満そうだけど?」


「馬鹿を言え。不満などあるものか」


 ヴィルはむっとして窓の外へ顔を向けた。けれど、膝に置いた手の指は、剣の柄を握る形に曲がっては、またほどけている。旅の朝ごとに素振りをさせ、つま先の重心移動から腕の力みまで、ひとつとして見逃さなかった人だ。クワルタで朝から晩まで鍛えられたときの、掌の豆や腕の鈍い痛みが、いまさら皮膚の奥へ戻ってくる。


 口ではわたしに任せると言いながら、もうリュシアン殿へ何をどこから教えるか考えているのだろう。わたしが「あなたの弟子」と口にしてから、窓硝子に映る彼の口元は、ほんの少し緩んだままだ。その顔が可笑しくて、わたしは外套の襟を持ち上げ、その陰へ笑いを隠した。


 襟の内側には、自分の吐息のぬくもりがこもった。笑いがおさまるにつれ、木剣を胸に抱き、こちらを見上げていたリュシアン殿の姿が、もう一度まぶたの裏へ戻ってきた。


 ――子ども、か……。


 いつか幻想の庭園で口にした願いが、胸の底からゆっくりと浮かび上がる。母さまのような大人になりたい。優しくて、必要なときにはきちんと叱ることのできる、芯のある女性に。そして、ずっと先のいつか、自分も母になれたなら。


 あのとき、誰とのあいだに子を持つのかなど、考えてはいなかった。ただ、自分の生まれや血筋に人生を決められず、自分の生き方を選べるところまで辿り着いた先に、そんな未来もあればいいと願っただけだ。


 いまも、それは変わらない。


 まして、この身体で子を産むと決めたわけではない。この身体の本来の持ち主がどうなっているのかも、わたしたちが帰れるのかも分からないまま、決めてよいことではなかった。リュシアン殿を愛らしいと思ったことと、自分が母になることは、同じ答えではない。


 そのことは分かっている。けれど、ロゼリーヌ様から静かに念を押されたとき、胸の奥へしまったはずの願いが、思っていたよりもまだ形を残していることに気づいてしまった。


 リュシアン殿の笑顔が、その願いを答えに変えたわけではない。ただ、遠くへ置いたはずの未来へ、もう一度目を向けさせただけだ。


 すべてを終え、自分の生き方を自分で選べるところまで辿り着けたなら――そのとき、わたしの隣には誰がいるのだろう。


 窓硝子に映る車内へ目を戻す。


 向かいに座るヴィルの肩の輪郭が、暗い硝子のなかでわたしの影と重なっていた。現実のわたしたちは、手を伸ばしてもまだ届かない距離で向かい合っている。それなのに硝子の中では、馬車が揺れるたび、二つの影が近づいたり離れたりしていた。


 幻想の庭園でも、同じことを考えた。まだ見えない未来を思い浮かべたとき、なぜかそこへヴィルの姿が紛れ込んだのだ。


「ねえ、ヴィル?」


「なんだ」


「以前、わたしに相応しい相手を探してくれると言ったでしょう?」


 ヴィルの眉間に、ゆっくりと皺が寄った。背もたれへ預けていた肩が、ほんの少し前へ出る。


「お前……なぜ今、その話を持ち出す」


「覚えてたんだ?」


「忘れるものか。お前が、見つからなかったらどうする、それでも見つからなかったらどうする、と、しつこく食い下がったんだろうが」


「だって、最後まで答えてくれなかったんだもの……」


「無茶を言うな。まだ起きてもいないことに、どう答えろというんだ」


「そうじゃなくて、わたしに相応しい人って、どんなひとなのか。あなたの見立てというか、選考基準みたいなものが知りたいだけよ」


 問いを投げた途端、車内の狭さが急に意識へ上った。


 ヴィルはすぐには答えなかった。目を細め、こちらの言葉の奥を測るように見つめてくる。吊り灯りの光が窓を滑り、彼の瞳へ一瞬だけ淡い金色を落とした。


「難しいだろうな」


 思っていたより低い声だった。車輪が石を踏み、座席が大きく跳ねる。わたしは窓枠へ手をつき、揺れが収まっても、そのまま外へ視線を逃がした。


「どうして難しいの?」


「またそれだ。難しいものは難しいとしか言えん。俺に無茶な仕事を押しつけるな」


「でも、探してくれるんでしょう?」


「面倒な女だな」


「百戦錬磨のあなたを困らせるくらいだってことは、自覚しているつもりよ」


「まったく、困った奴だ」


 ヴィルは喉の奥で短く笑い、背もたれへ身体を預けた。けれど、視線だけはしばらくこちらに残っていた。確かめようとして横目を向けば、そのときにはもう、何でもない顔で窓の外を見ていた。


 わたしは反対側の窓へ顔を向けたまま、熱を持った頬へ手袋の指を当てた。革は冷えていたのに、火照りは少しも引かなかった。


 あのときと同じだ。誰かを探してほしいわけではない。それでも、見つからなかったらと問い続けた。ヴィルに何を答えてほしかったのか、自分でも分からないふりをして。


 そして今、その男は名目だけとはいえ、夫として向かいに座っている。彼が「夫」という言葉を都合よく使ってわたしをからかい、わたしも「王配」を口実に遠慮なく言い返す。それがあまりに自然になっていて、いつからそうなったのか、もう境目を思い出せない。


 何も決まっていない。この身体の本当の持ち主の魂の在処も、帰る道も、その先で誰と生きるのかも。母になれる日が本当に訪れるのかさえ分からない。


 それでも、リュシアン殿へ向けられたロゼリーヌ様の目を見たあとでは、あの願いを追い払うことができなかった。危険から遠ざけたいという怖れも、いつか自分の足で歩かせなければならないという迷いも、同じ目のなかにあった。わたしは、そのどちらも知らない。


 いつか母になれるとしたら、その子が本を好むのか、剣を握りたがるのか、何を選ぶのかは分からない。わたしの願いどおりに育つ必要もない。ただ、誰かに先回りして生き方を決められることなく、自分の好きなものを好きだと言える子であってほしい。


 そのためなら、わたしはきっと守ろうとするだろう。けれど、守る手でその子の道を塞いではいけない。頬へ当てていた手を膝へ戻すと、知らぬ間に指が掌へ食い込んでいた。手袋越しに力を抜き、ひとつずつゆっくりとほどいた。


 帰らなければならない。あの瞬間へ。茉凜に会いたい。けれど、この王都も、この国に生きる人々も守りたい。どちらも諦めないために、いま答えの出ないことはいったん脇へ置き、目の前の一つずつに向き合う。そう決めたはずだった。それなのに、わたしが思い描いていたのは、そのすべてが片づいたあとの、さらに遠い未来だった。


「今度は何を考えている?」


 ヴィルの声に、わたしは窓へ映った彼を見る。


「ここではない……遠い未来のことよ」


「また厄介なことを考えていそうだな。わからんでもないが……今は考えても仕方がないぞ」


「そうじゃない。今度こそ、とても平和なことよ。すべてが片付いたあとの、ずっと先のこと。いまはまだ、夢みたいなものだけど」


「ならいいが。お前の言う平和は信用ならんからな」


「もう。少しくらい信じなさいよ」


「信用しているから、何を考えているのか聞いているんだ。それ次第で、俺の身の振り方も考えにゃならん」


 思いがけない返しに、わたしは窓から顔を戻した。


 ヴィルは一度だけ口を結ぶと、片肘を窓枠へ預けた。それ以上説明するつもりはないらしい。流れていく闇へ顔を向けたまま、こちらを見ようともしない。吊り灯りが揺れるたび、横顔の輪郭だけが浮かび、また影へ沈んだ。


 ――身の振り方って……。


 その言葉には、わたしの隣も含まれているのだろうか。それとも、これまでどおり親代わりや相棒の顔をして、わたしが選ぶ道へ送り出すだけなのか。


 自分の行く先までわたしの答えに結びつけておきながら、肝心なことは何ひとつ言わない。


「……そういう言い方は、ずるいと思うわ」


「何か言ったか?」


 狭い車内で、聞こえなかったはずはない。窓硝子に映る彼の口元が、ほんのわずかに緩んでいた。


「なんでもない」


 外套の襟へ顔を埋める。窓硝子のなかでは、向かいに座るヴィルの影が、わたしの影へ重なっていた。


 母になれるかもしれないその未来と、そこへ性懲りもなく紛れ込んでくる男の姿を、わたしは誰にも明かさず胸の奥へ戻した。


 馬車は冬の闇を進んでいく。窓硝子のなかでは、向かい合うはずの二人の影が、肩を並べているように見えた。

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