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夜明けの王都、待つための支度

 夜の名残が薄れていく空の下に、王都の城壁が浮かび上がってきた。街道の先に並ぶ篝火は、まだ燃えているのに、朝の光を受けて少しずつ色を失っていく。石壁の向こうには、閉じた鎧戸の内側で竈へ火を入れ、わたしたちの帰りなど知らないまま一日を始める人々の暮らしがある。


 馬車の窓硝子に重なっていた二つの影も、夜が明けるにつれて輪郭を失いつつあった。路肩には薄氷が残り、馬の鼻先から白い息がこぼれている。車輪が硬い土を踏むたびに乾いた振動が座席から背へ伝わり、北から持ち帰った冷気のなかへ、やがて潮の匂いが混じった。


――王都だ。帰ってきたんだ。


 懐かしいと言い切るには、わたしはまだ「この時代の」この町を知らなさすぎる。それでも潮の匂いを吸い込むと、胸の奥に張りつめていたものが、吐いた息とともにわずかに緩んだ。


「見えてきたな」


 向かいに座っていたヴィルが、窓の外を見たまま言った。声に眠気はなかった。わたしが夜中に何度か目を覚ますたび、彼は同じ姿勢で外の闇を見ていた。


「ええ。王宮へ着いたら、まずは父上のご容体を伺いましょう」


「……やれやれ」


 ヴィルはこちらへ視線を戻した。


「その前に少しは休め、と言ったところで、素直に聞くお前ではあるまい。どうせ次はコルデオを呼びつけて、書簡の原本を確かめ、早馬の指示を出すんだろう?」


「そのつもりよ。それに、二週間も王都を空けていたんだから、執務机の上は、きっと書類の山になっているに違いない。休んでる暇なんてないわ」


「異論は――」


「認めません」


「気持ちは、わからんではないが……」


 ヴィルは鼻から長く息を吐き、窓の外へ目を戻した。声に咎める響きはなかった。


 ロゼリーヌ様へ返さなければならないギルク兄上の書簡。王家が急いで整えるべきことと、決して急かしてはならないことを、王都へ着くまでに分けておきたかった。原本は必ずお返しする。それはすでに決めたことだ。けれど、届け方までこちらの都合で決めてしまえば、返還そのものが新たな圧力となりかねない。


 いざ机に向かってからでは、早く安心させたいという焦りに引きずられ、読むことや返事まで求めるような言葉を書いてしまうかもしれなかった。


「父上への報告と、必要な指示が済んだら休め。今日はそこまでだ。ぶっ倒れられたら、こっちの心臓が持たん」


 低い声で言い切られ、なおも反論しかけた言葉が喉の奥で止まった。小さく息を吐くと、窓枠へ置いた指先へ冷えた外気がしみてきた。


「……わかったわよ。これ以上、あなたに心配をかけたくはないし」


「分かってるなら、それでいい」


 城門が近づくにつれて、人の声と物音が増えていく。夜番から朝番へ引き継ぐ衛兵の声に、商人が荷車の車輪を確かめる音と、門前の石畳を掃く箒の音が重なった。誰かが紋章に気づき、慌てて背筋を伸ばした。


 わたしは窓掛けをわずかに開け、彼らへ手を上げた。歓声を受けるような帰還ではない。けれど、顔を隠したまま通り過ぎるのも違う気がした。


 外気が隙間から流れ込み、頬を刺す。冬の早朝の通りには、まだ人影が少なかった。軒先に積もる雪はなく、石畳の窪みにたまった水だけが薄く凍っている。海から吹き上げる風が旗を鳴らし、夜のうちに灯された街灯の火を細く傾けていた。


 戻れば、すべてが旅立つ前の場所へ収まるわけではない。北で聞いた声も、交わした約束も、まだ決めてはならないことも、目に見えない重さとなって、いまもわたしの両手を塞いでいる。


 王宮の正門を抜けるころには、空はすっかり朝の色になっていた。馬車が止まるより先に、扉の向こうで複数の足音が重なった。従者が踏み台を置いて扉を開くと、冷えた空気とともに、見慣れた細身の男が視界へ入った。


「お帰りなさいませ、女王陛下。王配殿下」


 深く頭を下げたコルデオの声は、いつもと変わらず静かだった。けれど、顔を上げた彼の目の下には、薄い影があった。


「ただいま戻りました。父上のご容態は?」


 挨拶を最後まで終える余裕もなく問うと、コルデオは一度だけまばたきをした。


「昨夜、咳込みが続き、呼吸が浅くなられました。夜半より侍医が詰めております。明け方にはいくらか落ち着かれ、いまはお目覚めです」


 最悪の言葉を予期して強ばっていた指が、ほんの少しだけほどけた。


「意識は、はっきりしていらっしゃるのね?」


「はい。陛下のご帰還が近いと申し上げましたところ、旅装のままでも構わぬゆえ、お顔を見せるようにと」


「分かりました。すぐに参りましょう」


 足を踏み出したわたしの隣へ、ヴィルが並んだ。


「面会に耐えられる時間は?」


「侍医は、長くお話しにならぬようにと申しております」


 ヴィルの問いに、コルデオは間を置かず答えた。


「では、その範囲で。コルデオ、あなたには後ほどお話があります」


「承知いたしました。原本の保全状況と、北方へ向かわせる使者についてでございましょうか?」


「驚きました。よく分かりましたね」


 わたしが見返しても、コルデオは表情を変えなかった。


「ご出立前に伺ったご方針と、道中より届いた短報から、準備の要否のみ検討しております。原本の移動、再閲覧、複写、使者の選任はいずれも行っておりません」


 方針を先回りしながら、権限を越える一歩だけは決して踏み出さない。それがコルデオという人だった。


「ありがとう。そのままにしておいてください。父上へのご報告を終えたら、改めて指示します」


「かしこまりました」


 王宮へ入ると、暖炉の火が届かない回廊の空気は外とほとんど変わらなかった。旅の外套を侍女へ預け、砂埃のついた手袋を外す。居室へ戻って着替える時間を惜しみ、近くの控え室で手と顔を洗い、髪だけを整えてもらった。


 鏡のなかには、旅疲れを隠しきれないメービスの顔があった。目の下には薄い影があり、洗ったばかりの頬からも血の気が引いている。整った衣装を選んでいるあいだに、会えるはずだった時間を失うほうが怖かった。


 寝室の扉の前では、侍医が待っていた。


「ただいまはお話しになれます。ただ、昨夜よりお疲れが強く、途中で眠られることもございましょう。お声をかけてもお返事がない場合は、そのままお休みいただきたく存じます」


「承知しました。お話は手短にいたします」


「長引きそうなら、俺が止めよう」


 ヴィルがそう添えると、侍医はわずかに表情を緩めて頭を下げた。


 扉が、音を立てないように開かれる。室内には薬草と蝋の匂いがこもり、厚い窓掛けの隙間から細い朝日が差していた。暖炉には新しい薪が足されている。それでも、寝台の上に横たわる父上の手は、掛布の上でひどく冷たそうに見えた。


 先日ここでお会いしたときより、さらに痩せたようには見えない。けれど、呼吸と呼吸のあいだに生まれる空白だけが、以前より長くなっていた。


 足音を忍ばせて近づくと、閉じていたまぶたがかすかに動いた。


「……メビィ」


 初めて聞く呼び名だった。けれど、問い返す必要はなかった。女王でも、黒髪の巫女でもない。父上の胸の内にいる「幼い娘」を呼ぶための名なのだと分かった。


「……戻ったか」


「はい。ただいま戻りました、父上」


 父上の目がゆっくりと開き、わたしの顔を確かめるように動いた。


「旅は……無事であったか」


「はい。ヴォルフも、皆も、何の支障もなく戻りました」


「そうか……。よく、戻った」


 寝台のそばへ膝をつき、差し出された手を両手で包んだ。指先は冷たく、握り返す力も弱い。それでも、触れた手を確かめるように、親指が一度だけ動いた。


「父上。わたくしも……早くお顔を見たくて、できるかぎり急いで戻ってまいりました」


 用意していた報告ではなかった。口にしてから、それが誰かから借りた言葉ではなく、わたし自身の願いだったのだと気づいた。


 父上は何も言わなかった。ただ、わたしの手のなかで、指先へもう一度だけ力を返した。


「それで……あの母子には、会えたか?」


「はい。ロゼリーヌ様にも、リュシアン殿にもお会いできました」


 父上の目がわずかに見開かれた。


「ギルクの子は……健やかであったか?」


「はい。よく笑い、よく考える子でした」


 書斎で本を開き、背中へ隠しきれない木剣を抱えていた姿が浮かんだ。


「わたくしが先に見たのは、王家の子ではありませんでした。本と木剣を同じように大切そうに抱え、まだひとつに決める必要のない夢をいくつも持っている、ひとりの子どもです」


「そうか……。ただの子どもで、いられたのだな……よかった」


「はい。ロゼリーヌ様が、そう育ててこられました。それはもう、大切に……」


 父上は目を閉じ、長く息を吐いた。安堵したようにも、堪えているようにも見えた。


「……メービス。そなたが見たもの、聞いたものを……聞かせておくれ」


「ロゼリーヌ様は、王家の在り方そのものを怖れ、信用してはおられません。それでも、わたくしの話を聞き、リュシアン殿と言葉を交わすことも許してくださいました。ただ……信じるとも、任せるとも仰ってはいませんでした」


「当然だ……。儂らが、求めてよい言葉ではない」


「はい。わたくしも求めはしませんでした」


 包んだ手のなかで、父上の指がごく小さく震えた。


「本来ならば……儂が自ら足を運び、頭を下げるべきであった。ギルクを戦地へ送り……王家の責任を背負わせたのは、他ならぬ儂らだ」


「父上。ロゼリーヌ様は、誰か一人を責めるために、あの子を守っておられるのではありません。けれど、誰か一人へ責任を負わせようとしないことと、王家を許しておられることは、同じではございません」


 返事はなかった。それでも、わたしの言葉が届いていることは、握った手にかすかに返る力で分かった。


「もう二度と、王家の事情によって、大切な者の生き方を奪われないために。あの方は、リュシアン殿の前に立っておられるのです」


「……そうか」


「ですから、王家を許してほしいとも、父上のために会ってほしいとも申しませんでした」


 父上はゆっくりとまぶたを伏せた。浅い吐息がひとつ、わたしの指先へ触れるようにこぼれた。


「それでよい……。儂の悔いを、あの母子へ背負わせてはならぬ」


 握った手を離さないまま、わたしは言葉を継いだ。


「もう二度と、大切なものを奪われないために、あの方は王家へ続く扉の前に立ち、リュシアン殿を守っておられるのです。あの方も、ずっと苦しんでこられたのです。わたくしにも、その切実さが痛いほど伝わってまいりました」


「……そうか」


「それでも、わたくしは会いに行って、ほんとうによかったと思っております」


 父上の目が、ゆっくりとわたしへ戻った。


「ギルク兄上の書簡については、原本をご自身のもとへ届けてほしいと望まれました。ただし、読むかどうかは、まだお決めになっておりません」


「受け取ることと……読むことは、別か」


「はい」


「ならば……返してやってくれ。あれは、もとよりロゼリーヌのものだ。ただし、読めと命ずるためではないぞ」


「はい。お返事も、読んだかどうかのお知らせも求めません。いつ受け取り、いつ読むのかは、ロゼリーヌ様ご自身にお決めいただきます」


「それでよい」


 父上はそのまま目を閉じていた。眠ってしまったのかと思ったが、やがて唇がもう一度動いた。


「ほかにも……あるのだろう」


「はい」


 わたしは父上の手を包み直した。


「わたくしは、五年という時間をいただきたいと申し上げました」


「うむ……」


「あの子の将来を、王位ひとつに決めてしまわず、本も木剣も手放さずにいられる時間を守るために。王家から離れて生きる道も残せるよう、少なくとも五年はこの玉座に踏みとどまるつもりだと」


 父上は黙って聞いていた。わたしの手に包んだ父上の指は冷えたまま、胸元の掛布だけが、呼吸に合わせてかすかに上下している。


「ただし、五年を保証できるとは申し上げておりません。わたくしが玉座に立ち続けられるか、この国がどこまで立ち直れるか、まだ分からないことが多すぎます。それでも、その時間を作るために力を尽くすとお伝えしました」


「……それが、そなたの選んだ道か」


「はい」


「よい」


 短い言葉のあと、父上は浅く息を継いだ。


「五年は……儂には、遠すぎるな……」


 胸の奥を冷たい手でつかまれたような気がした。父上の指を包む手に、思わず力がこもった。


「父上……」


「そのような顔をするでない」


 父上は苦しげに呼吸しながらも、わたしから目を逸らさなかった。


「儂に残された時が短いからとて……あの母子の時まで、縮めてはならぬ。儂に会わせるために、母を急かすな。あの子に、王位を継げとも……言うてはならぬ。よいな」


「申しません」


「儂のために答えよと……求めてもならぬ」


「決して申しません」


 答えるたび、父上の目の奥に張りつめていたものが、少しずつほどけていった。


 会いたいと願いながら、会わせろとは命じない。自分に残された時間を知りながら、その短さで母子を縛ろうとはしない。その切実さに胸を締めつけられ、それでも、わたしはただ頷くだけではいられなかった。


「ですが……父上」


「なんだ」


「わたくしは、父上にも、その五年を見届けていただきたいのです」


 父上の目がわずかに動いた。


「女王として申し上げているのではございません。娘として……少しでも長く、父上に生きていていただきたいと願っております」


 声の最後が震えた。


 父上はしばらくわたしを見つめ、それから目尻をかすかに緩めた。


「……そう言ってくれるか、メビィ」


「はい」


「ならば……儂も、侍医の言うことを、少しは聞かねばなるまいな」


「少しでは困ります。すべてお聞きくださいませ」


「これは……ずいぶん手厳しい娘だ」


 父上の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。その笑みが消えるより先に、父上は何度か咳き込んだ。侍医が一歩近づき、水で唇を湿らせる。痩せた肩が咳のたびに揺れるのを、何もできないまま見つめるしかなかった。


 わたしは手を離さず、指先へ確かな温度が戻ってくることを願いながら、呼吸が整うのを待った。


「……もう一つだけだ」


「はい」


「待つことと……手をこまねくことは、同じではない」


 声は掠れていたが、言葉の芯は揺らいでいなかった。


「あの母子の答えを、そなたが決めてはならぬ。されど……その答えを奪おうとする者からは、あの二人を守ってやれ」


「はい」


 わたしは、両手で包んだ父上の手へ額が触れそうになるほど身を寄せた。


「答えを決めるためではなく、答えを奪わせないために。いまできることから始めます」


「それで……よい」


 返事のあと、父上のまぶたがゆっくりと閉じた。呼吸は浅いままだったが、先ほどまでの張りつめた力は抜けていた。


 侍医が静かに近づき、眠りに落ちただけだと告げた。それでも、わたしはすぐには手を離せなかった。やがて父上の手を掛布の上へ戻し、冷気が入らないよう端を整える。


「また近いうちに参ります、父上」


 眠る人へ、声を落として告げた。


「今度は、ご報告のためではなく……父上のお話を聞かせてくださいませ」


 返事はなかった。けれど、掛布の上へ戻した父上の指先が、わたしの手のひらへ触れたまま、かすかに一度だけ動いた。


 わたしはその弱い力を逃がさないよう、もう一度だけ手を包んだ。いま離せば、このぬくもりまで失われてしまうような気がした。それでも、侍医が待っている。父上には休息が必要だった。


 名残を断ち切るようにゆっくりと手を離し、立ち上がった。


◇◇◇


 扉の外へ出た途端、膝から力が抜けそうになった。壁へ手をつくより先に、肘を支えられた。


「立てるか?」


「立てるわ」


「なら、自分で立て」


 そう言いながら、ヴィルはわたしの足元が定まるまで手を離さなかった。


 廊下の窓から、朝の光が石床へ伸びていた。王宮の一日はすでに始まっている。書類を抱えた官吏が足早に行き交い、遠くでは鐘が時を告げていた。父上の部屋だけが、時の外にあるわけではない。あの細い呼吸が続くあいだにも、国の朝は進んでいく。


「女王陛下」


 声のしたほうを見ると、少し離れた場所でコルデオが待っていた。


「お休みいただけるよう、部屋を用意しております。ひとまずそちらへ」


「いいえ、執務室へ行きます」


「ですが、まずお休みを」


「長くはかけません。指示を出したら休みます」


 コルデオは一瞬だけヴィルを見た。ヴィルはその視線を受け、わずかに息を吐いた。


「この通りだ。面倒をかけるが、頼む」


「承知いたしました」


 コルデオはそれ以上止めず、わたしたちの先に立って歩き出した。


 執務室には、旅立つ前と同じように書類が積まれていた。ただし、留守中の判断を求めるものと、帰還後でよいものが、きちんと分けられている。机の端には火鉢が置かれていたが、冷えきった部屋を暖めるには、まだ時間がかかりそうだった。外套を脱いだばかりの肩へ冷気が染み込んでくるなか、わたしは椅子へ座らず、机の前でコルデオへ向き直った。


「まず、ギルク兄上の書簡原本について、現在の保管場所と状態、これまでに原本を取り扱った者の記録を揃えてください。封蝋の破断状態と、紙面に新たな損傷がないかも確認します。原本を王宮から移すまでの保全責任者と、引き渡しへ立ち会うべき者の候補も。午前中に報告を受けます」


「かしこまりました。確認のため原本を移動させる必要が生じた場合は、いかがいたしましょう?」


「わたしが立ち会うまで動かさないでください。再閲覧も、複写も、現時点では認めません。状態を確認する者も必要最小限に」


「承知いたしました」


「わたしが保管記録を確認したあと、記録官の立ち会いのもとで、証明付きの写しを一部だけ作成します。王宮に残すのは、その写しと、原本の保管から返還までの経緯を記した記録です」


 紙を擦る筆の音が、静かな室内へ細く続いた。コルデオは書き終えた箇所を確かめてから顔を上げた。


「原本そのものは、ロゼリーヌ様へお返しになるのですね?」


「ええ。あれは、もとよりロゼリーヌ様へ宛てられたものです。王宮が証明の必要を理由に、原本まで留め置くことはいたしません」


「承知いたしました。原本の状態、写しとの同一性、返還までの取扱者を記録し、証明を付した写しのみを王宮で保全いたします」


「お願いします。写しを作るために原本を扱う者も、必要最小限にしてください」


「そのように」


「それから、北へ向かう早馬の準備を。早馬に載せるのは、わたしからの書状だけです。原本も、その写しも載せません」


 コルデオの眉が、ごくわずかに動いた。


「原本とは別に、女王陛下からの書状を先行させるのでしょうか?」


「ええ。原本を必ずお返しすることと、必要な記録を整えたのち、護送を付けた別便でお届けすることを、先にお知らせします」


「原本の発送は、ロゼリーヌ様からのご返答を待ってから、ということでございましょうか?」


「いいえ。待ちません」


 自分の声が思ったより強く響き、火鉢の炭が小さくはぜた。


「ロゼリーヌ様は、すでに原本をご自身のもとへ届けてほしいと仰っています。受け取るかどうかを、こちらがもう一度お尋ねする必要はありません。記録と護送の支度が整いしだい、原本は王宮から送り出します」


「では、早馬が届けるのは、原本返還に先立つご連絡のみ。使者には返書を求めさせず、届けた事実だけを確認させます」


「はい。原本を届けるために、王家へのお返事や、読んだかどうかのお知らせを待っていると誤解されない文面にしてください。受け取りの時期や場所、どなたを介するかについてだけは、原本を安全にお渡しするための実務連絡として、ロゼリーヌ様のご希望を伺います」


「原本を運ぶ使者につきましては、ロゼリーヌ様ご本人、またはご本人が指定された方へお渡しするよう命じます。ご指定がまだ届いていない場合は、あらかじめ定めた待機所で原本を保持し、ロゼリーヌ様からの実務連絡を待たせます。指定された方への引き渡しができない場合も、ほかの者へ預けず、同じように待機させます」


「そうしてください。ロゼリーヌ様のご指定なしに、使者の判断でほかの方へ渡してはなりません。ただし、ご指定がまだ届いていないことを理由に、王都からの出立を遅らせる必要はありません。準備が整いしだい、別便を出してください」


「御意」


 コルデオは手元の紙へ簡潔に記し、もう一度顔を上げた。


「受領の確認につきましては、引き渡した日時と場所、立会人がいる場合はその名を、使者側の記録へ残します。ロゼリーヌ様へ返書や読了の報告を求めるものとは、明確に分けて扱います」


「ええ。受領の記録は、原本がご本人の手へ渡ったことを証するためだけのものです。王家への返答として扱ってはなりません」


「承知いたしました。王宮側の保管記録、証明付きの写し、移送中の責任者、受領の確認を、それぞれ分けて整えます。原本を送り出した時点から引き渡しが完了するまで、誰が責任を負うのかも明記いたします」


「お願いします。過去の責任を曖昧にするためではなく、これから誰が守るのかを曖昧にしないために」


「仰せのままに」


 そこで話を終えようとして、もう一つ伝えておかなければならないことに気づいた。


「この件を、王位継承の準備として扱わないでください」


 コルデオの筆が止まった。


「書簡の返還と記録の保全は必要です。けれど、それはリュシアン殿を王位へ近づけるためではありません。王家が何をしてきたのかを記録として残し、ロゼリーヌ様とリュシアン殿がどの道を選んでも、その選択を奪われないようにするためです。記録の表題にも、担当者への説明にも、その違いが残るようにしてください」


「承知いたしました。原本の返還、記録の保全、母子の安全に関する検討を、それぞれ分けて起案いたします。継承に関する判断は含めません」


「ええ」


「陛下からの書状は、こちらで案を作成いたしましょうか?」


 わたしは、机の上に置かれた、まだ何も書かれていない紙を見た。


「最初の一通は、自分で書きます」


「では、清書前に文面と送付手順の確認を」


「そうしてください」


 コルデオが一礼し、部屋を出ていった。扉が閉まると、張っていた糸が切れたように、旅の疲れが一度に重さを増した。身体の芯が冷えている。指先には、父上の手の冷たさがまだ残っていた。


「座れ」


 ヴィルに言われるまま、椅子へ腰を下ろした。座面へ身体を預けた途端、足の裏から力が抜け、冷えていた指先が遅れて痛みはじめる。火鉢の炭が小さく崩れる音を聞きながら両手を膝の上へ置くと、ヴィルは閉じた扉へ目を向けたまま、低い声で言った。


「悪くない手順だ」


「何が?」


「先に早馬を走らせ、原本はあとから別の使者に運ばせる。外から見れば、王宮を発って北へ急ぐ早馬のほうが、重要なものを持っているように見える」


 旅のあいだ、街道ですれ違った馬や、宿場の入口に立っていた人々の姿が脳裏をよぎった。王家の使者が馬を替えながら北へ急げば、関心を持つ者の目を引かずにはいられない。


「べつに、囮にするつもりはないわよ」


「分かっている。目立つ便と、守るべき便を同じにしないのは正しいと言ったまでだ」


 ヴィルは机へ近づき、コルデオが机へ残していった覚え書きへ目を落とした。


「早馬には、距離を置いて目立たぬ見張りをつける。そちらへ目を向けさせ、あとを追う者が現れれば、原本を運ぶ便の出立時刻や道を変えればいい。何も起きなくても、二つの便を分けておけば、一度の襲撃ですべてを失うことはない」


「……そこまで考えていたわけではないのだけれど?」


「お前はいつもそうだろう。いろいろと気を回すからな。自覚してなくても、結果としてそうなっているなら、それでいい。コルデオも、おそらく気づいている」


「では、原本を運ぶ使者の選定は、あなたにも見てもらったほうがよさそうね」


「ああ。護送する者と経路は、俺も確認する。早馬と同じ門から出し、同じ宿場をたどらせる理由はないからな」


 父上の手に残されていたわずかな力と、ロゼリーヌ様が原本を求めたときの静かな声が、胸のなかで重なった。返すと決めるだけでは足りない。相手の手へ届くところまで守り通して、ようやく約束を果たしたことになる。


 ヴィルはわたしの顔を見下ろし、話を切り替えるように机の上の白紙へ顎を向けた。


「書くのは一通だけ、だったよな?」


「ええ」


「いまのお前なら、三行書く前に同じところを二度書きそうだが」


「そこまで疲れてはいないわよ」


「鏡で自分の顔を見てから言え」


 言い返そうとして、やめた。インク壺の蓋を開ける。冷えたペン軸を握ると、指がうまく曲がらなかった。火鉢へ手をかざし、指先へ戻りはじめた熱を確かめてから、もう一度持ち直す。


 紙の上へ、まず宛名を書いた。


 『ロゼリーヌ様』


 その下には、広い余白が残った。伝えたいことは多い。原本を必ずお返しすること。王宮に残すのは証明付きの写しと記録だけであること。原本は王家への返事を待たず、護送を付けた別便で送り、受取方法はロゼリーヌ様ご自身に決めていただくこと。読むかどうかも、いつ読むかも尋ねないこと。リュシアン殿へ何を話すかにも、王家は口を挟まないこと。けれど、すべてを一度に並べれば、それ自体が返事を求める圧力になるかもしれない。待つことを伝える手紙が、相手を追い立ててはならない。


「続きは眠ってから書け」


 隣に立ったヴィルが言った。


「最初の一文だけ。ね?」


「それなら許す」


 誰の許しが必要なのだろうと思いながら、わたしは少しだけ笑った。


 父上に残された時間は、きっと長くない。ロゼリーヌ様とリュシアン殿には、奪ってはならない時間がある。その二つを同じ秤に載せず、それでも、どちらからも目を逸らさないために。


 わたしは白い紙へ、ゆっくりと最初の一文を書いた。


 『ギルク兄上の書簡は、王家へのお返事を待たず、必ずロゼリーヌ様ご自身のお手元へお返しいたします』


 書き終えても、その先の余白は白いままだった。いまは、それでよかった。


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