子を守る母の瞳、子を知らぬわたしの心①
手帳の白い頁へ最後の文字を書きつけ、ペン先を紙から離した。窓の外では、傾き始めた陽が裸木の影を細長く伸ばしている。王都へ戻る支度を始めなければならない。それでも、書き終えたばかりの行を閉じる気にはなれず、わたしは乾ききらないインクを見つめていた。
扉が三度、控えめに叩かれた。
「陛下、ロゼリーヌ様がお見えでございます」
侍女の声に、肩にかかっていた黒髪へ目をやる。若緑色のウィッグは鏡台の上に置いたままだった。
「少々お待ちください」
椅子を離れ、鏡の前で髪をまとめる。ウィッグを被り、髪網の縁と留め金へ指を滑らせ、黒髪が一筋も覗いていないことを確かめた。鏡のなかには、見慣れた若緑色の髪の女王が戻っている。先ほどまで手帳へ顔を寄せていた女が、その奥へ引いていくように見えた。
扉を開けると、ロゼリーヌ様は一人で立っていた。侍女は室内を確かめたあと、廊下へ下がる。ロゼリーヌ様が入室すると、扉は音を立てないよう静かに閉じられた。
「出立前のお忙しいところ、申し訳ございません」
「いいえ。まだ支度を始める前でした。どうぞ、お掛けください」
向かいの椅子を勧めると、ロゼリーヌ様はすぐには腰を下ろさず、開いた手帳へ目を向けた。わたしは手帳を閉じる。彼女も文字を読もうとはせず、机を回って椅子へ座った。
「お話ししておきたいことがあります」
「はい」
膝の上で重ねられた指が、片方の袖口を押さえていた。書斎の前でリュシアン殿を見守っていたときにも、同じ手がスカートの布を握っていた。
「先に申し上げたことを、取り消すつもりはございません。私はまだ、彼の手紙を読むことはできません」
兄の書簡についてだと分かった。それでも、こちらから言葉を挟まずに待った。
「いつになれば読めるのかも、分かりません。手元へ届いたとしても、目を通せないままになるかもしれません」
「はい」
ロゼリーヌ様の指が袖口から離れ、膝の上でゆっくりと開いた。
「それでもよろしければ、王宮へ戻られましたら、あの手紙をこちらへ届けていただけますか?」
吸いかけた息が、途中で止まった。喜んではならないと思った。読むと決めたのではない。わたしを信じたのでもない。彼女が自分の手元へ置きたいと望んだのは、兄の言葉だけだ。
「承知しました」
声が上ずらないように息を整え、机の上で指を組んだ。
「原本を動かすことになりますので、王宮へ戻りましたら状態を確かめ、安全にお届けする方法を整えます。いつ、どのようにお受け取りになるかは、あらためてロゼリーヌ様に伺います」
「読む日を決めるよう、求められることはありませんね?」
「求めません。お届けすることと、開いていただくことは別です」
「手紙に何が書かれているのか、使者に説明させることも?」
「いたしません。兄の言葉についての解釈は、わたくしからも、誰からも添えません。原本を移すために必要な記録だけにいたします」
ロゼリーヌ様は目を伏せた。窓の外で枝の擦れる音がして、その横顔へ傾いた陽の色が薄く触れた。
「あれが私へ宛てられたものなら、王宮に置かれたまま、読むかどうかを考え続けたくないのです」
唇のあいだから落ちた声は低く、わずかに掠れていた。
「手元にあれば読めるというわけではありません。むしろ、開けられない自分を毎日見ることになるのかもしれない。それでも、私の前にないものについて、いつまでも王家へ答えを預けておくのは嫌なのです」
「分かりました。書簡は、ロゼリーヌ様のお手元へ確実にお届けします。そのあとにどうなさるかは、あなたがお決めください」
「ええ」
短い返事のあと、彼女は閉じた手帳へ視線を戻した。
「先ほどの続きを、書いていらしたのですか?」
「はい。忘れてはいけないことを、書き留めておりました」
「忘れないと書くことと、守り続けることは同じではありませんよ」
「承知しています」
「ですが、書かずに忘れるよりは、まだ見届けようがあるのでしょうね」
それが評価なのか、ただの観察なのかを尋ねることはできなかった。ロゼリーヌ様は椅子の背へ身体を預けず、まっすぐこちらを見ている。
「昨日、御髪を拝見したとき、私が感じたのは驚きではありませんでした」
ロゼリーヌ様はそこで言葉を切り、目を逸らさないまま、膝の上で開いていた指を重ね直して片方の袖口を押さえた。
「……それは、怖れでした。王家がひた隠しにしてきた秘密そのものを見せられているのだと思いました」
視線が、若緑色のウィッグへ向けられた。
「けれど……今日、息子と話しているあなたを見たとき、そんな怖れは感じませんでした。そういえば、陛下のご年齢はたしか……」
「わたくしは、今年で十九になります」
「失礼ながら、あのときのあなたは、それよりも幼く見えました」
「そうですか……自分ではよく分かりませんが、仰る通りだったかもしれませんね」
「私には、あのときのあなたのほうが自然に見えました。嬉しそうで、それでいてためらいもあり、何度も私の反応を確かめていらっしゃいましたから」
書斎で何度もロゼリーヌ様へ目を向けたことを思い出し、頬に熱が集まった。
「そうですか……それは少し困ります。女王たるものが、お恥ずかしいところをお見せいたしました」
「はい。たしかに、女王のお顔ではありませんでした」
ロゼリーヌ様は言葉を切り、肩の力をわずかに抜いた。
「けれど、息子のなかに王家の血を探そうとするお顔でもなかった。それだけは、私にも分かりました」
「はい」
「ですが、それ以上の意味に取らないでください。あなたを信じたとも、これから先をお任せするとも申し上げておりません」
「もちろんです。それで十分です」
返事をすると、ロゼリーヌ様はしばらく黙っていた。彼女の目には、息子の手から木剣を取り上げたいと語ったときの怖れも、望みを閉じ込めたくないと言ったときの迷いも残っている。そのどちらか一方だけを母の愛と呼ぶことはできないのだろう。
「王都を発つ前から、わたくしはあなたと、女同士でお話しできたらと思っておりました」
口に出すと、ひどく勝手な願いに聞こえた。
「ですが、実際にあなたとお会いして、同じ女ならどこか分かり合えるのではないかと、わたくしは勝手に期待していたのだと気づきました。生まれも、立場も、背負ってきた時間も違うのですから……」
膝の上で重ねた指へ力を込めた。一度だけ目を伏せ、息を整えてから、もう一度ロゼリーヌ様を見る。
「あなたの十年を、わたくしの苦しみと並べるつもりはありません。それでも、王家の者としてではなく、王冠の内側で迷っている一人の女として、少しだけお話ししてみたかったのです。自分に都合のよい願いであることは承知しています」
ロゼリーヌ様はすぐに答えなかった。窓の外で風が枝を揺らし、細い影が床の上を動く。
「女であるというだけで、同じものを知っていることにはなりませんよ」
「はい」
「母であるかどうかも同じです。私は私で、あなたはあなたです」
「ええ」
「それでも、いまはもう、あなたを王家の代表としてだけ見ているわけではありません」
胸へ入った息が、すぐには出ていかなかった。何かを返せば、彼女が示したわずかな違いを、自分に都合よく広げてしまいそうだった。
「……ありがとうございます」
「感謝なさることではありません。私は、私が見たものを申し上げただけです」
「それでも、わたくしには十分です」
ロゼリーヌ様は返事をせず、若緑色の髪をもう一度見た。その目が、隠されている黒髪の位置を知っているように、金具のあたりで止まる。
「ひとつだけ。息子を見て心が動いたことだけで、あなたご自身の答えをお決めにならないでください。おわかりになりますね?」
何を指しているのか、聞き返す必要はなかった。わたしが子を持つかどうか。黒髪の巫女を生む怖れと、いつか母になれたらと願った遠い未来。ロゼリーヌ様は、その答えを持っているから母になったのではない。愛する人の子を身籠り、踏みとどまるほかなかった十年を生きてきた。
「それは、よく理解しております」
膝の上で重ねた指へ力が入った。
「リュシアン殿を可愛らしいと思ったことも、守りたいと思ったことも、なかったことにはいたしません。けれど、その気持ちだけで、わたくしの人生や、まだ見ぬ子の人生まで決めることはいたしません」
「それなら、よろしいのです」
ロゼリーヌ様は立ち上がった。わたしも椅子を離れる。
「出立の支度が整いましたら、侍女がお知らせに参ります」
「承知しました」
扉へ向かった彼女が、取っ手へ手をかける前に振り返った。
「書簡のこと、どうかよろしくお願いいたします」
「お約束いたします」
扉が開くと、廊下の冷えた空気が室内へ入り込んだ。待っていた侍女が一礼し、ロゼリーヌ様のあとに続く。扉が閉じてから、わたしは机へ戻った。閉じた手帳の表紙へ掌を置く。先ほど書きつけた文字も、王宮に残した兄の手紙も、いまはここから見えない。それでも、そのどちらも、勝手に先へ進めてはならないものとして残った。
◇◇◇
出立の支度が整ったと知らせが届き、わたしは玄関ホールへ向かった。エドモン男爵とイザベル夫人へ滞在の礼を述べ、見送りのために集まった使用人たちへ頭を下げる。扉の外では馬の鼻息が白くほどけ、敷地の端には、ヴォルフ殿下と近衛たちが夜を明かした野営地が見えた。濡れた土に残る杭の跡だけが、昨夜まで人がいた場所を示していた。
玄関の扉へ向かおうとしたとき、廊下の奥から小さな足音が近づいた。
「あっ」
リュシアン殿が立ち止まる。手には、書斎で見せてもらった木剣が握られていた。
「もう帰っちゃうの? メービス様、また来てくれるよね?」
期待を隠そうともせず見上げられ、返事をする前にロゼリーヌ様を見た。彼女もそれに気づいたらしい。わたしとリュシアン殿を交互に見てから、息子へ向き直った。
「リュシアン。メービス様には、王都でのお務めがあるのです。お困らせしてはいけません」
「うん……でも、もっとお話ししたかったな」
木剣の柄を握る指が下がる。
「わたくしも、もっとお話ししたかったです」
言ってから、もう一度ロゼリーヌ様を見た。
「もしお許しいただけるなら、またこちらへ伺った折、リュシアン殿とお話ししてもよろしいでしょうか」
ロゼリーヌ様の目に迷いがよぎった。すぐには答えず、リュシアン殿の顔を見下ろす。
「いいこと? 次にメービス様がお見えになったときも、あなたが同じように望んでいるなら、改めて私に尋ねなさい」
「うん。ちゃんと母上に聞く」
リュシアン殿はそれで十分だったらしく、木剣を抱え直した。
「じゃあ、今度は僕の構えを見てくださいね」
「ええ。あなたのお母さまがお許しくださったらね」
髪を撫でたいという気持ちは、やはり消えなかった。けれど手は動かさず、目の高さを少し近づけるように膝を曲げる。
「王都へ戻ったら、冬至と春迎えのお祭りについて書かれた別の本を探してみます。見つけられたら、次にお会いできたときに持ってきますね」
「はい。僕も、もっと調べておきます」
リュシアン殿は何度も頷いた。廊下の先でイザベル夫人が呼ぶと、名残惜しそうに振り返りながら駆けていく。その足音が遠ざかるまで見送り、わたしは立ち上がった。
ロゼリーヌ様は何も言わなかった。胸元で重ねた指が一度だけ動く。王宮に残る手紙のことを、ここで確かめ直す必要はなかった。
「お世話になりました」
「こちらこそ。道中、どうぞお気をつけください」
交わした言葉は、それだけだった。わたしは男爵家の人々へもう一度頭を下げ、外へ出た。
夕方の寒風が頬を刺した。屋敷の前には馬車が横づけされ、その周囲では少数の近衛たちが宿営の跡を片づけている。火を落とした焚き火から細い煙が立ち、畳まれた天幕や毛布が手際よく荷台へ積み込まれていく。
その傍らに立っていたヴォルフ殿下――ヴィルは、わたしの姿を認めるなり、白い息を吐いた。
「お待たせいたしました。ヴォルフ」
「ふん。随分と長い『少し話してくる』だったな」
「あら、王配殿下はご存じないのですか? 女性同士のお話には、時間がかかるものですのよ」
「昨日の夕方から、今日の夕方までか?」
「細かいことをおっしゃらないでください」
「待たされた側には、時間を数える権利くらいあるだろう」
「野営の支度は整っていたのだから、それほど不自由はしなかったでしょう?」
「夫を冬空の下へ放り出しておいて、よくも言う」
わたしたちが表向きの夫婦として扱われることには、もう慣れたつもりでいた。けれど、こんなときに自分を「夫」と呼ぶのは、少し卑怯ではないだろうか。
「屋敷のお世話になる必要はないと仰ったのは、あなたでしょう。ヴォルフ殿下は野営に慣れておいでですから、とても安心してお任せしておりましたのよ」
「都合のいいときだけ殿下扱いするな」
ヴィルは呆れたように鼻を鳴らしたものの、口元はわずかに緩んでいた。
「ごめんなさいね。本当に待たせてしまって」
「……謝るくらいなら、最初からそう言え」
「最初に謝ったでしょう?」
「そうだったか?」
「もう忘れたの?」
「どうやら、寒さで耳が凍っていたらしい」
「そういえば、耳が赤いわね。寒いから早く馬車へ入りましょう。次の宿営地までに、あなたの耳が落ちてしまうと困るもの」
「まったく、誰のせいだと思ってるんだ」
そう言いながら、ヴィルは馬車の扉を開いた。
乗り込む前に、もう一度だけ玄関を振り返る。扉がわずかに開き、その隙間からリュシアン殿が顔を覗かせていた。目が合うと、彼は少しためらってから手を振った。わたしも小さく振り返す。
その背後にはロゼリーヌ様が立っていた。彼女は笑ってはいなかった。それでも、こちらから目を逸らすこともなかった。わたしが会釈すると、ロゼリーヌ様もほんのわずかに頭を下げる。
屋敷の扉が静かに閉じると、隙間から漏れていた暖かな灯りも細くなり、やがて見えなくなった。わたしは開けられたままの馬車へ向き直り、踏み台へ足を掛けて車内へ乗り込んだ。座席へ腰を下ろしても、開いた扉から吹き込む風が、外套の裾を揺らしていた。
続いて乗り込んだヴィルが扉を閉め、向かいの座席へ腰を下ろしても、わたしはすぐには窓から視線を戻せなかった。外で御者の声が上がり、馬具の触れ合う音が続く。車体が低く軋み、ひとつ大きく揺れてから、車輪が敷地の土の上をゆっくりと回り始めた。




