小さな騎士と黒髪の巫女
「お話は分かりました。けれど、それで安心できるわけではありません」
午前中の話し合いの最後に、ロゼリーヌ様はそう告げた。わたしも、信じてほしいとは答えなかった。質素ながら温かい昼食を済ませたあと、ロゼリーヌ様は予定があると言って先に席を外した。男爵家の客室へ戻り、椅子へ腰を下ろすと、胸に溜めていた息が長く漏れた。
王宮から遠く離れた静かな屋敷にいるはずなのに、頭のなかでは、この数日に起こったことや、先ほどまで交わしていた言葉が途切れずに続いている。わたしは手帳を開き、ひとつずつ書き留めていった。
『北方街道の整備状況。地方の冬季備蓄状況。五年という時間』
紙を走るペンの音と、乾ききらないインクの匂い。文字を書いているあいだだけは、胸の内側に散らばったものが、少しずつ置き場所を得ていく。美鶴だったころから、書くことは自分を落ち着かせるための習慣だった。
けれど、その日は同じ行を二度書きかけた。扉の向こうで、布の擦れる音がしたからだ。ペンを止めると、床板が爪の先で弾かれたように小さく鳴った。
「どなた?」
「あっ!」
高い声が弾け、軽い足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。わたしは立ち上がった。二歩ほど進み、扉の取っ手へ手を伸ばす。
「……リュシアン、殿?」
返事はなかった。昨夜、廊下の先に立っていた少年の姿が浮かぶ。本を胸へ抱え、こちらを見つめていた淡い栗色の髪の子。扉を開ければ、まだ追いつけるかもしれない。けれど、指先は取っ手へ触れる前に止まった。
『もし、彼に会いたいとおっしゃるのであれば、必ず私を通してください』
ロゼリーヌ様の声が耳の奥へ戻ってくる。わたしは手を下ろし、机へ戻った。会ってみたいという気持ちは、扉を開けなかったからといって小さくなるわけではない。むしろ、席へ戻ってからも、視線は扉の取っ手へ向いたままだった。椅子へ座り直したものの、ペン先は同じ場所で止まったままだった。
しばらくして、控えめに扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきた侍女は、扉のそばで一礼した。
「リュシアン様が、どうしてもお客さまへご挨拶をしたいと申しております」
「ですが……ロゼリーヌ様は、なんと――?」
「ご心配には及びません。奥様からは、書斎で短い時間ならばと許しが出ております」
「本当に、リュシアン殿が? ……わたくしに、会いたいと?」
「はい。先ほどから、書斎と廊下を行ったり来たりなさっております」
最後の言葉だけ、侍女の声がやわらいだ。
「扉は開けたままにし、私が外で控えます。それが奥様からの条件でございます」
「承知しました。ありがとうございます」
返事をすると、鏡の前へ立ち、若緑色のかつらを留めた金具へ触れた。黒髪が一筋も覗いていないことを確かめ、外套を羽織った。
客室を出ると、石の目地から冷えが吸い上がり、靴裏にじかに染みた。吐いた息が白くほどけ、喉の奥にわずかな金属の味が残る。山岳地帯からの吹き下ろしが強いためか、王都の寒さより一段と厳しく感じられた。それでも、胸の内側の熱が薄い外套の下で静かに広がっていく。
男爵家の奥にある書斎。前日にロゼリーヌ様から「そこで勉強している」と聞いたことを思い出し、わたしは薄暗い廊下を進んだ。
扉の隙間から漏れる、かすかなオイルランプの灯り。侍女は戸口の外で足を止める。わたしは一度呼吸を整えてから、半ば開いた扉の内を覗いた。
高い天井まで詰まった書棚、羊皮紙の古い装丁、色褪せた背表紙の本。机や椅子にも書物が山積みになり、そのあいだへ紙片や細い札が挟まっている。革表紙と古い紙の甘い匂い。斜光の帯に舞い上がった埃が、金色の細い列になって揺れていた。
――こんなに多くの蔵書があるのね。質素な領地だと聞いていたけれど、こういう知的な文化が息づく家だからこそ、ロゼリーヌ様のような方が育ったのかも。
「ん……?」
本の山の向こうから、少年が顔を上げた。淡い栗色の髪に、青灰色の瞳。目が合った途端、少年の肩がびくりと上がり、手にしていた分厚い本が胸元へ引き寄せられた。好奇心と警戒のどちらを先に表せばよいのか、本人にも決められないような顔だった。
わたしは戸口を越えず、その場で微笑んだ。呼びかける前、息を整えたつもりなのに、鼓動がひとつ跳ねた。
「こんにちは、リュシアン殿。わたしはメービスといいます。……ええと、あなたのお母さまと少しお話しさせてもらっていたのだけれど、ここ、入ってもいいかしら?」
リュシアンは、扉の外に立つ侍女へ目をやってから、照れくさそうな笑みを浮かべ、こくりとうなずいた。その頷きを受けて、わたしはようやく部屋へ足を踏み入れた。扉は開いたままだ。木の匂いが一段濃くなった。
――落ち着いて。ふつうよ。ふつうを心がけるの。相手は子どもなんだから、女王陛下じゃなく、ただのミツルとして。ううん、ちがう。メービスとして向き合うの。
リュシアンは本を抱え直し、落ち着かなさそうに指を動かした。爪の脇に黒いインクがついている。
「僕は……はい、リュシアンです。母上から『大事なお客さまがいらしているから、失礼のないように』って言われたんですけど……どうしたらいいのかわからなくて。それで……」
「部屋を覗いていた、というわけね?」
「はい」
リュシアンは肩をすくめながら恥ずかしそうに笑い、積まれている本の山をそっと撫で下ろした。待ちきれずに本を読んでいた気配が伝わってきて、わたしも自然と笑みを浮かべてしまう。
――かわいい。
あまりに一生懸命で、頬がゆるむのを止められなかった。
「メービス様は、怒っていないんですか?」
「どうして? そんなことはないわ。わたしも、あなたに会ってみたいと思っていましたから」
「よかったです」
リュシアンの目が丸くなる。そのまま見つめ合うのが照れくさくなったのか、彼は本を机へ置き、表紙をこちらへ向けた。
「あなたは読書が好きなのね。今はどんな本を読んでいるの?」
「僕、これを読んでいたんです」
表紙には、『辺境の信仰と伝承と魔術的儀式について』と記されている。
「あら、ずいぶん難しそうな本ね。これのどこを読んでいたの?」
「『冬至と春迎えの儀式』というところです。領地に残っている古いお祭りと、同じ言葉が出てくるからです。それで気になって……」
彼が頁を開くと、紙のあいだから細い札が何本も覗いた。机の端には、『辺境地域の祭礼――冬至と春迎えの風習』と、不揃いな文字で書かれた紙が置かれている。
「それはすごいわね。こんなものを読み解くなんて、大人でも根気が要るでしょうに……偉いわね」
リュシアンは照れながらも、うれしそうに笑った。
「お母さまに言われているの?」
「いいえ、興味があるからやっているんです。母上に頼んで、王都から取り寄せてもらいました。わからない言葉は、こっちの本で調べるんです」
リュシアンは本の山から別の一冊を抜こうとした。上に載っていた紙が滑り、床へ落ちる。二人で同時に屈み、指先が触れそうになった。小さな爪の脇に残るインクを見た瞬間、呼ばれても本から顔を上げられなかったころの自分が、紙の匂いとともに胸をよぎる。わたしは紙を拾い、書かれているものを見ないようにして彼へ返した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。でも、違う本を何冊も読むのは大変でしょう?」
「確かめたいからです。別の本でも同じことが書かれていれば、本当かもしれないって思えるんです」
「もし、違うことが書いてあったら?」
「それなら、もっと調べます。どうして違うのか。それが知りたいからです」
ためらいのない返事に笑みが漏れると、リュシアンは不思議そうにこちらを見た。
「ごめんなさい。昔のわたしも、似たようなことをしていたから」
「メービス様も、本がお好きなのですか?」
「ええ。誰かに呼ばれていることにも気づかないくらいにね」
「僕も、この前それで母上に叱られました」
「では、本当に同じね」
リュシアンが笑った。
その拍子に、本の陰へ立てかけてあった短めの木剣が傾き、机の脚へ当たった。乾いた音が書斎に響く。
「あ……」
彼は慌てて木剣を取り上げ、背中へ隠そうとした。けれど隠しきれず、先端が肩の上から覗いている。
「それは、騎士ごっこに使うのかしら?」
「はい。母上には、書斎のなかで振ったらだめって言われています」
「わかるわ。本が倒れてきたら大変だものね」
「前に一度、机の上に積んだ本へ当ててしまって……。倒れなかったんですけど、あとですごく怒られました」
「ふふ。一度で済んでよかったわ」
積み上がった本へ目を向けると、リュシアンも同じ場所を見た。木剣を抱える手にも、うっすらとインクが残っている。
「でも、勉強ばかりじゃつまらないから……僕、騎士ごっこが大好きなんです。外で走り回って剣を振り回しているほうが楽しいんです」
「あらあら。お母さまは、もう少し落ち着いてほしいのかしら?」
「はい……母上は『もう少し落ち着いて』って言うんです。僕が剣を振り回していると、危ないからって……でも、僕はこういうのが好きなんです」
リュシアンは少し胸を張った。つい先ほどまで本の陰へ隠れていた子と同じとは思えないほど、瞳が生き生きとしている。その変わりようまで可愛らしくて、また笑みが漏れた。
「騎士ごっこって、そんなに楽しいの?」
「はい、楽しいです! 周りの友達にも、将来は騎士になるんだって言っている子が多いですし。僕、本で剣の構え方を読んだりするんですけど、やっぱり真似してみてもなんだか違って……。すぐに腕も疲れてしまうんです」
リュシアンは周囲を見回し、ここでは振らないという約束を思い出したらしい。木剣の柄へ手を置くだけに留めた。
「メービス様は、剣を使ったことがありますか?」
「少しだけ心得がありますよ」
「本当ですか?」
彼は一歩近づきかけ、扉の外を見て足を止めた。それでも、木剣を握る指はもう背中へ隠れようとしていない。
「教えてあげたいけれど、ここではお母さまも困るわね。……どこか広い場所でなら、わたしも少しくらい相手になれるかもしれないわ」
冗談めかして言うと、リュシアンの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
期待をこめた声を上げたものの、すぐに何かを思い出したらしい。リュシアンは扉の外へ目をやり、木剣の柄へ視線を落とした。
「でも、メービス様は……ええと……」
「いいのよ、遠慮しなくても。あなたみたいに元気いっぱい動き回れる子が、正直うらやましいくらい」
「そうなんですか……」
リュシアンは「どうして?」と尋ねたそうな顔をしたが、深くは聞いてこなかった。
「母上は危ないところへ行くのを嫌がるかもしれませんけど、僕はどうしても騎士になりたいんです」
その言葉を口にするときだけは、声に迷いがなかった。
「どうして騎士になりたいの?」
「僕は騎士になって、いろいろな土地へ行ってみたいんです。北の山や、港町にも。本に書かれているお祭りが、本当に同じなのか、自分の目で見てみたいんです。国の外にはどんな場所があるのかなって考えると、わくわくします。でも……母上が聞いたら、あきれてしまうでしょうか……?」
「……とても素敵ね。旅をしながら地方の文化やお祭りを学ぶのなら、騎士だけではなく、学者や探検家の道もあるかもしれないわ」
「全部になれたらいいのにな」
「それでは、旅へ出ても本が増え続けそうね」
「はい。持ちきれなくなるかもしれません」
「馬だけじゃなく、馬車が必要かもしれないわね」
「でも、本だけで荷車がいっぱいになったら、剣とか鎧が積めなくなりそうです」
リュシアンは声を立てて笑った。笑ったときの目元に、ほんの一瞬、先王の面影が差す。血は、こんなところに残るのかもしれない。
――え……。
その向こうに、泥のついた袖で笑っていた幼い弓鶴の姿が重なった。頁を押さえるインクのついた指には、昔の自分がいた。胸の奥が急に狭くなり、息を吸っても足りなかった。髪へ触れたいと思った。転びそうになれば支え、本が落ちれば拾い、木剣を振るなら、けがをしない場所を整えてやりたい。いつも人を遠ざけてきた胸のなかへ、名前の分からない熱が入り込んでくる。
――ああ、なんて可愛らしいのだろう。奪わせたくない。いま目の前にある、このまっすぐな光だけは。
けれど、わたしは両手を外套の上へ重ねた。
――違う。目の前にいるのは、美鶴でも弓鶴でもない。
この子の笑顔を、誰かの面影だけで見てはいけない。それでも、重なった面影が消えたあとにも、かわいいと思う気持ちは残っていた。
リュシアンが木剣を持ち替える。柄が小さな手のなかで、かすかに軋んだ。
「あの、メービス様。……あれ? 呼び方は、これでいいのでしょうか……?」
リュシアンが遠慮がちに首を傾げる。その仕草まで愛おしく見えて、わたしは笑みを浮かべた。
「うん、呼びやすいように呼んでね」
すると、少年は少し安心したように微笑み返した。
「あの、こんど、騎士ごっこをするとき、よかったら見に来てくれませんか? 母上はいつも忙しいので……たまには誰かに見てもらいたくて……」
その無邪気な誘いに、内心くすぐったさを覚えた。けれど同時に、ロゼリーヌ様の言葉が頭をかすめる。ここで勝手に約束してはならない。それでも、彼の純粋な期待をいきなり突き放すことはできなかった。わたしは、できるだけやわらかい声で応えた。
「ええ、機会があったらぜひ。――でも、お母さまがお許しになったら、ね」
「あ……そうですよね」
リュシアンは少し肩を落とし、それからもう一度、照れたように笑った。
そのとき、開けてあった扉が二度、控えめに叩かれた。
「……リュシアン、お客さまを困らせていないでしょうね?」
ロゼリーヌ様が廊下に立っていた。
視線は最初に息子へ向かい、その手にある木剣を見てから、机に広げられた本へ移った。最後にわたしの顔へ届く。
「困らせていません。僕が本を見せていたんです」
リュシアンは木剣を背中へ回した。
「リュシアン殿から、楽しいお話をたくさん聞かせてもらいました。あんなに本を読んでいるのに、騎士ごっこまで好きだなんて、すごいお子さんですね。剣の構えも、本で調べているそうです」
わたしが告げると、ロゼリーヌ様は短く息を吐いた。
「それだけでしたら、書斎の本も無事なのですけれどね。リュシアン?」
「もう、ここでは振っていないよ」
「ここでは、でしょう?」
リュシアンは答えず、木剣の先を床へつけた。ロゼリーヌ様の眉間にあった皺がほどけかける。
「聞いて、母上。メービス様は、剣を使えるんだって」
「そう……」
「今度、僕の構えを見てもらってもいい?」
ロゼリーヌ様の視線が、もう一度こちらへ向いた。先ほどまで薄れていた硬さが戻っている。
「いけません。メービス様は大切なお客さまなのよ。それに、とてもお忙しい方なの。いつまでもここには居られないの。わがまま言うんじゃありません」
「……はい」
木剣の柄を握っていた指から、力が抜けた。その様子を見ても、わたしは口を挟まなかった。
「今日は本を見せてくださって、ありがとう。お話しできて嬉しかったわ」
「僕も、楽しかったです」
リュシアンは木剣を持ったまま、小さく頭を下げた。
書斎を出るまで、ロゼリーヌ様は扉の脇を動かなかった。廊下へ出る前にふと振り返ると、リュシアンは木剣を握ったまま、こちらを見つめていた。にこりと微笑むと、彼は赤面しながら、もう一度小さく会釈した。廊下へ出ると、紙と革の匂いが遠のき、石壁の冷たさが戻ってきた。背後の扉は開いたままだった。ロゼリーヌ様と並んで歩く。靴音が重なるたび、書斎で聞いた木剣の音が胸の内側へ戻ってきた。
「……リュシアン殿は、本当に騎士になりたいようですね」
「息子はそう言っていますが、騎士の道には危険がつきまといます。正直なところ、遠ざけたい気持ちのほうが大きいのです。――それでも、あの子が本気で望むなら、止めるのも酷でしょう?」
窓の隙間から冷たい風が入り、ロゼリーヌ様のスカートの裾を揺らした。彼女は歩みを止め、乱れた布を手で押さえる。
「どうしても、剣を持つ手を見ると取り上げたくなるのです。外へ駆けていけば、転ぶんじゃないかと呼び戻したくなる。けれど、私が先回りしてばかりいたら、あの子は自分の足で歩けないままになるのかもしれませんね……」
最後の言葉は、冷えた廊下へ落ちるように低かった。わたしは、すぐには返せなかった。
「こんなことをお聞きするのは失礼と存じますが……ロゼリーヌ様は、ギルク兄が戦地にいると知ったとき、戻ってきてほしいとは思わなかったのですか?」
彼女の足が止まった。廊下の奥から侍女たちの足音が近づき、曲がり角の向こうへ消えていく。そのあいだも、ロゼリーヌ様はうつむいたままだった。
「ええ……何度も、戻ってきてほしいと思いました」
やがて返ってきた声は、掠れていた。
「この領地にも、ギルクが最前線に立っているという噂は届きました。王家の王子が自ら国を守っているのだという、勇ましい話として。けれど、あの人が何を思ってそこに立っているのか、私には何ひとつ分かりませんでした」
スカートを押さえていた指が、布の上でわずかに動いた。
「戻ってきてほしいと伝えたかった。リュシアンが生まれたことも、元気に育っていることも知らせたかった。けれど、そんな手紙が戦地にいる彼に届けば、迷わせ、苦しませるだけだと思ったのです。ですから、思いとどまりました」
その指先が、スカートの布を握り込んだ。
「便りを出さないまま時が過ぎ、やがて彼の戦死の報が届いた時、ひどく後悔しました。どう思われようと、伝えておけばよかったと……」
わたしが言葉を探しているうちに、ロゼリーヌ様は再び歩き出した。
「だからといって、息子の足を止めてよい理由にはなりません。あの子は、あの人でも、私でもないのですから。それだけは……」
その言葉が、胸の奥へ深く入った。書斎で両手を外套の上へ重ねたときの感触が戻ってくる。
「子どもというのは、親の思うようには育ってくれないものです。読書が好きなのは私譲りかもしれませんけれど、あの子は、私には思いもつかない夢をいくつも持っている。それが嬉しいやら心配やらで、どこまで口を出してよいのか分からなくなります」
「それでも、母親なら見守るしかないのでしょうか?」
「……そうは言いたくありません」
ロゼリーヌ様は、そこで初めてこちらを見た。
「止めることもあります。叱ることもあります。あの子に嫌われても、危険だと思えば扉を閉めます。母親だから何もかも受け入れられるなどと、綺麗事を言うつもりはありません」
低い声には、書斎の前へ現れたときと同じ硬さが残っていた。
「ただ、閉めた扉をいつ開けるのか。それを、自分の怖れだけで決めたくないのです。もちろん、難しいことです。私にも、自信なんてありません」
応接間へ続く角を前にして、ロゼリーヌ様が立ち止まった。
「……陛下」
子どもの前で使わなかった呼び名だった。
「はい」
「リュシアンをご覧になって、あなたはどう思われましたか?」
問いかける目は、先ほどまでよりも鋭かった。
「とても、可愛らしい子だと思いました」
言葉にすると、書斎で笑った顔が浮かんだ。
「リュシアン殿と話して、とても温かい気持ちになりました。今まで経験したことのない感覚です。髪に触れたいと思いました。本を落とせば拾ってあげたい。木剣を振るうなら、けがをしないように見守りたい。そんなことを、次々と……」
「それで、母親の気持ちがお分かりになりましたか?」
「いいえ――」
答えると、喉の奥が乾いた。
「分かったとは申せません。あの子へ伸ばそうとした手が、本当にリュシアン殿のためのものなのか。……それとも、わたくし自身のためなのか。それすら、まだ分かりません」
「ですが、楽しかったのです。あの子が本の話をすることも、木剣を隠しきれないことも。旅の話をすると目を輝かせることも。……また、お話ししたいと思いました」
「あの子を、どなたかの代わりになさるおつもりはありませんか?」
問いは荒くなかった。それでも、胸の内側へ冷たいものが入った。書斎で両手を重ねた理由を思い出した。
「正直申し上げるなら……わたくしに重なりました。幼い頃のわたくしには、望むべくもなかったものを、光のようなものを、リュシアン殿に確かに感じたのです」
「けれど、同じではありません。面影が消えたあとにも、あの子を可愛らしいと思いました。また話したいとも。そして……守りたいと思ってしまいました。この気持ちを嘘にはしたくありません」
ロゼリーヌ様は黙っている。
「ただ、それが危険なことであることも、分かっているつもりです」
自分の声が、思ったより小さく聞こえた。
「ですから、いまのわたくしが口にする『守りたい』を、そのまま信用してはならないとも思います」
「それでも、あの子の味方になると?」
「はい」
「矛盾していませんか?」
「しています」
ロゼリーヌ様の指が、袖口の縁をなぞった。
しばらくして、視線がわたしの顔へ戻る。
「では、陛下は何を守るとおっしゃるのです?」
書斎の机が浮かんだ。分厚い本と、その陰に立てかけられた木剣。どちらかを選ばせようとすれば、リュシアンは困った顔をするだろう。
「リュシアン殿が騎士への道を選ぶことも、学問の道へ進むことも、王家から遠ざかることさえも、わたくしが答えとして与えてよいものではありません」
「それでは、何もなさらないのですか?」
「いいえ」
重ねていた手を解いた。
「外側から道を決めようとする者があれば止めます。王家に置くべきだと迫る者がいれば、退けます。……けれど、そのあとに、わたくしの望む道を置いてはならない」
ロゼリーヌ様は、目を逸らさなかった。
「わたくしが守りたいのは、リュシアン殿が答えを選ぶまでの時間です。本も木剣も、まだどちらも手放さずにいられる時間を、です」
「女王の権力で、ですか?」
「答えを与えるためには使いません。答えを奪う者を遠ざけるために使います」
ロゼリーヌ様の唇が、わずかに結ばれた。
「言葉だけなら、いくらでも整えられましょう」
「はい」
「私は、あの子を守るためなら、たとえ陛下が相手でも退きません」
「退かないでください。あなたはリュシアン殿の母君です」
「これは、陛下の許しを求めているのではありません」
すぐに返された言葉へ、うなずく。
「承知しています。ロゼリーヌ様のご決意として、受け取っています」
「今日、約束を破らなかったことは拝見いたしました。ですが、それだけのことです」
「はい」
「次にあの子と話すときも、必ず私を通してください」
「承知しました」
ロゼリーヌ様はそれ以上答えず、応接間の扉へ手をかけた。扉は、人一人が通れる幅だけ開いた。ロゼリーヌ様は振り返らず、その向こうへ進んだ。
客室へ戻ったのは、それからしばらくあとのことだった。扉を閉め、廊下から開かないことを確かめる。鏡の前で金具を外すと、若緑色のかつらが手のなかへ沈み、その下に隠していた黒髪が肩へ落ちた。
机へ戻り、昼に開いたままの手帳を引き寄せる。午前中の話し合いを書き留めた最後の行。その下へ、『リュシアン殿』と書いた。
――彼の目下のお気に入りは、本と木剣。夢見るは旅……。
続けて、『リュシアン殿に望むこと』と書きかける。ペン先が止まった。『に』の一字へ、ゆっくりと線を引く。その横へ、『が』と書き直した。
『リュシアン殿が望むこと』
黒い文字を見ているうちに、遠い記憶のなかで、別の紙が開いた。
深淵の血族。前世の両親の願い。解呪の必要不可欠な導き手。精霊子の器の拡張。弓鶴の魂を取り戻すための具体的手順。かつての計画書は、『異界への門を開く』と記した行で途切れていた。その下に余白がなかったのではない。頁そのものが、そこで終わっていた。
けれど、いま目の前にある手帳には、まだ白い頁が残っている。
わたしは頁を戻した。『北方街道の整備状況。地方の冬季備蓄状況。五年という時間』と記した行の余白へ、新しい一行を書き加える。
『王家からの接触は、本人と母親の意思を越えて進めない』書き終えた文字に、黒髪の先が触れそうになる。片手で髪を耳の後ろへ払い、次の行へペンを移した。文字は先ほどまでより遅かった。それでも、もう止まらなかった。




