五年を、ただの先延ばしにしない
ロゼリーヌ様が窓の外から視線を戻しても、兄の書簡についての話が再び始まることはなかった。受け皿へ戻されたカップからは湯気が消え、茶の表面に暖炉の色だけが細く揺れている。
少し離れた席にいたエドモン男爵が、扉のそばに控える侍女へ目を向けた。すぐには声をかけず、娘の横顔を確かめてから、わたしへ向き直る。
「恐れながら陛下。屋敷の外でお待ちの王配殿下をはじめ、ご随行の方々へ、今宵は陛下が当家へお泊まりになる旨を、執事からお伝えしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。お願いいたします。王配には、近衛を率いて屋敷の外周の警護に当たってもらいます。馬車には野営の支度も積んでおりますので、ヴォルフたちの宿所までご用意いただくには及びません」
「承知いたしました」
エドモン男爵が侍女へ執事を呼ぶよう告げると、侍女の裾が絨毯をかすめ、その姿は扉の向こうへ消えた。
北へ向かった七日の道中、馬車には街道が塞がれた場合に備え、天幕も毛布も積んである。ヴィルは野営を苦にする人ではない。屋敷の者へ、これ以上の負担を求めずに済む。
ほどなく執事が現れた。エドモン男爵は、女王が今夜この家へ泊まることと、王配殿下以下の随行は外で夜を越すことを伝えるよう命じた。執事はエドモン男爵の言葉を受け、わたしにも深く一礼して退室する。
その背を見送り、膝の書類挟みを抱え直した。原本の所在を示す索引は、留め紐を解かれないまま中にある。
ロゼリーヌ様も立ち上がった。椅子の脚が絨毯を押し、毛足が低く鳴る。エドモン男爵は娘へ手を差し出しかけたが、彼女が自分で立ったのを見ると、その手をゆっくり下ろした。
客室へ向かうため応接間を出ると、玄関広間の高窓から、夕闇の降りた前庭が見えた。車寄せの先には、乗ってきた馬車が残っている。覆いをかけた灯のそばで、近衛の一人が馬具を確かめ、もう一人が荷台から巻いた天幕を下ろしていた。
その向こうに立つ大柄な人影は、外套に半ば隠れていても見間違えなかった。執事が近づくと、ヴィルがそちらへ顔を向けた。知らせを聞き終えても屋敷へ上がろうとはせず、馬車のそばから玄関の灯を一度見ただけだった。――わたしが頼んだ距離を、そのまま守ってくれている。窓枠へ伸びかけた指が、冷えた木へ触れる前に止まった。ここから合図を送れば、ヴィルはきっと応えてくれる。だからこそ、いま確かめる必要はなかった。
侍女のあとに続いて廊下を曲がったとき、軽い足音がこちらへ近づいてきた。
一冊の本を胸へ抱えた男の子が、角の向こうから姿を見せる。淡い栗色の髪が額へかかり、その下の青灰色の瞳が、侍女を見て、ロゼリーヌ様を見て、最後にわたしのところで止まった。
――あの子が、リュシアン殿に違いない。
開きかけた唇からは、声が出なかった。ロゼリーヌ様が半歩前へ出て、彼の肩へ手を置く。押し戻すほどの力は入っていない。ただ、母親の身体が、わたしと子どものあいだへ静かに置かれた。
リュシアン殿は母の顔を見上げた。本の頁に挟んでいた指を抜き、表紙を両手で抱え直す。それから小さく頷き、来た廊下を戻っていった。
わたしは名を呼ばず、廊下の端へ寄ったまま、その背が角の向こうへ隠れるまで待った。
ロゼリーヌ様は何も説明しなかった。わたしも何も尋ねないまま、侍女に促されて客室へ入った。
室内には、すでに火が入れられていた。大きくはない暖炉の奥で薪が赤く崩れ、樹脂の匂いが薄く漂っている。寝台と卓、小さな衣装棚。窓には厚手の布が引かれ、隙間から前庭の灯が細く差していた。
侍女は水差しと洗面器の位置だけを示し、一礼して退出した。着替えを手伝うとも、荷を解くとも言わない。扉が閉じると、廊下を遠ざかる靴音は、間もなく聞こえなくなった。
しばらくして運ばれてきた夕食も、卓へ置かれただけだった。パンとスープ、塩漬け肉。それに、薄く割った葡萄酒が添えられている。
「ありがとう」
声をかけると、侍女は浅く礼をした。何も答えず、空になった盆を胸元へ戻して部屋を出ていく。袖口の白い布が擦れる音をひとつ残し、扉が閉じた。
スープはまだ熱かった。木の匙を入れると、やわらかく煮えた具が底で触れ合い、立ちのぼる湯気に麦と肉の匂いが混じった。パンの固い表面を割り、少しずつ口へ運ぶ。
王宮の食卓のように皿の順を待つ必要も、誰かへ言葉を返す必要もない。それでも、静かだから安らげるとは限らなかった。さきほど廊下で見た青灰色の瞳が、火の向こうへ何度も戻ってくる。
ギルク兄に似ているかどうかを確かめることはしなかった。彼は、わたしより先に母親を見ていた。手には読みかけの本があり、戻っていく先には、この屋敷で続いてきた彼の暮らしがある。今日初めて姿を見たわたしが、髪や目元へ兄の面影を探したところで、彼を知ったことにはならない。
食事を終えると、書類挟みを膝から卓の端へ移し、備えられていた紙を一枚、手前へ引いた。インク壺の蓋を外し、ペン先へ黒い滴を含ませる。王宮へ戻る前に、命じられることはいくつもあった。王家の名で男爵家へ接触するには、まずわたしの許可を要すること。リュシアン殿に関する記録へ触れられる者を限ること。領内へ入る使者の動きを探らせること。書き始めさえすれば、どれも短い命令で済む。けれど、ロゼリーヌ様へ確かめずに命じれば、守るという名でこの家を王家の管理下へ置くことになる。彼女は、王家に守ってほしいとは言っていない。わたしが伝えたのも、危険の可能性までだった。いま動かなければ間に合わないと示す事実を、今日ここで得たわけでもない。紙の上へ落ちかけた滴が、ペン先で丸くふくらんだ。命令にすれば境界は明確になる。けれど、その境界を誰が決めるのかを、今夜、わたしが先に決めてよいはずはなかった。ペンをインク壺の脇へ戻す。紙には、まだ何も書かれていない。蓋を閉めると、金具の触れる小さな音がした。
暖炉の火が低くなるころ、上衣を脱いで寝台へ腰を下ろした。毛布は乾いており、指で押すと、織り目のあいだから残った温度がゆっくり返ってくる。
灯を落としたあと、廊下の向こうで一人分の足音がした。扉の前まで来て、止まる。取っ手は動かなかった。声も、ノックもない。衣擦れに似た音が一度したあと、沈黙だけが残った。
寝台の縁へ置いた手を動かさずに待った。やがて足音は、来たほうへ戻っていく。誰だったのかは分からない。確かめるために扉を開けることもしなかった。
窓布の隙間を細く開けると、馬車の脇に残された灯が、風を避ける覆いの内側で揺れていた。近衛たちの姿は闇へ沈み、ヴィルがどこにいるのかも、もう見えない。それでも、灯は消えていなかった。
窓布を戻し、寝台へ横たわる。卓の上では、書類挟みの留め紐も、白い紙も、手を離したときの形を保っていた。
◇◇◇
翌朝、目を覚ますと、窓の外には薄い霧が残っていた。木々の枝へ降りた霜が朝日を受け、白く浮かび上がっている。窓枠の金具に触れると、指先から冷えが伝わった。
昨夜は何度も眠りが途切れた。それでも暗いうちから起き出す気にはなれず、ヴィルたちがいるはずの方角を、窓越しにしばらく眺めていた。
侍女が朝食の支度を告げに来る前に、黒髪をネットへ収めた。留め具を確かめ、緑の髪を肩へ流す。この家で黒髪を見せることを許した相手は、ロゼリーヌ様とエドモン男爵だけだ。廊下へ出れば、昨夜と同じ境を守らなければならない。
案内された小食堂には、ロゼリーヌ様が先に着いていた。簡素な卓上に、切り分けたパンと野菜のスープ、皿へ盛られた冬の果実が並んでいる。椅子を引く音が石床へ低く響き、湯気に混じったバターと香草の匂いが、冷えていた指先まで届いた。
軽く会釈を交わして席に着いたあとも、すぐには言葉がなかった。ロゼリーヌ様はパンへ触れず、カップの持ち手に指を添えたまま、わたしの緑の髪へ一度だけ目を向けた。
「……リュシアンは、あなたに対して、『珍しい客人が来た』と興味があるようです。会いたいと言い出すかもしれませんが、面会については、私が適切なタイミングを見て判断いたします」
昨夜と同じ境を、あらためて示されたのだと思った。その一方で、リュシアン殿自身の様子を、わずかとはいえ彼女のほうから教えてくれたことも確かだった。
「お任せいたします。彼に無理させるつもりはありません。――ところで、もし差し支えなければ、わたくしから、あなたにしか話せないことをお話したいと思っているのですが……」
茶の表面に浮かんだ泡がひとつ弾けた。いまリュシアン殿について問いを重ねれば、彼女が引いた境を外側から押すことになる。代わりに話したかったのは、昨日お伝えした先王との五年の約束を、わたしがどのように守ろうとしているのかだった。
「なんでしょうか。たとえば?」
「わたくし自身が経験してきたこと、わたくしが知りうる範囲のこと、できるだけなんでも。そして、リュシアン殿の存在が王宮で取り沙汰されたなら、起こり得ることもございます。あなたに知ってもらいたい半面、重い話もあるので、無理にとは言いませんけれど」
ロゼリーヌ様は目を伏せた。受け皿の縁へ置かれた指が、白い磁器の上をわずかに動き、やがて止まる。
「今日の午前中は特に予定がありませんから、お付き合いします」
こうして、わたしたちは再び応接間へ腰を据え、昨日の続きを話すことになった。
◇◇◇
暖炉へ新しい薪が加えられ、朝の茶が運ばれた。侍女が退室すると、扉の金具が小さく鳴る。廊下の足音が遠ざかってからも、ロゼリーヌ様はすぐにはこちらを見なかった。
昨日、わたしは、王宮でリュシアン殿の存在が取り沙汰されれば、彼を擁立しようとする者が現れる可能性を話した。そして、そうした者から母子を守るために、自分の権限でできることを尽くすと約束した。
だが、その権限は、わたしが女王の座にいるあいだしか使えない。ロゼリーヌ様が、その先まで約束のうちに含めようとするなら、避けて通れる問いではなかった。
「陰謀と呼べるほどの動きが、すでにあるわけではございません。ですが、リュシアン殿の存在を知る者が増えれば、王家の血を理由に、勝手な思惑を抱く者が現れる可能性はあります」
「その可能性ですけれど、もし本当に起きたとしたら、あなたに止められるのですか?」
「できる限りは」
「そのためにかえって反感を買い、あなたが黒髪の巫女であることが暴かれたなら? 女王の座を追われてしまえば、昨日の約束はどうなるのでしょう」
声は荒くなかった。カップの持ち手へ添えられた指も動かない。その静けさのまま、問いだけが湯気の向こうからまっすぐ届いた。母子を守ると約束した女王が、五年を待たずにいなくなる。ロゼリーヌ様が確かめようとしているのは、わたしの身の安全ではない。そのあと、同じ王家が何をするのかだった。椅子の背へ置いていた指を離し、膝の上へ戻した。
「わたくしは、少なくとも五年は、女王の座を保てる見込みがあると考えております」
その言葉に、ロゼリーヌ様はわずかに眉をひそめた。
「随分と自信がおありなのですね。何か根拠があるのでしょうか?」
皮肉を含んでいるのかもしれなかった。けれど、そこへ言葉を返しても、昨日の約束を守る方法が増えるわけではない。呼吸を整え、考えてきた順に話すことにした。
「まず、一つ目の理由です。今のリーディス王国は、国家の再建が始まったばかりであり、わたくしという象徴がいなければ成り立たないこと」
言い切ったあと、舌の奥へわずかな苦みが残った。復興を支えているのは、わたし一人ではない。だが、ここで言葉を引っ込めれば、ロゼリーヌ様の前に残るのは、何の見通しも持たない女王だけだった。
卓上へ広げた地図の端に指を置く。北へ延びる街道には、道中で見てきた仮設路や宿場の位置が記されていた。焼け跡の印も、冬に備えて物資を集めている町も、紙の上では同じ大きさの記号になっている。
「わたくしとヴォルフ殿下で進めている復興のための施策は、民衆だけではなく、貴族諸侯からも評価されはじめています。しかしながら、まだ軌道に乗り切ったとは言いがたい。宰相や閣僚、貴族院との関係も、ようやく国務を滞らせずに進められるようになったところです。そんな状況でわたくしを排除すれば、国全体が混乱し、復興そのものが頓挫する可能性が高い」
「ですが、あなたには黒髪の巫女であるという弱みがある。この点についてはいかがお考えですか?」
「たしかに、仰る通りです。ですが、それは彼らにとっても大きな危険を伴います」
昨日、彼女の前で外したウィッグが、いまは頭皮へわずかな重みをかけている。留め具の位置を意識しながら、言葉を続けた。
「先王のたっての意向とはいえ、そもそも『救世の緑髪の巫女の正体が、実は隠されていた王女だった』という筋書きを受け入れたのは、王宮にいる者たちです。それを覆せば、民衆を謀ったと騒ぎになりましょう。当然、王家の権威は失墜し、わたくしを女王として認めた者たちの立場も傷つく。下手をすれば暴動から内乱に発展し、他国の介入を許す可能性すらあります」
そこで息を継いだ。若緑の髪を持つ救世の王女という物語は、すでに民衆の信望にも、王宮の国務にも組み込まれている。覆したときに傷つくのは、わたし一人では済まない。
ロゼリーヌ様は茶をひとくち含み、視線だけをこちらへ残していた。
次の理由を口にする前に、昨日、自分で引いた線を思い返す。リュシアン殿が兄の子であることは、まだ確かめられていない。これから話すのは、血縁が確認された場合に限っての仮定だった。
「そして二つ目の理由。血縁が確かめられた場合、いま判明している王家の直系は、わたくしとリュシアン殿だけになることです」
ロゼリーヌ様の指が、カップの持ち手で止まった。
「もちろん、それを理由にリュシアン殿を王へすると申し上げているのではございません。ほかの継承経路も確かめるよう、すでに命じております。ですが、遠縁を探し、法を確かめ、国を率いるに足る人物かどうかを見定めるには時間がかかります」
すぐには次の言葉が出なかった。暖炉の奥で薪が崩れ、赤い欠片が灰の上へ落ちる。目の前の子どもを王統の空白へ置かないと決めながら、国の事情を説明しようとすれば、その名を数えずにはいられない。昨夜の廊下で、リュシアン殿は読みかけの頁へ指を挟んでいた。王統の記録に残る直系の二文字より先に、表紙を抱え直した小さな手が浮かぶ。わたしは地図から手を離し、膝の上で指を重ね直した。
「つまり、わたくしという救世の英雄は、彼らにとって利用価値が高いということです。政治的にも、経済的にも、民衆の心をつなぎ止めるためにも、性急にすげ替えるだけの理由はありません」
口にした言葉は冷たかった。けれど、ロゼリーヌ様へ安心だけを差し出すより、王宮にとってのわたしの価値がどこにあるのかを、そのまま伝えるほうがよいと思った。
ロゼリーヌ様の視線が、カップから地図へ、そして膝の上のわたしの指先へと移った。
「なるほど……」
「もちろん、短期的に国を混乱させてでも王を追い落とし、他国へ領土を割譲しようとするような貴族がいれば、話は別です。そういう者が現れたなら、わたくしは一瞬で排除の標的にされるでしょう」
言葉にすると、頭の中で組み上げた危険は、紙の上へ書かれた仮定のように聞こえた。けれど、ロゼリーヌ様は口を挟まず、続きを待っている。
「ですが、大半の貴族にとっては、領地や財産、名誉こそが優先されます。内戦を起こせば領地は荒れ、人は離れ、他国軍が入れば主導権は外へ移る。自分も使い捨てにされる危険のほうが、はるかに大きい」
「ですが、皆がそこまで冷静に損得を選ぶでしょうか?」
ロゼリーヌ様の声は変わらなかった。王家の名で届く書状を何度受け取っても、息子を渡さないと答え続けた人の問いだった。
「選ばない者もいるでしょう。国を売ってでも自分だけ得をするという考えが成り立つのは、よほど狂信的な集団か、隣国から圧倒的な利を確約されている場合に限られます。ですが、そんな教科書どおりの成功譚を、わたくしは聞いたことがありません。たいていは、最初に裏切った者から切り捨てられ、混乱だけが残るものです」
ロゼリーヌ様は、うっすらと微苦笑を浮かべた。
「つまり、当面の情勢を考えれば、わたくしが失脚するおそれは低いと言えるでしょう。もちろん、理を捨てて動く者が皆無とは限りません。ですが、もしそういう者が動けば、大義名分をもって退けることもできます。そんな筋の悪い企てには、大半の貴族は協力しないでしょう。得るものがないのですから」
最後まで並べ終えると、喉の奥に乾きが残った。冷めかけた茶へ手を伸ばしたが、口はつけずに戻す。前世で読んだ歴史と物語。王立魔術大学の大図書館で読んだ政治や経済の書。お祖父さまの書斎で、年代と差出人を照らし合わせた諸国の書簡。国を売って望むものを得た者より、内乱のあとで領地も名も失った者のほうが、はるかに多く記録されていた。時間を遡ってから目にした宰相府の仕事も、そこから外れてはいない。求めた原議は届けられ、評議では事実と推量が分けられ、未確認の風聞は正式な王統調査へ混ぜられなかった。少なくとも、これまで紙に残った選択は、国を損なう方向を向いていない。
そこに記されていないものまで疑い始めれば、誰の働きも信じられなくなる。いまのわたしには、紙へ現れた選択と、その結果を基準にするほかなかった。もちろん、宰相や閣僚、貴族院の一人一人が、これから何を選ぶのかまで確かめたわけではない。復興が成果を上げ続ける保証も、王宮にいる者たちが損得に従う保証もなかった。それでも、何も分からないと告げるよりは、ロゼリーヌ様が先のことを考えるための足場になるかもしれない。少なくとも、わたしが五年をただ祈って待つつもりではないことだけは伝えられる。
ロゼリーヌ様はしばらく沈黙を保ち、置かれたカップをゆっくりと両手で包んだ。
「……なるほど。確かに仰ることは、理に適っています。――ただ、理は道筋を示すけれど、いつも真実に触れるとは限らない。違いますか?」
彼女の両手のあいだで、茶の表面がかすかに動いた。王家から遠ざかり、書状を拒み、リュシアン殿を守ってきた十年は、どの記録にも一行では収まらない。その歳月を生きた人の目が、わたしの並べた道筋の先を見ていた。
「ええ。わたくしが申し上げたのは、確認できた事実から組み立てた見通しにすぎません。わたくしが五年のあいだ女王の座を保てるという確証はございません。だからこそ、復興の実績を重ね、宰相や閣僚、貴族院との関係を築き、この猶予を現実のものにしてまいります」
確認できた事実から辿れる範囲を言葉にしても、その先が確かなものになるわけではなかった。理を並べ終えたあとに残ったのは、どれほど考えても消せない不確かさだった。それでも、この見通しをロゼリーヌ様へ差し出したかった。大丈夫だと言い切ることはできなくても、五年を守るために考え、動き、その結果を引き受ける者がいるのだと、少しでも思ってもらいたかった。
ロゼリーヌ様とリュシアン殿の意志を守るなら、二人に国の行く先まで背負わせてはならない。リュシアン殿がどの未来を選んでも、その選択によって国が壊れないようにすること。ほかの継承経路を探し、王家の名で母子へ手を伸ばす者が現れれば、それを止められる形を作ること。そのための五年を、ただの先延ばしにしないこと。
どれも、いまのわたしには成し遂げられると断言できない。それでも、五年後の答えを母子へ委ねるのなら、答えを迫らずにいられる国を保つ責任は、女王であるわたしの肩へかかってくる。
卓上の地図は、暖炉の熱で端がわずかに反っていた。指で押さえているあいだだけは平らになる。離すと、北辺がゆっくり持ち上がった。その小さな動きを見つめながら、わたしはロゼリーヌ様が次に口を開くのを待った。




