見極めるための時間
扉の向こうから、絨毯を踏む侍女の足音が近づいてきた。膝に置いていたウィッグへ手を伸ばしたところで、ロゼリーヌ様を見る。彼女は何も言わず、黒髪からわたしの顔へ視線を戻した。
髪をネットへ収める。汗ばんだ指が留め具の縁で滑り、二度目でようやく金具がかみ合った。緑の髪を肩へ流すと、うなじを撫でていた冷気が遮られる。ロゼリーヌ様はその手元を見届けてから、扉のほうへ顔を向けた。
やがて侍女が紅茶のセットを運び、小さなテーブルに並べる。ポットの蓋と銀の匙が触れ、ごく細い音を立てた。湯気とともに、柑橘を潰したような香りが広がる。
侍女が退室したあとも、エドモン男爵は少し離れた席に残った。娘の手元へ向けていた目が、わたしへ移る。
「どうぞ、お召しあがりください。こんな北の辺境までお越しくださって……さぞお疲れになったでしょう」
気遣いだけではない。返す言葉を見定めようとする響きが残っている。わたしは一礼し、カップの取っ手へ指を添えた。薄い磁器を通して、熱が指腹へ移ってくる。
「それほどでも……。ただ、途中で見かけた農村や宿場町にも、冬の気配がもう忍び寄っておりました――」
元いた時代に残された記録では、この頃は冬の訪れが早かったという。道中で目にした兆しは、その記述と重なっていた。
「きっと、この男爵領もほどなく厳しい寒さに包まれることでしょう。どうかご自愛くださいませ」
「あら、私のことをお気遣いくださるのですか? 女王陛下ともあろう方が……そんなお言葉を」
ロゼリーヌ様はカップを持ち上げたものの、すぐには口をつけなかった。湯気の向こうから、まっすぐこちらを見ている。先ほど明かした事情を、言い逃れに使いたくはなかった。カップを支える指に熱が集まり、取っ手からいったん手を離した。
「重ね重ね、わたくしとあなたの立場が同じだと申し上げるつもりはございません。ですが、女王の地位をかざして大仰に構えることも違う。あなたにとっても不快でしょう。ですから、王命として何かを求めるのではなく、只の人として、あなたとお話がしたいのです」
彼女は目を伏せ、紅茶をひとくち含んだ。受け皿へ戻されたカップの音が、静かな室内へ薄く広がる。
「王命として求めるのではないとおっしゃいますが、ギルクがいなくなった今、王家を存続させるには、結局のところは王位継承者が必要なのでしょう? あなたも、そうお考えなのでは?」
黒髪を明かしたことも、王家を嫌う理由を話したことも、リュシアン殿を求めない証にはならない。ロゼリーヌ様が確かめようとしているのは、わたしが彼を一人の子どもとして見るのか、それとも王統をつなぐための手段として見るのかだった。膝の上へ両手を戻し、握らずに置いた。
「リュシアン殿が将来、自ら王になることを望むのであれば、その道を支えるつもりではいます。――けれど、あなたが望まないまま、あるいは彼自身が望まないまま、王家の側から強いることはいたしません。お二人それぞれの意志と選択を、王家の都合で侵してはならない。それが、わたくしの変わらぬ考えです」
そこで、いったん言葉を切った。
先王の名を出せば、いまの言葉へ重みを足せてしまう。だから、ロゼリーヌ様へ送った書状には記さなかった。けれど、彼女とリュシアン殿について交わされた約束を、当人である彼女へ伏せたままにすることも違う。
「もうひとつ、お伝えしておかなければならないことがあります。先王の名を、わたくしの言葉を信じていただくための証にするつもりはありません。けれど、お二人に関わることですから……」
ロゼリーヌ様の目を見た。
「父上――先王オリヴィエと、わたくしたちは、五年の約束を交わしました」
「先王陛下と? 五年というのは、リュシアンが成人するまでの時間、ということですか?」
「はい。ただし、成人と同時に答えを迫るための期限ではありません。第一に、五年のあいだ、王家からお二人へ答えを迫らないこと。第二に、母子の暮らしを守り、お二人が望まないなら、王家の名で引き裂かないこと。第三に、リュシアン殿を五年後に王へするとあらかじめ決めず、母子の意思、法の道、安全に暮らせる条件、それに、ほかの継承経路を確かめること。そのための時間です」
ロゼリーヌ様の指が、受け皿の縁で止まった。
「ですが、先王陛下の御名による書状は、私が息子を王宮へ送れないとお返事したあとも届きました。使者も、幾度も。私には、先王陛下こそがリュシアンを王宮へお求めなのだとしか思えませんでした」
「そうお受け取りになるのは当然です。父上の名で求めが重ねられ、あなたの拒絶が答えとして扱われなかったことは事実です。その経緯を、父上の本意ではなかったという一言で片づけるつもりはありません。父上が一通ごとの内容をどこまで命じ、どこまで承知していたのかも、まだ確認しきれておりません。病に倒れてからの父上は……」
唇を閉じた。先王の寝所で触れた、骨ばった指の温度が蘇った。けれど、その弱さを口にすれば、ロゼリーヌ様が何度拒んでも届き続けた書状より先に、父上の事情を差し出すことになる。
「ただ、わたくしが父上から直接聞き、引き受けたのは、性急に結果を決めてはならないということです。そのことを、直接あなたへお伝えしておくべきだと思いました」
「……少し意外です。私は、王家というものは、ただ自分たちの権威と面目を守りたいだけなのだと思っていました。――そういった面も、あるのでしょう?」
「はい……仰るとおりだと思います。申し上げた通り、幼き頃から白銀の塔に幽閉されていたわたくしは、それを身を以て理解しているつもりです」
白銀の塔の最上階なら、わたしも知っている。選定の儀式へ乱入したあと、わずかなあいだ閉じ込められたからだ。けれど、その場所を知っていることと、そこで育ったメービスの歳月を知っていることは違う。兄の書簡の原本を見たいと望むかどうかも、いつ答えるかも、すべてロゼリーヌ様が決めることだった。
ロゼリーヌ様の指は、まだ受け皿の上にあった。わたしは書類挟みに触れず、湯気の向こうで彼女が顔を上げるのを待った。
カップの縁を曇らせていた湯気が薄れていくあいだ、元の時代で読んだ資料を思い出した。祖父であるグレイハワード先王陛下が遺した、メービス伝説の研究資料。この時代の父上から聞いた証言。そこに記されていた事実と、いまロゼリーヌ様から聞いた歳月とは、似た痛みを含みながらも、ひとつに重なるものではなかった。母から遠ざけられていたこと。父と兄だけが塔を訪れ、書物を届けていたこと。やがて緑髪のウィッグを被り、聖剣を探す旅へ出たこと。兄を失い、父が病に伏したのち、玉座へ進んだこと。資料と証言から確かめられるのは、そこまでだった。
ロゼリーヌ様の視線は、受け皿の縁に置いた指先へ落ちたままだった。
扉の外の声を、彼女がどのように聞いたのか。本を開くたびに何を思ったのか。王女として人前に立つとき、どんな言葉を飲み込んだのか。そこは、わたしの記憶ではない。同じ身体にいるからといって、彼女の孤独まで自分のものにしてよいわけではなかった。
ロゼリーヌ様についても同じだ。王家によって生き方を狭められたという一点が重なって見えても、王家の影に怯えながら、リュシアン殿を守り育ててきた歳月まで、分かったつもりにはなれない。分からないところを想像で埋めず、本人が語るまで待つ。それが、いまのわたしにできることだった。
だから、王家を弁護する言葉は探さなかった。ここで否定すれば、彼女が王家から受けてきたものまで、なかったことにしてしまう。ロゼリーヌ様の眉がわずかに動き、その目がしばらくわたしの顔に留まった。
「あなたが王家を嫌う理由は、よくわかりました。息子をどう扱うかは、それとは別のことです。ギルクやあなたがそうであったように、王家の都合で生き方を左右されるようなことは、絶対に避けたいのです。リュシアンの母親として、それだけは……」
ロゼリーヌ様は、その言葉の前でわずかに声を落とした。それ以上を渡さないために、境を自分で引いている。受け皿に置いた指も、まだ白い磁器から離れなかった。
「はい。……王宮でリュシアン殿の存在が取り沙汰されれば、貴族のなかには、擁立しようと動き出す者も現れるでしょう。ですが、わたくしはあなたとリュシアン殿の意志を無視する側には立ちません。王家の名を使ってお二人へ手を伸ばす者が現れたなら、それを止めるために、わたくしの権限でできることを尽くします。――これは、わたくしからの約束とお受け取りください」
ロゼリーヌ様の指が、受け皿の縁をゆっくりとなぞる。爪先が白い磁器から離れるまで、エドモン男爵もわたしも何も言わなかった。
「承知いたしました。あなたが真に敵でないかどうかは、今後のご行動で見極めさせていただきます」
「はい。それで結構です」
話が途切れたころには、窓から差す光がずいぶん低くなっていた。冷めかけた紅茶の表面へ、暖炉の火が細く映っている。
ロゼリーヌ様が侍女を呼ぶと、新しい茶と菓子を勧める声が扉のそばで聞こえた。彼女は小さく首を振る。
「結構よ。それよりお部屋を用意してちょうだい」
「かしこまりました」
侍女は扉のそばへ下がり、次の指示を待った。ロゼリーヌ様は窓の外へ目を向け、小さく息を吐いた。
「……日も沈みかけております。街までは距離がありますし、陛下には当家にてお泊まりいただくのがよろしいかと」
歓迎されたのだとは思わなかった。暗くなった山道へ客を返さないという、この家の判断なのだろう。少し離れた席で、エドモン男爵も静かに頷いた。
「ご配慮痛み入ります。わたくしも、まだお話したいことが、たくさんございますので」
「――失礼ながら申し上げますが、あなたを手放しで歓迎できる状態ではないことは、どうかご理解ください。リュシアンを危険にさらさないと証明されるまで、信用はいたしかねます」
「ご懸念は、当然のことと受け止めます」
わたしが小さく頭を下げると、ロゼリーヌ様は扉のそばに控える侍女へ目を向け、それからわたしへ視線を戻した。
「それと、侍女たちには最低限の接触だけで済ますように、と告げております」
最低限、という言葉は、侍女から受ける世話だけを減らすのではない。案内される場所を限り、この家の日常へ踏み込ませないための境でもあるのだろう。屋敷のどこかでリュシアン殿と行き会う余地も、それだけ狭くなる。
侍女の眉がわずかに寄ったが、何も尋ねずに一礼した。裾が絨毯をかすめる音が遠ざかり、扉が静かに閉じる。
応接間に残ったのは、わたしとロゼリーヌ様、それに少し離れた席のエドモン男爵だけだった。暖炉の薪が小さくはぜ、窓辺の霜が夕暮れの色を薄く返している。
部屋の支度が整うまでには、まだ時間がかかる。書類挟みへ触れず、紅茶をひとくち飲んだ。冷めはじめた液体が舌へ触れても、次の問いはすぐには出せなかった。
居場所を尋ねること自体が、いま引かれた境を試す言葉になり得る。それでも、この屋敷に泊まる以上、行き会わないためにも、彼がどこで過ごしているかは知っておいたほうがよい。カップを受け皿へ戻し、ロゼリーヌ様の目を見る。
「……ところで、リュシアン殿はいまどちらに?」
ロゼリーヌ様の表情が、ほんのわずかにゆるんだ。ただし、胸元へ戻された手は、そのまま動かなかった。
「書斎で勉強をしているはずです。まだ子どもですし、こんな話し合いに巻き込みたくはありませんので」
「はい。それは理解しております……」
「もし、彼に会いたいとおっしゃるのであれば、必ず私を通してください」
彼女が許したとしても、それがリュシアン殿の承諾まで意味するわけではない。その先を決めるのは、わたしではなかった。
ロゼリーヌ様は指でカップの縁を一度だけ拭い、その指先を胸元へ戻した。
「もちろんです。あなたの許可なくリュシアン殿に近づくつもりはございません。ただ……」
胸元に置かれた手へ目が落ちた。舌の奥に、冷めた紅茶の渋みが残っている。
「あの、あまりにもぶしつけであると承知の上でお尋ねいたします。――ギルク兄とは、どんなふうに出会って、どんなふうに……お付き合いをされたのですか?」
リュシアン殿への問いを重ねる代わりに、兄の名を口にした。王宮では、兄について語られる言葉が決まっていた。第一王位継承者。正妃クラリッサとの間に子を持たなかった王子。宮廷の外に愛する女性がいたらしい人。そのどれにも、ロゼリーヌ様と過ごした時間の形は残っていない。
ロゼリーヌ様の指が止まった。視線がわたしから外れ、暖炉の火を越えて、どこにもない場所へ向けられる。エドモン男爵は娘を見なかった。膝へ置いた手を重ねたまま、答えを促さずに待っている。
「……ギルクは、わたしが王立魔術大学に通っていたころに出会いました。彼が王子であることも、正妃としてクラリッサ様がおられることも、存じ上げていました。そんな彼は、いつも寂しそうに笑う人でした……」
ロゼリーヌ様は、言葉を途切れさせながらも、思い出を話してくれた。夜の研究室で、油燈の芯を短く切り、乾いた羊皮紙の行を二人で追ったこと。夜更けまで残った日には、厨房の隅で端切れのパンを分けたこと。兄が笑うと、片側の頬にだけ深くえくぼができたこと。
わたしの知らない兄の顔が、言葉のあいだから少しずつ現れる。遠い世界の話を聞いているようで、唇の内側へ歯が触れた。
「彼はその話題について触れることはありませんでしたが、噂話は誰もが知るところでした。クラリッサ様との結婚は政略でしかなくて、お互いに望んだものではなかったようです。私との関係を隠していたのは、もちろん王家の圧力やスキャンダルを恐れたためだと理解しています。子を身ごもってしまったとき、彼に知られれば迷惑をかけるとわかっていました。逃げるように大学を去るしかなかった。たった一言、理由も告げない置き書きだけを残して……。それが正しいのだと。彼を守るにはそれしかないのだと。その時は思っていました」
ロゼリーヌ様の声は少しも乱れなかった。ただ、カップの取っ手へ添えた小指だけが動かなくなっていた。
兄にとって、王子という肩書きを外して息をつける場所がロゼリーヌ様の隣だったのなら、わたしにも、似た場所を求めたことはある。茉凜の名が浮かんだ。あの子のそばにいるときだけ、胸の奥に溜め込んでいた息を、少しずつ吐くことができた。
その記憶があるからといって、兄にとってのロゼリーヌ様を分かったことにはならない。
それでも、寄り添いたい、理解したいと思う気持ちまで偽りになるわけではない。ロゼリーヌ様を知りたいと思った。ひとりの女性として何を願い、母として何を恐れ、それでもリュシアン殿を守り続けてきたのか。兄が彼女の隣で、どんな息をしていたのか。
十一歳で、それまでの暮らしも家族の形も壊れてから、恋することも、愛する人と生きることも、その先に自分の家族を持つことも、わたしの未来として向き合おうとすれば、どこかで足が止まった。大切な人を守れなかったという思いを抱えたまま、自分が誰かの母になってよいのかも分からない。
だからといって、ロゼリーヌ様の歳月から答えを借りてよいわけではない。彼女が話してくださる分だけを、彼女のものとして受け取りたい。お二人を守りたいのなら、わたしの「知りたい」で、彼女の引いた境を越えてはならない。兄が何を求め、ロゼリーヌ様が何を守ろうとしたのかを知らないまま、どちらか一人の誤りとして片づけることはできなかった。
彼女が話し終えたあとも、すぐには口を開かなかった。いま聞いた歳月を、兄の書簡で裏づけるように扱いたくはない。冷めた茶をひとくち含んでから、膝の書類挟みへ手を置いた。留め紐は解かなかった。
「……先ほど申し上げた記録は、兄自身が生前に書き残した書簡です。わたくしは父上とともに、王宮でその原本を読んでおります」
「……そこにギルク自身の言葉が、残されているのですか?」
ロゼリーヌ様の目が、わたしの膝の書類挟みへ落ちた。原本が収められていないと知りながら、視線はしばらくそこに留まった。彼女が膝に重ねた手は動かなかった。
「はい。けれど、いま、お読みになるかどうかを決めていただく必要はありません。兄がどれほどあなたとリュシアン殿を愛し、守りたかったか――」
そこまで口にして、息を止めた。愛していた。守りたかった。そう書簡から読み取ったのは、わたしだ。けれど、それは兄が書き残した言葉そのものではない。わたしの読みを、兄自身の言葉のようにロゼリーヌ様へ差し出してよいはずがなかった。兄の書簡を使って、ロゼリーヌ様の心を揺らし、読むほうへ傾けようとしていた。それでは、急かしていないとは言えない。あまりにも卑怯だった。
「……失礼いたしました。兄の思いを、わたくしの言葉で決めるところでした。お読みになるかどうかも、そこに何をお感じになるかも、あなたがお決めになることです」
「……今は、まだ心の準備ができません。少しだけお時間をくださいませ」
「もちろんです」
ロゼリーヌ様は紅茶を口にせず、窓の外へ目を向けた。わたしは書類挟みから手を離した。原本の所在を示す索引は、閉じたまま膝の上に残った。




