黒髪の巫女と辺境の母
王都を発って七日目の夕刻、中継地ボコタを経て、北壁と呼ばれる山岳路を越えた馬車が、モンヴェール男爵家の門をくぐった。
北へ進むにつれて、路肩や岩陰には雪がまばらに残るようになったが、街道を覆うほどではない。車輪が敷石へ乗り上げるたび、冷えた空気を吸い込んだ喉の奥に、金属を舐めたような味が残った。手袋の内側まで冷気が入り込み、指先の感覚が鈍い。
七日間、馬車に揺られた疲れは肩にも腰にも残っていた。けれど、門の向こうにロゼリーヌ様がいると思うと、膝の上で重ねた指に力が入る。手袋の革が小さく鳴り、その音だけがやけに近く聞こえた。
道中、わたしは何度も書類挟みを開いた。
確認できたこと。まだ確認できていないこと。王宮に残した原本の所在。兄ギルクがロゼリーヌ様とその子の存在を知り、案じていたこと。しかし、どのように知ったのかは分からないこと。王位に就けたいと望んだ記述は、確認できなかったこと。
どれも必要な整理だった。けれど、紙の上で事実を二つに分けるたび、紙には書かれていない十年が残った。
王宮から離れ、リュシアン殿を育ててきたこと。王宮がその子を亡き王子の血筋として求め、何度書状を送っても、息子を渡さないと答え続けたこと。そこまでは知っている。だが、夜ごと何を怖れ、朝ごと何を選び直してきたのかを、わたしは知らない。
知らないものを、知ったつもりにならない。
先に送った私信にそう書いたのは、うまく見せるためではなかった。だからこそ、今日、口先で簡単に覆してはならない。
車窓の外で、石壁の向こうへ灯りが一つずつ点り始めていた。
これから向き合うのは、王家へ息子を渡さないと答え続けてきた、ひとりの母だった。
わたしが会いたいと願ったからといって、会ってもらえて当然の相手ではない。まして、答えをもらえて当然の相手でもなかった。
◇◇◇
馬車が止まり、扉が開くと、冷気が足元へ流れ込んだ。七日間の疲れより先に、門の内側で待つロゼリーヌ様の名が胸へ浮かんだ。
手袋を外そうとした指が、縁へかかったまま止まる。
まず話すのは、わたしではない。
ロゼリーヌ様が何を言っても、否定から入らない。弁明を急がない。用意してきた説明を、相手の言葉へ被せない。
そう言い聞かせてから、足を馬車の外へ下ろした。
玄関先では、夫にして王配と呼ばれるヴォルフ――中身はヴィル・ブルフォード――が、渋い顔で立っていた。ヴォルフがわずかに重心を移すと、革のブーツが敷石をきゅっと鳴らした。その乾いた音に、背筋が自然に伸びる。
「本当に一人で行くつもりか?」
喉がひとつ上下し、マントの内側に閉じ込めた冷気が胸へ薄く沈む。
「俺が一緒じゃなくて、本当に大丈夫なのか?」
肩が小さく跳ね、呼吸がわずかにずれる。マントの留め金が鎖骨へ冷たく触れた。視線でだけ「心配いりません」と押し返し、口角をわずかに持ち上げる。
「王配であるあなたや護衛の近衛が同伴しては、相手を威圧してしまうだけでしょう?」
言い切ると同時に、足裏が敷石の目地を踏み、小さな硬さが土踏まずに残る。
「それに……わたくしは、女同士で対等に話がしたいの――」
口にしたあとで、その言葉の難しさが胸に引っかかった。女同士であることは、わたしたちを同じ場所へ立たせてはくれない。わたしは女王として訪れ、彼女は王家から子を守ろうとしている。近衛を外し、夫を廊下へ残しただけで、その隔たりが消えるわけではない。それでも、王家の威容を可能なかぎり外へ置き、自分の口で話すところから始めるしかなかった。
ヴォルフの眉間の影がほどけ、代わりに視線の熱が増す。
「――だから、ここで待っていてくれない?」
「わかった……」
納得しきれない皺を眉間に残したまま、ヴォルフは腰の剣から手を離した。心配を押しつけず、わたしが選んだ距離を守るために、ここへ留まってくれるのだと分かり、わたしは扉を開けた。
敷居を越えた瞬間、外気の冷えが背から抜け、内側の蝋の匂いと乾いた木の気配が肺に落ちる。執事も、出迎えたエドモン男爵とイザベル夫人も、女王本人の来訪を前に硬く緊張していた。
女王であることを、玄関先へ置いていくことはできない。わたしが頭を下げれば、それすら相手に反応を強いる。先に礼を返さねばならないと思わせるかもしれない。何をしても、身分の重みはついて回る。それでも、直立したまま迎えを受けることはできなかった。せめて先に頭を下げ、相手が言葉を選ぶ時間を奪わぬよう、ゆっくりと身を起こした。
◇◇◇
通された廊下は、石の壁が底冷えを伝え、冬の気配が肌の表面を撫でる。古い蝋の匂い、敷物の毛足のざらり――王宮の光沢にはない、日々の温度があった。壁際の小机には、糸のほつれた布が畳まれていた。窓枠には、磨いても消えない細かな傷が残っている。誰かが暮らし、誰かが帰り、その痕跡を毎日整えながら守ってきた家だった。
王宮は、ロゼリーヌ様の返事を文面として受け取ってきた。けれど、返事の向こうにある生活を見ようとしただろうか。否と書かれた一枚を、次の書状を送るまでの保留としか扱わなかったのではないか。胸の奥で不安が静かに増していく。これから対面するのは、ギルク兄がその身を案じていた子を育てる女性で、王家を拒む立場。そう整理してしまうことさえ、王宮側の見方なのかもしれなかった。彼女は王家を拒むために生きてきたのではない。ただ、自分と息子の暮らしを守ろうとしてきた。その結果、王家へ否と言わねばならなかっただけだ。
室内には冬の冷えが薄く漂い、石枠の窓から弱い陽が落ち、暖炉の火は小さく樹脂の甘い匂いを立たせて揺れる。
部屋の奥に、一人の女性が静かに佇む。
ドレスの色も、髪の結い方も落ち着いている。けれど、穏やかに見せようとしているのではないと分かった。両足は床を捉え、肩はわずかにも退かない。迎え入れたのではなく、ここから先へ通さないために立っている人の姿だった。
薄闇の中、彼女の瞳にははっきりと拒絶が宿っていた。
執事が「こちらがメービス陛下です……」と言いかけたとたん、彼女は手のひらで言葉を制した。刃の響きを孕んだ静かな声が落ちる。
「お話の前に、失礼ながら申し上げておきます。私は決してリュシアンを差し出すつもりはございません」
――差し出す。
その一語で、何度拒んでも届いたという王宮の書状が、目の前にはないのに机へ重なった。わたしの口には、反射的に「そんなつもりはない」という言葉が上りかけた。違う、と訂正したくなった。自分は先王とは違う。奪いに来たのではない。守りたいのだと、すぐにでも言いたかった。だが、それは王家の側に立つ者が、自分の意図を先に分かってもらおうとする言葉だった。ロゼリーヌ様が「差し出す」と言わねばならなくなった過程を飛び越えて、こちらの善意だけを説明してはならない。身体の前で重ねかけた手を開き、指の力を抜いた。
「……承知しました。まず、そのお言葉を否定せずに受け取らせてください」
ロゼリーヌ様の目は動かなかった。父であるエドモン男爵も、娘から少し離れた位置に立ったまま、口を挟まない。
「王宮が書状と使者を重ね、長いあいだご心労をおかけしたうえ、今日ここでも、まずご子息を守る言葉を口にしなければならないところまで追い詰めてしまったことを、女王としてお詫びいたします」
喉の奥に冷えが残る。言葉を整えすぎれば、謝罪まで王宮の儀礼になってしまう気がした。
「あなたはすでに、リュシアン殿を王宮へ送らないと、何度もお答えになっていました。最初の一度で、答えとして扱われるべきでした。それを王宮は受け取らず、求め続けました」
自分が何も知らなかったからといって、他人事にはできない。だが、いま頭を下げたからといって、過去のすべてを自分が引き受けたことにもできない。謝罪で十年を買い取ることなどできなかった。
「これまでのことを、いまのわたくし一人が詫びれば済むとは思っておりません。それでも、王家の名でここへ参った者として、まず謝らせてください。申し訳ございませんでした」
腰を折る。
視界の下で、黒い靴の先と敷物の模様が重なった。沈黙が長くなるほど、背に女王の名が重く乗る。それでも、相手が言葉を返すまで、先に身を起こしてはならないと思った。
「……お顔を上げてください」
赦す、とは言われなかった。
そのことに安堵した自分がいた。ここで簡単に赦されれば、わたしは謝ったという事実に逃げ込んでしまったかもしれない。
ゆっくりと身を起こす。
執事が退出したあと、エドモン男爵は約束どおり、立会人として娘から少し離れた椅子に腰を下ろした。ロゼリーヌ様も、勧められた椅子へ腰を下ろしたが、背もたれには触れず、わたしの手元まで見逃さない。
わたしも向かいへ座り、膝の上で両手をひらいた。
「お手紙にも記しましたが、改めて申し上げます。今日お会いいただいたことを、リュシアン殿の引き渡しや、王位継承への同意とは扱いません」
ロゼリーヌ様の表情は変わらない。だが、膝の上で組まれた指先が、ほんの少しだけ動いた。
「養子、継承、血縁の確認についても、ここでお答えを求めるつもりはありません。わたくしからリュシアン殿へ接触することも、お許しがないかぎりいたしません」
暖炉の薪が乾いた音を立てた。
「そして、途中でお話を終えたいとお思いになりましたら、いつでもお申し付けください。そのときは、わたくしの側が退去いたします」
「……その条件につきましては、お手紙で拝見いたしました」
「もちろん、書いただけで信じていただけるとは思っておりません。今日ここで、その真偽お確かめくださいませ」
信じてほしい、と胸の内では願っている。だが、信じないという選択を奪ってはならない。王都を発つ前、祈るように確かめた言葉を、もう一度、自分の中へ戻した。
「それでは、女王であるあなたが、自らを縛ってまで、ここへいらしたことになります。あまりに不自然ではありませんか? なぜそこまでなさるのか、本当の目的をお聞かせください」
以前のわたしなら、用意した説明を端から順に並べただろう。誤解を残さず、危険を漏らさず、筋道を整えれば伝わると思っていた。
だが、説明の完全さは、相手の自由を守ることと同じではない。
「本日は、あなたがこれまで示してこられた拒絶を、今度こそ王家が答えとして受け取り、これ以上、あなた方の意思を越えて手を伸ばさぬようにするために参りました」
膝の上の書類挟みに触れる。留め紐は解かない。
「そのためにまず、王宮で確認できたことと、まだ確認できていないことを、分けてお伝えいたします」
「兄ギルクが、あなたとお子の存在を知っていたこと。そして、お二人の身を案じ、守ることを望んでいたこと。この二つは、兄が遺した記録から確認できました」
ロゼリーヌ様の睫毛が震えた。それが驚きなのか、警戒なのか、痛みなのか。決めつけてはならない。
「ただし、兄がどのような経路で知ったのかは、まだ分かっておりません。また、お子を王にしたい、王位を継がせたいと望んでいた記述は、わたくしが確認した範囲にはございませんでした」
「……その記録を、お持ちなのですか?」
「原本は王宮に残してあります。写しも、ここへは持参しておりません。まず、ロゼリーヌ様がお読みになりたいかどうかを伺うべきだと考えました」
書類挟みの表紙を指先でなぞる。
「持参したのは、どの原本の、どの箇所にその記述があるかを示す索引だけです。お読みになりたいとのご希望があれば、その旨を王宮へ持ち帰ります。読むことも、読まないことも、いまは決めないことも、いずれを選ばれても、そのご判断を尊重いたします」
「……そうですか」
短い返事だった。だが、短いからといって、その奥を埋めてよいわけではない。わたしは兄上の名を盾にして、それ以上の言葉を求めようとはしなかった。
「もう一つ、重要なことをお伝えしなければなりません」
「と、いいますと?」
「今後、リュシアン殿が王位を巡る動きに巻き込まれ、利用されるおそれについてです」
肩にかかる緑の髪が、首筋へかすかに触れた。
危険だけを告げて理由を伏せれば、息子を守りたければ王家に従えと迫るのと変わらない。だから、続きを話すかどうかも、わたしが決めてはならなかった。
「その理由をご説明するには、王家が隠してきた、わたくし自身に関わる真実をお伝えしなければなりません。ロゼリーヌ様。ここから先も、お聞きになりますか?」
これからロゼリーヌ様へ、この十年をどう生きてきたのか話してほしいと求めるのなら、緑髪の女王の姿に守られたままではいけない。黒髪を見せたからといって、対等にはならない。ロゼリーヌ様の十年と、メービスが塔で過ごした日々が同じになるわけでもない。ましてや、わたしはメービス本人ではない。その名と身体を借りて、メービスとして語ることの罪は自覚している。それでも、メービスの生き様に恥じないためには必要なのだ。これは苦しみを比べるための開示ではない。あなたには真実を語ってほしいと言いながら、自分は王家が作った仮面の陰に隠れ続ける。その不公平を、せめて一つだけ減らすための開示だった。
「ただし、これは王家が長く伏せてきた秘密に関わります。一度お知りになれば、知らなかったことにはできません」
ロゼリーヌ様の目を見た。
「それに、あなたのご意思を確かめず、一方的にお見せしてよいものではないと思います。それでも、お知りになりたいですか?」
彼女はすぐには答えなかった。暖炉の火へ視線を移し、それから父を見た。エドモン男爵は何も言わず、娘の判断を待っている。
やがて、ロゼリーヌ様の視線が戻った。
「……それが、リュシアンに及ぶかもしれない危険に関わるのであれば、知っておきたく存じます」
「分かりました」
返事を受け取ってから、肩にかかる緑の髪へ指を入れた。留め具へ触れたところで、手が止まる。
このウィッグを外せば、ロゼリーヌ様は王宮でもごく限られた者しか知らない重大な秘密を背負う。それを信頼の証と呼んではならない。秘密を共有したのだから信じてほしいと迫るなら、この開示もまた取引になってしまう。
「その前に申し上げます。わたくしは、これをお見せすることと引き換えに、信頼や協力を求めるつもりはありません。リュシアン殿についてのお答えを変えていただくために、お見せするのでもありません」
「……承知いたしました」
ロゼリーヌ様が視線を逸らしていないことを確かめてから、留め具へ指をかけた。
カチリ、と小さな音がした。
緑髪のウィッグを外すと、うなじへ冷気がすべり込み、長く覆われていた皮膚が空気に触れた。その下のネットを外すと、押さえ込まれていた黒髪が肩から胸元へ落ち、暖炉の灯りを鈍く返した。
「ああ……」
ロゼリーヌ様が息を呑み、少し離れた席でエドモン男爵の袖がわずかに鳴った。そのほかには、誰も動かなかった。
――黒髪を晒すときの、この冷気の意味。
お祖父様から聞いた、黒髪を隠して生きた母メイレアのことも、若緑の髪の王女として語り継がれてきたメービスの伝説も、先王オリヴィエと向き合ったときに受け取った、娘が生き、笑っていてくれることを願う父の思いも、胸に残っている。元の時代のわたし自身も、髪も瞳も顔貌も、デルワーズと同じだった。
どれも、メービス本人の記憶ではない。だから、彼女の気持ちが分かるとは言えない。それでも重ねれば、彼女が自分の姿を人目に晒すとき、何を怖れていたのかは想像できた。
――見つかってはいけない。人の目に触れてはいけない。災いを呼ぶ容姿を見せてはいけない。けれど、いまここに父上も侍従もいない。塔の扉も、もう閉じてはいない。
そう確かめるように息を吸っても、首筋の皮膚は、叱責を待つように粟立った。
「驚かれるのも無理はありません。わたくしは、精霊族の末裔と伝えられるリーディス王家において、厄災の到来を象徴する――黒髪と翠色の瞳を持つ巫女として生まれました」
指先で黒髪を軽く押さえる。静電の微かな跳ねが皮膚に触れた。
「黒髪の巫女ですって……あなたが? では、緑色の髪というのは?」
「皆がわたくしを緑髪だと思っていたのは、先王陛下から賜ったこのウィッグのおかげにほかなりません」
ロゼリーヌ様の視線が、膝へ置いた緑の髪から、肩へ落ちた黒髪へ移る。額の前髪を整える彼女の手が一瞬止まり、また動き出した。
頬の内側を噛み、呼吸の角を丸める。
「外の世界へ出るためには、必要な偽装だったのです」
膝へ置いたウィッグの内側には、まだわたしの熱が残っていた。
「わたくしは、物心つく頃から、人目に触れないよう、白銀の塔に隠されて育ちました。これが公の場に出なかった理由です」
首筋の芯だけが、暖炉の熱でもまだ冷たい。
「……王家は、黒髪の巫女を公の場へ出せば民心が乱れると恐れ、代々隠し続けてきました」
ロゼリーヌ様の指が、膝の上で組み直された。暖炉からは樹脂の甘い匂いが漂うのに、舌の奥にはまだ鉄の味が残っている。
「わたくし以前にも、黒髪の巫女は何度も生まれているのです」
睫毛が一度だけ伏せられ、視線はすぐ戻った。薪が細くはぜ、炎が揺れる。
「彼女たちは皆、鏡写しのように同じ顔貌をしていました。両親のどちらにも似ず、厄災の時期や被害を正確に言い当てる。その姿と力を、人々は不気味だと恐れたのです――」
言葉を継ぐたび、膝の上で重ねた手のひらに汗が滲む。親指がもう一方の手の甲へ食い込みかけ、跡を残す前に力をほどいた。
「――いつしか人々は、巫女が厄災を告げているのではなく、巫女こそが不幸を呼ぶ元凶だと思うようになりました。これが、黒髪の巫女が恐れられ、王家によって隠されてきた理由です」
言葉が途切れても、ロゼリーヌ様は黒髪から目を逸らさなかった。
わたしは次の問いを待った。




