祈りを抱えて、わたしは行く
王宮の中庭では、出立を待つ馬が白い息を吐いていた。薄雲を透かした朝日は色を失い、敷石の継ぎ目に溜まった霜を鈍く光らせている。荷を締め直す革の音、車輪を確かめる槌の音、近衛たちの抑えた声。そのどれもが、今日ばかりはひどく近く聞こえた。
出立前の確認をするため、中庭へ続く石廊の一角は人払いされていた。馬丁と近衛たちは馬車の向こうで作業を続けており、声を落とせば、こちらの会話までは届かない。
わたしは石廊の柱の陰で、胸に抱えた革綴じの書類挟みへ目を落とした。
ロゼリーヌ様から届いた返書には、面会を受ける旨と、こちらが屋敷を訪れてよい日が記されていた。場所はモンヴェール男爵家。使者を重ねないと書いた以上、こちらから次を急かすつもりはなかった。それでも返事は届き、いま、わたしたちは彼女が開けてくれた扉へ向かおうとしている。
書類挟みの中には、昨夜まとめ直した紙が順に収めてあった。王宮の記録から確認できたこと。まだ外部の記録と照らせていないこと。これまで王家が求め、ロゼリーヌ様が拒んだこと。わたくしの名で約束できること。約束してはならないこと。
そこまでは、コルデオの報告を整理しただけだった。
その後ろに、わたしは新しい紙を何枚も足していた。もし、なぜ今になって来たのかと問われたら。もし、血縁を確かめに来たのかと問われたら。もし、リュシアン殿を王にするつもりかと問われたら。もし、父上がお亡くなりになったあとも約束は守られるのかと問われたら。もし、わたくしが王座を離れたあとのことを問われたら――。最後の問いに答えはない。それなのに、空欄のまま持っていくことが怖くて、夜明け近くまで言葉を探していた。
「メービス、用意はいいか?」
顔を上げると、黒い外套をまとったヴィルが立っていた。いまは王配ヴォルフとして、腰に剣を佩き、近衛たちの視線を自然に受け止めている。
「ええ、ヴォルフ……」
答えながら、マントの留め具へ指をやった。若緑のウィッグの下に籠もった熱とは反対に、金具は凍えるほど冷たい。指先がうまく掛からず、二度、同じ場所をなぞった。ヴィルはわたしの手元を見たが、代わりに直そうとはしなかった。留め具がきちんと掛かったのを確かめてから、わずかに眉を寄せる。
「……どうした? 身体だけ先に馬車へ乗せても、頭がここに残ったままじゃ困るぞ」
「ごめんなさい。少し考え事をしていたの。今回の視察は、随行を絞っても護衛に空白が出ないよう、手配してあるわよね?」
「もちろんだ。連れていく人数は抑えたが、街道ごとに護衛を交代させる。大仰な儀仗と先触れを減らしただけで、警戒まで薄くはしていない。北方街道の復旧と冬期備蓄を確かめるのも、名目だけじゃない」
今回の視察そのものは偽りではなかった。復興工事が始まった街道を見て、冬を越すための備蓄と輸送を確かめる。その行程の先に、モンヴェール男爵領がある。
公にしていないのは、ロゼリーヌ様との面会だけだった。リュシアン殿の名を王宮の外へ出さないためにも、知る者は必要な範囲へ限っている。ヴィルは王配として視察へ同行するが、ロゼリーヌ様との面会には同席しない。わたしが屋敷にいるあいだ、彼は外で待つと決めていた。
「……そちらはどう? 大丈夫?」
「俺のほうはな。むしろ、お前のほうが問題に見える」
「どこが?」
「もう、十通り先まで行ったみたいな顔をしてるぞ」
「十通りどころではないわよ」
思わず本当の数を口にしかけ、書類挟みを抱く腕へ力を入れた。
「最初に、これまでの非礼をお詫びする。それから、確認できたことと、まだ分からないことをお伝えする。ここまでは決めてあるの。でも、ロゼリーヌ様から、王家はまた息子を奪いに来たのかと問われたら、言葉だけで違うと答えても足りないでしょう?」
「それで?」
「ロゼリーヌ様の許可なくリュシアン殿へ接触しないこと。わたくしの名で王宮へ召喚しないこと。王子とも継承者とも呼ばないこと。以上は書面にしてお渡しする。面会を途中で終えたいとおっしゃった場合は、すぐに退く。今後の照会を望まれない場合は――」
「待て」
低い声に、続きが喉で止まった。
ヴィルは近衛たちから書類の中身が見えない角度へ立ち、わたしの腕の中にある書類挟みを顎で示した。
「そこには、ロゼリーヌがまだ口にしてもいない台詞まで書いてあるのか?」
「想定しておく必要はあるでしょう。女王が屋敷まで来れば、それだけで、こちらの申し出を断りにくくなるでしょう?」
「そりゃあ、そうだろうがな」
「わたくしがすぐに答えなければ、その沈黙さえ圧力になるかもしれない。それなら、起こり得ることを先に分けて、一つずつ――」
ヴィルは溜息をひとつつき、頭を掻いた。
「これだから、お前という奴は……」
「なによ?」
「それは、会いに行く準備とは言わん。会う前から、向こうの問いも答えも全部、お前が作ろうとしてるようなもんだ」
「作ろうとしているのではなくて、備えているの」
「敵の出方を読むなら、それでいい。だが、ロゼリーヌは敵じゃない。脚本どおりに話が進むとも限らん」
言い返そうとして、唇が動かなかった。ヴィルの声に責める響きはなかった。だから余計に、腕の中の紙の重さがはっきりした。
「……何も考えずに行けば、また王家の都合を押しつけることになるだけじゃない。ロゼリーヌ様のお立場を考えれば、これくらいは備えて当然でしょう」
「あのな、俺は考えるなとは言ってない。向こうが選ぶはずの言葉まで、お前の責任にするなと言ってるんだ」
父上の細い声が、不意に耳の奥へ戻った。
――結果まで、そなたひとりの責にするでない。
あのときは承知したと答えた。それなのにわたしは、起きてもいない面会の結果まで抱えて、失敗しない形へ閉じ込めようとしている。
「当たって砕けろとは言わん。だが、腹を割って話すなら、理屈は鞘に収めておけ」
あまりにもヴィルらしかった。
「ま、悩むなとは言わんさ。ただ、向こうが会うと決めてくれたんだ。まずは、会いに行くしかない」
「……そうね。行くしかないわね」
頷いても、胸の内の歯車は止まらなかった。空いた場所を見つけるたび、次の問いを差し込みたがっている。
「ギルク兄上が遺された書簡を読んだとき、本当に胸が苦しくなったの」
言葉にすると、書庫で触れた古い紙の乾きが指先へ戻ってきた。
「王立魔術大学に籍を置いていたころ、兄上が王宮で息の詰まるような日々を送っていたことは、書簡の端々からも伝わってきた……。お妃との仲が冷え切っていたことも、一日も早く世継ぎを、と迫る声に追われていたことも。たぶんだけど、学ぶためだけではなく、王宮から距離を置くために大学を選んだのでしょうね」
「ギルクの書簡に、お前のことは書かれていたのか?」
「ええ。緑髪の精霊の巫女の正体が、黒髪を隠したわたくしであることを、兄上は知っておられた。もし兄上が戦地から戻れなければ、わたくしが王家に取り込まれ、国を立て直すための象徴として使われるのではないかと案じる一節もあったわ。それから、ロゼリーヌ様とリュシアン殿の身を案じる言葉も……」
書簡には、兄上が息子の存在を知っていたことが、はっきりと残されていた。けれど、それをいつ、どのようにして知ったのかは、どこにも記されていない。
母子を守ってほしいという願いはあった。それでも、息子を王にしてほしいとは書き残していない。母子を案じることと、その子を王位へ就けることは同じではない。その隔たりを、生きているわたしたちの都合で埋めてはならなかった。
「母子のことは知っていたのに、いつ、どうやって知ったのかは残していないわけか」
ヴィルの声が苦く沈んだ。
「兄上には正式なお妃がいたの。望んで結ばれた婚姻ではなかったとしても、関係が破綻していたとしても、それでロゼリーヌ様とのことが許されるわけではないでしょう?」
「王家が夫婦を世継ぎのための形に押し込む。そこは、今の俺たちも同じだ。だが、それと二人が一線を越えたことは別だ」
「兄上がどれほど苦しんでいたのかは、兄上にしか分からない。それが起きたことの説明にはなっても、罪まで消えはしないわ。ロゼリーヌ様が何を思っておられたのかも、わたくしには分からない」
風が中庭を抜け、馬車の幌を低く鳴らした。
「ロゼリーヌ様がなぜ大学を去ったのか。なぜ子どものことを王宮へ告げなかったのか。いずれも、王宮の記録にはない。その空白を、こちらの想像で埋めてはいけないし、むやみに踏み込むこともできない。それでも、もしお話しくださるなら、わたくしは初めて聞く者として、その言葉を受け止めるつもりでいる」
「なら、なおさら筋書きはいらないな」
「結局はそうなるのかしら。でもね、確かなことが一つだけある。宿った命に罪はない。大人が選んだことも、王家が積み重ねたことも、リュシアン殿へ背負わせてはいけない。だから、わたくしにできるのは――」
「ギルクが母子を案じて残した言葉を、リュシアンを王にしてほしいという遺志に仕立てること、じゃない」
ヴィルが先を取った。
「ええ。守ってほしいという願いを、王にしてほしいという遺志へ読み替えてはいけない。わたくしにできるのは、分かっていることを偽らずにお伝えして、王家だけで決めてよい範囲を狭めることだけよ」
言い切ると、胸の奥にあった焦りが、ほんの少しだけ輪郭を失った。それでも、若緑の髪が風に揺れるたび、その下に隠した黒髪の重さは消えない。
「――ロゼリーヌ様には、真実を明かすつもりなんだな?」
「そうよ。ただし、最初から見せるのでもないでしょう。王家の秘密を聞く意思がおありかを、先に伺う。望まれたときだけ、わたくし自身の手でこの髪を外す。お会いくださったことへの対価にも、信じていただくための切り札にもしない。それはフェアではないでしょう?」
「道理だな。だが、見せたから分かり合える、とは考えるな」
「ええ。分かってもらうことまで求めないわ。わたくしも王宮から隠されていたと知っていただいたあとで、なお信用できないとおっしゃるなら……それもロゼリーヌ様のお答えと受け取るしかない」
「そこまでが、お前の結論なら協力しよう。だが、その後ろに挟んだ十七通りの筋書きは置いていけ」
「十七通りではないわ。二十三通りよ」
「なっ、なんだと……?」
ヴィルは大げさに頭を抱えた。
「呆れたぞ。さっきより、増えてるじゃないか」
「だって、面会を受けてくださっても、条件を追加なさる、話す時期を改めたいとおっしゃる、同席なさる方に判断を委ねられる、途中で席を立たれる――」
「メービス」
名を呼ばれ、ようやく口を閉じた。
「さっきも言ったように、何を聞かれるか分からないなら、分からないまま行け。分からないことは、分からないと言え。その場で決められないことは、持ち帰ればいい」
「女王が、分からないと答えてもよいのかしら?」
「分からないことを分かった顔で決める女王よりは、ずっとましだろうが」
彼らしい言い方だった。慰めようとして丸めた言葉ではない。それでも、胸の前で固まっていた腕から、少しだけ力が抜けた。
そのとき、石廊の向こうからコルデオが歩いてきた。灰色を帯びた髪は風にも乱れず、長年先王の傍らで書面を扱ってきた指には、細い革の文箱が提げられている。
「女王陛下、王配殿下。出立のお刻限にございます」
「お待たせしました。コルデオ、記録から確認できたことと、そこから推し量れることは、持参する照合目録でも分けてありますね?」
「はい。確認できた事実と推量は、明確に区分してございます。ギルク殿下の書簡原本、モンヴェール男爵家からの返書、リュシアン殿に関する過去の報告は、王宮の保管庫へ残しております。お持ちいただくのは、その照合目録と、陛下ご自身がお示しになる約束の文案のみです。リュシアン殿に関する報告の写しは作らせておりません」
「もし、ロゼリーヌ様が原本をご覧になりたいとおっしゃったら?」
「そのご希望を持ち帰り、どの記録を、どのような形でご覧いただくか、あらためて裁可いただきます。その場でお見せできぬことを、隠していると受け取られる可能性はございます。ですが、だからといって、当事者の私事に触れる記録をすべて運び出すわけにはまいりません」
「そうですね……」
すべてを持っていけば誠実になるわけではない。秘密を差し出された側が、それを守る責まで負うこともある。コルデオは、黒髪の巫女が王家にとって何を意味してきたのかを、父上の傍らで長く見てきた。その彼が、文箱から一枚の紙を抜き、わたしへ差し出した。
「こちらが、その照合目録でございます。陛下が昨夜お書きになった想定問答から、確認済みの事実だけを抜き出しております」
「残りは?」
「陛下の机へお戻しいたしました」
「コルデオまで、ヴォルフと同じことをするのね」
わたしの視線を追い、コルデオは口元をわずかに緩めた。
「いま、事実としてお示しできるのは、こちらが確かめたことまでにございます。これからロゼリーヌ様がお話しになることは、まだどの記録にもございませんので」
反論の余地がなかった。
「……では、行きましょうか。北方視察へ」
「ああ。王都を長く空けるわけにはいかないが、急ぐのは俺たちの道中だけだ。向こうの答えまで急がせるなよ」
「分かっています」
答えたそばから、では面会の時間はどれほど取ってよいのか、沈黙が長くなったら誰が先に口を開くのか、と新しい問いが浮かんだ。わたしはそれを紙へ書き足そうとする指を、マントの上から握った。
◇◇◇
「では、失礼いたします、女王陛下、王配殿下。先王陛下のご様子と王都の動きは、定めた経路で毎日ご報告いたします」
コルデオが一礼し、馬車の扉を開いた。
ヴィルが先に踏み台の位置を確かめ、手を差し出す。わたしはその手へ指を預け、裾を踏まないよう馬車へ乗り込んだ。
「ありがとう、ヴォルフ」
「礼は、転ばずに座ってからにしろ」
向かいへ座ったヴィルの声はいつも通りだった。見せるために距離を変えなくても、外からは女王と王配の旅立ちに見えるのだろう。扉が閉じる直前、コルデオの落ち着いた顔と、その向こうに並ぶ近衛たちが細く切り取られた。
御者の掛け声が響き、車輪がゆっくりと回り始める。
「城門を出るまでは、大人しくしていよう。誰が見ているか分からない」
「分かったわ。……でも、この先は長い道のりになるわね」
「北方の要衝ボコタを経て、モンヴェール男爵領までおよそ一週間だ。雪が深くなれば、もう少しかかる」
「道中では、代官や領主にも会うのでしょう? 視察についてはそのままお話しできるとして、どうしてその先まで向かうのかと尋ねられたら……隠していることが多すぎて、正直、胃が痛いわ」
「視察の目的は事実だ。確認した場所、見た備蓄、出した指示をそのまま話せばいい。個人の事情を、会った者すべてへ明かさないことまで嘘にはならない」
「そうかもしれないけれど……」
馬車が石畳の継ぎ目を越え、膝の上の書類挟みが跳ねた。押さえた拍子に留め紐がほどけ、机に置いてきたはずの紙が一枚、座席の下へ滑り落ちる。
ヴィルが拾い上げ、文字へ目を走らせた。
「『ロゼリーヌ様が、ギルク兄上を愛したこと自体を否定なさった場合』……お前、こんなところまで答えを作るつもりだったのか?」
「ち、違うの。そこは、否定なさっても記録を根拠に訂正してはいけない、と書こうとして――」
「同じだ。どう語るかは、あの人のものだろう」
「……そうだけど」
差し出された紙を受け取った。自分の文字なのに、急に他人の作った枠のように見えた。
「少なくとも、ロゼリーヌ様には嘘をつきたくないだけよ」
「大事なのはそれだ。いや、それだけでいい」
「それだけで、本当に足りるのかしら」
「足りるように見せるために、余計な約束を積むほうが危ない。お前が守りたい約束まで、守れなくなるぞ」
窓の外を、王宮の壁がゆっくり後ろへ流れていく。
父上が生きているうちに。わたしたちへ与えられた五年のあいだに。この身体を本来のメービスへ返す日が来る前に。急がなければならない理由はいくつもあった。けれど、そのどれも、ロゼリーヌ様とリュシアン殿の時間を奪ってよい理由にはならない。五年は、リュシアン殿を王へする期限ではない。母子へ結論を迫らず、血縁も法も安全も、それぞれの意思も確かめるための猶予だ。もし一つの道にならないなら、王家が別の手立てを探す。その約束を、わたし自身が結果への近道に変えてはならなかった。
「わたし……やれるだけのことはやってみる。それが本来のメービスと同じ選び方かどうかは分からないし、あなたにも負担をかけると思うけれど」
「なにを今さら」
ヴィルは肩をすくめ、わたしの手から想定問答の紙だけを抜き取った。破りも捨てもせず、書類挟みのいちばん後ろへ戻す。
「持っていくなとは言わない。お前の頭から追い出せないなら、紙に置いておけ。ただし、面会の席で先に開くなよ。ロゼリーヌ様が何を言うか聞いてからだ」
「……努力するわ」
「そこは、分かったと言い切らないんだな」
「分からないことは、分からないと答えてよいのでしょう?」
ヴィルが鼻で短く笑った。
馬車は王宮の門を抜け、王都の大通りへ出た。沿道の人々が頭を下げ、若緑の髪を戴く女王と、その向かいに座る王配へ視線を注いでいる。彼らが見ている物語と、わたしたちが抱えている真実は同じではない。それでも、今日この道を進むと決めたのは、メービスでもヴォルフでもなく、いまここにいるわたしたちだった。
やがて馬車は城門を抜けた。家並みがまばらになり、枯れた並木の向こうへ冬の街道が伸びていく。
ロゼリーヌ様に、話を聞いてほしい。けれど、それを願うことと、聞くよう求めることは違う。信じてほしい。けれど、信じないという答えを奪ってはならない。
わたしは膝の上で手を重ね、爪が掌へ食い込む前に力をほどいた。
――どうか、用意してきた答えを並べるんじゃなくて、ロゼリーヌ様の話をちゃんと聞けますように。
そう祈りながら、車輪の音へ耳を澄ませる。それでも頭の隅ではもう、面会の最初にどれほど沈黙するか、そのあと何を口にするかを考え始めていた。




