辺境に咲く約束の花
冬の冷気が石壁を伝い、モンヴェール男爵家の廊下へ薄く流れ込んでいた。窓の外では、刈り込まれた葡萄の蔓が丘の斜面に黒い筋を引いている。雪まじりの風に砕かれた枯れ葉が石畳を転がり、遠い山並みは灰色の空へ溶けかけていた。
ロゼリーヌ・ド・モンヴェールは二階の窓辺に立ち、指先で毛織りの袖口を押さえた。ゆるく波打つ淡い栗色の髪から、冷気に揺れたひと房が頬へ触れる。廊下の向こうから、使用人の足音が近づいてくる。扉の前で止まり、二度、控えめな音がした。
「ロゼリーヌ様。女王陛下より、書状が届いております」
胸の奥が固く縮んだ。
「先王陛下ではなくて?」
「はい。女王陛下の御名でございます。使者は門前で書状を渡し、返事は待たぬと申して、すでに出立いたしました」
窓へ目を戻すと、外門の先を黒い外套の騎手が遠ざかっていくところだった。白み始めた道に蹄の跡だけを残し、振り返りもしない。
これまでの王宮の求めは、返書を出しても終わらなかった。断ったあとにも書状が届き、使者が来た。こちらの返事が、答えとして受け取られたとは思えなかった。
今回の使者は、屋敷へ上がることさえ求めなかった。それだけで信用できるはずはない。けれど、これまでとは違うものが一つ、すでに目の前に残されていた。
◇◇◇
応接間では、父エドモン・ド・モンヴェールと、母イザベル・ド・モンヴェールが暖炉の前で待っていた。エドモンは差出人を確かめると、眉間の皺を深くした。
「先王オリヴィエ陛下ではなく、メービス女王陛下からだと?」
「はい。使者は返事を待たずに帰ったそうです」
「だからといって、王家の意向まで消えるわけではあるまい」
「分かっています」
「先王陛下の御名があっても、これまでの書状は王命ではなかった。リュシアンを〝誰〟として召すのか、王宮も明らかにはできんのだろう」
父の目が、ロゼリーヌの膝の上の封書へ落ちた。
「ならば、こちらから王命であるかのように従う必要はない」
「はい……」
膝の上の封書は重かった。封蝋は硬く冷えている。どれほど私信の形を整えても、王冠を戴く者の名が記されている。それだけで、男爵家には命令にも等しい重みを持つ。
母が、封書とロゼリーヌの顔を交互に見た。
「また、リュシアンを王宮へ差し出せという手紙なのかしら?」
ロゼリーヌはすぐには答えられなかった。
先王オリヴィエの名による書状が初めて届いたとき、彼女は返事を書いた。
『お気持ちは痛いほど分かります。しかし、息子を王宮へ送ることはできません』
礼を失しないよう何度も書き直し、それでも拒絶だけは曖昧にしなかった。だが、その後も書状は届き、使者も来た。言い回しが変わるたびに、こちらの拒絶は答えとして受け取られていないのだと思い知らされた。
「まず自分で読んでから、確かめます」
父は封書へ厳しい目を向けたまま、低く言った。
「よかろう。どうするかは、おまえが決めなさい。少なくとも、正式な召喚状が届くまではな」
「はい」
「ただし、優しい文面ほど用心すべきだ。相手が替わろうと、王家であることは変わらんのだからな」
「はい、お父さま」
封書を胸元へ引き寄せ、ロゼリーヌは自室へ戻った。
扉を閉めても、弱い暖炉の火は部屋の隅まで届いていない。椅子へ腰を下ろし、冷えた封蝋へ爪をかける。厚手の紙が、乾いた音を立てて開いた。
最初に記されていたのは、過去の求めを繰り返したことへの詫びだった。
王家の者として、どれほどの心労をかけたか量りきれない――そう認めたうえで、女王は面会を願っている。
『この願いは王命ではございません』
その一文で、指が止まった。
王命ではないと、女王自身が書かなければならない。そのことがかえって、王家から届く願いがどれほど命令に近いかを示していた。
先を追う。
断っても、返事をしなくても、それを理由に女王が処分や召喚を命じることはない。返事がなければ、同じ願いを重ねて送ることもしない。
会うとしても王宮へ出向く必要はなく、場所と方法はこちらが決めてよい。信頼する者を同席させてもよい。そして――
『リュシアン殿をお連れになる必要もなく、わたくしから先にご本人へ接触することもいたしません』
ロゼリーヌは、その行をもう一度読んだ。淡い榛色の目が、同じ文字の上をゆっくりと引き返した。
息子を連れてこいとは書かれていない。母親を説得し、その場で子どもへ手を伸ばすための面会ではないと、少なくとも文面では線が引かれている。
さらに女王は、自分は母ではないと明記していた。ロゼリーヌが息子と重ねた歳月を分かるとは言わない。分かったつもりにもなりたくない、と。
「……分かるとは、言わないのね」
呟きは、冷えた部屋へ小さく落ちた。
同じ女なのだから分かるはずだとも、母の心を理解しているとも迫ってこない。理解できないものを、理解できないまま軽く扱わないと書いてある。
だからといって、本心まで信じられるわけではなかった。
長く続いた魔族との戦を終わらせ、十代で即位した若き女王。若緑の髪を持つ救世の巫女。王女でありながら、幼いころから長く公の場に姿を見せなかった謎多き人物。辺境へ届くのは、整えられた触れ書きと人々の噂だけだ。なぜ姿を隠されていたのかも、王宮の名が、必ずしも人を安らがせるものではないと書く理由も、ロゼリーヌには分からない。分からないからこそ、都合のよい境遇を重ねて信じることもできなかった。
暖炉の薪が崩れ、赤い火の粉が一つ跳ねた。ロゼリーヌは手紙を膝へ置き、目を閉じた。瞼の裏へ浮かんだのは、王宮ではなく、春浅い王立魔術大学の回廊だった。
◇◇◇
石造りの回廊には外気の冷たさが残り、窓から差す淡い陽の中を、埃が金色の粒になって漂っていた。
金箔で縁取られた飾り文字と、幾何学模様の術式図が続く大判本を、ほかの魔術理論書と一緒に抱えて角を曲がったロゼリーヌは、向こうから来た青年とぶつかりかけた。腕から滑った一冊を、黒衣の青年が受け止める。青年の襟元で、簡素な金の留め具だけが淡い陽を返した。
「大丈夫? すまない、少し急いでいたものでね」
低く柔らかな声と、青みを帯びた灰色の瞳。
ギルク王子との始まりは、それだけのことだった。
王子でありながら気取りがなく、講義では誰より熱心に教授の話を聞いた。彼が席を立つたび、周囲の学生たちは礼を失さぬよう、わずかに道を空けた。ギルクはその距離へ目を向けず、いつもと変わらない声で近くの学生へ問いかけた。夜の自習室では、消えかけたランプの下で古い術式の文字を追い、難解な理論について語り合った。遅くまで残った日には、厨房から分けてもらった焼きたてのパンを、紙袋の温かさが失われないうちに半分に割った。王子と男爵令嬢ではなく、同じものを学ぶ者として向き合える時間が、少しずつ増えていった。
彼に正妃がいることを、ロゼリーヌは初めから知っていた。夫婦仲が冷え切っているらしいという話も、王宮で息の詰まるような日々を送っているという話も、大学まで届いていた。けれど、どれも人づての噂にすぎない。ギルク自身が正妃を悪く言うことはなく、王宮の内情をロゼリーヌへ明かすこともなかった。
それでも、王宮へ向かう日が近づくと、彼の笑みはわずかに遠くなった。ふたたび大学の講義室へ腰を下ろしたとき、彼がようやく息をついたように見えたこともあった。
勉学を望んで王立魔術大学へ来たのは、嘘ではなかったのだろう。だが、ここは彼にとって、王子であり続けなければならない王宮から逃れられる、わずかな場所でもあったのではないか。ロゼリーヌには、そう思えた。
その寂しさを見過ごせなかった。王宮のしがらみから連れ出せるなどとは思っていなかった。ただ大学にいる間だけでも、王子としての役目を負わずに息をつけるようにしてあげたかった。自分と過ごす時間が、彼にとってほんの一時の逃げ場になるのなら、それでよいと思った。
いけないことだとは、分かっていた。分かっていながら、そばにいた。彼の孤独を知っているのは自分だと、どこかで思い始めた。救いたいという願いと、離れたくないという望みとの境目を曖昧にしたまま、二人は一線を越えてしまった。
それは恋であると同時に、不貞だった。正妃との不仲が事実であったとしても、王宮が彼を苦しめていたとしても、妃ある人と関係を結んでよい理由にはならない。そこにいない人の尊厳と、すでに結ばれていた約束を、自分たちの思いで傷つけた。その罪は、彼の寂しさでも、彼を救いたかったという願いでも消えなかった。
月のものが来ないと気づいた夜、ロゼリーヌは卓上の暦を何度も数え直した。数え方を変えても、答えは変わらない。震える手を腹へ添えたとき、自分たちがしてきたことの重さが胸へ落ちた。
宿った命に罪はない。けれど、ほんの一時だけ彼の逃げ場になれればよいと思って始めたことは、もう二人だけの間では終わらない。子どものことを告げれば、ギルクは責任を負おうとするだろう。自分と子を守ろうとして、再び王宮のしがらみの中で身動きを取れなくなる。正妃をさらに傷つけ、ギルクにも、これまで以上の苦しみを背負わせることになる。
けれど、それはギルクの答えを聞く前に、ロゼリーヌがひとりで思い描いた未来にすぎなかった。告げずに去ることは、ギルクから選ぶ権利を奪うことでもある。それでも、彼をこれ以上苦しめないためには、それしかないと思った。これ以上、二人で罪を重ねたくなかった。
ならば、自分が身を引くしかない。王宮へ呼び戻されたギルクが大学を離れている間に、ロゼリーヌは退学届を出した。残した手紙は短かった。
『思うところがあり、大学を辞めることにしました。どうか私のことは忘れてください。さようなら』
子どものことは告げなかった。追ってくる道を、自分の手で断った。
彼を苦しめたくないという思いは嘘ではなかった。けれど、その思いを理由に、何も知らせず、何も選ばせずに別れたのも自分だった。その決断について、彼には一度も尋ねなかった。
家へ戻り、父にすべてを打ち明けた。エドモンが机を打った拳の音を、今でも覚えている。イザベルは青ざめ、それでも最後には、ここで産みなさいと言った。
冬、長い夜を越えて生まれた男児を胸へ抱いた。
「リュシアン……」
汗に濡れた小さな額と、生きようとする声。青灰の瞳にギルクの面差しを見つけても、この子を過ちの証とは思わなかった。罪を負うべきなのは、選んだ大人たちだ。生まれた子ではない。
それから幾度も季節が巡った。王都から届く報せの端にギルクの名を見つけることはあっても、ロゼリーヌは子どもの存在を知らせなかった。知らせようと思えば、その方法を探すことはできた。それでも、自分で断ち切った彼との道へ、いまさら子どもを伴って戻ることはできないと思った。
やがて魔族との大戦が始まり、ギルクが前線に立っているという報せが辺境にも届いた。知らせるなら今ではないかと、幾度も思った。けれど、戦地にいる彼へ、自分と子どもの行く末まで背負わせることが怖かった。大学を去った日に選んだ沈黙を、ロゼリーヌは解かないままにした。
大戦が終わりへ向かい始めたころ、王都からギルクの戦死を告げる報せが届いた。
子どものことを知らせないまま、二度と告げることができなくなった。あのとき告げていれば、彼が何を選んだのかも、もう確かめるすべはない。ロゼリーヌは傍らにいたリュシアンの肩を抱き寄せ、返らない問いを胸の内へ沈めた。
ほどなくして、当時の国王オリヴィエの名を戴く書状が届いた。亡き王子の子を王家へ迎えたい。次代を担う者として育てたい。記されていたのは、そのような求めだった。
ロゼリーヌは一度、はっきりと拒んだ。それでも、文言を変えた書状が幾度も届き、使者も訪れた。求められる答えは変わらなかった。そのあいだにも大戦は続いた。やがてギルクの妹が戦を終わらせ、女王として即位したと伝えられたころ、リュシアンは十歳になっていた。
差出人は替わった。けれど、王家がこちらの拒絶を一つの答えとして受け取るかどうかは、まだ分からない。
◇◇◇
控えめなノックに、ロゼリーヌは目を開けた。
「母上、入ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
扉の隙間から、リュシアンが顔を覗かせた。母と同じ淡い栗色の髪が額へかかり、その下の青灰色の瞳だけが、先に室内をうかがっている。片腕には騎士物語の本を抱え、読みかけの頁へ指を挟んでいる。
「お祖母さまが、母上のぶんのお茶が冷めてしまうって」
「そう。呼びに来てくれたのね。ありがとう」
リュシアンは頷いたあと、膝の上の書状を見た。
「母上?」
「なあに?」
「その手紙は、母上を困らせるものなのですか?」
リュシアンは十歳でも、大人が思うほど何も見ていないわけではない。王家の血を引く者という記号でも、次代の席へ収めるための名でもない。物語の続きを気にしながら、それでも母の顔色を見に来る一人の子どもが、目の前にいる。
「まだ、分からないの。大切なことだから、よく考えてから決めることにするわ」
「母上が……ひとりで決めるの?」
「そう。私がどうするかは、私が決める。でも、あなたのことまで私一人で決めてしまってはいけないと思っているの」
リュシアンはすぐには意味をのみ込めなかったらしい。少し首を傾げてから、手の中の本を抱え直した。
「じゃあ、考え終わるまで待ってるね」
「ありがとう」
差し出された手を取り、ロゼリーヌは応接間へ戻った。
◇◇◇
手紙を両親へ見せると、エドモンは時間をかけて最後まで読み、暖炉の火へ目を向けた。燃え崩れた薪が、赤い灰をわずかにこぼした。
「うーむ……言葉選びは、確かにこれまでとは違う」
「使いの者の振る舞いもです。返事を迫らず、本当に帰りました」
「王命ではないと書かれていても、女王陛下の願いであることに変わりはない。断ればそれで終わると、今度こそ信じてよいものか。言葉などいくらでも偽れる。真意など読めはせん」
「はい。私も、これだけで女王陛下を信じることはできません」
イザベルが手紙の端をそっと整えた。やがて、文末に添えられた署名へ指を置く。
「でも、少なくとも女王陛下は、ご自身の名で、会わないと決めてもよいとお書きになったのね」
「ええ。返事をしなくても、同じ願いは送らないと」
母は指を離さず、しばらくその文字を見つめていた。
「そのお言葉が守られるかどうかは、これから分かることね。けれど、今すぐ答えを出せとは書いていない。なら、急いで決めなくていいわ。会わないことも、会って確かめることも、あなたが決めなさい」
「はい」
ロゼリーヌは頷いた。
その夜には返事を書かなかった。翌日も、その次の日も、女王の手紙を読み返した。返事を急いで書くことはせず、会わないという選択も含めて考え続けた。三日目の夜、机へ向かった。女王を信用したからではない。まして、息子を王家へ渡す覚悟を決めたのでもない。ただ、相手が自ら引いた線を、本当に守るのか確かめようと思った。
――一度だけ、話を聞く。それだけ。
そこで語られるのは、何が確認でき、何がまだ分からないのかに限る。養子や継承について、その場で答えは出さない。リュシアンは同席させず、女王から先に接触することも認めない。場所はこの屋敷とし、父にも同席してもらう。
場所をこの屋敷と定めるところで、筆先が止まった。場所も方法もこちらで決めてよいと書いたのは、女王自身だ。それでも、男爵家から女王へ、辺境の屋敷までお越しくださいと返す。その一行だけは、ほかの条件よりも重かった。
けれど、女王が書状に記した約束を行いでも守るのなら、その言葉が形だけではないことを確かめられる。
――それでも、女王をこの屋敷へ迎え入れることに変わりはない。
ここまでの言葉が偽りで、王家がふたたび息子へ手を伸ばしたなら、男爵家の力だけで拒み通せるかは分からない。紙の端が、指の下でわずかに歪んだ。
ロゼリーヌは指を緩め、止めていた筆先を動かした。一つずつ、曖昧にならない言葉へ置き換えていく。
『この面会は、息子を王宮へお渡しすることへの承諾ではございません』
その一文を書いたあと、続けて記した。
『以上をお受け入れいただけるのであれば、一度、お話を伺います』
書き終えても、すぐには封をしなかった。夜が明けても同じ答えを選べるか、もう一度確かめてから封をしたかった。
翌朝、もう一度読み返してから署名し、封蝋を落とした。
◇◇◇
玄関ホールへ降りると、男爵家の使者が旅支度を整えて待っていた。エドモンが選んだ者だ。王宮の使者を呼び戻したのではない。こちらの返事を、こちらの時機と方法で届けるための者だった。
「女王陛下へ、これを。確かにお届けください」
「承りました」
封書を託したところで、背後から小さな足音が近づいた。
「母上、どこへ行くの?」
振り返ると、リュシアンが昨日の本を抱えて立っていた。
「私はどこへも行かないわ。大切な手紙をこの方に届けてもらうところよ」
「考え終わったの? 決めたの?」
「そうね……会うことにはしたわ」
つい、口が滑った。
「会うって? 誰と? もしかして、王都の偉い人? この前来たひとは、とても立派な服を着てたよね」
ロゼリーヌは膝を折り、息子と目の高さを合わせた。
「そう。王都の偉い人よ」
「どんなことを話すの?」
「そうね。まず、その方のお話をきちんと聞いて、気持ちを確かめるの」
「うーん。僕にはよくわからないけど……母上は、その人とひとりで会うの?」
「……いいえ。ひとりではないわ。お祖父様にも立ち会っていただきます」
「……そうなの。でも、だいじょうぶ?」
「ええ。もちろん、だいじょうぶよ」
リュシアンは少し考え、ゆっくり頷いた。
外門が開き、男爵家の使者が雪の道へ出ていく。蹄が白い地面を踏む音は、やがて冬の風に紛れた。
保証は何もない。女王の言葉が行いと一致するかも、会った先に何が待つのかも分からない。ロゼリーヌは、静けさの戻った雪の道へ目を向けたまま、しばらく動かなかった。
窓の外では、雪をかぶった葡萄の蔓が静かに並んでいる。まだ花の影さえ見えない枝の節に、春へ向けた固い芽だけが残っていた。




