会いたいを、命令にしない
先王の寝所へ続く扉を押し開けると、薬草を煎じた辛い匂いが、冷えた空気とともに流れてきた。
厚いカーテンに閉ざされた室内では、壁際の燭台に残された火が淡く揺れている。天蓋の長い影の下に寝台が沈み、その傍らには侍医司の医官が一人、息をひそめるように立っていた。亜麻の寝具がかすかに擦れるたび、喉の内側が乾いた。
足音を抑えて近づくと、医官がこちらを振り返った。疲れの残る目もとが、申し訳なさそうに細められる。
「今は、あまりお話をなさらないほうが……」
言い終えるより先に、寝台の上で先王の指が動いた。薄い掛け布の上を探るように滑り、医官を制する。首を振るだけの力も惜しいのだろう。それでも、わたしを見ようとしていた。
「父上。わたくし、メービスでございます。失礼いたします……」
寝台の脇まで進み、膝をついた。落ちくぼんだ頬に燭台の明かりが触れ、骨の影を濃くしている。思わず伸ばした手を途中で止めると、先王の指先が、ほんのわずかに持ち上がった。その手を、掛け布の上から包む。皮膚は薄く、冷たかった。けれど掌の奥には、まだ微かな温度が残っている。この手に触れてきた娘の日々を、わたしは思い出せない。それでも父上と呼ぶたび、返ってくる眼差しを失いたくないと思うようになっていた。借りた身体の記憶だけでは、もう片づけられなかった。
「おお……メービス……来てくれたか……」
掠れた声が、息に紛れた。
「はい。ご気分はいかがでございますか。お苦しいところは……」
先王は答えず、わたしの手の内で指をわずかに曲げた。浅い呼吸を幾度か重ねたあと、唇がゆっくりと動く。
「……あの母子には……まだ、何も……告げておらぬな」
胸の内側へ力が入りかけた。けれど、それは催促の声ではなかった。先王の眉間には、答えを怖れるような皺が寄っている。
「はい。まだ、こちらからは何も。調査を命じてから三週間になります。いまはコルデオが、ギルク兄上の残された記録と、王宮からモンヴェール家へ何が伝えられてきたのかを調べております。途中を省かずに確かめ、外へ連絡する前に、もう一度わたくしへ戻すよう命じました」
先王のまぶたが、ゆるやかに下りた。細く吐かれた息が、安堵のように聞こえた。
「それで……よい。儂が……生きておるうちにと……急がせては、ならぬ」
途切れた声のあとに咳が続いた。医官が一歩近づいたものの、先王はわたしの手を離さなかった。
「儂は……会いたい。されど……会わせよとは、言わぬ。よいか……あの母子の返事を……儂の余命などに、縛るでない」
冷たい指が、掌の中でかすかに震えた。会いたい。その言葉だけが、ほかの何にも隠されずに残った。孫を抱きたい祖父の願いと、王の命令とを、先王は自分の口で切り離そうとしている。
「はい。お会いになれるとは、お約束できません。けれど、これまで何が求められ、何が拒まれてきたのかを確かめます。そのうえで、こちらが何をしてよいのかではなく、何をしてはならないのかも、きちんと残します」
声の終わりが揺れそうになり、唇を閉じた。先王は目を開け、長い時間をかけてわたしへ焦点を合わせた。
「結果まで……そなたひとりの責に、するでない……」
返事の代わりに、包んだ手へ頬を寄せたくなった。けれど動けば、この細い指を傷めてしまいそうで、ただ額を低くする。
「承知いたしました。どうか、今日はゆるりとお休みくださいませ。また、許される日に参ります」
先王の指から少しずつ力が抜けた。医官が頷いたのを見て、掛け布の端を整える。手を離したところだけが、すぐに冷えていった。
寝所を出ると、回廊の空気が火照った頬へ刺さった。閉じた扉の向こうからは、医官の低い声と、陶器の触れ合う音が聞こえる。
窓の外には冬の薄い光が滞り、庭木の枝先が風に震えていた。次にこの扉を開けられる日があるのか。考えまいとするほど、父の指の軽さが掌へ戻ってきた。
壁際で待っていたセラが、こちらへ歩み寄った。小さく肩をこわばらせ、扉を見てからわたしへ視線を戻す。
「陛下……先王陛下のご容態は、いかがでしたか」
「あまりよろしくありません。お話しになるだけでも、お身体へ障るようです」
裾が石床を撫でる音だけが、二人の間へ残った。
「そうですか……。この先は、どうなるのでしょう。宰相様や重臣方が、次代について評議を重ねておられると聞きます」
セラの声はか細かった。廊下の冷気より、その言葉のほうが指の隙間へ深く入り込んでくる。
「決めるためのことが、まだ揃っておりません。名だけを急いで置けば、その方の人生まで、こちらで決めたことになってしまいます」
言葉にしても、掌に残った冷たさは消えなかった。
「まずは調べます。誰かに答えを迫る前に、王家が何をしてきたのかを」
セラは口を閉じ、深く頭を下げた。わたしは扉へもう一度だけ目を向けてから、執務室へ向かった。
コルデオの調べが戻れば、ようやく次に尋ねるべきことを決められる。けれど、その問いを受け取るかどうかは、ロゼリーヌ様が決めることだ。先王の願いも、わたしの焦りも、その権利を奪う理由にはならない。
◇◇◇
部屋へ戻り、最後の書類へ印を置いたころには、夜も深くなっていた。
指の関節がこわばり、ペンを置いても、紙を押さえていた形のまま戻らない。寝具へ入って目を閉じたものの、薬草の匂いと父の声が、暗がりの底から幾度も浮かんできた。
寝台の向こう側では、ヴィルが報告書を読んでいた。紙をめくる音が止む。廊下を急いでくる靴音に、彼も気づいたらしい。
扉が三度、控えめに叩かれた。
「女王陛下。夜分に失礼いたします。お戻しするよう命じられていた調査につき、ご報告がございます」
コルデオの低い声だった。夜着の上へローブを重ねる。ヴィルもすでに上着へ腕を通していた。
「お待ちしていました。入ってください」
扉が開き、コルデオは敷居を越えたところで足を止めた。胸元には、細い紐で分けられた三つの書類束を抱えている。燭台の火が、白い紙の角だけを浮かび上がらせていた。
「先王陛下の手元に残る記録、王宮からモンヴェール男爵家へ向けられた書状と使者、その返答を、現存する範囲で揃えました。ご命令どおり、先方への照会および使者の派遣は行っておりません」
「ありがとうございます。確認できたことから、聞かせてください」
私的な居間へ移り、卓上の燭台へ、もう一本の蝋燭を灯した。乾いた紙の匂いに、溶けた蝋の甘さが混じる。コルデオは最初の束をわたしの前へ置いた。
「ギルク殿下が生前に残された記録と、男爵家にリュシアン殿がお生まれになった時期は一致しております。ただし、王宮の内側にある記録だけで、血縁の確認を終えたとは申し上げられません」
「ええ。確認できたことと、そこから推し量れることは分けてください。外部の記録と照らす前に、血縁を確定した書き方もしないように」
「承知いたしました」
コルデオの指が二つ目の束へ移り、紐を解いた。乾いた音が、夜更けの部屋に細く響く。
「次に、先方がこれまで王宮からの求めを、どう受け取ってこられたかについてです」
いちばん上の書状は、折り目の端が白く擦れていた。何度も開かれ、また閉じられたのだろう。
「先王陛下の名による書状が届けられ、使者も幾度か向けられております。残された返答には、『お気持ちは痛いほど分かります。しかし、息子を王宮へ送ることはできません』と。文面は丁重ですが、息子を王宮へ送るという求めに対する拒絶は明らかです」
文字を目で追ううち、紙の白さがひどく冷たく見えてきた。
「拒まれているのは、少なくとも、息子を王宮へ送ることですね。会うことも、話を聞くことも、同じように拒まれたとまでは書かないでください」
「畏まりました」
隣で返書を読んでいたヴィルが、折り目へ指を触れないよう、紙の端へ手を置いた。
「断っても、また王家の使者が来る。拒絶を答えとして受け取らない相手なら、向こうも最悪を想定せざるをえまい」
「そうでしょうね……。でしたら、次の書状が同じ求めの言い換えではないことを、文面だけでなく、届け方でも示さなければなりません」
コルデオは頷き、三つ目の束をこちらへ向けた。表には、リュシアンの名だけが記されている。王子とも、継承者とも書かれていなかった。
「リュシアン殿は十歳。過去に王宮へ届いた報告には、剣術の稽古を受けた記録はなく、書物と勉学を好むとございます。庭では、同じ年頃の子どもたちと騎士ごっこをなさることもある、と。ただし、いずれも過去の報告であり、現在も同じであるかは確認できておりません」
「まあ、騎士ごっこを……?」
思いがけず、声がやわらいだ。剣を教えられていないことと、騎士に憧れないことは同じではない。紙の上に置かれた王家の血でも、空いた席へ収める名でもなく、本を読み、枝を剣に見立てて遊ぶ十歳の子どもが、ようやくそこに立ったように思えた。
ヴィルはわたしの横顔を見たあと、三つ目の束へ視線を戻した。
「こういう小さな話ほど、都合のいい人物像へ仕立てる材料になる。閲覧は広げるな」
「すでに、陛下、王配殿下、私、記録照合を担う補佐一名に限っております。写しは作らせておりません」
「そのままにしてください。それから、これから作る記録にも、王子、継承者、養子となる方といった呼び名は置かないように。まだ、どれも決まっておりません」
「承知いたしました」
コルデオは書類から手を離し、背筋を正した。
「では、次の裁可をお願いいたします。先方へ連絡をなさいますか。なさるのであれば、今回の目的を、どこまでといたしましょう」
返書の擦れた折り目を見つめた。王宮が幾度も開かせてきた跡だと思うと、すぐには口を開けなかった。
「説得であってはなりません。御子息を王宮へ送らないというお返事を、覆していただくためでもございません。これまでの非礼をお詫びして、こちらが何をしないのかをお伝えする。そのうえで、わたくしと話すおつもりがあるかだけを伺います」
「だが、会わないと返されたら、それで終わりだ」
ヴィルの声は低かったが、迷いはなかった。
「そうですね。ご返事がない場合も同じです。同じ願いを重ねて送ることはいたしません。そのときは、王統を保つための別の手立てを、王家の側で探すしかないでしょう」
「先王陛下のご希望は、文面へお入れになりますか」
コルデオの問いに、首を横へ振った。
「いいえ。父上が会いたいと願っておられることは、ロゼリーヌ様へ返事を迫る重しになります。まずは、わたくし自身の名でお願いいたします」
若緑のウィッグの編み目へ、そっと指を差し入れた。留め具の固さと、地肌に籠もった熱が触れ合う。
「もし、会っていただけたなら……わたくしは、王宮が恐ろしい場所だと知っている、と言葉だけで済ませたくありません。ただ、黒髪を隠して生きてきたことを、お話ししたいと思っています」
ヴィルの眉がわずかに寄った。コルデオは表情を変えなかったものの、返事までに長い沈黙を置いた。
「陛下。それは王家にとって秘中の秘にございます。確かに御心を示す証にはなり得ましょう。ですが、受け取る方に、口外できぬ重みを負わせるものでもございます」
「分かっています。信じてもらうための切り札にはしません。わたくしも王宮から身を隠して生きた者だと、嘘のない形で伝えたいのです。ですが、そのためにロゼリーヌ様へ、望まない秘密まで負わせてはいけないことも確かです」
ウィッグから指を抜く。指先に残った熱が、夜気へ晒されて冷えていった。
「書状には記しません。面会を受けてくださったこととも結びつけない。実際にお会いできたなら、王家の秘密を聞く意思がおありかを尋ねて、望まれたときに、わたくし自身の手で、この偽りの髪を外しましょう」
ヴィルはすぐには頷かなかった。わたしの手を見てから、静かに息を吐く。
「見せれば分かってもらえるなどと、安易に考えるなよ」
「ええ。分かってもらうことまで、求めるつもりはないわ」
「なら、順番はそれでいい。だが、扉を開けてもらえたからといって、その奥まで踏み込んでいいわけじゃない」
「ずいぶん慎重な言い方をするのね」
「単純に攻めるって話でもないからな。そうもなるさ」
彼らしい言葉なのに、そこに刃はなかった。張りつめていた息が、ようやく喉を通った。
コルデオが書類の端を揃える。
「書状は王命文書の形を取らず、返事を待たずに戻る者へ持たせます。先方がお望みにならないかぎり、屋敷へ上がらせることもいたしません。文面をご裁可いただいたのち、届ける者と経路をあらためてお伺いいたします」
「お願いします。けれど、私信の形にしても、女王の名があるだけで命令に見えるでしょう。断ってもよいこと、ご返書がなくても不利益を命じないことは、曖昧にしないでください」
「その保証は、どこまでといたしますか?」
コルデオの問いは静かだった。だからこそ、先ほど口にしかけた言葉の広さに気づいた。
「お断りになったことや、ご返書をなさらなかったことを理由として、わたくしが処分、召喚、そのほかの命令を下すことはない、とします。わたくしに届かぬ先のことまで、何ひとつ起こらないとは書けません」
「承知いたしました」
コルデオは一礼し、三つの束を卓上へ残して退室した。扉が閉じると、部屋にはまだ何も書かれていない便箋と、蝋燭の芯が燃える小さな音だけが残った。
椅子へ腰を下ろし、羽根ペンを取る。インクへ沈めた金属の先に、黒い雫が丸く膨らんだ。
「今から書くのか?」
ヴィルが向かいから尋ねた。
「書かなければならないからではなくて、書きたいと思っているから書くの。いけないかしら?」
「そうは言ってない。ただ、お前はこういう時に限って、思い切りがいいと思っただけだ」
「なんだか、皮肉に聞こえるんだけど?」
「いいや、褒めているつもりだ。いいから、集中しろ」
彼はそれ以上何も言わず、隣の椅子を引いた。言葉を代わりに決めることも、急かすこともなく、ただ同じ灯りの届くところへ座る。黒髪のことは書かない。会ってもらうための鍵にも、信じてもらうための証にもしたくなかった。もし扉を開いてもらえたなら、その向こうで、受け取るかどうかを先に選んでもらう。羽根が紙目へ触れた。細い音を聞きながら、最初の名を書いた。
◇◇◇
ロゼリーヌ・ド・モンヴェール様
拝啓
突然、このような書状をお届けする非礼を、どうかお許しください。
これまで王宮から書状が届けられ、使者も幾度か向けられて、リュシアン殿を王宮へお送りくださるよう求めが重ねられてきたことを、残された記録で知りました。それらが、ロゼリーヌ様とリュシアン殿にどれほどのご心労をおかけしたのか、わたくしには量りきれません。王家の者として、まずお詫び申し上げます。
このたび、亡き兄ギルクとリュシアン殿に関わる記録を確かめるなかで、お考えを伺わぬまま、王宮の内側だけで話を進めてはならないと思い、筆を取りました。
もしお許しいただけるのであれば、わたくし自身の言葉で、いま確認できていることと、まだ分からないことをお伝えし、お考えを伺う機会をいただきたく存じます。
けれど、この願いは王命ではございません。リュシアン殿を王宮へお渡しくださるよう求めるものでも、養子や継承についてご承諾を求めるものでもございません。
お断りになったこと、またご返書をなさらなかったことを理由として、わたくしが処分、召喚、そのほかの命令を下すことはございません。この書状を取り扱う者も、お届けに必要な者に限ります。
わたくしは母ではなく、ロゼリーヌ様がリュシアン殿と重ねてこられた歳月の重みを理解しているとは申し上げられません。分かったつもりにもなりたくありません。ただ、その歳月を王家の都合で軽く扱わないこと、リュシアン殿を王家の血を引く者としてだけでなく、ロゼリーヌ様のもとで日々を重ねてきたひとりの子どもとして考えることを、お約束いたします。リュシアン殿ご自身のお心も、置き去りにはいたしません。
王宮の名が、必ずしも人を安らがせるものではないことを、わたくしも知っております。お会いいただける場合にも、王宮へお越しくださる必要はございません。場所と方法は、ロゼリーヌ様がお決めください。信頼なさる方のご同席を妨げることもございません。リュシアン殿をお連れになる必要もなく、わたくしから先にご本人へ接触することもいたしません。
この願いをお受けになるおつもりがなければ、ご返書には及びません。ご返書がなければ、同じ願いを重ねてお送りすることもいたしません。
季節は冷え込み、葡萄畑を渡る風も、日に日に冷たくなっているころと存じます。どうかお身体を大切になさってください。リュシアン殿と穏やかな日々をお過ごしであることを願いながら、筆を置きます。
敬具
メービス・マティルデ・アデライド・フォン・オベルワルト=リューベンロート




